明智家臣団


明智家の家臣を紹介。詳細が不明な人物、真偽不詳の人物も名前を載せました。何かご存知の事が有れば是非ともご連絡を。
 

現在掲載家臣数・・・光秀と家臣・103名+α

一族・譜代衆
旧幕臣衆
北山城・西近江衆
丹波衆
その他・不明
本能寺の変後



明智光秀(?〜1582?)
惟任、十兵衛、日向守。いわずとしれた明智家当主。美濃明智城主。しかし他にも土岐元頼と中洞の娘の間の子『美濃誌』、若狭小浜の刀鍛冶冬広の息子『若狭守護代年数』、丹波北桑田郡明石生まれの細川家の家人『校合雑記』等々の諸説があり定かではない。ただ『立入左京亮入道骰カ記』には「美濃国ときの随分衆也。明智十兵衛尉、その後、上様より仰せ出せられ、惟任日向守となる」とあり、また『濃陽諸士伝』(寛永十五年)には「明智十兵衛殿は土岐の支族にて、可児明智の庄に住居あるによって在名なり。」とあるので、土岐の支族であった事は間違い無いようである。通説では明智城主だった時に斎藤家の内紛で道三・義竜が争った際に明智家は道三側についたため義竜勢に攻められ落城。一族をつれ越前に避難。諸国を回国した後朝倉家に仕える。が譜代家臣との折り合い悪く思っていたところに将軍候補足利義秋(義昭)公が越前下向してきたためその後は朝倉家を辞し将軍家申次として織田家と交渉、織田家臣ともなり将軍家との両属で両者の取り次ぎ役となる。将軍上洛後日乗・秀吉らと共に京都奉行として働く。第一次信長包囲網時、将軍家を動かし勅命での浅井・朝倉との和議を斡旋する。その功により元亀二年近江滋賀郡を領し、織田家臣としては初の城持大名として坂本城主となる。天正三年には惟任の姓と日向守の官位を授かり、また同年丹波攻略を開始、一時は丹波の大半を征するも波多野家の裏切りにより敗北、丹波平定は一度頓挫しその完了は天正七年となる。その間も本願寺包囲戦、越前一揆殲滅戦、雑賀攻め、信貴山城攻囲戦、上月城救援、鳥取城包囲戦等にも参戦。また天正六年の荒木村重の離反時には説得に赴く。天正八年佐久間への折檻状では信長に「天下の面目をほどこし候」と家臣第一として激賞される。天正十年、武田攻めに従軍、その後徳川家康饗応役を務め中国出陣のため坂本帰城、亀山城に戻り愛宕山に参詣し有名な「愛宕百韻」を読む。そして本能寺の変を引き起こす。その真相は今もって不明。織田父子殺害後畿内の制圧に向かうも頼みとする細川・筒井家が味方せず、予想外の羽柴軍上方反転を急ぎ山崎にて迎え撃つも敗北。勝竜寺城脱出後坂本に向かう途中山科小栗栖にて土民の手により落命。一説にその後も生き延び天海になったという説もある。


一門・譜代衆


明智秀満(?〜1582?)
 左馬助、三宅弥平次。丹波福知山城主。一説に光秀の甥もしくは従兄弟の光春ともいうが、実際は三宅藤兵衛(綱朝)の息か。天正六年荒木村次に嫁いでいた光秀の娘が離縁されるとこれと再婚、明智秀満と名乗る。光秀の右腕として活躍。本能寺の変に際しては本能寺に信長を攻める。その後安土を守備するが山崎の合戦の敗北を知り光秀を援護に向かうが進軍してきた堀秀政軍と交戦し敗北、ただ一騎琵琶湖を馬で渡り「左馬助の湖水渡り」として膾炙する。また坂本城入城後は包囲軍に城内の名物を目録と共に引き渡しあっぱれな武者として名を残す。その後一族と共に自刃したと伝わるがその子はその後も生き延び後細川家、寺沢家に仕えたという記録もありまた妻も再婚したという文献も残り事実は不明。一説に天海僧正は光秀ではなく秀満という説もある。五宿老の一。

明智光忠(?〜1582)
 治右衛門。丹波八上城主、若しくは周山城主という。光秀の叔父光久の子というが詳細は定かではない。一説には美濃明智城近在の農民の子だったとも。天正三年の丹波過部城攻めでは信長から感状を下され次右衛門を治右衛門に改める。本能寺の変に際し二条御所に信忠を攻めるが銃弾を浴び負傷、知恩院で療養中山崎の敗戦を聞き自刃という。五宿老の一。

明智光近(?〜1582)
  十郎左衛門。光秀の従兄弟とも光忠の子とも言う。山崎の合戦に参戦して戦死。片桐且元に討たれたという。

明智孫十郎(?〜1582)
  本姓恩田で光秀の義弟という。美濃衆。本能寺の変で本能寺攻めの先鋒を務める。がその後二条城攻撃の際に討死。

明智掃部(?〜?)
  山崎の合戦以後も生き残り茶会出席記録が残る。一説に並河掃部の事とも。

明智巳蔵(?〜1582)
  山崎の合戦に参戦して戦死。

明智九太夫(?〜?)
 

池田輝家(?〜1582)
 織部正。譜代衆。美濃時代からの家臣。弘治二年の明智攻めの際明智城に篭城。本能寺の変時は伏見の警護を務める。山崎の合戦後、城を守って討死。

石森九郎左衛門(?〜?)
  織田家臣従後、信長より美濃可児郡の旧長山領を与えられた光秀に代官として長山城址に置かれる。

奥田景綱(?〜1582?)
 宮内少輔。譜代衆。美濃時代の家臣。弘治二年の明智攻めの際明智城に篭城。山崎の合戦に参戦して死亡した奥田景弘と同一人物か、もしくは近親と思われる。

奥田庄大夫(?〜?)
 本能寺の変時は宇治の警護を務める。

可児才右衛門(?〜?)
 譜代衆。美濃時代の家臣。弘治二年の明智攻めの際明智城に篭城。

可児才蔵(?〜1613)
  槍の才蔵。後福島正則に仕え関ケ原戦(一説には小牧・長久手の戦い)では討ち取った首に笹を噛ませ目印にしたことから「笹の才蔵」と呼ばれる。宝蔵院流槍術の使い手。

斎藤利三(?〜1582)
 内蔵助。美濃斎藤一族の一人。道三の「新斎藤」ではなく美濃守護代の「古斎藤」の血を引く。元は稲葉一徹に仕えるが後致仕、伯父(か?)の光秀に仕える。妹は土佐の長宗我部元親の室。光秀から一万石を与えられる。黒井城主若しくは亀山城代か。本能寺の変に際しては秀満と共に本能寺を攻める。後近江平定戦に従軍、山崎では中央先陣を務める。戦後潜伏するが近江堅田で捕縛、斬された。画家の海北友松とも親交があった。春日局の父。五宿老の一。

斎藤三存(?〜?)
 与三兵衛。明智三存。斎藤利三の息子。

斎藤利光(?〜?)
 明智平三郎。斎藤利三の息子。本能寺の変では父利三とともに本能寺の攻撃を行う。山崎の合戦では織田信孝の家臣野々懸彦之進を組打つ。が乱戦の最中父とはぐれ敗戦後は菩提寺で出家する。慶安3年没

進士貞連(?〜?)
  作左衛門。譜代衆。山崎の合戦後は光秀と共に勝竜寺城を出る。先行して落ち武者狩を警戒していたが後方で光秀が落命したと知り殉死とも記されるが、実際は最後まで光秀に従った七騎のうちの一人ではあったが後細川家に仕え忠隆付きになる。関ヶ原後の忠隆廃嫡時にも忠隆に従い加賀まで行くが、後前田家預かりの身となる。元和から寛文にかけて金沢藩の侍帳に載る同名の人物は当人もしくは嫡系と思われる。

瀬田左京(?〜?)
 譜代衆。美濃時代の家臣。関白近衛稙家の庶子が寺に預けられた際、その庶子の願いにより斎藤道三との縁を取り持ち、その庶子を道三の養子とする。後の斎藤大納言正義の事である。弘治二年の明智攻めの際明智城に篭城。

多治見国清(?〜1582)
 修理。譜代衆。美濃時代からの家臣。山崎の合戦で討死。

妻木広忠(?〜1582)
  藤左衛門。範熈の兄という。一説には範熈と同一人物とも。美濃妻木城主。坂本城落城後、死者の墓を作りその墓前で自刃。

妻木範熈(?〜?)
  勘解由左衛門。譜代衆。光秀の妻熙子の父。

妻木範賢(?〜?)
  主計頭。譜代衆。妻木範熈の子、熙子の弟。本能寺の変後は秀満の近江遠征に従う。

妻木範武(?〜?)
  忠左衛門。譜代衆。妻木範熈の次子。山崎の合戦に参加して死亡。

妻木範之(?〜?)
  七右衛門。譜代衆。妻木範熈の三子。本能寺の変に際しては亀山留守居を務める。

肥田家澄(?〜?)
 玄蕃。譜代衆。美濃時代の家臣。米田城主。弘治二年の明智攻めの際明智城に篭城。本能寺の変以後は東濃をめぐり兼山の森長可と対立する。

比田則家(?〜?)
  帯刀。譜代衆。肥田家の係累と思われる。山崎の合戦後は光秀と共に勝竜寺城を出る。先行して落ち武者狩を警戒していたが後方で光秀が落命したと知り殉死とも記されるが、実は後細川家に仕え興秋付きになる。

藤田藤次郎(?〜?)
 譜代衆。美濃時代の家臣。弘治二年の明智攻めの際明智城に篭城。

藤田行政(?〜1582)
 伝五郎。譜代衆。浅井・朝倉攻めから従軍が見える。山城静原城攻め後、同城を預かる。山崎の合戦に際し筒井順慶の説得に向かうも不首尾に終わる。密かに順慶刺殺を目論んでいたといい、一説には郡山城で殺害されたとも。山崎では本陣右備を務め六ヶ所の傷を負い淀まで退却するも翌日自刃。五宿老の一。

藤田行久(?〜1582)
 藤三。譜代衆。行政の弟。山崎の合戦には兄と共に参戦する、が死亡。。

藤田秀行(?〜1582)
 伝兵衛。譜代衆。行政の子。山崎の合戦には父と共に参戦する、が死亡。。

溝尾庄左衛門(?〜?)
 譜代衆。美濃時代の家臣。弘治二年の明智攻めの際明智城に篭城。

溝尾茂朝(?〜1582)
  庄兵衛、明智勝兵衛。三沢少兵衛尉秀次と同一人物か。譜代衆。光秀流浪時からの家臣。天正十年の家康上洛時には光秀と共に家康饗応を務める。山崎では一番の中備を務める。合戦後は光秀と共に勝竜寺城を出る。光秀の介錯をしその後坂本で自刃という。五宿老の一。

三宅藤兵衛(?〜?)
 綱朝か。譜代衆。本能寺の変時は勝竜寺城の留守居を務める。「明智軍記」においては光秀が朝倉家臣の時代から従っている譜代の臣とある。三宅弥平次の父とすれば通称出雲を称していたと思われる。
また三宅藤兵衛(重利)は三宅弥平次秀満の子と言うが、重利は天正九年生まれという記録もあるため、この明智家臣の三宅藤兵衛とは別人であろうが、近親(祖父)かもしれない。その重利は山崎の合戦後、細川家に保護される。慶長五年、細川家を辞去し寺沢家に仕える。寛永十四年、天草の乱が起きると富岡城代として一揆軍と戦い戦死した。

三宅業朝(?〜?)
 周防守。本能寺の変後は秀満の近江遠征に従う。

三宅秀朝(?〜?)
 式部大輔。譜代衆。美濃時代からの家臣。弘治二年の明智攻めの際明智城に篭城。本能寺の変時は京都の仮所司を務める。

森勘解由(?〜?)
 譜代衆。美濃時代の家臣。弘治二年の明智攻めの際明智城に篭城。


旧幕臣衆


伊勢貞興(?〜1582)
  与三郎。旧幕臣衆。元は室町幕府の政所執事。山崎では中軍右翼を務め、戦死。伊勢流故実の達者。

一色藤長(?〜?)
  旧幕臣衆。信長の義昭追放後明智麾下につく。

一色昭秀(?〜?)
  旧幕臣衆。信長の義昭追放後明智麾下につく。

今峰泰正(?〜?)
  新介。美濃出身の旧幕臣衆。本能寺の変後は秀満の近江遠征に従う。(:情報提供ダンダン様)

上野秀政(?〜?)
  旧幕臣衆。信長の義昭追放後明智麾下につく。

諏訪盛直(?〜?)
  飛騨守。旧幕臣衆。山崎では中軍右翼を務める。

蜷川貞栄(?〜1582?)
  旧幕臣衆。丹波蜷川城主。伊勢家と縁戚故代々政所公役の家系にあった。山崎で戦死か。(:情報提供明智が元小姓「光輝」様)

蜷川貞房(?〜1582?)
  旧幕臣衆。貞栄の子。山崎で戦死か。(:情報提供明智が元小姓「光輝」様)

御牧景重(?〜1582)
  三左衛門。旧幕臣衆。天正五年の松永久秀の叛乱時には片岡城を攻撃し城主森勘右衛門を討ち取る。山崎では中軍右翼を務める。明智軍総崩れ後、光秀に勝竜寺城への退却を進言し自らは敵に向かい戦死。

御牧景則(?〜?)
  勘兵衛。旧幕臣衆。景重の弟。山崎では中軍右翼を務める。

三淵藤英(?〜1573)
  旧幕臣衆。細川藤孝の異母兄。信長の義昭追放後明智麾下につく。が、義昭が信長に叛旗を翻した責任を取り坂本城で自刃。家臣とは言えないかもしれない・・・。


北山城・西近江衆


佐竹宗実(?〜?)
  出羽守、蓮養坊。山城衆。天正七年丹波八上城攻めで負傷。姉もしくは妹は吉田兼和室。

佐竹左近允(?〜?)
  山城衆。佐竹宗実の弟。兄と同じく天正七年丹波八上城攻めで負傷。

佐竹称吉(?〜?)
  山城衆。佐竹宗実の弟。天正十年正月吉田兼見が坂本城に来ての新年挨拶時の取り次ぎを務める。

山本秀勝(?〜1582)
  対馬守。北山城衆。『信長公記』にいう山本対馬入道は山本佐渡守実尚。実尚の父も対馬守といった。足利将軍に仕えのち山城国愛宕郡静原で浪人していた所を明智家に召し出されて山本山入と改名。天正元年に信長の命で明智家家臣なる。丹波平定戦でも功があった。山崎合戦の際に討死。その子山本源太夫勝則も後に対馬と改し、宗斎と号する。その後松井康之に召し出され細川家に仕える。(松井家文書『御給人先祖附』より:情報提供ぴえーる様)また大坂の陣の際に大坂方についた杉生左兵衛は元の名を山本仙入といい元明智家臣という、とあるのでこれも同一人物のことかもしれない。

明智秀貞(?〜?)
  本姓猪飼野、半左衛門。西近江衆。

磯谷新右衛門尉(?〜?)
  西近江衆。

磯谷彦四郎(?〜?)
  西近江衆。磯谷新右衛門尉の子。

磯谷新介(?〜?)
  西近江衆。磯谷新右衛門尉の同族。吉田兼見の小姓蓄電の際捜索を行う。

磯谷新右衛門尉(?〜?)
  西近江衆。磯谷新右衛門尉の同族。


丹波衆


荒木行重(?〜?)
  山城守、氏綱またはその子氏清と同一人物か。丹波衆。丹波園部城主。荒木村重とは直接は無縁であるが、村重の父が丹波波多野家臣だったという説もあり縁戚である可能性はある。本能寺の変後は秀満の近江遠征に従う。丹波荒木氏については不明な点も多く荒木山城守は園部城主の氏綱、氏清とは別人(細工所城=井串城主が荒木山城守。行重(氏香)もしくはその子氏清(高子)の事を指す。)と言う説もあり・・・。その荒木山城守だが、光秀亡き後は細川家に随身し興元付きになり播磨にて死亡とのこと(松井家文書『御給人先祖附』より:情報提供ぴえーる様)また荒木山城は丹波の侍で荒木民部太夫とも言ったらしい。その孫荒木左助は幽斎末子孝之の若党だったが、関ケ原の際の功により直参となり祖父と同じ山城を名乗る事を許されたとある。

荒木重仲(?〜?)
  友之丞。丹波衆。本能寺の変後は秀満の近江遠征に従う。

宇野豊後守(?〜1582?)
 豊後守。光秀に叛意があるのを見抜き、出陣前の亀山城にて諫言するが、情報漏洩を警戒して疑心暗鬼になった光秀の命により比田帯刀に切られるという。しかし実際は光秀の丹波制圧に多大な貢献を行ったという。また、「変」以後も光秀に従ったという記録も残るようで前述の逸話も真偽のほどは定かではない。

梅若広長(?〜1582)
  丹波衆。梅若太郎の息子。山崎の合戦に参戦し死亡。

尾石予三(?〜?)
  丹波衆。

荻野重基(?〜?)
  彦兵衛。丹波衆。

小畠国明(?〜1579?)
  越前守。丹波衆。天正六年亀山城の普請を担当する。天正七年頃丹波氷上の戦いで落命。

明智伊勢千代丸(?〜?)
  丹波衆。小畠国明の子。父の忠節により明智姓を下賜される。

小畠左馬助(?〜?)
  丹波衆。小畠一族の総領か。

小畠助太夫(?〜?)
  丹波衆。小畠左馬助の後見を務めたらしい。

加治石見守(?〜?)
  丹波衆。

河北一成(?〜1600)
 五郎左衛門、丹波衆。氷上郡河北に拠る。のち細川家に仕え、関ヶ原の際に大坂細川屋敷にてガラシアに殉死する。

酒井孫左衛門(?〜?)
 丹波衆。

四王天政孝(?〜?)
  但馬守。丹波衆。もとは政安。細川藤孝より一字頂戴して政孝とする。一時福知山城代。口丹波衆の筆頭。本能寺の変時には二条御所包囲戦で負傷した光忠に代わり指揮を執る。

四王天政実(?〜?)
  又兵衛。丹波衆。政孝の子。政孝の弟という説もある。本能寺の変後は秀満の近江遠征に従う。山崎の戦い後各地を潜伏していたが、旧友・青木秀以に三百石で出仕。青木家断絶後、再び浪人していたが、慶長六年、結城秀康に三百石で召し出された。青木・結城(松平)時代とも越前で柴田勝家で著名な舟橋の奉行を勤めたという。現在も福井市舟橋町に「四王天但馬守事績碑」が残る。

田中盛重(?〜?)
  山城守。丹波衆。船井郡大村城主。(:情報提供ぴえーる様)

田中五内(?〜1612)
  理右衛門、のち志摩守。松井盛永。丹波衆。田中山城守盛重の子。明智家滅亡後、丹後久美浜で細川家臣・松井康之に召し抱えられた。関ヶ原合戦では豊後木付に籠城。石垣原合戦では留守を守る。康之が危篤になると殉死を申し出て、聞き届けられ松井の苗字を賜り、志摩守と名乗りを改めた。誓い通り康之に殉じた。(:情報提供ぴえーる様)

中沢知綱(?〜?)
  豊後守。丹波衆。

並河易家(?〜1582)
  掃部。丹波衆。天正四年の黒井城攻めの際、赤井・波多野の「呼び込み戦法」で明智軍が潰走した際に光秀を先導して無事京に帰還させたという。また八上城落城後は同城城代になるという。山崎では山手右翼先陣を務める。合戦中戦死。一説に山崎後にも記録に残る明智掃部と同一人物という説もある。

並河八助(?〜?)
  易家の子。丹波衆。山崎の合戦に父と共に参戦する。

並河金右衛門(?〜?)
  志摩守。易家の一族。丹波衆。本能寺の変では信長の首級と着衣を獲るが秀満に諭されその功を譲ると言う。のち肥後加藤家に仕えるという。

並河飛騨守(?〜?)
  易家の一族か。丹波衆。波多野攻略後八上城代となる。その折り沢田城主・渡部大膳綱定が叛乱を起こしたのを鎮圧したという。一説に並河飛騨守が八上城代となったのは山崎合戦後の羽柴秀勝治世ともいう。また波多野攻略後八上城代になったのは並河掃部という説もある故、飛騨守=掃部かもしれない。とすれば並河飛騨守=並河掃部=明智掃部という推測も成り立つ。そうすれば「通説」のように山崎合戦で死亡した、ということは無いということになるが。

藤木権兵衛(?〜?)
  丹波衆。秀満が赴くまでの福知山城代だったという。

藤田藤八(?〜?)
  丹波衆。

波々伯部員次(?〜1582)
  権頭。丹波衆。山崎の合戦に参戦して死亡。

本城惣右衛門。(?〜?)
  丹波衆。元荒木氏綱の麾下。丹波平定後、明智麾下につく。明智側としては唯一の史料『寛永十七年本城惣右衛門自筆覚書』を残す。

松田政近(?〜?)
  太郎左衛門。丹波衆。山崎では山手右翼先陣を務める。先陣に抜擢されたのは地元山崎の豪族であったっため土地勘を買われたため、ともいう。そう言う観点からすると丹波衆というよりは山城衆か。


その他・不明


阿木弥市(?〜?)
 光秀の知人(藤孝か?)の一揆鎮圧に援軍大将として赴くと言う。

麻生吉左衛門(?〜?)
 阿波三好氏の旧臣。「変」においては寺内から敵が三回突き出てきたのを三回とも鑓を合わせたという。のち細川家に仕え関が原時には田辺城に篭城する。

隠岐惟恒(?〜1582?)
 五郎兵衛。光秀の嫡子光慶の後見役となる。「明智軍記」においては亀山留守居役。山崎の合戦と同日に病死した光慶に殉死したとある。

金津正直(?〜1600)
 越前朝倉氏の旧臣。のち細川家に仕え、関ヶ原の際に大坂細川屋敷にてガラシアに殉死する。

木村吉清(?〜1598)
 清久。弥一右衛門。伊勢守。山崎の合戦の時は、丹波亀山城の城代を務めていた。合戦後、堀尾吉晴に城を明渡した。蒲生氏郷の推挙で秀吉に仕えたという。のち葛西・大崎30万石の登米城主。

熊谷宅右衛門(?〜?)
 頓智の奇才。光秀の知人(藤孝か?)の一揆鎮圧に参加。「荒武者宅右」の別名がある。またその子宮内は水戸光圀に仕えるという。能の達者だったという「この親にしてこの子あり」

柴田勝定(?〜1582)
  源左衛門。勝全。元柴田勝家の家臣。丹波柏原城主。一説に秀満の妹婿。別説では斎藤利三の姉妹婿とも。越前北庄城代も務めた。本能寺の変では二条城攻めに加わり山崎では中央先陣を務める。明智軍総崩れ後、光秀を逃がすために殿軍を務め奮戦、戦死というが、柴田勝全は後堀家に仕え渡部城主となりのち堀家を退転、福島家に仕えた。

津田重久(1549〜1634)
 与三郎。遠江守。管領細川氏、三好氏、三淵氏、将軍家に仕えた後明智家に臣従して山崎の合戦に参加するという。後羽柴秀吉、秀次家臣を経て前田家臣。関ケ原の合戦の際、大聖寺城攻めに功があり戦後同城城主になる。

津田平蔵(?〜?)
 与三郎。重久の子。山崎の合戦に参加するという。山崎の合戦に参加した津田与三郎といえば津田信澄の家臣津田信春が居るが、同一人物かもしれない(平蔵、もしくは父重久が)。また『兼見卿記』や加賀前田家の『加賀藩史稿』には津田与三郎は元来明智家臣だったとある。山崎戦後は父に従う。

津田正時(?〜?)
 主水頭。河内津田城主。三好三人衆、松永久秀に属し信長の河内攻めの際に落城する。のち本丸山城主に返り咲く。山崎の合戦に参加して戦後は浪人となる。

東行澄(?〜?)
 六郎兵衛。愛宕百韻に参加して句を読む。「古今伝授」で著名な歌人武将でもある東常縁の係累。

沼田光友(?〜?)
 本能寺の変の際、細川家への使者を務める。細川藤孝の妻、麝香の弟。

番頭大炊介(?〜?)
 名は義元か。とすれば元三好家臣。天正元年には将軍方として信長に対抗して淀城に石成友通と共に篭る。がのち寝返る。本能寺の変時は淀城の留守居を務めるところをみてもやはり同一人物の可能性が高い。

古川九兵衛(?〜?)
  本能寺に先陣を切って突入した明智三羽烏の一人。

堀辺兵太(?〜?)
 光秀が十万石坂本城主だったころ千石を以って召し抱えられると言う。天正四年、黒井城攻めの際に「呼び込み戦法」で明智軍が潰走した際、光秀を助けるために踏みとどまり戦死という。

箕浦大内蔵(?〜?)
 新左衛門。本能寺に先陣を切って突入した明智三羽烏の一人。のち羽柴秀長家臣を経て紀州浅野家に仕える。関ケ原時には岐阜城攻略にも参加。

村上清国(?〜1582)
 和泉守。丹波平定戦でも活躍。山崎の合戦に参加して死亡する。

村越景則(?〜?)
 三十郎。丹波平定戦でも活躍。山崎の合戦に参加する。のちの幕臣村越顕光と同一人物、もしくは近親か。

安田国継(?〜?)
  作兵衛。天野源右衛門。本能寺の変事には先遣隊として桂川を渡り、軍勢をみて逃げる農民を信長に通報するとして殺害。本能寺に先陣を切って突入した明智三羽烏の一人。森乱丸の首級をあげたとも。のち羽柴秀勝、同秀長、蒲生氏郷に歴任、九州平定の際には立花宗茂に属して功あり。その後肥前寺沢家に八千石で仕える。

山崎長徳(1552〜1620)
 長鏡、小七郎、庄兵衛、長門守、閑斎。元越前朝倉家臣。始め朝倉家に仕え、主家滅亡後明智家に仕える。本能寺の変においては二条城攻撃に参加し、山崎合戦にも参加する。明智家滅亡後は越前に戻り柴田旗下佐久間安次の一手となり賎ヶ岳合戦に参戦。その後前田家に仕える。関ヶ原合戦では西軍についた大聖寺城の山口正弘父子を攻撃、戦後加増されて一万四千石を食む。大坂の両陣にも参戦した。




本能寺の変後


水野守隆(?〜?)
 尾張常滑城主。

京極高次(?〜?)
 近江。

山崎秀家(?〜?)
 近江。

後藤高治(?〜?)
 近江。

池田景雄(?〜?)
 近江。

久徳左近(?〜?)
 近江兵衛尉。

小川祐忠(?〜?)
 近江。

猪飼野昇貞(?〜?)
 近江堅田衆。

武田元明(?〜?)
 若狭。

武藤友益(?〜?)
 若狭。

内藤重政(?〜?)
 若狭。

白井民部少輔(?〜?)
 若狭。

寺井源左衛門(?〜?)
 若狭。

香川右衛門大夫(?〜?)
 若狭。

山県秀政(?〜?)
 若狭。

井戸良弘(?〜?)
 山城槇島城主。

狛綱吉(?〜?)
 山城。

阿閉貞征(?〜1582)
 近江。万五郎、淡路守、貞秀。本能寺変後明智軍の近江進出に従う。山崎の合戦に参戦。後秀吉軍に山本山城を攻められて殺害される。

阿閉貞大(?〜1582)
 近江。孫五郎、貞義。貞征の子。本能寺変後明智軍の近江進出に従う。山崎の合戦に参戦。後秀吉軍に山本山城を攻められて殺害される。




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