@葦さん、ご丁寧なお返事をいただいて、ありがとうございます。
言葉や表現で受け止め方が異なる事は事実です。
私も、「信心の社会性」という表現がはたして適当かどうか、考えることがあります。
私にとっては、「信心の方向性」と表現していただいた方が、適当ではないかと思うのですが、いかがでしょう??
@葦さんがご指摘いただいたように、「社会性」という言葉には、ややもすると具体的な実践行動を指し示すような印象もあるようですので、そのあたりは気を付けて言葉を使いたいものです。
そんなわけで、私にとっては生きていく上での「よりどころ」がお念仏であり、信心でありますから、私にとって「念仏者の方向性」よりも、「信心の方向性」という表現がピッタリくるのですが、皆さんはどう受け止められますでしょうか??
そのよりどころ(価値判断の基準)が、お念仏と世俗の両方あるといういただき方(念仏と生活)と、あくまでもお念仏がよりどころであるといういただき方(念仏の生活)と、これは「両方成り立つ」とは思えないというのが、私の印象です。
それから、蓮如さんの受け止め方ですが、「本願寺の勢力を広めて、私たちのお寺を造った方だから、批判はおかしい」と聞こえてしまうのですが、そうではないのですよね??
私は、蓮如さんが、親鸞聖人のみ教えを当時の生きた言葉として「再生」された方だからこそ、蓮如さんのみ教えをありがたくいただいております。
#S先生のゼミを出たものとして、逆に批判を受けそうですね。(^_^;)
蓮如さんが、「王法を額にあてよ」とおっしゃられたことをどういただくかは、様々なご意見があろうかと思います。
お念仏という「仏法」を錦の旗印にして、過激な暴動などに走ってしまう念仏のお同行を目の当たりにして、「このままではいけない」という思いから、様々な「定め・掟」をお同行に示されたのだといただいております。
ただ、そのお心は、あくまでも「お念仏・仏法がよりどころ」であって、その上で社会体制をむやみに破壊することへの戒めを込めて、「王法を額にあてよ」とお示しくださったのでしょう。
それを、「蓮如さんは仏法と王法の両方を認め、両方をよりどころとされたのだ」と理解してしまっては、それこそ悪しき真俗二諦論になってしまう気がします。
蓮如さんへの批判に対しては、私は「外へ出てやりなさい」とは思いません。過激とか、そういう理解をしたことがありません。
S会のT講師は、蓮如さんが気に入らなくて本願寺を出たのではなくて、「気に入らないヤツは中にいてもらっては困る」という本願寺の体質によって、外に出ていったのではないでしょうか。(詳しくはわかりませんが。)
私は、本願寺の「伝統にあぐらをかいた体質」や、「差別を温存・助長してきた体質」を問う上で、「私の問題」として問い続けていきたいと思っております。あくまでも、教団の内側にいながらです。
それは、私自身も問われますし、どんなに学びを続けても、ゴールがあるわけではないと思いますが、「それでも問い続けずにはおれない」という方向性を、信心によっていただいております。
具体的な行動そのものは、それぞれお一人お一人が違うのが当たり前ですが、その「方向性」は、お念仏を通して共通するものがあるといただきます。
また同時に、それはただ私が断罪されているのではなく、阿弥陀様の温かいお心に支えられているからこそ、続けていける営みでもあります。
そんなことを感じながら、読ませていただきました。
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