座談会(過去ログ5)
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>貧歯目さん
投稿日 5月30日(日)17時08分 投稿者 三吉 削除

>浄土経典の主張は教主釈尊の直説でこそなけれ、
>救主阿弥陀如来が「主体的に釈尊の真意はここにありと信じ」て
>体系化したものが浄土経典である、と理解してよろしいでしょうか。
混乱さして、申し訳ないm(_)m
1.大乗非仏説は
1)インドの部派仏教(或いは南伝仏教)が、自らこそ正当なる仏教で、大乗は、単なるでっあげだという否定に始まります。彼等は大乗を「悪魔の邪説」と批難す
したのです。これに対し大乗は部派の堕落を「小乗」と批判する仏教復興運動だったのです。論点は・・・、
a)部派仏教は自分が阿羅漢なることを目的とする声聞思想だったが、大乗は、仏陀になることを目的とする菩薩思想である。
b)部派は業報輪廻の苦から離れることのみを説いたが、大乗は、自ら進んで苦の世界に赴き、そこに苦しむ人々を救済することを説いた。
c)部派はつまるところ、自分の完成のための修養努力する自利主義であったが、大乗は、一切衆生を救済することを説いた。
d)部派は、僧院に閉じ篭っての、空理空論的学問であったが、大乗は、信仰実践に重きを置き、理論も実践の基礎としてのものであった。
e)部派の理論は上座部系説一切有部の「有」に代表されるように「有」の立場であったが、大乗の般若(智慧)は「空」の立場に立つ。が、この「有」と「空」は
後期大乗では統一される。
2)江戸時代の富永仲基の「出定後語」(1746)が、中国仏教の教相判釈を批判して、歴史的に考察すると大乗は仏説ではないと主張。
a)中国の教相判釈は歴史的事実ではないが、仏典間の主張の差異を統合的に整理した把握方法であり、どの経典が一番の釈尊の主張で、他の経典との差異は、何故産まれたかのかという論理で為されておるので、富永の批判は浅すぎる。正しいのは、歴史的事実ではないとの一点のみである。
3)明治以降の日本の仏教学は、西洋の近代的な仏教研究(文献研究)の影響下の元、歴史的事実からすれば、大乗は釈尊滅後、400年後に釈尊に仮託されて創作されたもので、釈尊の直説ではないとの見解に立ている。
a)科学的、実証的というならば、釈尊直説は残存してない。
b)部派、特に南伝パーリ仏典より、古層を探求し、一番古いのが恐らく直説に近いということから、釈尊の直説との推測しているのにすぎず、それを真実と断定し、大乗を非仏説とみなすのは、一種の立場に過ぎない。
c)一種の立場であるならば、大乗こそ、釈尊の真意を明らかにしたという主体的な立場も成立するはずで、近代的大乗非仏説と同じ地平に成立する。
d)つまり、大乗真説の立場は主体的な信仰の立場であり、大乗こそが仏教を新に復興したと信ずる立場であり、中味は、上記1)a)〜e)である。
→結論として、近代的大乗非仏説は、つまり、思想的には仏教とは、個人的悟りを追求する修養的なものに過ぎず、大乗的菩薩主義の全人類救済的な立場からみれば、仏教を社会から切り離し閉じ込める性質しか持たないと思う。
結局は歴史的に生れたすべての大乗非仏説は、保守反動の思想に過ぎない。
2.浄土教について
1)釈尊の真意は、「阿弥陀」を説くことにあったというのが、浄土経典です。
2)教主釈尊の本懐は、救主阿弥陀如来の本願を説くことにあったと。
3)これは歴史的釈尊の真意は浄土経典を説くことにあったとする主体的立場です
4)但し、私は阿弥陀に仮託して、釈尊とはこういうものだと説いたのが、浄土経典だと思います。法蔵は、もと王であり、ゴータマ・シッダルタが王子であったことも似てますし、出家して、悟った後、仏陀は45年間布教しまわりましたが、要は利他主義です。法蔵は世自在王仏のもとで、生きとし生けるものの救済の為に修行したのも利他主義です。
5)主体的に、釈尊の真意は阿弥陀仏の本願を説くことにあったと信じるのが、浄土教だと思います。
>一般的な話として、近代仏教学の成果は各宗派の教学にどれほど反映して
>いるのでしょうか。
あなたが成果として何を正しいと考えられているかわかりません。
学問的な仮説がすべて正しいわけではありませんし、それぞれの学者もそれぞれのイデオロギー的立場からの論であり、宗学的にも一般的に言えば、イデオロギー的立場の対立が先にあるのではと思います。要するに保守的か革新的かです。
両者に近代的学の利用摂取は見られます。
しかし問題はその学が、我が身の事実として信仰実践として活かされかどうかですが、そのレベルの近代的学は不十分ではないでしょうか?
>無戒の僧というのと在家信者とはどう違うのでしょうか。
本質的には違わないのではと。親鸞さんは、道俗時宗共同心と言いますから・・・。
ただ、名字の比丘、つまり名前だけの僧であるが、末世においては尊いともいわれております。
「ただし今論ずるところの末法には、ただ名字の比丘あらん。この名字を世の真宝とせん。福田なからんや。たとい末法の中に持戒あらば、すでにこれ怪異なり、市に虎あらんがごとし。これ誰が信ずべきや。」


三吉さん、御回答有り難うございます
投稿日 5月30日(日)03時31分 投稿者 貧歯目 削除

三吉さん、早速の御回答有り難うございました。とても勉強になります。
お忙しいところ、どこの馬の骨ともわからぬ私のようなものに対し丁寧に
ご教示いただき、お礼の申し上げ様もございません。

>>二尊教
>簡単に言えば、教主釈尊。救主阿弥陀如来。
>少し説明すれば、浄土教は教理的には教えを説く者と救う者と分化して
>います。これはカリスマ否定と捉えると面白いかもしれません。

教主と救主の分化。面白いですね。本質は同一であるということなので
しょうか。神と預言者という関係ではないとは思いますが。
前に頂いたお便りでは

>学問的に釈尊の直説でないと知っているのと、真宗は二尊教という文脈
>で主体的に釈尊の真意はここにありと信じるのは実は矛盾しなかったり
>もするのです(^^;そんなに単純に理解しないでね(^^;

と伺いましたが、浄土経典の主張は教主釈尊の直説でこそなけれ、救主阿
弥陀如来が「主体的に釈尊の真意はここにありと信じ」て体系化したもの
が浄土経典である、と理解してよろしいでしょうか。阿弥陀如来が釈尊の
「可能性の中心」を追い求めて説いたものが浄土経典であると。

数日前、「ハトの会」の掲示板で「葦」さんが「釈尊がお残し下さった
「大無量寿経」」と書いておられましたが、これは単なるレトリックなの
か、それとも本願寺派では大無量寿経を本当に釈尊が説いたものとして理
解しているのか、伺ってみようと思います。
一般的な話として、近代仏教学の成果は各宗派の教学にどれほど反映して
いるのでしょうか。キリスト教の方では、Q資料説などの聖書学の成果は、
原理主義セクトを別にすれば普通に語られているようですが。

>まず、親鸞さんの非僧非俗は、権力の弾圧にあって、無理矢理還俗させ
>られた時の名告りです。意味は僧侶の否定ではありません。それでも私
>は俗でないとの宣言です。次に末法無戒思想なので、僧といっても無戒
>です。仏弟子であるという名告りにすぎません。

ははぁ。僧侶を否定したのではないのですか。私は、職業宗教家の否定
(宗教界における反レーニン主義?)とイメージしていたのですが。そう
致しますと、無戒の僧というのと在家信者とはどう違うのでしょうか。

>親鸞さんのお墓を関東の門徒から独立させる為に寺院化した覚如さんの
>息子の存覚さんに「破邪顕正鈔」という著作があります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>「破邪顕正」・・・・古くは三論宗の根本教義です。(三論玄義)
三論宗は奈良時代の仏教ですね。了解しました。有り難うございます。

>蓮如さんは、この存覚さんと覚如さんの真宗理解の延長線上で親鸞さん
>を理解しております。

わあ・・・また難しい事柄が・・・いつかお時間のゆとりができた時に、
宜しくご教示下さい。
とりあえず失礼致します。今後とも宜しくお願い致します。


貧歯目さん
投稿日 5月27日(木)00時04分 投稿者 三吉 削除

>二尊教
簡単に言えば、教主釈尊。救主阿弥陀如来。
少し説明すれば、浄土教は教理的には教えを説く者と救う者と分化しています。
これはカリスマ否定と捉えると面白いかもしれません。
>僧侶について
正確には知りませんが・・・、
まず、親鸞さんの非僧非俗は、権力の弾圧にあって、無理矢理還俗させられた時の
名告りです。意味は僧侶の否定ではありません。それでも私は俗でないとの宣言で
す。次に末法無戒思想なので、僧といっても無戒です。仏弟子であるという名告り
にすぎません。ですから真宗では、受戒はなく、得度と表現します。戒名ではなく
法名となります。
>破邪顕正
親鸞さんのお墓を関東の門徒から独立させる為に寺院化した覚如さんの息子の存覚
さんに「破邪顕正鈔」という著作があります。蓮如さんは、この存覚さんと覚如さ
んの真宗理解の延長線上で親鸞さんを理解しております。大谷派の真宗聖典には、
載っておりませんので、私は読んだことはありません。
「破邪顕正」・・・・古くは三論宗の根本教義です。(三論玄義)


三吉さん、御回答ありがとうございました
投稿日 5月25日(火)03時04分 投稿者 貧歯目 削除

三吉さん、御回答ありがとうございました。返事が遅れまして申し訳
ございません。
>>大乗仏典が釈尊の説かれた説でないことは、少なくとも大谷派では
>>認められるのですね。安心しました。
>学問的に釈尊の直説でないと知っているのと、真宗は二尊教という文脈
>で主体的に釈尊の真意はここにありと信じるのは実は矛盾しなかったり
>もするのです(^^;そんなに単純に理解しないでね(^^;

これが矛盾しないと言うのはよく分かる気がします。
例えば、三位一体という概念は聖書の中に明示的に出てくるわけでは
ありませんが、そうした概念を聖書の一つの解釈として抽出することは
可能である。こういう事でしょうか。同じような事柄はイスラムでも
マルクス主義でも起こっているでしょう。
しかし、「二尊教」については存じません。
ご教示いただけないでしょうか。

>資本主義な社会で闘う企業で一番必要とされているのは利潤を自企業に
>もたらしてくれる人です(^^;其の人の人間性や才能ではありませ
>ん。有り体に言えば、お金を稼げる人や才能が企業としてはおいしいの
>です。人として一番大事なもの(なんだかわかりませんが(^^;)
>で、評価されているわけではありません。

おっしゃることは頭ではよく分かっているつもりです。しかし、実際に
自分の労働力が誰からも買ってもらえないと、どうしても「俺は英語も
できないし(インドネシア語・マレーシア語ならよく出来るのですけど)
コンピュータもできない、無能で駄目な奴だ」と思ってしまうのです。

>資本家は頭がよくて、首切りをリストラと言い換えて、労働者を騙し
>ているのです。

騙していると言うか・・・皆で団結して事に当たると言う発想が出てこなくて、
労働者個人の努力でなんとかしようと言うミーイズムの蔓延が問題でしょう。
中曽根のおかげで総評が解体され、組合に頼れないからでもありますが。

>申し訳ないが(^^;私は信仰ありませんし、真宗に属してもいません
>よm(_)mただ、面白いので知識・興味・関心からべんきょうしているだけです(^^;
>でも、それら運動にはエールは僕も送りたいですね(^^)

左様でしたか。私も同じスタンスです。
以前お伺いしたほかの論点についても、ご教示を賜れれば幸甚です。
三吉さんの御発言で、「妻帯・肉食もOK」なのは大乗仏教の伝統の
延長上にあることがよく分かりました。今後とも宜しくお願い致します。


ありがとうございました
投稿日 5月21日(金)19時46分 投稿者 じょう 削除

三吉さんどうもありがとうございました
多分、日常で使われている「体解でございます」は
誤用なんでしょうね。体解自体が動名詞なので「体解なさいました」とか使うのが本来の意味に近いのでしょう。


貧歯目さん・・・こちらに返事を書かせて頂きます
投稿日 5月19日(水)02時25分 投稿者 三吉 削除

>お読みになって損はないと存じます。
損はないとは思います(^^)でもね、まだ、ちょっと待ってね。
もっと、もっと、他に読みたい本が山ほどあるんですよ。
ごめんなさいm(_)mでも、心には止めましたのでいつか、きっと・・・(^^;
>真宗の教学史の面からは、親鸞会の教義は近代教学に分類できるのでしょうか
私はS会さんの教義は知りませんので、評価のしようがありません。
>同朋会運動をかなり否定的に見ておられるのは確かです。
うん。うん。だから保守的と偏見を持ってしまうのです。
>大乗仏典が釈尊の説かれた説でないことは、すくなくとも大谷派では
>認められるのですね。安心しました。
ご安心されるのは、申し訳ないが早いかも(^^;大谷派の正式見解
は、私は知りませんm(_)mあれは、私個人の見解です。それとね、
学問的に釈尊の直説でないと知っているのと、真宗は二尊教という文脈
で主体的に釈尊の真意はここにありと信じるのは実は矛盾しなかったり
もするのです(^^;そんなに単純に理解しないでね(^^;
>自分が社会に不要な人間に思えてくるのです。
資本主義な社会で闘う企業で一番必要とされているのは利潤を自企業に
もたらしてくれる人です(^^;其の人の人間性や才能ではありませ
ん。有り体に言えば、お金を稼げる人や才能が企業としてはおいしいの
です。人として一番大事なもの(なんだかわかりませんが(^^;)
で、評価されているわけではありません。
人間として大事なもので、けちをつけられたのなら、大いに反省し、深
く学ぶべきかもしれませんが、所詮其の時勢・企業の論理に適合してい
るか、どうかの狭い価値判断です。それらに迎合して、適合して、ある
いはなんとか自分を誤魔化して生きていくのも「大人」の知恵かもしれ
ませんが、(私はそうやってます)それが正しいとは限りません。
社会がどういう人間を必要とするかどうかなんて、社会もコロコロ変っていってますし、その必要とするものも絶えず変化します。
旨く言えませんが・・・一回きりの人生なんですから、あまりくよくよと
されないほうがいいかと・・・すみませんm(_)m
>資本主義や市場経済を擁護する人
資本家は頭がよくて、首切りをリストラと言い換えて、労働者を騙して
いるのです。
>真宗が平和を守るため運動して下さると心強いです。
>真宗のフェミニズム仏教の試みには陰ながら注目しております
申し訳ないが(^^;私は信仰ありませんし、真宗に属してもいません
よm(_)mただ、面白いので知識・興味・関心からべんきょうしているだけです(^^;
でも、それら運動にはエールは僕も送りたいですね(^^)


じょうさん、はじめまして、よろしく
投稿日 5月19日(水)00時10分 投稿者 三吉 削除

體解(たいげ)→身を以って理解すること(出典は華厳経)
仏法は頭で理解するものではなく、生き様の問題であるから、体で納得せよとのことでしょうか・・・。これと挨拶の「ご体解様」との関係は存じませんm(_)m


教えて下さい
投稿日 5月18日(火)20時17分 投稿者 じょう 削除

法事などの挨拶で「ご体解様でございます」
という言葉を良く聞きますが、この体解とはどういう意味でしょう?
色々と調べましたがわかりませんでした。
ご存じの方いましたら、是非教えて下さい。よろしくお願いします。


お教え下さい:真宗に関するいくつかのお尋ね
投稿日 5月18日(火)07時33分 投稿者 貧歯目 削除

皆様、はじめまして。偶然「ハトの会」の掲示板に出会いまして、そこからのリンクで
こちらの掲示板も拝読させていただきました。昨晩、以下の書き込みを「ハトの会」掲示板に
させていただき、何人かの方から御回答をいただいたのですが、どうもこちらの掲示板の方が
適しているように思いましたので、こちらにも書き込ませていただきます。
どうか宜しくお願い致します。
私は仏教に関心はありますが、特にどこかの宗派に属しているわけではなく、実践的には
何もしていません。家の菩提寺は天台宗ですが、年に1・2回墓参りにいくだけです。
ただ、イスラム圏の某国におりました関係で、かの地のムスリムと屋台で夜遅くまで
コーヒーを飲みながら(彼らは酒を飲む習慣がありませんから)イスラムについて話し込んだ
ことがよくありました。どうしても造物主の存在というのが飲み込めず、コーランが神の言葉だと
いうことも信じられませんで、私はやはり仏教徒だなという自覚が生まれ、仏教について更に
知りたいと思うようになりました。(コーランお読みになったことおありですか。面白いですよ。
最初から読むと挫折するので、終わりの章から読む方がよいです)
全く便利な世の中になったもので、こうしてプロのお坊さんや熱心な信徒の方々のお話を
自宅にいながら伺えるようになりました。
こちらで発言しておられる皆様にお尋ね致したい疑問がいくつかありますので
ご教示いただければ幸甚です。宜しくお願い致します。

東本願寺派(大谷派)と西本願寺派はどう違うか
本願寺派のお坊さんで大村英昭さんという方がおられます。此の方は大阪大学の社会学の先生を
しておられて、私もかねてよりご著書を拝読しております。大村氏のお説は「仏教は鎮めの宗教で
あるべきだ」ということで、プロテスタンティズム的に真宗を解釈する近代の傾向に反対して、
真宗の土着的側面を重視し門徒の本音に立つ「ポスト・モダンの真宗」を唱えておられます。
私には大村氏の説はなかなか納得のいくものでしたが、あるとき大谷派の方が「大村さんの説は
いかにも本願寺的だ。大谷派の救済観からはああいう説は出てこない」とおっしゃったのを聞いて、
非常に関心をかきたてられました。その大谷派の方のおっしゃるニュアンスでは、大谷派は
大衆の救済に重点があるが、本願寺はどちらかというと小乗的だということのようでした。
たしかに大谷派の方が、部落解放や靖国神社問題、反戦運動、フェミニズム仏教の追究などの点では
本願寺派よりも熱心な印象があります。(それは違う、ということでしたらご教示下さい)
そこで、大谷派と本願寺派の教義の違いについて簡単にご説明いただけませんか。私の記憶では、
理論的な違いで分かれたのではなくて、家康の宗教政策で無理矢理分裂させられたのだった
と思うのですが。また、大村氏は「大谷派の理想主義的な同朋会運動の挫折を見れば、私の説の
正しさが立証されるだろう」という趣旨のことを書いておられますが、この「同朋会運動」とは
どういうものでしょうか。よろしくご教示下さい。

大乗非仏説の扱いについて
親鸞会というのは名前しか存じませんでしたが、「ハトの会」HPにURLがありました親鸞会HPを
拝見したところ、「親鸞会会員にとっては大乗非仏説は学者の戯論」との記述がありましたので、
これには少々驚きました。歴史的な存在としての釈迦が大乗仏教を説いたわけはないというのは、
すでに常識だと思っていましたが。そもそも歴史上の釈迦の存在事体、歴史上のイエスと同じ
ほどには明らかではないはずです。学問的な議論を、根拠も示さずに戯論と片づけるのは
理解できません。学問の成果を受け取った上で、それとは次元の異なる問題として教学を発展
させていくのが建設的な方向ではないでしょうか。親鸞会にとどまらず、他の真宗各派も
大乗非仏説を否定するのですか。真宗以外の宗派もそうなのでしょうか。また、いわゆる「五時の
教判」説はそのまま維持されているのですか。宜しくご教示下さい。歴史上の釈迦に関する最近の
研究成果についてもお教えいただければ幸甚です。

真宗における僧侶について
私の記憶違いでなければ、親鸞聖人は御自身を僧でもなければ俗人でもないとされていたと思います。
現在の真宗には僧侶がいるわけですが、教義上ではいかがでしょうか。他の宗派と比べて僧侶の位置
づけというか定義が違うのでしょうか。律を否定すれば僧という存在も否定されるのは自然なことに
思えますが。

破邪顕正について
こちらの掲示板には、親鸞会の方の御発言にもそうでない方の御発言にも「破邪顕正」という言葉が
出てまいります。私はこの言葉は日蓮系の言葉だと思っていましたが、仏教各宗派に共通に用いられ
る言葉なのですか。何というお経に出てくるのでしょうか。

仏教各派の掲示板について
この掲示板は真宗についてですが、真言宗や曹洞宗など他の宗派にも、教義について質問できる
掲示板はあるでしょうか。あるいは、各宗派共同の掲示板というのはありますか。
ご教示いただければ幸甚です。

それから、実は私は失業中でして、仕事を探しております。しかし、何回も何回も断られ、自分は
社会から必要とされておらず、生きる資格がないような気さえしてきました。仏教の修行をしながら
お金がいただければ願ってもないことですので、どこかのお寺で働かせていただけませんか。
どうか宜しくお願い致します。


間違ってBRを入れてしまいました
投稿日 4月14日(水)10時05分 投稿者 葦 削除

間違ってBRを入れてしまい、行間が開いてしまい冗長な記入になってしまいました。
読み辛い点をお詫びします。」


私も少しだけ思う侭に・・・・
投稿日 4月14日(水)10時01分 投稿者 葦 削除

お東が宗祖七百回大遠忌法要当時「教団改革」によって大揺れに揺れていた経過を、全く横目では有りましたが興味深く眺めてきました。

当時、西でも龍大内で教団改革の動きが有りましたが、残念ながらお東ほど明瞭な問題点が無かった為か、「改革すべき論点」が曖昧なままに何時の間にか雲散霧消してしまっていました。

当時の私の感想は「お東は熱湯。お西は生ぬる湯」との思いで受け止めていました。

どちらかと言うと「直情傾向」型に属する私としては「西ももう少しホットにならなければならない。」と強く思った記憶が有ります。

但し、それはお東の問題点を全面肯定すると言う思いでも有りませんでした。

何故なら、外に見えて来る様子では残念ながらどちらかと言うと「教団改革」というより「お家騒動」としか見えませんでしたので・・・

でも、その大揺れの中から(良い事なのか、良くなかった事なのかの判断はもう少し後世に譲るとして)お東はそれなりの変化(改善と言う言葉はちょっと控えさせて頂きます)が有ったと思っています。

そう言う意味で、私も西の変化、特に宗政面での近代化を切望する思いを教団改革に強く期待するものが有りました。

但し、「教化の分野(組織・方法等)での変化」は必要との思いを強く感じていましたが「教学の面(教義内容)での変化」と言う点では「相当慎重で無ければ、浄土真宗が浄土真宗で無くなってしまう恐れが有る」との思いで、どちらかと言うと「否定的」で有るのが私の基本的な受止めです。(現在もこの面では変わっていません。)

その様な点で、お東の改革も「功罪」の二面から客観的な評価が必要との思いを持っています。



信楽師の目指される「改革」についても「全面的に反対」等と頑迷な事を言うつもりは毛頭無いのですが、一般に「信楽問題」とあちらこちらで語られる割には、その「問題点」が明確にされないままで「周辺」でワイワイ言っているような「隔靴掻痒」の感の有る論議に流れている思いが有りました為に「少し角が立つかな?」との思いは有ったのですが、敢えて書く事にした次第です。

信楽師の薫陶を受けられた方には不快の念をお持ちになられた方もおられるかと思いますが、お詫び申し上げたく存じます。



その様な意味で、三吉さんのご指摘の様に、果たして100年なのかどうか(若しかしたら、理念的にはもっと大きいかもしれません)は兎も角として、宗門の組織としては相当「前近代的組織」で有る事は否めないと思っています。

但し、以前の4月9日の書き込みにも少し触れましたが、「江戸期の教学の研鑚という面への公正は評価」と言う点では、現在、西で教団改革を提唱されている方達にはもう少し冷静に客観的な評価を求めたい思いが有ります。



蓮如上人の「王法為本」に関して、ご教示の「続蓮如への誤解」は持っていますが、他の2冊は未だ購入していませんので、「蓮如への誤解の誤解」を是非ともご購入下さいと申し上げる意図も論拠も御座いません。

但し、私個人としては「王法為本」についての受止めは満井氏の御著書のお立場で差し支え無いと受け止めています。



以前に、西の僧籍をお持ちの方でお東の系列学校に奉職されている方と同席した時に、たまたま信楽師の問題に話が及んだ時に「お東では、こんな事は問題にならないと思いますよ。」と述べられたので「お東では無く、西の問題ですよ。」と返事した記憶が有ります。

少し感情が入っていた事は事実でしょうが、今もその思いは変わっていないと言えると思います。



なかなか「思う侭に」は書けないもので、ついつい感情が入ってしまいますが、以上のような思いです。


雑感(葦様おしさしぶりです)
投稿日 4月14日(水)07時52分 投稿者 三吉 削除

「30〜40年前、教団改革をやったんですが、私が思ったのは、結局は教団の足もとが変わらんかぎり、何も変わらんと言うのが結論です。何が変わらんと言って、信心が変わっていないですよ。この問題がね・・・・・・。」
この発言は私には、清沢先生の白川党の改革運動が当時の当局に潰された時の自覚と同質だと思えます。そして、師は「信念の確立」に力を注がれた。
門下から出た曽我量深師や金子大栄師は、その清沢師の信心を引き継ぎ、深化させ当然の事ながら「それゆえ、宗門の根幹に関わる「教義解釈」に異存がある時は、それを看過する事は断じて有ってはならない事と考えています。」と考えている伝統教学から異安心と批判され、大学を放逐されたり、僧職を剥奪された。
宗政的には曾我師の門下の訓覇信雄師が出、宗門改革に取り組んだ。
お東紛争は表面的には財産問題闘争であるが、底流には伝統教学VS近代教学でもあったわけです。それは同朋会運動という信仰運動として「僧侶が門徒となる」運動としてあった思う。実に1897-1997に亘る1世紀を要する闘いであったと・・・。
私の感想では・・・お西は100年遅れているのでは?m(_)mというものです。
ただ、信楽師門下には、清沢師・曾我師批判つまり近代教学批判を行っており、現代教学を構築している最中に見える。お東が近代教学をその偉大さゆえ克服できない面があるとすれば、信楽師の業績はお東にとっても偉大だといわざる得ない。
>蓮如への誤解の誤解」(探求社刊)所載の満井秀城氏の「蓮如上人の王法為本について」
これについては、「続蓮如の誤解」「新蓮如の誤解」あるいは小森龍邦「蓮如論」明石書店で、徹底的に批判し尽くされている観がありますが・・・お読みになられた上でのご推薦でしょうか?ならば購入してみますが・・・。
ちなみに、批判者の論点が「王法為本」だとする満井秀城氏の「誤解」理解は論破されてますが・・・。法然の禁止事項と蓮如のそれとのものが同質だから云々についても徹底的に批判されています。


BBSの流れ
投稿日 4月13日(火)23時00分 投稿者 管理人//ms.Kashmir.jh 削除

 管理人のKashmirです。
相互リンクの関連サイト(ハトの会、広大会など)も盛り上がりを見せておりますが、当BBSも(それらとは違う方向で)白熱してまいりました。

>この掲示板で、本願寺派の問題ばかりで発言しちゃっていいのでしょうか?>管理人様

 BBSでの話題、方向性と言うのは流動的でありながら誰かが決めると言うものではないのでしょうね。それらはBBSに目を通される方々の顔ぶれと何らかのきっかけで変わって行くものと思います。当座段会でも開設当初は親鸞会に関する話題が大半でありましたし、書き込みの殆ど途絶えた頃もあれば多くの書きこみを頂く時も有りました。しかしそんな中で話題を力ずくで変えることはいくら管理人でもできません。無論完全に無関係な書きこみや趣旨に全く反するものは削除し軌道修正する事はできますが、語る人のいない話題で盛り上げる事はできません。その時その時の流れで話を進めていけば良いのではないのでしょうか。ここのシステムでは広大会の様に話題事にまとまっている訳ではないので水を差す様で書きこみにくいと言うのでありましたら、複数の話題を平行して進めるのが良いかと思います。もちろん上にも記しました様に「名誉毀損」とならないような良識ある範囲での書きこみでお願い致します。

 またお西、お東の方以外の方からもご意見頂ければ有り難いのですが、このサイト自体有名でも定番サイトでもありませんし東西本願寺以外の派の規模からいってそれらの方が目を通されている確率は低いのだろうなあと思います。どなたか見ていらっしゃいましたらご意見お聞かせ下さい。


S師の事、基幹運動の事、戦争責任の事、蓮師の事・・・思う侭に
投稿日 4月12日(月)18時38分 投稿者 葦 削除

大願様、御記入のご趣旨拝見致しました。

私の方にもどうしても解いておいて頂きたい行き違いが有るように思いますので重ねて書かせて頂きます。

前回は逐語的に私の意見を述べさせて頂きました事についてご不快の念をお持ちになられましたようでしたらお詫び申し上げます。
失礼いたしました。


S師について「具体名」を明かすようにとのお求めですので、正直申し上げて些か憚られる思いが有るのですが申し上げます。
私が申し上げています「S師」とはご指摘の通り「信楽峻麿先生」です。

私は信楽師の「人となり」について、またその「業績」等に関して問題が有ると申し上げているのでは有りません。

私が問題にしているのは、かつて信楽師がご自身のご著書に御述べになられた「浄土真宗の教学上の見解」についての経過について問題を提起しているのみです。
かつて信楽師が、その問題の記述について、ある勧学様から諮問を受けられた事実が有りましたが、仄聞する所、信楽師はその問題(ここではその具体的内容については触れない事に致します)について「その点については、改めて自身の意見を述べる。」とのご返事で有ったとの事でしたが、その後、具体的には何らの「教学的問題点への回答」をお述べになることも無いままに、時間の流れに任せて放置されて来た、との経過があります。

その後、その諮問に関与された和上(勧学)がたも逝去されて、一方、信楽師は大願様が御記入の様に宗門内では宗門立の学長職を歴任される等の業績を残される等の事によって、宗門内では「揺るぎ無い地位」を形成されていかれました。
しかし、その後、信楽師が御述べになっておられるご趣旨は終始一貫して、かつて某勧学より指摘された問題点(上記の如く、勧学様には改めて自己の受止めを表明すると述べられたまま放置されています)を改める事無く、そのまま同じ趣旨を説き続けておられる点を問題にしています。

本願寺出版部から出ています、亡くなられた灘本愛慈勧学がお書きになられた「やさしい安心論題の話」の「はじめに・四」に「不易と流行(ふえきとるぎょう)」と言う一文が記されていて「人により時代によって展開してゆく面(流行)」と「たとえ人が変わり、時代が移り変わっても変わらない面(不易)」が有る事を御書き下さっています。
私達・浄土真宗のおみのりを頂く者が社会の変化に応じて、その時代・社会に対応した社会的役割を担っていかなければならないと言う事には全く異存は有りません。
それらの点は、その時代に対応するようにその活動内容は発展・変化していく事には吝かではありません。
しかしながら、灘本和上も御述べになっておられように「教義の解明は時代の推移にともなって深化し発展するものといえますが、安心そのものは一貫して変わらないものだと思います。」と御述べ下さっていますように、「安心(信心)」の受止めは宗祖のお開き下さった「弥陀回向の他力信心」から外れる事は「浄土真宗そのものから外れる」事以外のなにものでも無いと思います。

それゆえ、宗門の根幹に関わる「教義解釈」に異存がある時は、それを看過する事は断じて有ってはならない事と考えています。
私が信楽師を問題にしているのは、全くこの一点に尽きます。

昨年「中外日報誌」(平成10年7月16日号)にも報じられましたが、大阪で宗会議員立候補を目的として、某氏が集会をもたれた時に、記念講演として信楽師が招かれてお話になられました。
後日、その公演内容がまとめられて送られてまいりましたが、その文面に、

「30〜40年前、教団改革をやったんですが、私が思ったのは、結局は教団の足もとが変わらんかぎり、何も変わらんと言うのが結論です。何が変わらんと言って、信心が変わっていないですよ。この問題がね・・・・・・。」
と述べておられます。

私も師の「教団改革」には大いに思いを一つにするものが有ります。
しかし「信心(浄土真宗の弥陀回向の他力信心)」は断じて変わってはなりません。
それゆえ、師に「信心が変わっていないですよ。」と御述べになっておられるご趣旨は、一体何を御述べになられたいのですか?と再三(結局三度お尋ねしました)お尋ねしましたが、具体的なご意見を御聞かせ頂けないままに過ぎてきてまいりました。
その様な、宗門の根幹に関わる御発言に関しても、その後何のご説明もいただけないままに過ごされる点等をも、一例として問題提起しているつもりです。


基幹運動については、4月11日付けのあさとさまへの意見をもって代えさせて頂きたく存じます。

私は基幹運動が必要無い等と言う発言は一度もしていません。
むしろ、基幹運動の必要性は切実に実感しているつもりです。

こちらのhPをはじめ当S会関連のHPが(その記事の内容について触れる事は控えさせて頂きますが)恐らく大部分が大学生と考えられる方達によって御法義(安心・信心)について熱心に論議される御様子を拝見するに付け、浄土真宗のお寺で果たしてどれだけの若者達が仏法に耳傾けてくれているのか、と思う時、真剣に宗門を挙げての御法義の発揚を願わずにはおれません。

そこで、是非考えていかなければならない事は、前にも書きましたが「宗門の基幹」とは何ぞや?と言う事です。

私は「宗門の基幹」とは基幹運動本部が中心に据えておられる、言う所の「社会的活動」では無いと考えています。
「宗門の基幹」とは、あくまで「宗祖親鸞聖人がお開き下さり、お勧め下さる、弥陀回向の他力信心の御救いの御教化」で無ければならないと考えています。

その様な問題点を考える時、あさとさんも御書き下さっていますが、残念ながら現在の宗門の基幹運動は「宗門を挙げての取り組みに基づく運動」にはなっていない事への問題を提起しているつもりです。
「宗門の基幹運動に同意する者だけ参加しろ」式の基幹運動では、ますます「浮き上がった運動」に偏っていく傾向を否めない事を危惧しています。

出来得れば、宗門の宗政畑・教学畑・実践畑の全分野を取り込んだ運動として、実際の展開には「賛同する寺院の参加」ではなく、「宗門全寺院を挙げて」の取り組みになり得る基幹運動を切望するばかりです。


戦争責任の事については、残念ながら戦後の教育を受けた者(私)が果たしてどれだけ的を得た「宗門の戦争責任批判」が可能なのか?との疑問を禁じ得ません。
しかしそれは、決して「戦争責任なんか問題にしなくても良い」と言う意味ではありません。

可能な限り「客観性」を失う事無く、批判の為の批判では無く、批判を通して自己自身の反省のもといとなりうるような姿勢での批判で有りたい思います。

私自身も、宗門が今次大戦に果たした意味を考える時、多くの問題点の存在を考えずにはおれません。
しかし、歴史は「その歴史の現場で無ければ分からない事」が有ると思います。
信楽師がそれらの問題点を論議されようとされる姿勢そのものには反対の意思は有りません。
しかし「現在の視点で過去を裁く」様な事は有ってはならないと思います。

私達は過去の反省を行う中から「現在改めるべき点を改める」事には全く異存はありません。


蓮師の問題については、特に大きく批判の対象とされているのは「王法為本」の点に付いてでは無かろうかと思いますが。
これについては。是非「蓮如への誤解の誤解」(探求社刊)所載の満井秀城氏の「蓮如上人の王法為本について」をゆっくりと御読みになれば蓮師の「王法為本」の真意がご理解頂けるのでは無かろうかと考えます。


あさとさんにしても、大願さんにしても、実はこの私自身も「どうすれば親鸞聖人の御残し下さった他力信心のおみのりを一人でも多くの人に正しく伝える事が出来るだろうか。」との一事に尽きると思っています。



信楽先生への誤解、基幹運動への誤解
投稿日 4月12日(月)14時54分 投稿者 大願 削除

先般の私の書込みに対して、葦さんからの逐語的なご指導をいただき、有り難うございます。
勉強不足の私には、葦さんの一言一句に対抗する知識も信心もありませんので
これ以上の反論は差し控えさせて頂きますが、2,3の行き違いのいい訳を述べさせて頂きます。

仰有っている、S氏というのは、信楽峻麿先生の事ですよね。
S氏と仰有っている人が、信楽先生でなかったら、この書込みは、まさに的はずれですが…… (¨;)
私は信楽先生とは面識も無く、面授も頂いておりませんが、師の講義録や書籍を拝読したり、
龍大OBの方々にも、師の人となりを聞かせて頂いていると、
葦さんの信楽師への認識とは、あまりにかけ離れているので、驚きです。
バランスを取る意味ではなくて、ここをROMされている方々が、
一様にそのように鵜呑みされてしまう事、受け止められてしまう事が、
あってはならない思いから、書き込ませて頂きます。
これは、本願寺派がどちらを向いて行くのかの、大きな問題もはらんでいます。
あくまで、これは私の個人的な受け止め方であります。
信楽先生は、きっと「ただ、佛恩の深きを念じて、人倫の嘲りを恥じず」と念仏申される、
そんなお方とお聞きしています。
駆け出し門徒の私でなく、他の掲示板の書込みをここに借用させていただきます。

>信楽先生を御存じない方のために説明しますが
>信楽峻麿(シガラキタカマロ)は龍谷大学元学長、
>現在文学博士にて龍大名誉教授、仏教伝道協会理事長、
>本願寺派の寺院の住職という方です。
>私個人的には大学院時代のゼミの先生でもあります。
>昨年ゼミの同窓会が3月に開かれたのですが
>その席での記念講演で蓮如上人の問題点
>(神仏習合思想、王法為本、門弟 以上三点)
>を指摘されたのです。
>折りしも本山では五百回遠忌が開かれている最中でしたし
>その発言の影響力の大きい人だけに
>宗派内でもいろいろと物議を醸したのかもしれません。
>信楽先生が蓮如上人の問題点を指摘されるのは
>そういう問題点を議論すること無く
>浄土真宗本願寺派の宗義が成り立っていることへの問題提起であり
>二度と戦時教学のような過ちを犯すまいという思いからであると
>私自身は受け取っています。
>ですから蓮如上人をただ否定し批判されているのとは
>すこし趣が異なるのではないかと思うんですね。
>そうした意味では信楽先生の指摘は
>私たち自身の問題として
>今後真剣に取り組まなければならないことだと考えます。
>問題だらけの私達だからこそ
>共に手を取り合ってお念仏の道を歩いていこうというのが
>幾多の善知識のお示しくださった道なのではないでしょうか。

浄土真宗は弟子無くて、師のある教えといわれます。信楽先生は、学生達にはいつも
「私のゼミにいた事は、あまり外で吹聴しないように」と仰有っておられるそうです。
それでも師のゼミはいつも大勢も学生達が押しかけて行きます。
他のゼミは閑古鳥が鳴いているですが。人気が有るからどうのではなくて、
真摯なお人柄を慕って、多くの学生が駆けつけているのです。
まるであのテレビドラマの金八先生みたいですね。
金八先生も職員室では孤立無援ですが、生徒達にはあんなに慕われていました。
信楽先生もまた、一部の伝統教学には煙たがられるかも知れませんが、師の
人となりを知る学生達が慕うのでしょう。学生達への批判は、一身に受けて
学生達を守ってくださろうとしています。その学生達のこころまでも喩え
勧学であっても押し留める事はできないと思うのです。今や本願寺派の中にとどまらず
大谷派の若き僧侶も師を慕って面授を希望されていると聞かせて頂いています。
師の講義録は、優しさと厳しさがありますが、その一言一句が真実の教えを求めて、
語り掛けてくださっています。
先回の書込みで、
>中央教修に講師の先生の中には「信楽師は宗門から出てからものをいえ」と繰り返しておいでの先生もおいででした。
といいましたが、そうした伝統教学一辺倒の先生もおいででしたという事です。
中央教修の講師選定やカリキュラムの構成に偏りがあるとは思えません。
伝統教学の先生方も持論を話されて、それをどう受け止めるかは、私の問題なのです。

親鸞聖人は、私たちのものの見方を「有漏の分別」(うろのふんべつ)という言葉で
教えて下さっています。

朝やけ小やけだ 大魚だ

大ばいわしの 大魚だ

はまは祭りの ようだけど

海の中では 何万の

いわしのとむらい するだろう

(『大魚』 金子みすゞ)

私たちは大漁を喜びます。しかし、いわしたちの涙には気がつきません。
私たち本願寺派が蓮如を讃仰して、教団が大きくしたことをお手柄としていく事は、
ある意味ではこの有漏の分別ではないでしょうか。
たまたま、この「座談会」は真宗十派プラスアルファという事ですので、本派
意外の方々の蓮如さんへの見方もお聞かせ願えれば幸いです。
本願寺派の中にどっぷり漬かってしまっている私には、時宗や仏光寺の方々の声が
聞こえてきません。いえ、聞こうとしないと言った方が正確かも知れません。
私も所詮、有漏の分別から脱する事はできません。
度々で申し訳ありませんが、これも他のHP(お東)から引用させて頂きます。

>親鸞聖人は、有漏の分別ではダメだと言うのではありません。実際には自らの関心のある範囲のみを見て、それ
>以外のことを漏らしてしまっている私たち。にもかかわらずすべてのことをわかったことにしてしまっているこ
>とこそが問題だと言うのです。
>ではどうしたらいいのでしょう。それは「いわしのとむらい」の声に直接出遇うことからしか始まりませ
>ん。そうして有漏の身をしっかりと知り続けながら生きていく。今まで見えなかった他者や他からの声に出遇っ
>ていくのです。外は春、街に出よう、人と遇おう。

このこころが親鸞聖人のお心であり、この事がまた、基幹運動のこころなのです。
信楽先生や、基幹運動の趣旨は、まさにあさとさんが仰有っておられるように
上意下達ですが、中央教修ではそれをお仕着せする教育でも、洗脳でもなく、
あくまでも、私たちの主体の確立、大経の「宜自決断」の大切さを教えて下さって
います。 
勧学でありながら、戦時教学の過ちを認めず、逆に昭和天皇の病気平癒を念ずるための
法要をとりおこなった人こそ、宗門は問題にすべきではないかと、自分勝手に
有漏の分別をしています。そうした勧学たちの衆議一致を見ない限り、勝手に
布教をするなと緘口令を出されては、ますます門徒不在の、そして親鸞聖人不在の
教学に陥って、いつか来た道に戻ってしまうのではないでしょうか。

>しかし本願寺は別に寺属のものではないでしょうし・・・伝統教学が正しいとは
>限らないと思いますが・・・。

三好さんの短い一言が、実に嬉しい限りです。

親鸞聖人は命終したら、加茂川に流せとおっしゃいました。
蓮如上人は命終したら、宗祖の御影に我が遺骸をおいて、拝めと遺言されました。(遺骸礼拝)
このお二人の遺言の違いに、一元的なものを見つけられない私です。

くどいようですが、本願寺派以外の方々のお声をお聞かせくだされば幸いです。
「宗論はいずれ負けても釈迦の恥」と聞かせて頂きました。
歎異抄のこころに照らしたとき、いままさに「歎異」が問われる時のように思われますが……。


基幹運動は、上意下達です。
投稿日 4月11日(日)22時03分 投稿者 あさと 削除

うーん・・・。@葦さんの言われることはごもっともです。
基幹運動は宗門の中心だと言いながら、実は宗門の中でバラバラなんですよね。
大谷派では、蓮如さんの法要に際して、「バラバラでいっしょ」というテーマを掲げてお
られました。私なりに、すごくそのテーマに感動したのをおぼえています。
今の本願寺派は、どちらかというと「いっしょでバラバラ」でしょうか。(^_^;)

この掲示板で、本願寺派の問題ばかりで発言しちゃっていいのでしょうか?>管理人様

いつも思うのですが、同じお念仏をいただき、親鸞聖人のみ教えをいただくものでありな
がら、そのいただき方や用語の意味などで意志の疎通が困難になるということ、とても不
思議ですし、親鸞聖人がご覧になったらさぞかし驚かれるでしょうね。

基幹運動の件、@葦さんは「上意下達的」とおっしゃっておられます。まさにその通りで
す。ただ、その「上意」は、ご門主さんのご意志ですから、それに逆らうとそれこそ宗門
を追い出されたりして・・・。なんてね。
基幹運動に関しては、ご消息(ご門主の正式なアピール)において、宗門をあげての運動
であると明言しておられます。これは、「一部の基幹運動の人間」がいっているのではな
いといただいております。もっとも、私は、上からいわれたからやらないといけないとい
ただくのではなくて、私の問題として「せずにはおれない」と聞かせていただいたので、
この基幹運動を進めずにはおれないと思って関わっているのですが・・・。
ただ、ご門主さんも、「信心の社会性という言葉遣いは、いかがなものでしょうか」と発
言されておられます(組巡教でのご発言です)。おそらく、多くの方が持ってられる疑問
と同じように、この用語に対してはスッと納得されてはおられないのでしょう。

基幹運動って用語は、きわめて「本願寺派的な」用語です。ですから、この掲示板の趣旨
からいっても、もう少し「浄土真宗的な」というか、お念仏のみ教えをいただく方ならど
なたでも「そういうことなのか」と思っていただけるような形で語らないといけないかも
しれませんね。
「一部の宗門の人が進めている非合意の運動」なのか、「ご門主を中心にした、宗門をあ
げての運動」なのか、どうなんでしょう。
どちらにしても、本願寺派だけの信心理解なのですかね。ま、大谷派には、「同朋運動」
という形で、やはり差別をはじめとした様々な問題に関わっていくための運動があります
から、その意味では本願寺派だけだとは言えないでしょうね。
このあたりのことは、お念仏のみ教えをいただいておられる他の派の方にもお伺いしたい
ことです。

http://www.gix.or.jp/~asa-01


誤字の訂正
投稿日 4月11日(日)10時19分 投稿者 葦 削除

下から8行目「機関運動」は「基幹運動」の間違いです、訂正させて頂きます。


宗門の取り組みとしての基幹運動と個々人の受止め
投稿日 4月11日(日)10時06分 投稿者 葦 削除

あさとさまの基幹運動(以下、基推と書かせて頂きます)への受止めについては、以前にもどちらの掲示板だったか少しはっきりしませんがお聞かせ頂いたと思っています。
この度、また御自身の基推との関わりについて詳細に御記入下さり、以前にも申し上げましたが、こうして話し合えるものどうしでは理解しあえるのではなかろうかと思っていますとの旨を以前にも書かせて頂きましたが、今回も同様の思いです。
しかし、個々人が基推をどう受け止めるのかとの問題と宗門が基推をどう推進するのかとでは、少し意味が異なると思います。
現実には「個々人の受止め」で推進されるのではなく「宗門の取り組み」に立って推進されていくと言う事だと思います。
末端の個々人の間で話し合われる事と宗門の取り組みとの間の落差とでも言うのですか、受止めの距離の様なものが相当に幅広く隔たっているように思われてなりません。
基推の現場の方は「宗門の意志」として基推を勧めておられるとのお考えなのでしょうが、末端の寺院の認識では「宗門の一部署としての機能」としてしか受け止められていないと言うのが正直な所でしょう。
では、その隔たりの原点は何処に有るのかと尋ねていけば、結局、基推が宗門全体としての同意の上に立って推進されている運動ではなく、一部(基推本部)の同意の上に立って推進されてしまっている運動だからだ思っています。
確かに、あさとさまをはじめ基推委員の個々人の方は熱心に取り組んでおられますが、残念な事には宗門が基推の運動を宗門全体の運動とするべく宗門全体の同意を求めるための手続きを怠って、それこそ「上意下達」的に基推を末寺に下ろしてきている現状に最大の問題が有ると思います。
御法義そのものは、宗祖親鸞聖人のお開き下さった他力信心のおみのりを広く世に伝えて行くという本義、と言う点で一つの流れとして行かねばならないと言う事は言うまでも無い事です。
しかし、その「御法義から派生した運動」として取り組まれている同朋運動や環境問題等々は、個々人の認識や地域差等の事を考え合わせていくと相当大きな幅(意識の隔差)が有ると言わざるを得ないと思います。
今、宗門に求めたい事は、その隔差の現状の認識とその隔差を越えて宗門の流れとして取り組み得る基推、即ち宗門の一部署としての基推では無く、宗門そのものの基推たりうる流れとしての取り組みになり得る「機関運動」への脱皮を強く求めたい思いです。
当然、この問題は宗門内で論議されるべき事ですので、求められればいつでも応じる思いは有るのですが、現実には「広く宗門全体に意見を求める」方向よりも「基推委員内部で同意された」方向としての運動から一歩も出られていない現状を基推内部の方自身が認識されて、基推の内部から宗政そのもに求めて、基幹運動そのものが宗門そのものの運動に脱皮されるべく前進される事を切望するものです。


私と基幹運動
投稿日 4月10日(土)12時50分 投稿者 あさと 削除

私なりに、自分と基幹運動との関わりについてお話しさせていただきます。 私がずっと、理屈を中心として「念仏」や「信心」を学ぼうとしているときに、ある方か ら聞かせていただいたのが、「念仏と生活、念仏の生活」ということでした。 そして同時に、阿弥陀様の願いとは「ぬくもり」そのものであるということも、その方か ら聞かせていただきました。 阿弥陀様の願いを「ぬくもり」としていただき、その上で私の生き様を厳しく問い続けな がら生きていくのが、お念仏をよりどころとした「念仏の生活」であるということです。 ですから、当然ながら、阿弥陀様の願いが私に至り来たったのが信心であることに間違い ないのですが、そこには私が生きていく上でのよりどころを示してくださるという「方向 性」をも含んでおります。 「〜しなければならない」というものではなく、「〜せずにはおれない」というものです。 その方向性こそが、私にとっての信心であり、お念仏のはたらきです。あたたかくもあり、 厳しくもあります。どちらも、わたしのよりどころです。 もし、「お念仏はお念仏、でもそれは理想だし、現実は違うから、私の生活はこうだ」と いただくとすれば、それはまさしくお念仏を生活から切り離していただくことになるので しょう。「まずはご信心、社会生活のことはその次に」というのも、同様です。 基幹運動の根本は、私の生き様が問われることのない、従来の信心のいただき方に対して、 「それでいいのですか?」という問いから始まったのだと聞いております。具体的には、 「親鸞聖人は、他人を踏みにじっても平気なご信心を説かれたのですか?」という問いで す。 私はその問いを自分の問題とし、様々な学びに参加させていただく中で、「念仏の生活」 ということ、そして「信心の方向性」という形でその問題を聞かせていただいております。 親鸞聖人も、蓮如さんも、そして信楽先生も、自らの生き様を問う中から、お念仏のみ教 えをいただき、それを私たちにお伝えくださったのだといただきます。 教団とは、真理の「炎」をお守りするための「火屋」であるときかせていただいたことが あります。 教団があるから、お念仏のみ教えが私に届けられてきたことは確かです。 ただ、「火屋」は、放っておくとススがたまります。そのススを磨いて、きれいにすると いう営みが、教団には必要なときもあるでしょう。その作業に対して、「真理の炎を入れ てある大切な火屋をかまうのはいけない」とは、私は思わないのです。 江戸教学も、訓古注釈学も、それを否定しません。大切なことです。その上で、み教えを 私の生き様を通して聞かせていただくという営みを、私は欠くことができません。 話は変わりますが、最近、ある方のおすすめで、「彩花へ 〜 生きる力をありがとう」 という本を読みました。涙が出そうになるのを、必死でこらえながら、最後まで一気に読 んでしまいました。 ご存じの方も多いかと思いますが、神戸の少年による殺人事件で、娘さんを亡くされたお 母さんの手記です。この方は、お念仏も仏教も肯定されているわけではありませんが、こ のお母さんの生き方から、私の念仏者としての生き方を教えていただいたように読ませて いただきました。


行き違いの修正
投稿日 4月9日(金)19時42分 投稿者 葦 削除

大願さん、ご意見拝見しました。
少し行き違いが有るようですので、補足・修正させて頂きます。
1、私の記事が表現力の未熟な為に十分に伝わっていない点。
2、少し見解に相違が有ると思います点。
について書かせて頂きます。
少し長文になると思いますので先にお断りしておきます。

大願さんの記事で以下の点について私の考えを書かせていただきます。
1、「中央教習の講師の先生の姿勢に問題があるというご指摘は十巴一絡げには言えないと思います。」
2、「講師の先生の中には「S師は宗門から出てからものをいえ」と葦さんと異口同音の言葉を繰り返しておいでの先生もおいででした。」
3、「親鸞聖人を第8祖とし、蓮如上人を宗祖とすることを真剣に考えておられるお西の方もおいでとの事です、」
4、「基幹運動の先生方の多くは、親鸞聖人に帰ろうとされているだけです。」
5、「信心の社会性を上位下達する事など微塵もありませんでした。」
6、「むしろ生活信条にある「社会のために尽くします」と本山からの指導的な言葉に疑問すら感じておられます。」
7、「源左さん」について。
8、「独善・排他・狂信に陥る事なく、毀誉褒貶を互いに語り、宗祖のお心に問いながら、失われた道標を探して行こうという、至極あたりませの運動が基幹運動のこころなのです。」
9、「「みんな違ってみんないい」というところで連帯が生まれてくるものなのです。」
以上、お述べになっておられる点について、私の思い・意見を述べさせていただきます。

「みんな違ってみんないい」とおっしゃって下さっていますので、心軽く意見を述べさせて頂く事が出来るようです。

1、「中央教習の講師の先生の姿勢が問題で有ると言う事は十巴一絡げには言えない。」との事。
全くその通りと思います。
私が中央教習そのものに批判的で有るように受け止めておられるようですが、決してそんな事は有りません。
中央教習の講師をしておられる方の中には、胸襟を開いて言いたい事を言い合える方もおられますし、相対に真剣に取り組んでおられる真面目な講師が多いと思っています。
私が問題にしている事は、中央教習の講師やその教習内容についてと言うよりも、そこで教習されている内容の一部(飽くまでも一部分です)に「宗門として十分に掘り下げと同意が得られていない内容が含まれている。」と言う点です。
特に「用語」について、宗門内での同意が得られていない言葉が十分な配慮が為される事無く一人歩きしているように思われる現状について問題があると申し上げて来たつもりです。
なお、具体的な用語については後に述べさせていただきます。

2、「「S師は宗門から出てからものをいえ」と葦さんと異口同音の言葉を繰り返しておいでの先生もおいででした。」との事
私自身はS師は宗門から出てからものをいえと具体的に明言した覚えは無いと思うのですが、その様に受け止められても仕方の無い書き方で有った(その様に受け止められた)事は否定しません。
「組織」とは、その組織に定められた「同意」の上に成り立つと考えています。
五木氏の様に、言う所の「第三者」が自由に発言されると言う事と、「宗門」と言う「組織」に在籍しているものとでは、自ずからその立場が異なります。
宗門に属する者は、当然、宗門の説く教えの範疇(教義)の中で自己の受止めを語るべきであって、そこから逸脱する時はその組織には在籍し得ないのは宗門に限らず、どの様な組織でも自ずから求められる規制では無いでしょうか。
その様な意味で、S師の問題はS師御自身よりも、そのS師の発言を十分に規制出来無かった宗門にも大きな問題が有ると思っています。
しかし、S師の発言が言う所の宗門の教義に相違する時は、やはりその問題点を明瞭にして、その問題点が宗門の教義上相容れない場合は、S師の宗門内でのお立場(地位・業績)とは別の問題として明確にして行かねばならない問題と思っています。

3、「親鸞聖人を第8祖とし、蓮如上人を宗祖とすることを真剣に考えておられるお西のかたもおいでとの事ですが、」との事
この様な考えの方がおられる等と言う事は今までに一度も耳にした事は有りません。
勿論、具体的に宗祖と蓮師を入れ替えると言う事ではなく、宗門の拠り所を宗祖に依るのではなく蓮師に依ると言う意味なのだろうとは思いますが、そうで有っても、その様な事は今までに一度も聞いた事は有りません。
蓮師のご生涯は「どの様に教えを説く事が宗祖のお心にそう事なのか。」との思いで貫かれていたと受け止めさせて頂いています。
それ故、私の上では宗祖のお説き下さった他力本願のお救いと、連師がお勧め下さった他力のお救い(言い換えれば宗祖の教えに帰せよとのお勧め)とは全く同じ他力本願のお勧めで有ったと受け止めています。
それ故、もしも蓮師を宗祖に置き換えよう等と考えている者がいるとすれば、その者は全く蓮師のお心を頂けていない者と言わざるを得ないでしょう。

4、「基幹運動の先生方の多くは、親鸞聖人に帰ろうとされているだけです。」との事
それこそ、蓮師も私も宗門の全ての人の心はそれ以外には有り得ない事では無いでしょうか。
本来、浄土真宗は宗祖(親鸞聖人)のお勧めをおいて外には何も無い教えなのではではないのでしょうか。
その様な意味において、基幹運動に携わっておられる方もそうでない方も、同じ宗門の流れを頂く者は全て同じお流れ(教え)の中に生かされているのでは無いでしょうか。

5、「信心の社会性を上意下達する事など微塵も有りませんでした。」との事
私は基幹運動に携わっておられる先生方が「信心の社会性を上意下達した」等と一度も申し上げた事は有りません。
私が申し上げている事は宗門の「お救いの拠り所たるご信心」を語る時に「社会性」と言う言葉に続けて語られる事が果たしてふさわしい説きかたなのか?との疑問を述べ続けているだけです。
しかも、この表現(「信心の社会性」)は宗門内でも未だ十分に論議が尽くされた用語とは思えないのに、何時の間にか宗門の根幹に関わる「基幹運動」の中心的課題として用いられている事への疑問を述べているつもりです。
実は「基幹運動」に関与されている方の中にも「「信心の社会性」と言う表現は浄土真宗の教えの上からも果たしてふさわしい名称なのか疑問を感じる。」と述べておられる方もいます。
私は宗門の基幹運動そのものを否定しているのでは有りません。
むしろ、今後の宗門の在り方として基幹運動は最重要課題として取り組んで行かねばならないと考えています。
但し、そこで問題になって来るのは、宗門全体で「宗門における基幹とは何ぞや」との話し合いと同意が得られた上で基幹運動が推進されるべきであって、現状の様な基幹運動推進本部と言う「一部署」のみが取り組む問題では無いと考えています。
もっと広く宗門(本山・末寺・門徒)全体に在り方を問い掛けて、その中から得られた同意の上に立って「宗門の運動」としての「基幹運動」で無ければならないと思っています。

6、「むしろ生活信条にある「社会のために尽くします」と本山からの指導的な言葉に疑問すら感じておられます。」との事
「生活信条」は飽くまでも「信条」なので有って「指導的な言葉」では無いと思います。
信条とは、個々の人間がその教えに逢って、自己の中から「そうしたい」と思う事への一つの「ヒント」と受け止めればいいのでは無いでしょうか。
だから「社会のために尽くす」とは言っても決して「指導的」ではなく、それぞれが宗祖のお勧め下さる他力の教えに遭い得た事への思いを表現する方向づけとの意味合いとして受け止めさせて頂ければそれで良いのでは無いでしょうか。
だから、宗祖の教えに逢い得たからと言って「一定」の社会的役割を果たさねばならないとの義務感や要請では無い、飽くまでも個々人の自己の中からの発露で有る(或いは、無ければならない)と思います。
その中で、同一の意図を持つ者が同じ働き(社会的活動)をされれば良いのであって、だからといって社会的活動をしないからといって「宗祖のお心にそわない」等と非難・弾劾されるような事は断じて有ってはならないでしょう。

7、「源左さん」の事
実は、江戸時代から明治時代にかけて多くの妙好人が出られましたが、その拠り所は
@江戸期は、世界的な流れから見る時は鎖国によって世界の流れから取り残された時期で有ったとの受止めも可能でしょうが、一方、世界の時間的流れから逸脱する事によって、外的な時間の制約・圧迫を受ける事無く、十分に問題の掘り下げに時間を掛ける事が許された時代であったとの受止めも可能で有ると言えると思います。
それ故、各種技能は言うまでもなく、内的な宗教の問題にも十分に時間を掛けて取り組みが可能で有った時代で有るとの受け止めも可能で有ると考えます。
今日、ともすれば「江戸宗学」等と言って「江戸期」の宗学を軽視、又は無視しようとの傾向がありますが、私に言わせれば「江戸期の宗学者ほど勉強出来ていない事への僻みかな?」等と勘ぐって見たくなります。
それは兎も角、十分に宗学を修められた方に導かれた中から多くの妙好人が輩出したと考えています。
Aもう一つ見落としてはならない事は「お文」(御文章)の功績が有ると思います。
蓮師の残されたお文が出版されて多くの門徒の家に置かれ、広く普及し、読み進められる中から、蓮師がお残し下さった「読みやすく、受止めやすい」他力のお勧めが江戸期の社会的安定と相乗して、多くの人達に他力の教えが行き渡り、その中から妙好人と称せられる人達が現れて来たのでは無いでしょうか。
それゆえ、江戸期の妙好人の輩出の拠り所は@安定した社会に裏付けられた高い宗学の掘り下げ。とA蓮師のお残し下さった「お文」の普及が預かって大で有ると考えています。
司馬遼太郎氏は「教育が定着するには、恐らく50年は必要だろう。」との言葉を残しておられます。
それゆえ、明治期に出られた妙好人も江戸期の教化の賜物と言えるのでは無いでしょうか。
その様な意味において、どなたと言う事では無く、妙好人の教えの後ろには「江戸宗学」と「蓮師」が拠り所で有ると言わざるをえないと以前から考えています。

8、「独善・排他・狂信に陥る事なく、毀誉褒貶を互いに語り宗祖のお心に問いながら、失われた道標を探して行こうという、至極当たりまえの運動が基幹運動のこころなのです。」との事
全く、おっしゃる取りと思います。
では、何故そんなに蓮師を排した取り組みで無ければならないのでしょうか?
蓮師ほど、宗祖のお心を問いつつご教化に尽くされた方は無いのではなかろうか、と考えています。
実は浄土真宗ほど「狂信」と言う言葉と遠い所に有る宗教は無い、と以前から考えていましたが、最近は「案外そうでも無いのかな?」とのおもいが兆しています。
宗門が「狂信」に傾く事(言い換えれば宗祖の教えから逸脱する事)を最も恐れられた方が連師では無いでしょうか。
それはお文を読ませて頂くと痛いほどに感じられます。
「独善・排他ではなく」、まさにその通りですね。
しかし、それは決して「何でも有り」では無いと思います。
宗門の拠り所たる「他力信心」のおみのりに立って「独善・排他ではない」立場で無ければならないと思います。

9、「みんな違ってみんないい」との事
素晴らしい言葉ですね。
私も大賛成です。
しかし、永平寺を開かれた道元禅師は「目は横に、鼻は真っ直ぐ」と述べられて、「みんな違うが、みんな同じ」と言う事もお諭し下さっています。
浄土真宗のおみのりを頂かれた方が社会的にどのように活動されるか(或いは活動されない事も御自由です)と言う事は「みんな違ってみんないい」で良いと思います。
しかし「他力信心」の受止めは断じて「みんな違ってみんないい」で有ってはならない筈です。
宗祖が東山・吉水で、よき人・法然上人のお傍におられた時期の様子が「御伝抄」の中に数箇所書かれていますが、その中に恩師法然上人が「信心の異なる者は私の参る浄土に行かない。」旨の事が書かれていますが、私達が特に心掛けさせていただかねばならない事は、宗祖からの一味の御安心を相続させて頂くと言う点が根本(後生の一大事)で有ると言う事では無いでしょうか。


中央教修の補足
投稿日 4月7日(水)23時19分 投稿者 大願 削除

この掲示板が有る事をちっとも知りませんでしたが、何時の間にか葦さんから 何度か私の名を出してご指導頂いている事に感謝いたします。またあさとさん からの温かいフォローも頂きまして、有り難うございます。三吉さんが仰有っ ておられるとおり、ここで本音を言ったら喧嘩になりような気もしないでもあ りません。未熟な私への助言・忠言は有り難くいただきます。でも中央教修の 講師の先生方の姿勢が問題であるというご指摘は十把一からげには言えないと 思います。 講師の先生の中には「S師は宗門から出てからものをいえ」と葦さんと異口同 音の言葉を繰り返しておいでの先生もおいででした。しかし、五木寛之氏がど こかの随筆に書かれていたのは、蓮如さんの500回遠忌法要にあたって、師 の毀誉褒貶を論ずる事を願っておられました。親鸞聖人を第8祖とし、蓮如上 人を宗祖とすることを真剣に考えておられるお西の方もおいでとの事ですが、 そういう方に取っては親鸞さんに出てきてもらっては困るのでしょうね。基幹 運動の先生方の多くは、親鸞聖人に帰ろうとされているだけです。信心の社会 性を上意下達する事など微塵もありませんでした。いえ、むしろ生活信条にあ る「社会のために尽くします」と本山からの指導的な言葉に疑問すら感じてお られます。社会性は上から、あるいは本山や僧侶から私たちに強要されるべき ものではないと思うものです。もし、そんなものであれば社会のために尽くす ことのできる人が、知らず知らずのうちに何かの事情で社会の為に尽くせない 人を差別してしまう土壌を造り兼ねないからです。大乗のこころを頂いたら、 せずにはおれない思いからでる、阿弥陀様のお手伝いのほんの一つです。さ さえあって生きている同朋の悲しみに一緒に泣く事もできない私では有るけれ ど、何にもできないけれど、あるいは結局は阿弥陀様のお邪魔をしてばかりの 私であるかもしれないけれど、せずにはおれないご縁は大切にして行きたい。 かの源左さんの行動も、彼は「こんなことをする自分ではないけれど、阿弥陀 さんがさせてくださっているだけ」と涼しい顔でおられましたが、これもせず にはおれなかったのではないでしょうか。 そんなことを中央教修で、押し付けではなく実感させて頂きました。独善・排 他・狂信に陥る事なく、毀誉褒貶を互いに語り、宗祖のお心に問いながら、失 われた道標を探して行こうという、至極あたりまえの運動が基幹運動のこころ なのです。話し合い法座はその一つですが、問題提起に対して様々な受け取り が有るけれど、「みんな違ってみんないい」というところで連帯が生まれてく るものなのです。私はそのように受け止めさせて頂きました。


喧嘩になることを、喧嘩にしないで・・・
投稿日 3月28日(日)07時57分 投稿者 葦 削除

三吉さま。
お久しぶりです。
内心、三吉さんからのご意見が伺えるかなと期待するものが有りました。
おっしゃる取り、「真剣に自分の思いをここで語ると絶対に喧嘩になるな。」とのお言葉、誰でも自分の受止めにそれなりの自負を以って語り、書き込んでいるのでしょうから、下手をすると「泥仕合」にもなり兼ねない可能性を含んでいる事は事実と思います。
しかし「弥陀の光明に照らされる」と言うことは、同時に「不完全な自己の認識の発見」で有る訳ですから、全く異なるお考えの方とも「ああ、こう言う受止め方も有るのだな、との認識と受止め」が必要と思います。
但し『同一宗派』との枠組みが設けられる時は、些か意味合いが異なって来ますので、、先の意向とは少し異なって来るとは思いますが、しかし究極的にはそれもやはり同じなのでは無いでしょうか。
HP「広大会」の掲示板でしきりに『善悪』についての論議がなされていますが、行って見れば、あちらに述べさせて頂いたごとく『自分が絶対正しい』と思えば、『他者は絶対誤っている』との認識に陥りかねないからこそ、厳しく自己を見詰めつつ、その様な『固執』に陥る事無く無く、自由に話し合える場が求められるのでしょうし、また、必要なのではと思います。
「喧嘩になり兼ねない」内容を「喧嘩にせずに」語り合う事も、今後この世界(インターネット)での一つの約束事として、確立していかなければならない事でしょうね。
では、「どうすれば良いのか。」
それには自ずから成る約束事をそれぞれが自己の中に問い掛けつつ書き込んでいく配慮では無いでしょうか。
大いに話し合える事を楽しみにしています。


蓮師について
投稿日 3月28日(日)06時13分 投稿者 三吉 削除

真剣に自分の思いをここで語ると絶対に喧嘩になるな(^^;
しかし本願寺は別に寺属のものではないでしょうし・・・伝統教学が正しいとは
限らないと思いますが・・・。第一お西とお東では江戸教学に対する認識は違うでしょうし・・・。歴史学も真宗学と違う見解に立ちますし。在野の研究者も多彩ですし。
それはそうと「念仏の生活」という表現は勉強になりました。頂きます。


「御信心」の受止めについて
投稿日 3月27日(土)18時51分 投稿者 葦 削除

あさとさま、御返信有り難うございます。
何か、二人で「往復書簡」をしているようで、楽しいですね。

かつて布教使の方に聞いた言葉に「言うに余るし、言わんに足らん。」と言う言葉が有ります。
「言うに余る」とは、「こちらの意図する内容が正しく伝わらず、そこに別の要素が加わって伝わって行く」とでも言う意味なのでしょうか。
残念ながら言葉に置き換えた時には、その人の持っている語彙や表現方法、性格等がその表現に付随する事によって、本人が意図する事だけが正しく伝わる事は困難で、しかも本人が意図していない付随的に派生した意味が加わって行くのでしょうね。
では、言わなければ良いのか、と言えば「言わんに足らん」と言うことは「言わなかったら何も伝えられない」と言う、もどかしさとでも言える心情なのでしょうね。
かつての布教使方が御法話に腐心された様子が伺える言葉として、大切に受け止めています。

所で「信心の社会性」と言う問題から話がはじまって、それなりにお互いの理解がし合えているのでは無いのかなと、喜んでいます。

浄土真宗においては「信心」とは言わずに「御信心」と申し上げる所に「浄土真宗
における信心の有り方」が如実に伺えると思います。
即ち、浄土真宗における信心とは「弥陀回向の信」で有るが故に、恵まれた事へのお敬いの思いを以って【御】と言う言葉を冠して「御信心」と頂くと、お聞かせ頂いています。
また、その御回向とは、願成就の名号法(願力具足)が仏の方より御回向されると頂きますので、「御本典」の「教・行・証」には「出体釈」(体(実体・ものがら)の拠り所についてお述べになられる意味)が述べられて有りますが「信巻」(御信心について述べられる巻)には「出体釈」がお述べになられていない事が「信心は相(すがた)で頂く」との受止めの拠り所として、大切に教えられています。
即ち、私の上で頂く「信」(御信心)は、あくもでも「弥陀回向の名号法」がこの私に至り届いた相(すがた)で語られるお味わいであって、「真俗二諦」の「真諦」として受け止めさせて頂ける事で有ると窺っています。
さすれば「方向性」であれ「社会性」であれ、これらの事は「俗諦」に属する問題で有ると受け止める時、「信心」(真諦)に付けて語る事は相応しく無い事と思います。
そのおみのりに働かれて生きる私(念仏者)が、そのおみのりに生かされる生きかたをどの様に生きるか(方向性)また社会的にどのように関わっていくのか(社会性)、どちらも大切な受止めと思います。
それ故、自己の内面に向かって問い掛けて行く時は「念仏者の方向性」との受止めが可能でしょうし、外に向かって何が可能なのかと問い掛けていく時には「念仏者社会性」との受止めが可能でしょう。
いずれにしても「信心・・真諦」に属せられるべき受止めと「方向性・社会性・・俗諦」に分類されるべき事との「混同」に対して、浄土真宗の教義理解の上で成り立ち難い受止めで有るとの意味に於いて異存が有るとの受止めである事を明らかにしていきたいと思います。
少し回りくどい説明となりましたが、少しでもこちらの思いを正しくお伝えしたいとの思いで書かせていただきました。
良くご承知の事とは存じますが、御了解下さい。

次に蓮如上人についての受止めですが、おっしゃる通り「本願寺を大きくしたから批判をするのはおかしい」と言うような意図では無い事は以前にも少し書かせて頂いたと思います。
蓮師への受止めは、言うまでもなくそのお残し下さったお言葉(御文章・御文)を通して頂くのが根本と思います。
しかし、その背景(時代・本願寺の立場・蓮師によって次第に巨大化しつつ有る教団の推移等々)を無視して、ただ言葉(例えば「王法為本」についての受止め)の表面だけを以って「蓮師は宗祖の残された教えとは異なる事を説いておられる。」との解釈はあまりにも短絡的で有ると言わざるを得ないのでは無いでしょうか。
また「蓮如上人が本願寺を大きくされた方だから批判をするのはおかしい。」等と言うつもりは毛頭有りませんが、しかし同時に「蓮如上人が本願寺を大きな教団にされた事実」はやはりそれなりに大切に受け止めさせて頂くべきと思います。
御文章の中に説かれている「法然上人の浄土の流れ」の中には、今日その名前を聞かなくなってしまった法然上人の流れの名前などが述べられていますが、もしも蓮師が今日の本願寺の基をお残し下さっていなかったら、若しかしたら親鸞聖人の御残し下さった教えは教科書にのみ名前を残すか、図書館でしか名前を見る事の無い「歴史上の偉人」としての位置づけしか残っていない可能性も有ったのでは無いのかと考える時「連師が本願寺を大きくされたから、何がなんでも批判するのはおかしい。」等と短絡的な事を申し上げる気持ちは先に申し上げた通り毛頭有りませんが、同時に、やはり「蓮師が本願寺を大きくされた【意味】の持つ大きさ」は大切に受け止めていかなければならないと思っています。

また、蓮師への批判の思いを以って宗門内で活動される方に向かっても、もとより「外に出てやりなさい。」等と言うことが本意で無い事は言うまでも有りません。
何より大切なのは、その様な考えの方達と「蓮如上人の受止め」について十分に意志疎通をしていきたいとの思いが本意で有る事は言うまでも有りません。

その様な意味に於いて、今最も求めていきたい事は「宗門」が、それらの事について「自由に語り合える場」を設ける事を強く望まずにおれません。
「基幹運動」についても、その「重要さ」は十分に認識しているつもりですが、ではその「実施」に当たって本当に「宗門内の話し合いが十分に尽くされている」と言えるか、と言うと残念ながらそうでは無いように思われてなりません。
この度、こちらの「座談会」でたまたま宗門の「基幹運動」に参画されている方とお話させて頂く機会に恵まれ、しかも有り難い事に柔軟にこちらの意向をお聞き頂ける方に恵まれた事を大変有り難く受け止めています。
今後とも、出来るだけ「私情」を交える事無く話が継続出来ます事を念願致します。


信心の「方向性」
投稿日 3月26日(金)23時50分 投稿者 あさと 削除

@葦さん、ご丁寧なお返事をいただいて、ありがとうございます。
言葉や表現で受け止め方が異なる事は事実です。
私も、「信心の社会性」という表現がはたして適当かどうか、考えることがあります。
私にとっては、「信心の方向性」と表現していただいた方が、適当ではないかと思うのですが、いかがでしょう??
@葦さんがご指摘いただいたように、「社会性」という言葉には、ややもすると具体的な実践行動を指し示すような印象もあるようですので、そのあたりは気を付けて言葉を使いたいものです。
そんなわけで、私にとっては生きていく上での「よりどころ」がお念仏であり、信心でありますから、私にとって「念仏者の方向性」よりも、「信心の方向性」という表現がピッタリくるのですが、皆さんはどう受け止められますでしょうか??
そのよりどころ(価値判断の基準)が、お念仏と世俗の両方あるといういただき方(念仏と生活)と、あくまでもお念仏がよりどころであるといういただき方(念仏の生活)と、これは「両方成り立つ」とは思えないというのが、私の印象です。

それから、蓮如さんの受け止め方ですが、「本願寺の勢力を広めて、私たちのお寺を造った方だから、批判はおかしい」と聞こえてしまうのですが、そうではないのですよね??
私は、蓮如さんが、親鸞聖人のみ教えを当時の生きた言葉として「再生」された方だからこそ、蓮如さんのみ教えをありがたくいただいております。
#S先生のゼミを出たものとして、逆に批判を受けそうですね。(^_^;)
蓮如さんが、「王法を額にあてよ」とおっしゃられたことをどういただくかは、様々なご意見があろうかと思います。
お念仏という「仏法」を錦の旗印にして、過激な暴動などに走ってしまう念仏のお同行を目の当たりにして、「このままではいけない」という思いから、様々な「定め・掟」をお同行に示されたのだといただいております。
ただ、そのお心は、あくまでも「お念仏・仏法がよりどころ」であって、その上で社会体制をむやみに破壊することへの戒めを込めて、「王法を額にあてよ」とお示しくださったのでしょう。
それを、「蓮如さんは仏法と王法の両方を認め、両方をよりどころとされたのだ」と理解してしまっては、それこそ悪しき真俗二諦論になってしまう気がします。

蓮如さんへの批判に対しては、私は「外へ出てやりなさい」とは思いません。過激とか、そういう理解をしたことがありません。
S会のT講師は、蓮如さんが気に入らなくて本願寺を出たのではなくて、「気に入らないヤツは中にいてもらっては困る」という本願寺の体質によって、外に出ていったのではないでしょうか。(詳しくはわかりませんが。)
私は、本願寺の「伝統にあぐらをかいた体質」や、「差別を温存・助長してきた体質」を問う上で、「私の問題」として問い続けていきたいと思っております。あくまでも、教団の内側にいながらです。
それは、私自身も問われますし、どんなに学びを続けても、ゴールがあるわけではないと思いますが、「それでも問い続けずにはおれない」という方向性を、信心によっていただいております。
具体的な行動そのものは、それぞれお一人お一人が違うのが当たり前ですが、その「方向性」は、お念仏を通して共通するものがあるといただきます。
また同時に、それはただ私が断罪されているのではなく、阿弥陀様の温かいお心に支えられているからこそ、続けていける営みでもあります。
そんなことを感じながら、読ませていただきました。

http://www.gix.or.jp/~asa-01



「信心と生活」と言うこと「信心の生活」と言うこと
投稿日 3月26日(金)17時10分 投稿者 葦 削除

「信心の生活」なのか「信心と生活」なのか、との事について、私自身は両方成り立つのでは、と思っています。
と言うよりも、どちらかで無ければならないと言うこだわり自体が執着(これでなければならない)なのでは無いでしょうか。
信心の生活・・・弥陀の光明に照らされた日暮らし。
信心と生活・・・いつも如来さまと一緒の生活。
どちらも素晴らしい事ですね。

しかし「生活」と「社会性」とは別の事なのでは無いでしょうか。
信心の生活(信心と生活)をさせて頂いている者(念仏者・私自身)が、恵まれたおみのりの受止めを通してどのように社会に適応して行けるのか、と自己の中に向かって問い掛けて行く働きが『念仏者の社会性』なのでは無いでしょうか。
そういう意味で、やはり『信心の社会性』と言う表現は適正とはいえないと思いますし『念仏者の社会性』との表現の方が、その目的を一層明瞭にしていると思います。
『一度決めた事は改められない。』と言うのではなく、『より一層その趣旨を正しく表している。』と言う表現が有れば、やはり改めて行くべきでは無いでしょうか。
そう言う意味において『念仏者が社会に積極的に関わっていく働き』が大切で有ると言うこと自体に批判の思いは有りませんが、それを表す言葉として『信心の社会性』と言う言葉で表して行く事が問題である、との受止めをされている方は『運動している人達自身』の中にも、疑問を持っている方も有るようです。

「真俗二諦」の受止めの問題にしても、本願寺の歴史的事実として本来の「真俗二諦」の教義解釈を歪めて来た歴史的な事実は反省し、その事実を『例え時間的にどれだけ経過していても』点検し、訂正していかなければならないと思います。
その背景には『止むに止まれない』事情(国家的圧力)等も有ったのでは無いでしょうか。
それらの事実をも全て明らかにして、『反省する点は反省する』事が大切でしょう。
しかし、だからといって「真俗二諦」の本来の教義的意味そのものを正しく伝え・学ぶ事無く『短絡的』に頭ごなしに非難し、排斥しようとする傾向には『本願寺はどうなってしまったのか?』との疑問と危惧を禁じ得ません。

蓮如上人の受止めの問題にしても、蓮師が本願寺を継承された時には宗祖の報恩講そのものも「さびさびとした」状態で有ったと書かれていますが、その本願寺を今日の本願寺の原形として形成された方が蓮師で有ると言う事実を記憶しておかなければならないのでは無いでしょうか。
「西遊記」の孫悟空が、お釈迦さまの手のひらの上から一歩も出られない存在で有りながらお釈迦さまに挑戦している姿が、連師のご縁によって他力のおみのりを恵まれた身でありながら『蓮師の本当の尊さ』を仰ぐ事無くいたずらに批判している姿と重なって見えて来るように思われてなりません。
少し過激な言い方ですが、敢えて言わせて頂ければ『そんなに蓮師の教えが気に入らなければ本願寺から離れて独立されれば良い。』と思う事が有ります。
連師は『本願寺第八代宗主』と言うお立場は、どんな事が有っても断じて覆す事の出来ない『歴史的事実』で有ると言うことです。
そして、その連師を批判的に受け止めておられる方が「寺属」(寺に生まれた者)の方である場合は、その本人自信が生まれ育った『寺』自体が、若しかしたら蓮師のご縁によって興された寺である場合も多く有るのでは無いでしょうか。
浄土真宗に限らず仏教の教えそのものには『恩』(仏恩)の思想が深く関わっていると思いますが、「恩」と言う言葉は『因を知る心』(今有る私の因(もと)を知り、受け止めていく心)で有るとお聞きした事が有ります。
今日の本願寺を考える時『如来様のご恩・宗祖のご恩』が根本に据えられなければならない事は言うまでも無い事ですが、同時に『蓮師のご恩』も同時に尊重されなければならない、と言うことを明瞭にしていきたいと思います。
表では『五百回遠忌法要』を盛大に勤め乍ら、その裏でその連師を批判し、排斥しようとするは働き有るのに、それに目を閉ざす様な事が有れば、それこそ『恩知らず』と批判されても仕方ないのでは無いでしょうか。
だから『宗祖のお開き下さった他力のおみのりは頂く事は出来るが、連師が受け継がれ、お説き下さったおみのりは受け入れられない。』と言われるのなら、それは一人一人のお考えなのですから、『仕方の無い事』と思います。
しかしながら『本願寺の傘』に入っていながら『蓮師を批判する事』はその『傘自体』を批判している事になっていくのでは無いでしょうか。
S会のT師も同様に『本願寺が受け入れられない』との立場から『本願寺を離脱』されたのでは無かったでしょうか。
『同朋教団』を標榜する宗門である以上『離脱・分裂』等を望まない事は言うまでも無い事ですが、だからといって『同じ傘』の下に『おみのりの受止め』の異なる方がいるくらいなら、いっそ『その立場』を明確にされる事の方が大切なのでは無いでしょうか。



ROMからの脱出
投稿日 3月25日(木)23時16分 投稿者 あさと 削除

ずっとROMっていた私が、急に出てきてしまって、申し訳ない限りです。
管理人さんがおっしゃっておられるように、こういった疑問点や相違点を「内輪に隠す」ことなく、語り合えることがうれしくて、思わず出てきてしまいます。
先日も書かせていただいたように、私は教義的な内容を云々するようなものではありませんが、「信心の社会性」という話題で、もう一つ書かせていただければと思い、登場いたしました。
社会性といっても、何も難しいことではないのです。
「信心と生活」なのか。
それとも、「信心の生活」なのか。
それだけのことなんです。
かつて、「信心と生活」といういただき方によって、様々な現実から目を背け、しかも差別に積極的に加担しながら、その自分の姿を問うことすらできなかった私たちの信心のいただき方を、問うていこうというのが、私たちの基幹運動であると聞かせていただいております。
「親鸞聖人は、他人を踏みにじっても平気でいるようなご信心を説いたお方なんですか??」という、厳しい問いかけが、私の信心のいただき方を「信心の生活」と導いてくださったように思っています。
そんなことを私自身、再確認しながら書かせていただきました。
S会に関わっておられる方も、そうでない方も、同じお念仏をいただいた同朋として、是非とも各々の生き様に問いかけていただければと願っております。

http://www.gix.or.jp/~asa-01


ご挨拶遅れましたが、、
投稿日 3月25日(木)18時43分 投稿者 管理人//ms.Kashmir.JH 削除

 あさと様、いらっしゃいませ、ご挨拶大変遅れましてすみません。。
私Kashmirは管理人をしているものの情けなくもS派の事は分からないのであまり口は挟めません。基幹運動についてはちょっと呼んだ事があるといった程度です。この場を提供する事しかできませんが、遠慮なく「座談会」ご利用下さい。

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>「宗門の内輪の事をこんな所(一般に開放された所の意)に書いて、宗門の恥さらしだ。」等とお考えの方がおられれば、「それは違う。」と思います。
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とありましたが、私はそういう意味での「恥さらし」ならどんどんさらすべきだと思いますし、恥をさらせる体質と言うのは宗門にとって必要なのではとも思います。内部でのもめ事を内部で隠匿したり、場合によっては内部の人間でさえ末端の者には隠蔽されるような教団も中にはあるようですが、、。


ご返事の旨、十分に了解しました。
投稿日 3月24日(水)23時38分 投稿者 葦 削除

あさと様、ご返事有り難う御座いました。
ご返事の旨、十分に了解しています。

いつも思うのですが、こうして話し合える間柄ではお互いの意図が十分理解し合えるのですが、本当の問題点はこの様な話し合いが成立しあわない間柄において存在すると言うことでしょう。

大願さんの事においても先にも書かせて頂きましたが、むしろ、大願さん御自身よりも、彼の指導に当たっておられる方達の問題点で有ると思いますし、その事は先の書き込みにも書かせて頂きました。

そこで思います事は、こちらのS会関連の掲示板でも『用語』(言葉の使われかた)の問題が大きく取り上げられていますが、言葉には、それぞれの言葉自体が持っている『本来』の意味が有って、それを『私はこの様な意味で使っています。』と言っても、その言葉自体が持っている意味に背反する時は、単なる『自己の思い込み』に過ぎないでしょうし、それを押し進める事は『間違った方向』へ向かいかねない恐れも有りますし、『本来の意味』を損ねる事にもなり兼ねない、と言う思いを持って大切に取り扱って行く配慮が求められるのでは無いでしょうか。

問題は、『問題を問題と見る目を持てない人』が問題なのでしょうね。


お返事遅くなりました。
投稿日 3月24日(水)12時26分 投稿者 あさと 削除

私自身、不勉強なもので、あまり教義の内容については議論できるような器ではありませんので、申し訳ありません。
信心の社会性については、私は単純に「方向性」といただいております。
お念仏によって、阿弥陀様の願いをいただいた私の、生きていく方向性です。
お念仏に出逢ったよろこびを、多くの方にお伝えせずにはおれない。
お念仏によって知らされた私の生き様を、ずっと問い続けずにはおれない。
それが、私にとっての「信心の社会性」です。

それと、『、何らかの社会的役割を果たしていく事が「念仏者の責務」で有るかのような、何らかの「同調圧力」が発生する恐れがある活動として「念仏者の社会性」と言う言葉が位置付けられて、働かれて行く恐れが有るとすれば、大いに問題の有る「流れ」と言う「危険性」を感ぜずにはおれません。』ということ、私も経験があります。
とても一生懸命に活動されている方が、私にこう言われたことがあるのです。
「あさと君、僕ら念仏者はね、これくらいの活動をしていくのは当たり前なんだよ。
こう言うことに目をつぶっている人はね、本当の念仏者とは言えないんじゃないか。」
そのときは、言いしれぬ違和感を感じたことを今でもおぼえています。
「せずにはおれない」といただかれた、その方の思いは尊いものでしょうが、それを「ものさし」として念仏者を見てしまうことは、@葦さんがご指摘されたような危険性をはらんでいるでしょうね。
それから、うちの掲示板における、@大願さんのご発言についていろいろとご指導いただいたこと、まことにその通りです。
私自身、基幹運動に多少なりとも携わっている身として、本当に厳しいご指摘として聞かせていただきました。
ただ、@大願さんのご発言の背景については、若干の補足させていただきます。
門徒推進員として、京都で「中央教習」を受けられた際、@大願さんの班におられた担当講師のおひとりが、S先生の「悪口」をあげつらわれるお方だったそうです。
また、それ以前に西本願寺にお参りされた際、書院参観のことで、本願寺の職員が非常に横柄な態度であったため、一緒にお参りされたお東のご門徒さんたちにもお西の対応に疑問の声が挙がったとのことでした。
そういった事を@大願さんの問題意識として、お念仏のみ教えを真摯に聞いておられるところからのご発言でしたので、きっとあのような厳しい言い方になられたのだと思います。というわけで、お返事が遅くなって申し訳ありませんでした。

http://www.gix.or.jp/~asa-01


早速拝見させて頂きました。
投稿日 3月23日(火)00時20分 投稿者 葦 削除

あさとさま
お招きを頂き有り難うございます。
早速拝見させて頂きました。
素晴らしい書き込みがされて有り、改めてゆっくりと時間を掛けて読ませて頂きたいと思います。
「信心の社会性」と言う事について、「信心」について「社会性」をもって語る事が果たして正しい受止め(表現)なのか、と言うことについては、十分な論議がされる事も無く、特に基幹運動の立場で何時の間にか「信心の社会性」と言う言葉が独り歩きして語られる様になって来ました。
ある方は「念仏者の社会性」と言う表現は受け入れられるが、「信心の社会性」と言う言葉は「浄土真宗のご信心」の受止め(解釈)の上からは「適正な表現」とは言えないのではないでしょうか、と述べておられます。
私もその意見に同意します。
浄土真宗において「ご信心」とは「弥陀回向のご信心」で有り、飽くまでも「回向される阿弥陀さま」と「回向を賜る衆生」との間にのみ語られるべき「性質」(本質)のものであって、断じて「社会」と言う言葉を冠し得ない性質のものと受け止めています。
当然、そのお実りに恵まれた「念仏者」が、その恵まれたおみのりの受止めを「社会」に反映させるべく何らかの社会的活動をされる事は全く個々人のご自由ですから「念仏者の社会性」と述べられて、その思いを社会に反映させようと働かれる事には全く異存はありません。
しかしながら、「念仏者の社会性」と言うことで、何らかの社会的役割を果たしていく事が「念仏者の責務」で有るかのような、何らかの「同調圧力」が発生する恐れがある活動として「念仏者の社会性」と言う言葉が位置付けられて、働かれて行く恐れが有るとすれば、大いに問題の有る「流れ」と言う「危険性」を感ぜずにはおれません。
つぎに、親鸞聖人は言うまでもなく、蓮如上人のお説き下さったおみのりにおいても「仏法を聴聞して、ただ有り難い、勿体無いと言って後生の極楽を願っていればそれで良い。」等と言うような受止めは断じて無いと強く申し上げたく存じます。
もしも本願寺の中央教習で蓮如上人の受止めを、その様に説き、教えているとすれば、その様に教えている本山の「蓮如上人への受止め」そのものに多いに疑義を呈さずにはおれません。
大願様とおっしゃる方の受止めは、恐らくご本山の教習で教えられた事をそのまま受け止めての書き込みと思われますので、決して大願様への反論と言うことでは無く、その様に指導しているご本山の中央教習の受けとめへの疑義と言う立場で書かせて頂いています。
「真俗二諦」の受止めにしても決して「一人で喜んでいればいい」等と言うような閉鎖的な独善的な受止めでは有りません。
「真・法の真実(諦)」と「俗・衆生の真実(諦)」との受け止めを通して恵まれるおみのりの位置づけ(味わい)、が「真俗二諦」であって、確かにその戦時中の解釈については(詳細な理解は有りませんが)些か問題は有ると言わざるを得ないのでしょうが、「本来」の「真俗二諦」についての正しい受け止めについての「正しい教え」を怠って、単に「それが起因として発生した問題」のみによってそれを評価して行く事は「一層大きな過ち」に陥る恐れが有るのでは無いでしょうか。
「信心の社会性」「真俗二諦」をはじめ、浄土真宗の教学に関わる用語についての規定は、その「根元」に溯っての堀下げを通して正しく使われていく様に努力されて行かなければならないと強く思っています。
何よりも基幹運動に関わる方々が、「教習」をされるに先だだって、先ず「自己の学び」と「教習内容の検討」を十分になされる必要を強く提言致したく存じます。


良かったら、うちにも来てください。
投稿日 3月22日(月)19時53分 投稿者 あさと 削除

私自身、信心の社会性というところで、うちの掲示板でいろいろ書かせていただいてます。
良かったら、ご意見いただけるとありがたいです。

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Suzuran/3189/


是非、ご意見を・・・
投稿日 3月22日(月)17時35分 投稿者 葦 削除

S派(S会では有りません)関連の方で、この座談会をご覧になられた方、是非ともご意見をお聞かせ下さい。
「宗門の内輪の事をこんな所(一般に開放された所の意)に書いて、宗門の恥さらしだ。」等とお考えの方がおられれば、「それは違う。」と思います。
良いも悪いも皆の前に曝け出して(等といっている自分が、ハンドルネームの後ろに隠れているのですが、お許しを)そこから事が始まって行くのでは無いでしょうか。
本座談会をご覧の方で、S教授の薫陶を受けられたかた、またSゼミのかたで、ご意見のお有りな方は、是非とも御記入下さい。
また、本山の「基幹運動」に関与されているかたで、本座談会をご覧の方も、是非ともご意見をお寄せ下さい。
幸い、管理人さんも「今後も忌憚無い御意見を賜りますよう。」とおっしゃって下さっていますので、宜しくお願いいたします。


いらっしゃいまし
投稿日 3月22日(月)01時01分 投稿者 管理人//ms.Kashmir.JH 削除

 いらっしゃいませ、ダイバ様。(アーリヤデーヴァ?ダイバダッタ?それともお台場?【蛇足!】)この様なHPで信心、安心の問題を論ずるのは軽率、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが逆に、おみのりに触れるご縁という意味では、もっと気軽に意見しあえる場も必要なのではと思っておりますし今後も忌憚ないご意見賜りたく思っております。
 ところで私は懈怠にして基幹運動について詳らかな所は存じ上げておりませんが、教学に関して「その教えは一枚岩で有る」かどうかと言われますと素直に肯けない感があります。以前、死後極楽に往生できない人はいるのかという質問が「ハトの会」の談話室でございましたが、それに対して同じ本願寺派内にも「いる」と説かれるお方と「いない」と説かれるお方がいらして意見が分かれる所とうかがいました。唯可信斯、と言われましてもそれでは唯々諾々ともいきませんし、、。
@ただ、それは機に応じてそう説かれるとお聞きしましたし、聞書百二十二条に「されば極楽はたのしむと聞て参らんと願ひのぞむ人は仏にならず、弥陀を頼む人は仏になると仰せられ候」と有ります。それを踏まえれば、左様の件は信心の上に止揚せらる問題であり、教学的問題というよりは「布教方針」上の相違となるのでしょうか?。


本願寺の問題。
投稿日 3月20日(土)15時06分 投稿者 ダイバ 削除

 本願寺派僧侶のダイバです。

 葦さんがおっしゃるように、まこと本願寺は最近安心について突っ込んだ議論展開をしませんよね。「信心の社会性」ということが基幹運動で提起され、宗門の関心もそちらの方へ移行しているようです。しかし信心の社会性を云々するからには、その一番の基盤となる信心についてより綿密な議論が必要なはずです。

 元R大学S教授の問題は、信心、安心に関わる大切な問題であるにもかかわらず、I勧学著述による100ページほどの本に止まっております。このような問題こそ勧学寮が決判していかないといけないと思うのです(あるいは勧学寮とR大学との実りある摺り合わせ)が、宗門の関心は専ら「信心の社会性」にのみ大きく傾いております。行巻の大行が「称」南無阿弥陀仏に傾くべきか、名号法そのものなのか、という問題にしても、他力信心をいただく根本義であるはずです。これらの検討をないがしろにしたまま信心の社会性もなにもあり得ないと思います。信心の社会性が現下に於いて重要な論点であるならなおさらのこと、安心についての統合的な指針が必要でしょう。

 さて、ではどのような筋道を立ててこの問題に当たるのかという具体的な方法、ないし手段を私も現段階で持ち合わせていません。考えれば考えるほど本当に沢山の論題が浮上してくるように思われて整理がつきません。交通整理が必要か、とも思います。


遠慮無くどうぞ。
投稿日 3月20日(土)09時41分 投稿者 管理人://ms.Kashmir.j 削除

>この書き込みが『本談話室の趣旨に反する』とお考えの場合は、ご遠慮なく削除頂いて異存の無い旨を申し添えます。

確かに拙サイト開設のきっかけとなったのは「ハトの会」当のHPにあるのですが、かといって『本願寺派の問題点』がこのHPの趣旨から外れると言う事では有りませんのでどうぞ遠慮無くお書き下さい。楽しみにしております。


『安心』について(2)
投稿日 3月19日(金)16時00分 投稿者 葦 削除

『安心』について書かせて頂いた事への補足をさせて頂きます。
先の書き込みで、今日の本願寺の有り方を『無安心』と言う言い方で語る人が有ると書かせていただいた事は、今日、本願寺が『御法義・御安心』を『教えない、説かない』と言うことでは有りません。
しかし、例えばS会の『教学』が『創設者T師の教義解釈』を中心として体系付けられた(と思います)事によって、異なる教義解釈の介入する余地が殆ど無いに等しい(と思います)のに比して、本願寺では宗祖の時代にも早や既に「歎異抄」に述べられる様な「異義」が起こっており、蓮如上人の時代にも「御文章」等に見られる様な問題が有ったようです。
また、江戸時代には、ご存知の如く「三業惑乱」と言う本願寺そのものをゆるがせる大問題が起こっている事を振り替える時、今日の本願寺の『御法義』が、果たして『一枚岩』(一味)と言い切れるのか、との問題についての『問題提起』として『無安心』と述べられたと受け止めさせて頂いています。
現在は退官されて他の役職を担っておられる元R大学学長S氏がR大学在任時に述べておられた(一時期は宗門内でも相当大きく問題視されていた様に記憶しています)『御信心の解釈』の問題については、宗門としては何の根本的な解決(果たして、R氏の教義解釈が本願寺の教義解釈として容認出来るものか、出来ないものかとの教学的立場での決定)を見ないままに、ずるずると時間の闇の中に埋没させようとしているような状況を考える時、しかも現実問題としては、S氏御自身は既にR大学を退官されていますが、その薫陶を受けた人達が、言う所のS(S氏の姓)派として(特に徒党を組んだ働きは無いようですが)現在でも宗門内で、特に『蓮如上人御自身の位置づけと、そのお説きになられた御法義の理解』について、従来の本願寺の伝統的解釈と異なる解釈をしている問題と、その延長線上の問題として、自分達の解釈の立場をもってご門徒へのご教化をしている、と言う現実を仄聞する時、果たして本当に『本願寺の御法義』に『問題はない』と言い切れるのかとの疑問を禁じ得ません。
また宗門は、その『基幹運動』としての取り組みを『社会(特に差別問題を中心として)・環境』と言うテーマを最前列に位置づける事によって、本来、宗門の活動の『第一義』たる『伝道・教化』と言うことが『第二義的』にみなされる傾向が起こって来る事によって、宗門の根本義たる『御法義』(御安心)の教化(御法座の開催・御法義のお取り持ち・お念仏のお育て等)が今一つ『最重要課題』として、取り組まれていない現状を指して(一部の方が)『無安心』との言葉で宗門の現状を表されるのでは無いかと受け止めています。
その様な宗門の『基幹運動』を些か揶揄の思いを含めて『(仏法)聞かん運動』と言われる事も一概に否定し切れないものが有るように思います。
本来『S会関連』として創められた本HPなのでしょうが、その名称『十派』の意味をそのまま受け取らせて頂いて、私の場合は『本願寺派の問題点』と言うことを語り合って行ければと思って、敢えて書き込ませて頂く事にしました。
本願寺派の末寺の方が開いておられるHPには書き込みにくい内容ですので、敢えてこちらのHPの座談会(掲示板)を利用させて頂く事にしました。
本願寺派の方に限らず、他派の方やS会関係(GS・MS)の方々もご遠慮なくご意見を頂ければ有り難く存じます。
問題点は、関連HPで取りざたされているS会(「虚構を弄しての勧誘」「方便の解釈」「布施(財施)の問題」等でしたか)だけではなく、既成教団にもそれなりに多く内包しているのだと言うことを認識頂ければと思います。
尚、HPの管理は飽くまでも管理人がその権限を有しておらる事ですので、この書き込みが『本談話室の趣旨に反する』とお考えの場合は、ご遠慮なく削除頂いて異存の無い旨を申し添えます。


『安心』について
投稿日 3月19日(金)09時37分 投稿者 葦 削除

「安心」(あんじん・信心の意)の問題はやはり関連の他のHPよりも、十派(プラスα)を対象とした、この座談会で是非とも話し合ってみたいと思いますので、記事を書かせて頂きます。
S会の教義が本願寺の教義と比して相違点が有るのは、その開設者がもと本願寺の僧籍を有しておられた方が本願寺の説く教義が相容れない事によって宗門を離れて独立され新たにS会を開かれたと言う経緯を考えるとき、むしろいろいろな点で立場を異にし、教義が異なるのはある意味では当然の事と思います。
また、詳しくすりあわせが行われた事が無かろうと思いますので、他の十派との間においても、一般的には『浄土真宗は政治的・地理的理由で分派されて行ったので、教義的理由で分派されたのでは無いので、その教えは一枚岩で有る。』と述べられる事が有りますが、果たして本当にそうなのか、と言う点で疑問が有ります。
それらの問題も今は少し横に置かせて頂いて、本願寺派に限って、その『安心』の問題を考えるとき、また、戦後どうしてS会のT師が本願寺を離れられたのかを考えてみるとき(当然T師が本願寺を離脱された意図は宗派内に存在する私には窺い知る事の出来ない事ですが)戦後の本願寺の教学指導に果たして問題点が無かったのかとの疑問を禁じ得ません。
特に『安心』への取り組みにおいて、S会ではしきりに『異安心』についての追求が(特にT師の古巣で有る本願寺に対して)厳しくなされますが、本願寺では社会・環境等の問題があまりにも前に出過ぎて(一部の方の間で言われる事ですが)『無安心』と言う問題、即ち『安心』の問題が宗門の第一議題として語られない流れが次第に主流になりつつ有る点が上げられると思います。
この、座談会がS会をも含めて他派の方に広く開かれたHPで有ると思いますので敢えて本願寺の根本的な問題点(と私が思う点)を披瀝して、皆様方のご意見を広く求めたいと思います。
宜しくお願いいたします。


是非、他の関連HPもおより下さい。
投稿日 3月15日(月)10時28分 投稿者 葦 削除

S会関連のHPで、唯一、浄土真宗関連のリンクに張り出されているHPが、このHP「十派一絡」ですので真宗関係から訪問される方がおられると思いますが、そのまま他のHPに行かれずに、是非とも「関連HP」を覗いて見てください。
きっと、あんたがご存じなかった世界を垣間見る機会となると思います。
特に「寺院関係」(僧侶)の方は他の関連HPを見てみる価値は十二分に有ると確信します。
是非とも、ご覧ください。
また、HPを開設されている浄土真宗関連の方々に、是非ともこの、S会関連HPをリンクにお加え頂けますよう切望致します。


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