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小説:『木の都』『六白金星』
  織田作之助年譜

大正二年(一九一三)
 十月二十六日、大阪市天王寺区上汐町四丁目二七に、父織田鶴吉、母たかゑの長男として生まれた。父鶴吉は魚春なる仕出し屋をいとなんでいた。長姉(竹中)たつ、次姉(山市)千代があり、のち、妹(西沢)登美子が生まれる。

大正九年(一九二〇)  七歳
 四月、大阪市立東平野第一尋常高等小学校(現、市立生国魂小学校)に入学。

大正十五年・昭和元年(一九二六)  十三歳
 三月、小学校を卒業。四月、大阪府立高津中学校(現、府立高津高等学校)に入学。「少年倶楽部」「蟻の塔」を愛読し、少年投書家でもあった。

昭和三年(一九二八)  十五歳
 廻覧雑誌「燦蹄《さんてい》」を主宰した。三年D組にぞくしていたことから、三Dをもじったもの。愛読書は国木田独歩、有島武郎、森田草平などであった。

昭和五年(一九三〇)  十七歳
 同級の吉井栄治(のち朝日新聞大阪本社学芸部勤務)とともに、校内の修養会に反撥し、かといって不良グループにもくみせず、当時の歪んだ中学生活自体にあきたらなかった。しぜん、反逆的な生徒であり、遅刻度数において級中最高で、吉井、これに次いだ。軍事教練の点数もビリ、操行は丁であった。しかし、学科の成績は優秀で、特に英語、国語にすぐれていた。物理、化学が苦手であった。十二月、母たかゑを喪う。

昭和六年(一九三一)  十八歳
 三月、高津中学校を卒業。四月、第三高等学校(のちの京都大学教養部)文科甲類に入学。全国高校中、もっとも自由な校風の三高に入学して、水をえた魚のごとく、作之助は真面目を発揮することとなる。個性の自覚、才能の開発に、この学校に入学したことが、いかに作之助にさいわいしたかわからない。時あたかも、校内に文芸復興の気運が濃厚であった。左翼思想の温床の観があり、数年問、地下左翼運動の一拠点であった三高では、前年の大ストライキを最後に、政治の季節がおわっていたのである。寮生活で、二年生の田宮虎彦と同室となる。全寮制度ではなかったが、一時期、入寮したのであった。教授に、山本修二、深瀬基寛、伊吹武彦、講師に桑原武夫、土井虎賀寿の諸氏がいた。学業成績は、英語が特にすぐれていた。将来、作家たらんとする志向はまだなく、漠然と、中等学校英語教員としてのディレツタント生活を思い措いていた。

昭和七年(一九三二)  十九歳
 同級生白崎礼三との親交により、文学的開眼の契機をつかむ。
 白崎は、百田宗治主宰の詩話「椎の木」同人として、フランス象徴諸派の流れをくむと称し、すでにして詩作を発表していた早熟の詩人。ランポー、ヴァレリー、マラルメを熟読し、純粋詩を語る白崎に対抗して、作之助は純粋戯曲を考え、ルナール、ボルトリッシュ、チェホフ、岸田国士などに心酔、それらの作家の著作のほとんどすべてを読破した。白崎と同宿して、昼夜文学を談じ、文学が主、学校が従といった生活態度がしだいにいちじるしくなった。同級に又、瀬川健一郎(のちの毎日新聞人阪本社学牡新聞部長)あり、白崎と三人で、寺町京極界隈を彷徨することしきり。ポー、ボードレール、ドストエフスキーへの関心高まる。九月、父鶴吉を喪う。十二月、三高文芸部編集の「嶽水会雑誌」(年三回発行)に、評論「シング劇雑稿」を発表。近代劇・アイルランド劇研究家山本修二教授の影響が見られる。文芸部に入る。

昭和八年(一九三三)  二十歳
 三月、戯曲「落ちる」を「嶽水会雑誌」に発表。このころまでの一、二年間に、同誌に作品を発表した者に、西口克己、北条元一(のちの東京工大数授)、山本正男(のちの東京芸術大学教授)、森本薫、田宮虎彦、青山光二等がある。四月、第三学年に進級。九月、青山光二と、はじめて識る。青山は一年上級であったが、軽度の肺尖カタルを理由に、一年問休学し、九月より復学して、作之助と同級となった。「嶽水会社誌」の編集は、この両名に委ねられた。文芸部長は「ウィルヘルム・マイステル」の名訳者林久男教授。十二月、「純粋戯曲論」を「嶽水会雄誌」に発表。二年生野間宏の投稿原稿(小説)の採否について、青山と意見対立。青山は採るといい、作之助は全否定であった。けっきょく、掲載されたが、作之助の激越な否定論は、寺町鎰屋《かぎや》での合評会の席上でも開陳され、野間の朋友の論客富士正晴と衝突した。腕まくりして立ち上った血気の富士を、青山・白崎や同席の伊吹教授がなだめる始末。野間・富士は、桑原(のち竹之内)静雄(のちの筑摩書房社長)とともに、同人雑誌「三人」の発刊を計画中であった。劇作家として立とうとする志、ようやくかたまり、教室への出席は片手間程度となる。築地座の京都公演(「おふくろ」「二十六番館」を上演)を機会に「二十六番館」の作者川口一郎を三高に紹き、文芸部主催の座談会を開いた。

昭和九年(一九三四)  二十一歳
 一月、築地京都公演評を「劇作」に載せた。二月、まえまえから胸部疾患があったが、卒業試験の最中、下宿で喀血した。友人ら愕然としてが、本人はむしろ平然たるものがあった。三月、京大英吉利文学科に入学願書を提出したが、三高卒業を認められず、原級にとどまる。大阪に帰り静養。おなじく肺患で休学中の白崎礼三とともに和歌山県白浜温泉や小豆島に転地療養し、依然、文学論議に明け暮れた。文学書を多読耽読したが、日本の作家について語ること少く、とりわけドストエフスキーに心酔、「カラマゾフの兄弟」など読みふける。九月、小康をえて京都に帰り、復学したが、.以前にもまして教室には背を向けた生活ぷりであった。三高近くの横丁に映画監督徳永フランクの経営していた酒場ハイデルベルクにつとめる宮田一枝(大正二年一月一日生)と知りあい、通いつめること週余、曲折を経て、銀閣寺道終点附近の下宿で、同棲生活に入った。金銭の苦労の味を知る。奇矯な同棲関係のため、永く一つの下宿にとどまることができず、転々として、早くも″放浪″の労苦を体験しはじめた。

昭和十年(一九三五)  二十二歳
 卒業試験をうけず、ふたたぴ原級にとどまる。白崎、瀬川もしめしあわせたように落第した。愛人宮田一枝との生活に情熱の深淵を覗き、文学者としての宿命を自覚、このころの生活により、独自の女性観、恋愛観を確立するところがあった。

昭和十一年(一九三六)  二十三歳
 一月、同人雑誌「海風」が創刊され、創刊号に戯曲「朝」を発表。同人には東大在学中の青山、柴野方彦、深谷宏、太田道夫、京大在学中の池田進(後の京大教育学部数授)、及び白崎、瀬川、のちに小川正巳、杉山平一、吉井栄治、中谷栄一等がおり、同人交互編集により、至難な状況下に六年間、刊行をつづけて、文学による友情の稀な結実を示した。三月、三度日の卒業試験をうけたが、出席日数が極度に少いため卒業を認められず、ついに退学のやむなきにいたった。白崎も同様。東大に入学する瀬川と三人で、車中文学談に耽りつつ上京、出迎えた青山を加え、銀座彷徨、深夜に及んだ。止血剤トロンボーゲンをしきりに服用する。小石川茗荷谷の青山光二のアパートに止宿、今後の策を協議する。すなわち、学資提供者としての義兄竹中国次郎の手前、いかにして三高退学を秘し、東大入学試験に失敗した態にするかについてである。青山の協力により、ある程度、この詐術は奏効したが、六月、真相露顕した。しかし、義兄とのあいだに話合いがつき、出資はつづけられることとなった。七月、大阪帝塚山に近い姫松園アパートに住み、時折り、京都にいる宮田一枚と逢う以外は、心斎橋、道頓堀界隈に孤独な放浪の日夜を送った。秋、上京して、青山光二と白崎礼三が奇態な共同生活をつづけている東中野のアパートを訪ね、その夜、二度日の喀血をする。三人とも愕ろかず。十二月、戯曲「モダン・ランプ」を「海風」に発表。

昭和十二年(一九三七)  二十四歳
 五月、宮田一技が心づくしのフランス人形をたずさえて上京、本郷秀英館に止宿。作之助を迎えて、「海風」同人の街あるき、盛んとなる。溜り場は、同誌編集発行所でもある本郷落第横丁のペリカン・ランチルームであった。街あるきの合い間に、作之助は猛烈なスピードで読書する。スタンダールに憑かれ、折しも「海風」に発表した戯曲の評価一向にかんばしからず、にわかに小説への志向が決定的なものとなった。長身痩躯、本郷界隈にかくれもなく、時たま、くるまを駆って川を越え、「ボク《墨+さんずい》東綺譚」の作者、荷風のひそみに倣った。

昭和十三年(一九三八)  二十五歳
 二月、処女作小説「ひとりすまふ」を「海風」に発表。街あるきの足は浅草公園にのぴ、オペラ館二階観客席で一代の奇行を演じた。大阪の浅草物、大阪のボク《墨+さんずい》東物を腹案し、「夫婦善哉」の構想、ようやく緒につく。十一月、「雨」を「海風」に発表。のちの長編「青春の逆説」の原型である。武田麟太郎、この後輩にはじめて注目する。

昭和十四年(一九三九)  二十六歳
 四月、東京生活をきりあげて大阪に帰り、富田林の義兄竹中国次郎方に寄寓。就職の苦難を経験したあげく、織物新聞社を経て、日本工業新聞社に入社、敏腕記者としての才幹を発揮する一方、「俗臭」の稿をすすめる。七月、宮田一枝と正式に結婚、大阪府南河内郡野田村丈六に新家庭を構えた。就職の苦難も、このことのために堪えたのであり、年来の、かわらぬ愛人への思い遣りから、市民的な結婚生活の平安を想うまでに、作之助は成熟したのであったといえる。九月、「俗臭」を「海風」に発表。

昭和十五年(一九四〇)  二十七歳
 二月、「俗臭」が芥川賞候補となり、最後まで賞をあらそった。四月、「夫婦善哉」を「海風」に発表。五月、「放浪」を「文学界」に発表、好評であった。七月、「夫婦善哉」が改造社の第一回文芸推薦作品(選考委員は宇野浩二・青野季吉・川端康成・武田麟太郎)に推され、「文芸」に再録された。「文芸」編集部に、三高時代に一年上級だった木村徳三がおり、以後交友がつづいた。八月、第一作品集『夫婦善哉』を創元社より刊行。このころ、井原西鶴を読みはじめる。十月、「子守唄」を「文芸」に発表。日本工業新聞社を辞職、筆一本の作家生活に入る。時代小説「合駒富士」を野田丈六の筆名で「夕刊大阪新聞」に連載。(のち、本名で刊行された。)

昭和十六年(一九四一)  二十八歳
 二月、書き卸し長編『二十歳』を万里閣より刊行。六月、「雪の夜」を「文芸」に発表。七月、「立志伝」を「改造」に発表。秋、書き卸し長編『青春の逆説』(「二十歳」の続編)を万里閣より刊行。間もなく、発売禁止処分をうけた。十二月、「海風」を解散、海風同人を中心とした、大阪における統合同人雑誌「大阪文学」を輝文館より創刊。創刊号に「動物集」を発表。正宗白鳥の推賞をうけた。時代は、ようやく、文芸にも戦争協力を強いる風潮となり、従来の作風を、そのままでは、とうてい持続しがたい状勢にかんがみ、歴史小説に新たな作風の展開をこころみようと考えはじめた。

昭和十七年(一九四二)  二十九歳
 一月、「秋深き」を「大阪文学」に発表。四月、「天衣無縫」を「文芸」に発表。書き卸し長編『五代友厚』を日進社より刊行。最初の歴史小説である。七月、書き卸し評論『西鶴新論』を修文館より、書き卸し長編『月照』を全国書店より、それぞれ刊行。前者は、西鶴を強引にスタンダールに引きよせ、且つ、大阪人の視点から大阪人西鶴を論じた文字通りの新論で、西鶴研究家嘩峻康隆などから批判があり、一センセーションをまきおこした。「西鶴忌について」を「大阪新聞」(九日)に載せる。九月、「勧善懲悪」を「大阪文学」に発表。十月、「雷の記」を「大阪文学」に載せ、作品集『漂流』を輝文館より刊行。「素顔」を「新潮」に発表。十一月、「わが町」を「文芸」に発表。

昭和十八年(一九四三)  三十歳
 一月、作品集『素顔』を撰書堂より刊行。二月、「藤沢桓夫論」を「大阪文学」に載せる。四月、書き卸し長縮『わが町』を錦城出版社より刊行。六月、「随筆大阪」を錦城出版社より刊行。八月、「聴雨」を「新潮」に発表、「杉山平一について」を「大阪文学」に載せる。夏、「わが町」(錦城出版社版)が「ベンゲットの星」と題してエノケン一座により有楽座で上演されるのを機に上京、久しぷりに在京の友と会い、快談した。九月、「道」を「文芸」に、「勝負師」を「若草」に、それぞれ発表。『大阪の指導者』を錦城出版社より、『大阪の顔』を明光堂書店より、『清楚』(「大阪新聞」連載)を輝文館より、それぞれ刊行。十月、「武家義理物語」(西鶴現代語訳)を「大阪文学」に発表。

昭和十九年(一九四四)  三十一歳
 一月二十日、敦賀に帰省療養中の年来の友、白崎礼三が死去した。三月、「木の都」を「新潮」に発表。七月、「清楚」が森本薫脚色により放送され、放送賞をうけた。又、「清楚」と「木の都」の主題を併せ「還つて来た男」と題して自ら脚色、松竹で映画化された(のちに夭折した川島雌三の第一回監督作品である)。これを手始めに、文芸圧迫の時局下、映画、放送の仕事に活路をもとめ、しきりに才腕をふるった。八月六日、婦人科疾患のため入院加療中であった妻一枝が死去した。大阪市天王寺区東寺町、楞厳寺に葬る。悲嘆限りなく、孤独、寂蓼、虚無を友人にうったえる。九月、「螢」を「文芸春秋」に発表。十一月、「高野緑」を「新文学」に発表。「わが町」が井上演劇道瘍により劇化、東劇で上演された。出演中の輪島昭子(芸名、築地燦子)と知りあい、やがて同棲関係となる。

昭和二十年(一九四五)  三十二歳
 一月、「ニコ狆先生」を「サンデー毎日」に発表。三十・三十一日、二月一日の三日にわたり、連続放送劇「猿飛佐助」を森雅之等により大阪中央放送局から放送したが、警戒警報でとぎれることしばしばであった。二月、これを小説化した「猿飛佐助」(火遁の巻)を「新潮」に発表。三月、さらに「猿飛佐助」(水遁の巻)を「新文学」に発表。いずれも、特異の才筆をあますところなく発揮した会心の作で、具眼の読者を瞠目せしめた。三月四日、宇野浩二・鍋井克之・藤沢桓夫との座談会「大阪と文学」(「歴」四号、昭和41・5に掲載)に参加。六月、「表彰」を「文芸春秋」に発表。このころ、「十五夜物語」を「大阪新聞」に短期連載。西鶴「世間胸算用」の現代語訳を脱稿(のち、『織田作之助名作選集』の一巻として収録)。放送劇「十六夜頭巾」を大阪中央放送局より放送。十一月、「髪」を「オール読物」に発表。十二月、「見世物」を「新世界」に発表。

昭和二十一年(一九四六)  三十三歳
 一月、「土足のままの文学」を「文学雑誌」に載せる。作品集『猿飛佐助』を三島書房より刊行。二月、声楽家笹田和子と結婚、宝塚に近い清荒神にある笹田家に同居したが、十日ばかりで義兄竹中方に帰り、京都へおもむき、ふたたぴ輪島昭子とともに、ちきり別館、鴎涯荘等の旅館を転々とする生活にはいった。三月、「六白金星」を「新生」に、「アド・バルーン」を「新文学」に、それぞれ発表し四月、「神経」を「文明」(春季号)に、「世相」を「人間」に、「競馬」を「改造」に、それぞれ発表。中編「夫婦善哉後日」を「世界文学」(四月・五・六月合併号)に連載。たちまち流行作家となった。「それでも私は行く」を「京都日日新聞」(四月二十五日〜七月二十五日)に、「夜光虫」を「大阪日日新聞」に、それぞれ連載。五月、「鬼」を「新風」に、「四月馬鹿」を「光」(五・六月合併号)に、それぞれ発表。創作集『素顔』を瑤林社より刊行。「夜の構図」を「婦人画報」に十二月まで連載。六月、作品集『文楽の人』を白鴎社より刊行。「郷愁」を「真日本」に発表。「二十歳」と「青春の逆説」を集大成した長縞『青春の逆説』を三島書房より刊行。八月、「大阪の憂鬱」を「文芸春秋」に、「西鶴の眼と手」を「りぺらる」に、それぞれ載せる。「土曜夫人」を「読売新聞」(八月三十日〜十二月八日)に連載しはじめる。九月、作品集『六白金星』を三島書房より刊行。十月、評論「ジュリアン・ソレル」を「世界文学」に、同「二流文楽論」を「改造」に、それぞれ発表。「怖るぺき女」を「りぺらる」に連載しはじめる。十一月、「中毒」を「新生日本」に発表。「土曜夫人」の稿五十回をこえ、小説の舞台がいよいよ東京に移ろうとするのに先立ち、取材をかねて上京、東銀座佐々木旅館に止宿する。輪島昭子も、つづいて上京。評論「サルトルと秋声」を「東京新聞」(十七日〜十九日)に載せる。二十五日、「改造」主催の太宰治・坂口安吾との座談会に出席(この座談会記録は「改造」には掲載されず、昭和三十一年十二月、「太宰治読本」((河出書房・『文芸』別冊))に「未発表座談会・歓楽極まりて哀情多し」として掲載された)。「改造」座談会につづいて同日、太宰治・坂口安吾・平野謙との座談会「現代小説を語る」(「文学季刊」二十二年四月発行、に掲載された)に出席した。「婦人画報」のための対談を機に、林芙美子と相識る。十二月、「死神」を「社会」(鎌倉文庫発行)に発表。訪客との応待に忙殺されつつ執筆をつづける。「可能性の文学」を書きあげた四日夜(正確には五日午前二時頃)、大量の喀血をし、以後、絶対安静となる。輪島昭子の献身的看護。七日、菊池寛が見舞いに現われる。「土曜夫人」九十六回を最後に、未完のまま終る。「改造」に掲載された「可能性の文学」は、伝統小説の権威に挑戦した爆弾評論として、たちまち、物議と論評をまきおこした。青山光二、連日の見舞い。中旬、東京病院に入院。林芙美子、坂口安吾の心づくし。作品集『世相』を八雲書店より刊行。病勢は、しだいに悪化した。

昭和二十二年(一九四七)
 一月「大阪の可能性」を「新生」に発表、吉村正一郎との対談「可能性の文学」を「世界文学」に載せる。十日午後七時十分、輪島昭子にみとられつつ永眠。十一日、芝の浄土宗天徳寺で通夜、翌十二日、桐ケ谷火葬揚で茶毘に付され、長姉たつ、次姉千代と義兄竹中国次郎、輪鳥昭子、太宰治、林芙美子、十返肇、青山光二、品川力(ペリカン書房主人)が骨を拾った。二十三日、告別式は大阪楞厳寺で行なわれ、葬儀委員長は藤沢桓夫であった。さきに逝った妻一枝とともに同寺に葬られ、戒名は、常楽院章誉真道居士。妹登美子の娘禎子が家督を相続した。二月、「文学的饒舌」が「文学雑誌」に載り、『船場の娘』がコバルト社より、『妖婦』が風雪社より、それぞれ刊行された。三月、『怖るぺき女』が実業之日本社より、作品集『天衣無縫』が新生活社より、作品集『夫婦善哉』が大地書房より、それぞれ刊行され、「妖婦」(遺構)が「風雪」に発表された。四月、『夜光虫』が世界文学社より、『夜の構図』が万里閣より、『土曜夫人』が鎌倉文庫より、それぞれ刊行された。七月、『それでも私は行く』が大阪新聞出版局より、八月、評論集『可能性の文学』がカホリ書房より、十二月、『西鶴新論』が天地書房より、それぞれ刊行された。

昭和二十三年(一九四八)
 七月、『合駒富士』が大仏舎より、十月、『それでも私は行く』が大阪文庫より、それぞれ刊行された。

昭和二十四年(一九四九)
 一月、日記「青春の自画像」が「文学雑誌」に掲載され、三月、『夜光虫』が弘文社より刊行された。

 『織田作之助選集』全五巻 中央公論社(昭和二十二年十月〜二十三年十月)
 『織田作之助名作選集』全十五巻 現代社(昭和三十一年三月〜三十二年三月、十四冊で中絶)

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