丹波守を探せ!


戦国世界に散らばる「丹波」「丹波守」を探して掲載します。何かご存知の事が有れば是非ともご連絡を。
 


青木丹波守(?〜?)
  会津上杉家の家臣、直江兼継の家臣。いわゆる陪臣。米沢転封の際帰農を願い出て許される。

磯野丹波守(?〜?)
  員昌。近江国浅井家の家臣。近江佐和山城主。姉川の合戦では織田軍にその武力を見せつけた。後織田信長に下り近江高島郡に転封。津田七兵衛(信澄)を養嗣子とする。が、天正六年二月三日に出奔。以後の動静は不明。高野山に登ったともいう。

今福丹波守(?〜1582)
  今福浄閑斎の長男。父が築城した駿河久能城代を務める。天正十年織田の武田攻めの際に自害。

祝丹波守(?〜?)
  岩井とも。豊臣家の家臣。秀次事件に伊達政宗が連座したという風聞が立った際に調査に当たる。

岡部丹波守(?〜1581)
  元信。駿河国今川家、後甲斐国武田家の家臣。尾張鳴海城主。桶狭間の合戦後義元の首級を引き取り開城、帰国した。武田家臣従後は遠江高天神城主。徳川家の高天神城攻めの際に討死にする。

織田丹波守(?〜?)
  久孝(常寛)。尾張国織田家の家臣。尾張小田井城主。清須の織田大和守の三奉行の一人。勝幡の織田氏(信秀)と同格だった。

海保丹波守(?〜?)
  下総千葉家の家臣。

門田丹波守(?〜?)
  奥州葛西家の家臣。大崎・葛西一揆時には家老職だった。

河原丹波守(?〜?)
  内助。信濃真田家の家臣。河原隆正の子。河原隆正は真田家の譜代家臣で、昌幸にとっては母方の実兄。

桐山丹波守(?〜?)
  黒田家の家臣。江戸から長崎へ通じる長崎街道うちの冷水峠、山家宿を慶長十七年黒田長政の命をうけて開いたと伝えられている。

車丹波守(?〜1602)
  斯忠。常陸国佐竹家の家臣。佐竹義重の側近として重要な地位を占める。関ヶ原後佐竹氏が秋田に転封となったあとも常陸に留まり水戸城の奪還を試みるが、事前に露見し、捕縛、処刑された。

坂丹波守(?〜?)
  豊臣家の家臣。讃岐観音寺の代官として赴任する。

佐野丹波守(?〜?)
  阿波守護細川家の家臣。先主細川持高が三好義賢によって暗殺されたため芝原城主久米義弘とともに復仇戦を挑むが敗れる。

曽我丹波守(?〜?)
  関東管領扇谷上杉家の家臣。天文15年副将として河越夜戦に参戦、北条氏綱と戦い敗れる。

玉目丹波守(?〜?)
  肥後南郷の住人。加藤清正の妻正応院の父。

高橋丹波守(?〜?)
  相模北条家の家臣。伊豆雲見上ノ山城主。重臣だったという。

遠山丹波守(?〜1533)
  直景。相模国後北条家の家臣。大永四年の北条氏綱による江戸城攻略後同城城代に。娘は家康の側妾英勝院(御勝、御梶)という『内閣文庫・柳営婦女伝系 英勝院殿御由緒』がその生年(1578)と半世紀ほど差がある為、英勝院は大田康資の娘というのが妥当か。

遠山丹波守(?〜1564)
  綱景。相模国後北条家の家臣。直景の長男。父の後を継ぎ江戸城主。永録七年の国府台合戦で討死。

戸田丹波守(1562〜1632)
  康長。のち松平姓。三河国松平(徳川)家の家臣。天正九年の高天神城攻略時に初陣を飾る。関ヶ原の際には大垣城攻略を行う。元和三年、信州松本城主となる。

新津丹波守(?〜?)
  勝資。越後上杉家の家臣。

新津丹波守(?〜?)
  義門。越後上杉家の家臣。上杉二十五将の一人。

長谷川丹波守(?〜?)
  嘉竹、可竹。尾張国織田家の家臣。長谷川秀一の父。本能寺の変後剃髪して可竹あるいは嘉竹と称するようになる。同時期に前田玄以と共に三法師秀信の守役となる。秀吉死後遠く無い時期に没したと見られる。

久野丹波守(?〜?)
  伊勢北畠家の家臣。田丸城主。

福島丹波守(1557 〜 1630)
  治重。福島家の家臣。福島正則の叔父ともいう。賎ケ岳の戦い後、正則が五千石を賜ると千五百石を与えられる。関ヶ原の戦いにおいては正則とともに先鋒として宇喜多秀家の軍勢に立ち向かい、足に深手を負うが退くことなく見事に戦った。正則の安芸転封後は三原三万石の城主。福島家改易時、広島城の受け渡しを担当し見事にその役割を果たした美談は、後世播州赤穂城の明け渡しの手本になった。正則蟄居後は他藩からの招きにも応ぜず洛東東山の山麓に粗末な庵にて隠遁生活を送り七十三歳でこの世を去った。

福永丹波守(?〜?)
  日向伊東家の家臣。野尻城主。天正五年島津家に内通し、伊東家を窮地に追い込む。

堀江丹波守(?〜?)
  遠江堀江内山の人。茶道を以て家康の御茶頭に召し出され、姓を中安と改め中安立茶と名乗る。後姫君を妻とする。

本多丹波守(1572〜1649)
  富正。後伊豆守。父が信康事件に連座して蟄居したため、叔父である本多重次に養育される。結城秀康が秀吉の人質として大坂に赴いた時、途中より重次の子仙千代の代わりに送られた。それから秀康の信頼を受けて加増を重ね、越前で三万九千石を知行する。国老として政務に携わり、秀康死去後は殉死を家康・秀忠から禁じられ、仙千代が越後に移る時も将軍徳川秀忠の黒印状で越前に残ることを命じられ、二代・忠直、三代・忠昌に歴仕した。

木呂丹波守(?〜?)
  相模北条氏の家臣。武蔵松山城在番衆

百地丹波(?〜?)
  伊賀国上忍三家の一つ百地家の当主。

宮城丹波守(1554〜1620)
  豊盛。豊臣家の家臣、のち幕臣。秀吉死去に伴い朝鮮からの撤退命令を伝えに韓入りする。関ケ原では西軍に組するも本領は安堵。後秀忠のお伽衆となる。慈照寺銀閣の檀越で衰微していた慈照寺の再建に助力する。

森田丹波守(1972〜)
  秀信。丹波国船井郡八木出身。丹波を平定した明智光秀にあやかり自ら「秀信」と名乗る。後、一族は摂津国川辺郡に移住。光秀死後、その事跡等が歪められて世間に流布していることに憤りを感じて『明智家記』を著す。




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