ずっと一緒にいられると思っていた。
 ――でも
「ごめんどうしても俺……イタリアに行ってもっと絵の勉強したいんだ」
「え?……」
 やっと絞り出た私の声は情けないほどか細く震えている。それでもなんとか瞳からこみ
上げてくる涙だけはせき止めることはできた。
 卒業旅行の時に一緒に行ったフィレンツェ。以来彼はかたくなに片思いをしている。
 本当は私も彼の気持ちにうすうす気が付いていた。でも彼のそばにいたかったから。
どうしても「私は大丈夫。行って来て」なんて口が裂けても言えない。
 このままずっと曖昧にしたままやがて時間が過ぎれば彼が諦めてくれる。そんな自分勝
手な甘い期待に頼っていた。
 その結果がこれ。彼の思いは時間が経つにつれ日に日に強くなり、そしてその思いを知
らんぷりしていた私。
 今日彼の思いを聞いてしまった以上いわなくてはならない。心の奥にしまいこんだ私の
答えを。
「京子?」
「あ……う、うん……大丈夫。私全然大丈夫だよ。孝彦が……イタリア行っても全然寂し
くなんかならないよ」
「京子……」
 彼の顔は不安そうに曇り出す。それでも私は努めて笑顔を彼に向ける。
「やだ……私本当に大丈夫だから。それとも私が浮気するのが心配?」
「馬鹿……そんなんじゃ……」
「孝彦のいないあいだ私が寂しくて泣いているか心配なんでしょ? ねえそれじゃあ。私
が待てるか試してみてよ」
「試してみるって……どうやって」
 私は小さく深呼吸をして鏡台に座り込む。鏡に映る背中が隠れるほどの長い黒髪。
「髪を切って」
「髪を?」
「そう私が孝彦のこと待っていられるようにこの髪を切ってよ」
「切るって……おまえ……」
 孝彦は鏡越しに私の顔をしばらく見据えると「わかった」と小さく答えた。

   *** ◆◆ ※ ◆◆ ***

 孝彦は霧吹きで丹念に私の髪を湿らせる。一方の手で私の髪に優しく櫛を滑らせる。
「このぐらいでいいか」
 孝彦は私の髪を一房肩の上あたりで軽く摘む。
「もっと短くして」
 孝彦の指が顎のあたりまで上がる。私は力強く首を横に振る。孝彦は訝しげに口を開く。
「どのぐらい短く切るんだ?」
「ま……丸坊主にして……」
「丸坊主っておまえ!」
「いいの! 元の長さに伸びるまで待っていられるから……だから……」
 孝彦は大きく吐息を吐き出し、引き出しの上で埃まみれになった小さな箱を引きずり出
す。それは孝彦が床屋代を浮かせるために数年前買ったまま使わずじまいとなっていたバ
リカンだ。
 電源ケーブルを通して電気というエネルギーをもらったバリカンは、スイッチを入れる
と鈍い目覚めの声を唸りあげる。
 ――ヴィーン……
「いいのか? 本当に丸刈りにするぞ」
「うん……一気にやっちゃって」
 目の前にバリカンの無数の刃が近づいてくる。孝彦は優しく私の前髪をかき分ける。
「いいか?」
 もはや私は緊張と不安が胸から爆発しそうで声を出すことすらできない。
 私が小さく頷くと、バリカンの胴体はゆっくりとゆっくりと前髪の生え際に進入する。
 ひやりとした感触と前髪がクイっと押し倒されるような感触が一瞬したかと思うと、額
の上でけたたましい音が響く始めた。
 ジャリ! ジャリリジャリ……
 バサバサと目の前をよぎる黒い束。それが足のあたりで止まったり、床の上にひろがっ
たりした。
「ひぃ……あああ」
 情けない。そう思っても鏡に映った自分の顔は涙でぼろぼろ状態だ。視界がぼやけてい
ても髪が私の頭から離れていくのはいやでもわかる。
 前髪の真ん中にスッパリと引かれた青白い線。その隣に孝彦の手に握られたバリカンが
再び潜り込む。
 バサ、バサと髪が落ちるごとに青い線の幅は広がっていった。
 サイドのほうは目線あたりから無造作にバリカンが入っていた。
 波に浸食された砂場のようにかつてあった私の長い髪のところに青白い地肌が広がって
いく。
 左半分はすっかり髪を刈り落とされた私、もう半分はいつもの私。その残りの部分にも
容赦なくバリカンが入っていった。
 最後に残った後ろの髪はそのままストン、ストンと床へ急降下していった。
「終わったぞ」
「あ……あは……ツルツルになっちゃった……」
「京子……」
「やだ……孝彦。そんな顔しないでよ。孝彦に切ってもらったからかな、うじうじしてた
嫌な自分を捨てられたような気がするの。それにね、一から新しい私になれそうな気がす
るの。
 孝彦……待ってるから」
 孝彦は翌日イタリアへ経った。

 ――数年後

 孝彦がイタリアに行って三年が過ぎた。あの時丸坊主だった私の頭は今ではショートヘ
アぐらいまで伸びている。
「元に戻るまで結構かかりそう……」
 鏡越しに苦笑いを浮かべヘアブラシで髪を整えようとした時だった。
 頬をつたる冷たい一筋。
「やだ……私ったら、柄にもなくノスタルジックになっちゃって……」
 孝彦……孝彦、孝彦。寂しいよ。早く帰ってきてよ。
 ふいにドアホンの音が鳴る。
「山下さーん、お届け物でーす」
「はーい!」
 私はあわてて涙を拭い、玄関の扉を開けた。
「た……孝彦?」
「よ! 久しぶり。髪伸びたじゃん」
「どーして……どーして。まだイタリアに行ってるはずなのに」
「いや……実はさ、ショートヘアの京子が見たくなって」
「ば……ばか……」
 私は孝彦に思いっきり飛びついた。


 ――完




※この物語はフィクションです。実際の人物・団体などとは何も関係ありません。


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