<3>ミスマッチ



 (1)詩織

 今日、コウは初めて学校を休んだ。なんでも昨日どしゃぶりの雨の中、傘もささずに帰
ったためカゼをひいたらしい。
 コウのいない学校はやけに味気ない気がする。
「……はあ」
「どうしたの詩織? 今日ため息つくのこれで十回目だよ」
「ううん……なんでもないの」
 コウのことが気になって、なんてとても言えない。しょうがないな。あとでお見舞いで
も行こう。
「あの……。コウ先輩いらっしいますか?」
 ふと廊下の方から消え入りそうな鈴の音のような声がした。
 肩の上あたりまでの癖のない黒髪。けっこう可愛い子だ。多分一年生なのだろう、その
手には彼女には不釣り合いな男物の折り畳み傘が握られている。
 すかさず彼女に好雄君が歩み寄る。うーん。さすが好雄君! 素早い……
「君? 名前は? 血液型も教えてよ。それから趣味とか」
「あ、あの……私……荻原七穂といいます。クラスは1−Cで……血液型はB型で、それ
から趣味は……」
 好雄君の質問攻めに彼女はけなげに答えてゆく。
 ようやく彼女の質問を終えた好雄君は折り畳み傘を持って私に近づいてくる。
「詩織ちゃん。今日コウの家に行く?」
「うん。ちょっとお見舞いに行こうと思って」
「かー! やさしいな詩織ちゃんは。俺も昨日びしょ濡れで帰ればよかったな」
 好雄君は額を軽くたたいて大袈裟に嘆いた。こういう演技好雄君がやると全然嫌味にな
らないし、かえって好感が持てるほどだ。
「この傘コウのなんだ。コウのやつ彼女に傘貸してやったらしいぜ。柄にもないことする
から風邪ひくんだよな」
「ほんと」
 私はクスリと微笑してコウの傘を受け取る。
「好雄君も行かない?」
「いや俺は遠慮しておくよ。それより……」
 好雄君は私の耳に急に顔を寄せる。
「気をつけたほうがいいよ。彼女コウのこと狙ってるぜ」
 私はなんだか深い闇の底へ突き落とされる気がした。
 ……とにかくコウのところに行かなくちゃ。


 (2)コウ

「まだ三十八度か」
 高校生活に入って初めてひいた風邪はなかなか治らない。
 これで三年連続皆勤賞もふいになってしまった。
「こんな時誰でもいいから見舞いに来ないかな」
 俺は自分で作った玉子酒をすすりながら独り言をつぶやいた。
 我ながら初めて作ったにしては上出来だと思うが、あとで母さんに台所散らかしっぱな
しにしたこと謝らなきゃ。


 (3)詩織

 コウのお見舞いに行くと、コウは小さな寝息をたててぐっすりと眠っていた。
(フフフ……コウの寝顔、けっこうカワイイ……)
 ……ドキ
 ……ドキドキ
 ……ドキドキドキドキドキ
 不思議なことにコウの寝顔を見ているだけで私の胸の中から熱い何かが体中に込み上げ
てくる。
 やだ……私、なにコウの寝顔に見惚れてるんだろう。
 私はあわててのコウの飲みかけの玉子酒を片づける。
 台所へ降りるなり思わず私は絶句した。
 あーん、もう! 男の人が台所に立つとこうなるのかしら!

 ようやくコウの部屋に戻ると、コウはまだぐっすりと眠っていた。
(まったく! 人の気も知らないで……これじゃあ昨日のこと詳しく聞くことできないじ
ゃない)
「……って、無理矢理起こすのも可哀相かな。そういえば、もう熱のほう大丈夫かな?」
 コウの額に手で触れてみてもよく分からなかった。
 ――しょ、しょーがないな……
 私はゆっくりとコウの額に自分の顔を近づける。
 コウの顔が近くなるたびに私の胸の鼓動は速くなり、体中が燃えるように熱くなる。
「……もう大丈夫みたいね」
 ゆっくりとコウの額から顔を離すと、なぜか私の目はコウの唇に釘付けになった。
 私、何をしようとしているの? コウの顔から離れなきゃ。
 その気持ちとは裏腹に私の顔はコウの唇に近づいてゆく。
 あと五センチ、四センチ、三センチ……一センチ……
 静かな部屋に唇が重なり合う音が響いた。
 このまま時間が止まってくれればいい……
「う……うん? うう……ん」
 ど、どうしようコウが起きちゃう。
 私は慌ててコウの唇から離そうとした時、コウの両の瞼がパチリと開いた。


 (4)コウ

 玉子酒を飲むと俺はいつのまにか深い眠りの世界に入った。
 しばらくして唇からなんとも心地よいぬくもりが流れ出した。その温もりはずっと昔ど
こかで一度感じたことのある温もりだ。

「……ねえ、コウちゃん。ちょっと目を閉じて」
「う、うん。こう?」
「そう。そのまま」
 幼い二人の顔は徐々に近づき、やがて唇が軽く重なる。
 もう一人は小さい頃の俺だ。だがもう一人の女の子の顔は黒い影のようになってはっき
りしない。
 いったい誰なんだ……
 ふいに眼が覚めると、そこには詩織の顔が間近にあった。
 詩織は慌てて顔を離す。その顔は熟れたトマトのように真っ赤だ。
「詩織……おまえ……」
「ち、違うの。コウ……。わ、私はコウの熱を測っていただけなの」
「詩織……俺……」
「やめて!」
 詩織は自分で驚くほどの大きな声をあげる。
「私……コウとは幼馴染みだし、家も隣同士だからコウのお見舞いに来たの。そう、それ
だけ……それだけだから。ご……ごめんなさい!」
 詩織はつぶやくように言った言葉を残し俺の部屋から出ていった。
「大失恋だ……な」
 俺はもう一度眠りに就く――できればこれが夢であることを願って。




※この物語はフィクションです。実際の人物・団体などとは何も関係ありません。


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