QPの辻潤考察
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辻潤の年譜

一八八四(明治一七)
 十月四日明け方、浅草区向柳原町に生れる。母美津は辻家の養女であり、父六次郎は埼玉の豪農に生まれ月給四、五十円程度の東京市教育科の官吏であった。祖父の代からの財産があり、生活は楽であった。女中四、五人にかしずかれて育つ。

一八八九(明治二二)5歳
 浅草区向柳原の柳北女学校付属の柳北幼稚園入園。

一八九〇(明治二三)6歳
 浅草区猿尾町の育英小学校入学。

一八九二(明治二五)8歳
 父六次郎が親類の知事の縁で三重県の県庁役人となり、父母に伴われて伊勢の津へ行く。尺八に興味を持つ。キリスト教会の日曜学校に通う。弟義郎生まれる。

一八九四(明治二七)10歳
 東京に戻り、神田佐久間町の叔父の借家を借りて住まう。浅草区猿尾町の育英小学校高等科二年に入る。父親は骨董商を営むが失敗し、以後定職なく、病気がちであった。(死の近くでは狂気に陥っている)。 

一八九五(明治二八)11歳
 神田淡路町の開成中学入学。同級生に村岡典嗣、田辺元、斉藤茂吉、吹田順助らあり。神田お玉ヶ池の天心真揚流磯又右衛門の道場に通う。

一八九六(明治二九)12歳
 この頃「徒然草」読む。以来辻の愛読書となる。幸田露伴の「風流仏」を読む。十月頃家計の悪化、生来の虚弱、学業の怠惰により学校中退。家計の悪化は父六次郎に定職のなかったこと、および母美津の乱費によるとされている。辻潤は毎日尺八を吹いて暮らす。妹恒(つね)生まれる。

一八九八(明治三一)14歳
 泉鏡花「高野聖」を読む。初代荒木古童の竹翁の門に入り尺八を習う。尺八で身を立てることを考えるが荒木古童に反対され断念する。

一八九九(明治三二)15歳
 神田錦町三丁目の国民英学会英文科(夜学らしい)に入る。卒業は一九〇二年十二月十三日。昼間は某会社の給仕をしていたらしい。キリスト教徒となり、内村鑑三に親しむ。

一九〇〇(明治三三)16歳
 江戸期の稗史小説、小説類を乱読。

一九〇一(明治三四)17歳
 神田佐久間町の小学校の臨時訓導を勤める。この頃聖書や英書ばかりを読む。

一九〇二(明治三五)18歳
 日本橋の私塾会文学校に教鞭をとる。午後2時頃から5時頃まで教え、月給3円。後夜学でも教えるようになり、月給9円。そのかたわら夜、一ツ橋の自由英学舎に通い、岩本善治、青柳有美、新渡戸稲造らの講義を聴く。宮崎滔天「三十三年の夢」読む。雑誌『革命評論』などに親しむ。

一九〇三(明治三六)19歳
 日本橋千代田尋常高等小学校の代用教員(助教員)となり五年勤続。月給15円。幸徳秋水の週刊『平民新聞』の愛読者となる。『実験教育指針』という雑誌にアンデルセン童話「暮鐘」を訳載。

一九〇七(明治四〇)23歳
 五月「いぬかは」、六月「三ちやん」、十一月「消息」、十二月「あるこほる」の短篇小説を某誌に発表。

一九〇八(明治四一)24歳
 浅草精華高等小学校に教鞭をとる。月給24、5円。他に夜学と家庭教師の内職をやっていたという。父六次郎死去(自殺したとも伝えられる)

一九〇九(明治四二)25歳
 巣鴨区上駒込八四〇の染井の借家に移る。念願の書斎もありお気に入りの家であった。この家に母と妹と三人で暮らした時代が最も平穏で幸福な時代であったと、辻は後に回顧している。ロンブローゾ「天才論」の訳業につく。

一九一〇(明治四三)26歳
 岩野泡鳴の著作に親しむ。伊藤野枝が上野高等女学校四年に編入。野枝は福岡今宿村に生まれ、東京の叔父代準介の家に寄宿していた。野枝は自分の望みのためには家族さえ省みなかったという。辻潤が文学とマックス・シュティルナアを経てエゴイストになったとすれば、野枝は生来のエゴイストであったと言えよう。「天才論」訳了。

一九一一(明治四四)27歳
 四月 国語教師をしていた友人西原和治の世話で下谷区桜木町の上野高等女学校の英語教師となる。月給、4、50円。教え子の野枝と知りあう。教え子の吉原の酒屋の娘、御簾納(みすのお)キンと恋愛関係を結ぶがプラトニックなものであった。一方で野枝とは朝と帰りを共にし、野枝の住む叔父の家にも訪ねたり親しくしていた。八月 野枝は夏休みに帰郷し、アメリカに連れて行くという条件で承諾し末松福太郎と(仮)祝言をあげるが、すぐに上京、辻の家を訪ねる。野枝の上野高女の授業料はこの婚家から出ていた。野枝の卒業、帰郷前に二人は抱擁を交わして別れた。

一九一二(明治四五/大正元)28歳
 四月 卒業し九州に帰った野枝が婚家に入って九日目に家を飛び出し上京、辻の家を訪ねる。扱いに困った辻は上野高女側と相談するが、野枝との仲を学校側から疑われ、教師が嫌になっていたこともあって上野高女を辞職する。辻は野枝と同棲。(婚姻届は大正四年七月)上駒込四二番地の家に移る。辻は生活のため参謀本部その他の翻訳をする。野枝は『青鞜』の編集委員となる。

一九一三(大正二)29歳
 「阿片溺愛者の告白」訳す。『青鞜』第三巻五号からマッコアの「響影」を訳載し始め、十号までおよぶ。六月 木村荘太が野枝に手紙を出し、野枝との間に恋愛事件を起こす。辻は野枝に別れてもよいと言ったが、野枝はそれを拒否。木村荘太、野枝は顛末を小説にして発表。九月 長男一(まこと)生まれる。近所に住んでいた福田英子によりアナーキスト渡辺政太郎と知り合う。

一九一四(大正三)30歳
 三月 野枝『婦人解放の悲劇』東雲堂より出版。大杉栄は「近代思想」で絶賛する。九月 野枝に興味を抱いた大杉栄に訪問される。野枝は『青鞜』編集発行人になる。十二月 岩野泡鳴と生田長江の紹介で植竹書院から『天才論』出版、反響を呼び二十数版をかさねる。

一九一五(大正四)31歳
 小石川指ケ谷町92番地の借家に移る。妻の野枝は生まれたばかりの流ニをつれて家出。大杉栄の許に走る。辻は上野寛永寺にこもる。野枝は後、乳児流二の扱いに困り、千葉の漁師の家に養子に出す。辻は下谷区北稲荷町34番地の長屋に引越し、「英語、尺八、ヴァイオリン教授」の看板を出し、いわゆる浅草時代がはじまる。辻はこの根城をパンタライ社と命名する。尺八には生徒が集まらず、英語は数人生徒が集まった程度のようである。武林無想庵、谷崎潤一郎、佐藤春夫、大泉黒石らと知りあう。十一月 「書物と鮭」、十二月 シュテイルナー「万物は俺にとって無だ」翻訳。この年(或いは翌年)、岩野泡鳴の『プルターク英雄伝』の翻訳の手伝いをする。

一九一六(大正五)32歳
 本郷追分の今岡信一郎経営の栄林館に下宿。和田むめを奥栄一に紹介する。下宿代を二、三ヵ月とどこおらせて栄林館を追い出さる。それより菊坂上の某下宿(ここに木蘇穀がいた)にころがり込む。ここからまた麹町九丁目の武林無想庵の住いにころげ込み、唯一の蔵書バルザツク全集を十五円で谷崎潤一郎に売る。五月 「のんしゃらん」を某誌に発表。マックス・シュティルナアを訳しはじめ、十一月 無想庵の紹介で比叡山にのぼり宿坊生活に入り、シュティルナアの訳業をつづける。十一月九日 大杉栄をめぐる伊藤野枝、神近市子、掘保子の間の四角関係により、神近の大杉に対する傷害沙汰があり、「葉山日蔭茶屋事件」として、各新聞雑誌に大きく報道さる。十一月 「天才論」を三陽堂より訂正出版、五版におよぶ。

一九一七(大正六)33歳
 比叡山の宿妨を無想庵が訪れる。四月 頃宮嶋資夫が訪れる。まもなく宮嶋は一軒の小寺を借りて 家族づれで移住す。六月頃 宮嶋が大津署の圧迫を受けてごたごたを生じたため、辻はその巻添えを食って下山、それより放浪生活はじまる。大阪の岩崎鼎方や東京市外の上落合の妹の家(津田光造宅)などを転々とする。妹の家でシュティルナアを訳了。またワイルドの「ドリアングレイ」、ホフマンの 「セラピョン兄弟」、ジョウジ・ムーアの「一青年の告白」などを訳了せしも出版にいたらず。佐藤惣之助の招きにより川崎の砂子に住まいをかまえる。

一九一八(大正七)34歳
 三月 下谷区北稲荷町6番地に移る。五月 ド・クインシイの『阿片溺愛者の告白』を、十一月スタンレイ・マコゥアの『響影』(狂楽人日記)をそれぞれ三陽堂書店より出版。『科学と文芸』」にシュティルナアの「唯一者とその所有」を四回にわたって訳載。早稲田大学の裏の片岡厚(神近市子の夫君)の下宿にしばらく居候。

一九一九(大正八)35歳
 春頃、本郷追分、栄林館に下宿。七月『改造』にジャック・ロンドンの「どん底の人々」訳載。九月ワイルドの『ド・プロフォンデイス』(獄中記)を越山堂より出版。十月 麹町九丁目の武林無想庵の家に居候。十一月 無想庵の紹介で比叡山に上り、宿院にてシュティルナアの『唯一者とその所有』の訳業を続ける。

一九二〇(大正九)36歳
 二月 比叡山を下山。五月 『唯一者とその所有』「人間篇」を日本評論社より刊行。六月 再び比叡山に上る。後に「永遠の女性、白蛇姫」と呼んだ野溝七生子と知り合う。野溝七生子は「ボーイフレンドの好みだっていってしまえば面食いで、ですから辻潤氏のようなタイプには尊敬こそすれ食指を動かさ」(「野溝七生子という人」矢川澄子)なかった。比叡山に上っていた友人宮嶋資夫と大津警察署の間のイザコザにより、比叡山を下山。十二月「天才論」を三星社より訂正出版、九版におよぶ。

一九二一(大正一〇)37歳
「ハインリッヒ・ハイネ」「ある日の文学問答」「バビロニヤの賢者ザデイク」「ポオドレェル論」を『英語文学』に訳載。四月 「自由芸妓の話」「ふあんたじあ」、五月 「浮浪漫語」、九月 「自分だけの世界」、十二月 「性格破産者の手帳より」などを東京日々新聞その他に書く。「英語文学」の英文和訳の選者になる。高橋新吉を知る。十一月 佐藤惣之助の紹介で川崎砂子一八七番地の家に、母と息子を引き連れて住む。(前は落合村にいた、さらにその前は友人知人の家に寄宿していた)十二月 『自我経』(シュティルナアの「唯一者とその所有」の完訳)を改造社より出版。

一九二二(大正一一)38歳
 一月 川崎の家に高橋新吉来訪、ダダを新吉より知り、ダダイストと名乗り始める。二月「自我経の読者へ」を『朝日新聞』に、九月「ダダの話」を、十一月「文学以外」をそれぞれ『改造』に書く。六月最初のエッセー集『浮浪漫語』を下出書店より出版。七月 広島の洋服屋の娘小島きよと知り合う。しかし、辻の気持は「白蛇姫」に残っており、辻は肉体関係以外には きよに興味を示してはいない。婚姻届はきよに一任し結局は法的には結婚するが(辻の渡欧中)、辻に自分の心情を理解されないことはきよには最後まで苦悩の源となる。小島きよは女高橋とも呼ばれ酒好きの女性であった。この年、九州地方を遊歴す。

一九二三(大正一二)39歳
 二月 高橋新吉の詩を編集『ダダイスト新吉の詩』として、中央美術社より出版。同月川崎の仮寓できよと同棲をはじめる。三月 「らぷそでいや・ぼへみあな」を『改造』に書く。野溝七生子の母親に会うこと、愛媛にいる病気中の高橋新吉を見舞う目的で、九州福岡を経て宮崎に旅行。途中で小島きよとともにきよの広島の実家に立ち寄る。九月一日 川崎で関東大震災に遭う。震災で住む家を失い、母と子供を蒲田の妹に預けて、身重のきよを実家の広島に送るための旅に出る。その後、芝浦から船で名古屋へいき、春山行夫、佐藤一英らの若い詩人たちの歓迎を受ける。そこから大阪へ赴き、その滞在中の九月十六日、大杉栄、野技と甥の宗一少年が甘粕憲兵大尉に虐殺されたことを新聞の号外で知る。辻はその後広島のきよの実家に立ち寄ったが、普段とは異なる様子できよの体を求めたという。二日あまりきよの実家に滞在の後、伊予八幡浜の辻のファン酒井家に滞在。甘粕大尉は後に満州国における重要人物となるが、翌年この事件の報復を企てたアナーキストの試みはことごとく失敗、多くの検挙者を出し、冬の時代を迎えることになる。十一月 きよ秋生(比島沖で戦死)をうむ。

一九二四(大正一三)40歳
 九州の別府に遊ぶ。四月頃帰京、蒲田の津田光造(妹恒の夫)の家に住む。五月 きよ、秋生と共に上京。七月 「惰眠洞妄語」を『読売新聞』に書く。これは宮沢賢治の『春と修羅』をはじめて批評したもので賢治評価のきっかけとなる。この頃東京市外蒲田の松竹撮影所裏の長屋に住まう。卜那哲次郎、荒川畔村、平林たい子、室伏高信、百瀬二郎、村松正俊、飯森正芳、鴇田英太郎らの出入りあり。戸締りせず来客の深夜の訪問を許し、カマタホテルと呼ばれた。階下には弟義郎を含め、母、一が住む。きよは本郷区富士前町の磯辺館に下宿する。同町の詩人岡本潤のおでん屋「ゴロニャ」の手伝いが名目であったが、きよはさかんに飲み歩く。アナーキスト達の絶望の影響もあってか、辻も同様であり、この頃、女と見れば手を出す。少年を犯すこともしている。七月 『ですぺら』(「ふもれすく」所収)を、十一月 ジョージ・ムーアの『一青年の告白』を新作社より出版。 十二月 岡山の吉行エイスケを訪れ、後、朝鮮京城の高漢陽という青年に招かれて京城に遊ぶ。ある夜誘われるまま共産党の秘密会合に出席したら拳銃の乱射騒ぎから警察隊の出動となり、一週間も穴倉にかくまわれる。高はアナーキスト一派だった。

一九二五(大正一四)41歳
 一月 ド・クインシイの『阿片溺愛者の告白』新版を春秋社より出版。一月中旬 朝鮮より帰る。大岡山時代がはじまる。一月「幻燈屋のふみちゃん」を『改造』に掲載。二月三日 きよは下宿代を払えず「ゴロニャ」に移る。四月 「ゴロニャ」解散後、きよは百瀬晋、牧野四子吉、五百里幸太郎の四人で池袋に家を借りて住む。辻は三月「ペッ! プセフ!」を『改造』に、四月 「PENペん草」を『聖潮』に、五月 「鏡花礼讃」を『新小説』に書く。六月七日 きよ、中野の吉行エイスケの家に移る。六月 『自我経』の改訂を改造社より出版、八版におよぶ。八月 卜部哲次郎、荒川畔村と『虚無思想研究』を創刊、同誌にシェストフの「無根拠礼讃」を、二号からは「こんとら・ちくとら」を連載、十二月まで六刷刊行される。 九月 激しい喘息に襲われたが、病院に行く金もなく、辻潤の窮乏を救うため、発起人新居格、材松正俊、大泉黒石、室伏高信、宮嶋資夫、加藤一夫、内藤辰雄、ト部哲次郎、市橋善之助、荒川畔村らによって辻潤後援会がうまれる。九月 「私の切実な問題」を『改造』に、十一月 新居格編集の『文芸批評』に「無題詩」を、十二月 「明日のユートピア」を『改造』に書く。十二月一八日 きよ、秋生を伴い広島に帰る。辻は静岡県志太温泉に静養す。

一九二六(大正一五/昭和元年)42歳
 二月 きよ、蒲田の家に戻る。この春、知人の紹介により東京府下荏原郡大岡山三九に移り住む。この一年半位の間に四度引越しをしている。家賃滞納のせいらしい。四月 吉行エイスケ編集発行の『虚無思想』創刊、それにベン・ヘクトの「にひりすと」を、二号にシェストフの「無根拠礼讃」続篇を訳載。『改造』にプレイズ・サンドラアルの「虚無の対蹠に於て」を訳載。『虚無思想』三号に「空々漠々」を書く。七月 「不協和音でarrangeされたMOZAIKU」を『文芸市場』に、八月 「インバリッド・ヴァニティ」を『反逆』に書く。十二月 『天才論』の新版を春秋社より出版。

一九二七(昭和二年)43歳
 二月 「火花の鎖」を『太平洋詩人』に書く。九月十一日 中原中也に訪問され、高橋新吉に会うよう勧める。十月「ダダの吐息」を畠山清行縞集の『塞い仲間』創刊号に、「宮崎滔天を憶ふ」を『自由評論』に、「催眠剤が必要だ」を『文芸公論』に書く。十二月 「レオ・シェストフの言葉」を『悪い仲間』三号に訳載。

一九二八(昭和三)44歳
 一月 「タンカ」を『悪い仲間』に、「えりと・えりたす」を『読売新聞』に、「己が道を楽しむのみ」を『文芸公論』に書く。この月読売新聞の第一回パリ文芸特置員として、長男一(まこと)をつれて渡仏す。パリ到着後、ほとんど外出せず部屋の中で過ごす。このパリでの生活は息子一と一緒に暮らした唯一の期間であった。二月 『悪い仲間』は「辻潤渡仏送別記念号」を出す。辻はパリ十四区モンスリイ公園街四番のホテル「デュ・ミディ」に投宿。その後トンブ・イソアール衝一三九番にあった小さなホテル「プュファロ」の五階二十九号室に投宿。二月 「東方の神話」を『新青年』に、「古風な涙」を『婦人公論』に書く。三月より『読売新聞』に「榛名丸の三等船室より」「巴里通信」などをつづけて寄稿。六月 「唯一者とその所有」について『思想春秋』に書く。同月 『世界大思想全集』第二十九巻(シュテイルナアの「唯一者とその所有」収録)を春秋社より出版。当時の円本ブームにのって版をかさねる。九月 「苦熱の窓」を『悪い仲間』に、十月 「パリで読んだ大菩薩峠の味」を春秋版『大菩薩峠』月報に書く。この年にきよは辻の家を出た。

一九二九(昭和四)45歳
 一月 長男一(まこと)と村松正俊と三人でシベリア鉄道経由帰国、東京市外大岡山に住まう。「西洋から帰って」を『読売新聞』に書く。二月 『どうすればいいか?』を『烏有叢書』第一篇として昭文堂文芸部より出版。六月 林芙美子の処女詩集『蒼馬を見たり』に序文を書く。六月 辻の帰国と共に蒲田の家に戻っていたきよは、富士前町の磯辺館に移る。七月 『阿片溺愛者の告白』を春秋社より春秋文庫第十七篇として出版。八月 「英雄は過ぎ行く」を『改造』に、「Benjaman De Casseres 或ひは″インキ壷のタイタン″」を『読売新聞』に書く。同月 『唯一者とその所有』を改造文庫の一冊として出版。きよは辻の家に出たり入ったりを繰り返すが、後に辻が松尾としと同棲することなって決定的に別れことになる。一方でこの頃から、画家(志望)の玉生(たまにゅう)謙太郎と交際し始めたらしい。大岡山より荏原中延に住まいを移す。十一月 「ソレルと祖国運動」を『祖国』に書く。『一青年の告白』を改造文庫の一冊として出版。この頃萩原朔太郎と交遊を深くす。十二月 「メカマをちどる」を「週刊朝日」に書く。同月訳文集『螺旋道』を新時代社より出版。

一九三〇(昭和五)46歳
 一月 「楕円の月」を『グロテスク』に書く。二月 「ふらぐまん・でざすとれ」を『改造』に書く。同月 萩原朔太郎と雑誌『ニヒル』創刊(〜三号)。『ニヒルに、カッサアスの「否定の連祷」、グールモンの詩を訳載、また「ひぐりでいや」「頭狂亢進曲」などを書く。同月辻潤短冊色紙頒布会ひらかる。五月 「ひとりの殉難者」を『歌と歌』創刊号に、「Mの出家とIの死」を三回にわたって『読売新聞』に書く。十月 「癡人の独語」を五回にわたって『読売新聞』に、「詩人としての.ゴルキー」を改造社刊『ゴルキー全集月報』七、八号に書く。同月 『天才論』を改造文庫の一冊として、十一月 『絶望の書』を万里閣書房より、十二月 『阿片溺愛者の告白』を改造文庫の一冊として出版。十二月 京都で佐賀生まれの京都女専学生、松尾としを知る。松尾とは以前から文通していた。松尾は一に「あなたに魂を抜かれた」と言わせた女性である。

一九三一(昭和六)47歳
 一月「迷羊言」を『読売新聞』に書く。四月 松尾とし上京やがて同棲。六月 『ニヒル』にデ・カッサアスの「頭脳と世界」「ニイチェ」を訳載、また同誌に「のつどる・ぬうどる」を書く。九月 「食客問答」を『犯罪科学』に、十一月 「癡人の手帖より」を佐藤春夫編集の『古東多万』に、十二月 「自己完成への道」を三回にわたって『読売新聞』に書く。同月 武者小路実篤編集の『星雲』にセナンクールの「オーベルマン」を訳載。この頃の一家の収入は図案会社に勤めていた一の給料位(月15円程)であった。(後に松尾としは三鷹で教師となる。)

一九三二(昭和七)48歳
 荏原中延より洗足に住まいを移す。二月 「もう・てんとあかん」を『である』に書く。キャベルの「クリイム・オブ・ゼジェスト」を『古東多分』に訳載。三月 「木ッ葉天狗酔家言」を『である』に書く。フロイド・デルの「智的漂泊」を訳載。同月精神に異状を呈し、天狗になって、羽根が生えた、といって屋根から飛びおりたり、街頭をどなり歩くようになり、青山脳病院の斎藤茂吉博士の診察を受け、幡ヶ谷の井村病院に入院す。この狂気は、山本夏彦『無想庵物語』では脳梅毒によるものとあるが、後に慈雲堂病院の精神科医三島寛(あきら、無想庵の弟)が判断したところでは、常習性酒癖による一過性精神病である。羊狂(狂気のまね)説、コカイン説もある。四月 「自分と音の世界」を『である』に、「あさくさふらぐまんたる」を三回にわたって『読売新聞』に書く。六月 佐藤春夫、安藤更生、北原白秋、新居格、田中貫太郎、谷崎潤一郎、宮嶋資夫、古谷栄一、室伏高信、武者小路実篤、西谷勢之介、中山忠道、宮川曼魚、井沢弘、加藤一夫、卜部哲次郎、津田光造らが世話人となって辻潤後援会ができ、銀座伊東屋六階で文壇・劇壇人らの名家揮毫小品即売展がひらかれ、その売上金を静養費として送ることになる。同月井村病院を退院、伊豆大島に渡り静養。辻潤曰く「自分の発狂の原因は貧困と過度の飲酒の習癖から来ている」のだと。七月 「天狗になった頃の話」を三回にわたって『読売新聞』に書く。八月十日 小島きよ自殺未遂。辻は伊勢、能登などを放浪す。また虚無僧となって尺八の門付をなす。

一九三三(昭和八)49歳
 一月 「変なあたま」を『近代』に、五月 「ダダ文学雑感」を『書物展望』に書く。六月 萩原朔太郎編集『生理』創刊号にペンジャミン・デ・カッサアスの「驚嘆」を訳載。七月 新居格編集『自由を我等に』に「だだをこねる」を書く。七月四日 名古屋市を放浪中警察に保護されて、東山脳病院に収容さる。まもなく警察の照会で東京から急行した長男の一に引き取らる。このとき「おやじは病院の庭で雀を頭の上や肩に遊ばせていた。この狂人はホンモノだ」とまことは感じたそうである。八月八日 板橋区の慈雲堂病院に入院。同月「のつどる・ぬうどる」を『生理』二号に、十月 「瘋癲病院の一隅より」を三拘にわたって『読売新聞』に書く。としは、自分の着物全てが勝手に質に入れられ、共産主義の友人が頼って来たりして辻の家にいられないと思い、一に勧められ慈雲堂病院に四、五日いて、迎えに来た父と共に九州に帰る。としは静養後、教師となる。一九三五年に再上京。十一月 『生理』三号にデ・カッサアスの「宇宙は蒸発する」を訳載。また、きよは、辻に玉生謙太郎と同棲することを告げる。

一九三四(昭和九)50歳
 一月 草野心平編の次郎社刊『宮沢賢治追悼』に『読売新聞』に書いた「惰眠洞妄語」を再録。四月 慈雲堂病院を退院。宮城県石巻の松厳専任職松山厳王に招かれて、静養をかねて滞在。五月 「生理」四号にヒュネカの「弁疏」を訳載。六月 石巻より気仙沼の菅野青顔をたよって今町観音寺に一過間滞在。同月 「まんごりあな」を『オール女性』に書く。七月 「自分はどの位い宗教的?」を『現代仏教』に、「まんごりあな」の続を『オール女性』に書く。同月 帰京、向井玄苗子方に寄寓。八月 藤枝、小田原あたりを流寓。九月 世田ケ谷の槙義衛方に寄寓。同月萩原朔太郎、谷崎潤一郎、佐藤春夫、新居格、武林無想庵らを発起人として「辻潤君全快祝い」の会が催さる。十月六日 母美津丹毒により死亡。十一月 「天狗だより――奇仙洞通信」を『「シャリバァリ」三号に書く。十一月六日 馬込の玉生夫妻の家に居候。辻潤と共に種々の人間が訪れ、貧しいながらも一つの桃源郷であったという。

一九三五(昭和一〇)51歳
 一月三日 九州佐賀の松尾の下へ旅立つ。一月十四日 小田原在中島に住まう。四月 大森区馬込東二の一〇七一番地の一の家(一名義で借りた、ただし、一はやがて別のところに移った)に佐賀出の松尾としと同棲。五月 玉生夫妻が長女と共に居候(〜八月)。六月 「オリ賃に窮する」を『読売新聞』に、七月西山勇太郎編集の『無風帯』に「なにを書いたらいいのか」を、同月「少年時代の読書」を『書物展望』に書く。八月 『癡人の独語』を斎藤昌三の書物展望社より出版、これは特製と普通版の二種がある。この頃大森、目黒、新宿あたりを尺八の門付けをなす。十月 大森の家は電気、ガス、水道を止められる。同月 「なにを書いたらいいのか? なにか書いてみよう」を『無風帯』に、十一月 「あやかしのことども」を改造社刊『文芸』に書く。同月、松尾と共にファンを頼って塩原甘湯温泉へ行く途中、錯乱状態となり王子の滝之川警察署に一週間監禁される。一が辻を松尾のいる甘湯温泉に連れて行く。ファンの手紙は偽りであり、辻は凍死寸前となる。心中されては困るので立ち退きを求められた旅館主から戻り銭を請求して帰京。友人の馬込東三丁目五八五の東(あずま)館に転がり込む。

一九三六(昭和一一)52歳
 一月 松尾人工中絶(二回目)。同月 「海笛のカケラ」を桑原国治発行の『渋谷衝』に書く。また『書物展望』の一月号から四月号までにヒュネカの『夢幻を吹く者』を訳載。二月十日 松尾九州へ帰る。松尾としとは死にいたるまで文通を続け、松尾は最後まで辻の理解者であった。同月 急性肺炎で倒れ、危篤状態となる。同月 芝書店刊の『生活』二号に「シェストフに就て」を、その四号に「生田長江氏のことなど」を、その五号に「牧野氏に関聯して」を書く。五月 『孑孑以前』(ぼうふらいぜん)を昭森社より出版。六月 大森A館を下宿料滞納で追い出される。東京を出て放浪の旅に出る。伊勢の津の今井俊三方に寄寓、それから比叡山にのぼり、法然堂滞在中の武林無想庵と同居。一月ばかりの後京都に出て、そこの中西猊太郎方に寄寓、年を越す。

一九三七(昭和一二)53歳
 二月から鳥取県の極楽寺に滞在。その後岡山、広島へいき、四月から大阪の布施延雄方に寄寓。五月 『無風帯』七号(終刊号)の辻潤特集号に「歳末所感――或いは我牲」「消息」「馬込雑筆」「妄人の秋」「浮生随縁行――或いは極楽寺だより」などが掲載さる。六月 京蔀の西陣署に保護され、市外の岩倉病院に収容さる。八月 帰京西山勇太郎方に寄寓。九 月長男一方に同居。宮城県気仙沼から発行の『大気新聞』に「なめくぢだより」書く。

一九三八(昭和一三)54歳
 徹底的放浪生活を全国に行なう。この年は「まだ生きてゐる」を西山勇太郎編集の『詩歌文学』に書いただけ。

一九三九(昭和一四)55歳
この年も放浪の旅がつづく。二月頃 静岡地方を流浪。また庵原郡東光寺に卜部鉄心(哲次郎)を訪ねる。九月 草野心平編の十字屋書店刊『宮沢賢治研究』に「惰眠洞妄語」再度再録。京都、大阪、鳥取地方を流浪。

一九四〇(昭和一五)56歳
 京都にて、この年を迎つ。二月 「天狗の麦飯」を大阪で発行の『食道楽』に、四月  「あほだらり」と「闇汁」を『すべてながる』第一冊に、同月 「癡人の手帖――その一」を『茉莉花』(大阪の十二段家書房発行、津の今井俊三編集)に書く。同誌にデ・カッサアスの「体面」を訳載。五月 『茉莉花』にデ・カッサアスの「あかたれぷしい」を訳載。六月 同誌に「癡人の手帖――その二」を、「未完成烏有叢書の序」「イヨンの詩より」「即興」を『すべてはながる』第二冊に書く。八月 同誌第三冊に「阿呆旋律――その一」を書く。九月 帰京。同月「癡人の手帖――その三」を「茉莉花」に、十月 「阿呆旋律――その二」を『すべてはながる』第四冊に書く。

一九四一(昭和一六)57歳
 一月 「茉莉花」新年号(三十三輯より三十八輯まで)よりバピニの「神の手記」を訳載。四月 『三千年』(『すべてはながる』改題)第七冊に「訳詩集」、十月 同誌第十冊に「廃刊の文章」を書く。十一月 小田原在の山田直孝方に寄寓。十二月 気仙沼のファン菅野青顔を訪問。英米への参戦を聞き、日本の敗戦を予言する。戦争反対を公言するが、取るに足りない人物として警察の追求を免れる。

一九四二(昭和一七)58歳
 昨年の十二月より気仙沼の菅野青顔方、同地の広野重雄方に寄寓。四月 帰京、西山勇太郎方に寄寓。十月奈良県柳生村の芳徳寺に寄寓。十一月 「癡人の独語」を『書物展望』に書く。芳徳寺で、『唯一者とその所有』以来に翻訳意欲をそそられたというA・キャノブィッチ『美への意志』を完訳したが未刊(原稿は戦災で焼失)。

一九四三(昭和一八)59歳
 七月 横浜市の津田光造方に、八月 東京淀橋の西山勇太郎方に寄寓。『書物展望』の八月号および九月号に「水鳥流吉覚え書」を書く。十月 小田原在の山内画乱洞方に、十一月 再び西山勇太郎方に寄寓。

一九四四(昭和一九)60歳
 淀橋区上落合の静怡(せいたい)寮(小田原在の知人桑原国治経営のアパート)に居候。十一月二十四日 その一室で虱にまみれて死んでいるのが発見される。医師は狭心症として処理したが餓死とも言われる。弟義郎、流二、その他友人二、三人により、染井(現豊島区駒込六の十一)の西福寺に葬られる。

一九四七(昭和ニニ)
 六月 荒川畔村編集の星光書院刊『第二次虚無思想研究』その一輯に、辻の「にひる・にる・あどみらり」が収録さる。十一月二十七日から三日間、宮城県気仙沼図書館にて、気仙沼自由芸術協会主催の「辻潤駄々羅先生遺墨展覧会」がひらかる。

一九四九(昭和ニ四)
 三月 『第二次虚無思想研究』その二輯に辻の「無根拠礼讃」が「無根拠経」として収録さる。ほかに追憶記が載る。五月八日 東京神田駿河台の文化学院講堂にて、自由クラブ、ですぺらの会共催の「辻潤追悼、虚無思想講演会」が催さる。十一月二十四日 東京染井の西福寺境内に辻潤墓碑が友人読者の手で建立さる。

一九五〇(昭和ニ五)
 八月二十四日 気仙沼観音寺境内に気仙沼自由芸術協会により、辻潤の「陀仙碑」が建立さる。「海岸山かんのん寺の朝ぼらけ空々くろろんと啼くは誰が子ぞ――陀仙」が刻まれる。

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以上の年譜は、QPが、et.vi.of nothing氏作成の年譜http://www2.justnet.ne.jp/~etvi/TsujiJun/RelatedTexts/TsujiJunChronology.txtをベースに、三島寛氏の『辻潤』(金剛出版)を参考にしながら、製作しました。1999-6-10