経済統計からみる太平洋戦争
○1、貧弱な基礎体力
主要資源の海外依存度
品目割合品目割合
銑鉄9.8%(31.8%) 36.3%
63%(67%) 52.9%
石炭8.0% カリ塩93.1%
燐鉱石87.7%(100%) 大豆50.7%
生ゴム100% 綿花99.9%
鉄鉱石52.3%(85.6%) 白金85.9%
93.2% 亜鉛52.8%
屑鉄(100%) 石油(90.4%)
「貧国強兵」より。カッコ内の数字は「昭和国勢総覧」による。 また当時も日本工業は原料の海外依存が高く、全輸入中62%が原料品で 占められていた。(35ー36年の統計)


英米経済圏への依存度
品目全輸入量に対する割合品目全輸入量に対する割合
銑鉄34% アルミ72%
生ゴム32% 綿花37%
鉄鉱石58% 43%
亜鉛66% 鉄類70%
石油76.7% 90%
航空機及び部分品76.9% 機械類66%


輸入全体で見ると36年では英米だけで64%、輸出では49.7%に
なり、39年になると輸入で72%、輸出で67%もの割合を占めていた。
逆に同盟国の独伊は39年の2国の合計で輸入4.11%、輸出
0.702%にとどまっている。

○戦前の日本の主要輸出品は生糸で、額にして全輸出額の凡そ40%を占めていた。
その生糸の85%(34年)はアメリカ向けで、当時はアメリカに生糸を売り、その外貨で
同じくアメリカから石油や屑鉄を買うという貿易構造であった。
ただし、日本にとってアメリカは最重要輸出先であるのに対し、アメリカにとっては
それほど重要な輸入先ではなかった。(34年、米市場中の日本産生糸が占める割合は31%)

カロリー基礎による食料の生産と輸入の比率
−−−31−40年平均41年42年43年44年45年
生産81% 79.7%81.3%87.3% 87.990.6
輸入19% 21.3%18.7%12.7% 12.19.4%


年を追うごとに輸入率が下がっているが、これは単にシーレーンの
途絶によって輸入量が減っていることによる。(次項参照)
この場合、重要なのは戦前から食料自給率が8割前後にしかならなかったことであろう。



日米の主要戦争機材生産数の比較(41〜45年)
−−−戦車航空機小銃火砲艦艇砲弾
日本 4000両6.2万機260万挺 2.8万門408隻7600万発
アメリカ2.5万両 26.1万機1700万挺30万門 1130隻400億発

この数字には欧州戦場での数字は考慮に入っていない。(艦艇は除く)


軍需資材の生産額(単位 億ドル)
年次米以外の連合国アメリカ枢軸三国
41年16547155
42年240205252
43年300395290
44年310435270


米国だけで枢軸国3国の合計を上回っている。


満州事変後の工業生産額構成割合

−−− 31年32年33年34年 35年36年
重化学工業 34%37%40% 45%49%50%

36年でようやく全体の半分が重化学工業で占められるようになった。

○米国と日本では航空機生産に大差があったが搭乗員養成もまた大差が
あり、41年に日本は3000人(航空機5088機)を養成したが米国は
1万1080人(航空機1万9445機)を養成。43年では日本5400人
(航空機1万6693機)に対し米国8万2741人(航空機8万5898機)であった。

○シナ事変の勃発に伴い、37年に軍需動員令が発動され軍事予算を一気に
7倍、対総予算69%に高騰させたのだが、これはまだ計画すら立てて
いなかった政府の国力増強計画に大きな悪影響を及ぼした。

○その翌年、38年に企画院が下した国力判断は次の通り。 

(イ)陸海軍の軍需工業は動員で大いに進展したが、基礎国防産業の
大部分は建設資材・原料・技術者の不足によって期待した生産力
拡充は不可能となった。 
(ロ)鋼材は鉱石・銑鉄・屑鉄の不足のため10〜30%の製鉄・圧延
設備が遊休し、30%の減産となる。 
(ハ)工作工業機械の計画遂行率は56%に低下し、自動車は53%に
減産する。 
(ニ)貿易は輸出で20%、輸入で30%減少する。

政府の計画に先立って行われた軍の動員に資材・技術者・施設を
食い荒らされたためだった。
他にも政府は37年「臨時資金調整法」を成立させ、資金を軍需産業に
重点配分し生産力拡大を図ったが、39年までに設備拡充をめざした
52社のうち予定通り拡充出来たのは18.5%に過ぎず、77.3%は
計画未達成及び未着手であった。主な理由は42%が資材不足で、
40%は機械入手の遅延となっている。

また38年の主要重工業会社の決算書を見ると自動車工業が5倍、
三菱重工4倍、池貝鉄工3倍、芝浦製作・三菱電気・石川島造船が
それぞれ2倍の割合で、未消化受注高が各社の生産能力を越えていた。
造船業界も38年で未消化受注高が135隻、107万5530トンを
数えている。

○日本は基礎資材として絶対必要な鉄鋼の生産量が少なく、43年の
生産量でも560万トン前後にとどまった。
そのため民需と軍需両方を同時に満たせるだけの供給が出来ず、艦艇を増強しようとすれば
商船建造を減らし、商船を建造するためには艦艇建造を減らさざるを得なかった。
37年の一般商船建造は44万トンで艦艇は6万、41年の数字を見ると
商船24万・艦艇23万と艦艇建造が増えた分商船が減っている。
しかし鉄鋼生産能力を拡大しようにも鉄鋼石や石炭を運ぶための輸送能力が
著しく不足しており(具体的には年産1千万トンの能力をめざそうとすると、
114万トンの輸送船新造が必要になる)結局それも画餅に帰せざるを得ないと
いう有様であった。

また、この鉄鋼生産量の貧弱さには、国の時代錯誤的な政策も関係していた。
  
1934年、昭和恐慌の前に製鉄会社の合同論が上がり、八幡製鉄所を
初めとする1所6社が合併して官民合同の日本製鉄株式会社が設立された。
 
だが、国側はこの日本製鉄の保護のみ考えた政策を取り、日鉄に
加わらなかった盟外アウトサイダーの発展を計画的に抑制しようとした。
当時溶鉱炉の建設は許可事業であったのだが、アウトサイダー企業の
溶鉱炉建設申請をことごとく却下し続け、鉄鋼生産能力を抑えようとした。
 
その結果鉄鋼生産量はなかなか伸びず、また日鉄自身も自らの生産力
拡大よりカルテルの形成にやっきになる傾向が強かった。

そのため日本の製鉄業は37年度の設備拡張後で日産750トン(日本鋼管)
や520トン(鶴見製鉄)にとどまるという有様であり、日鉄系企業も八幡は
ともかく釜石770トン、輪西880トン、兼二浦950トンとかなりの
劣位にとどまってしまった。
その後の拡張計画でようやく輪西が1580トン、釜石1470トン、
日本鋼管1350トンという予定が立てられたが、これでも41年頃の
世界の製鉄業の日産能力趨勢1100トン、独米では1500トン前後
という数字と比べてようやく追い付いたか、という程度であり、拡張
計画のなかった業者と併せて見ると大きな差があったと言える。

そのため戦争勃発の際の需要増大に追い付けず、「鉄鋼飢饉」を
招く原因となった。

○当時の日本の工業基盤は決して進んでおらず、例えば最も進んでいた呉の海軍工場でも
鋳造部品を作ると予定重量の20%程度のオーバーは当たり前であった。
戦艦大和の建造の際も必要な機材はドイツからの輸入品に頼っている。

付記資料・日本戦時工業の実態

○高能率で知られていた大工場も建設計画から個々の工程の
段取りまで殆ど米人監督の指導によっており、設備や機械、資材の
重要な物もまた米国製であった。

○工業基盤の遅れはその他にも様々な所で顔を出しており、例えば
今日ではブルドーザーなど当たり前に知られているが、戦前の日本では
景気対策に人力の雇用が奨励されていたことも手伝って存在自体ほとんど
知られておらず、41年のウェーキ島占領時に米軍の鹵獲品を見たのが
最初だった。
その時の様子を元第219設営隊副長の岩崎敏夫氏は
「施設本部で技術士官教育のときに聞いた話」として以下の
ように記している。

例によって滑走路を人海戦術で建設していたら、アメリカ軍の捕虜が
「自分にあの機械を使わせれば、数日でやってみせる」といって、
付近にあった『異様な機械』を指差したので、半信半疑でやらせてみたら、
わずか数人のオペレーターがくわえ煙草で数日で完成したという。
(『』は筆者、それ以外原文ママ)

戦後、海軍中佐の千早正隆氏はこのことを振り返り、
「なんのことはない、初めてブルドーザーを見てびっくりした現地の人々
と大差がなかったのである」と自著に書いている。

そのため太平洋の島嶼における飛行場設営の後進性は著しく、ガダル
カナル島での飛行場設営はほとんど人力で行われ、海軍設営隊2600人
が一ヶ月で長さ800m、幅60mの滑走路を完成させたが、その2日後
には米軍の上陸となった。

それでも戦争後期にはある程度機械化が進み、19年2月には着工後
20日で戦闘機を飛ばした例があるものの、機械の信頼性などで鹵獲品に
到底追いつかず、またこの種の機械自体初めて見たという兵員が多い
ために使いこなせるオペレーターがおらず、能率もなかなかあがら
なかったようだ。
対する米軍の記録を見ると18年11月、ギルバート作戦において戦闘
続行中にもかかわらず新滑走路の造成に着工、4日後には米軍機が
使用を開始。
さらにはそれより4ヶ月前の7月2日、ニューギニアの密林地帯で
一個急速設営大隊約1100名が上陸以来11日間連続の降雨および
日本軍の爆撃の中密林を切り開き、長さ900m、幅45mの滑走路を
13日で造り、さらに5日間で450m延長したという。



全人口中、最貧富層が占める割合
年次最低年次の割合最大年次の割合
1887〜191983%91%(19年)
1920〜2573%(25年)77%
26〜3750%(37年)55%(26年)
38〜4561%(38年)90%(45年)



鉄道旅客運輸数量の等級別割合

−−−36年37年38年39年
1等 0.0060.0060.006 0.003
2等 0.80.70.6 0.6
3等 99.299.399.4 99.4
ほぼ全てが3等旅客であることに注目。 ○上の統計でわかるように当時の日本は最貧層が全人口の90%にも なる貧しい国であったのだが、実際に日本人と欧米人の給料と比較すると その差は明白だった。 たとえばパレンパン製油所の従業員で副所長(オランダ人)が月給 3000円、大学卒の中堅社員で400円。これに対し日本の軍人 給与を見るとパレンパンでの最高職位である大佐クラスでも370円、 最下位の将校である少尉は70円。これが兵クラスになると 伍長20円で上等兵10円と、大佐でさえ中堅社員以下という 大きな格差がついている。 ○また個人消費をみると日本は40ー44年間で28%低下したが、 アメリカは逆に16%増加している。(36〜37年の個人消費額は 日本98ドル、アメリカ473ドル) ○31年の兵器生産では戦車10・火砲90・艦艇30400 トン・航空機190機を生産したが、たったそれだけの生産量にも 関わらず軍事費は総予算中30.7%を占めていた。



米のGNP伸び率(40年=100)

−−−41年42年43年44年
アメリカ 118136158 165


日本のGNP伸び率(36年=100)
37年38年39年40年
123.3127.3128.5120.9
41年42年43年 44年
123.7 124.4124.4119.8

GNPは日米開戦前の39年で峠を迎えてしまい、工業や製造業・農水産の 生産指数も同じく39年前後を頂点として後は低下する一方であった。 またインフレに対して行われた低価格政策のために基礎産業の赤字が 大きくなり、例えば石炭は42年ですでに国からの補助金でどうにか 持たせているという状態だった。


産業別人口・日本(単位 千人)
年次労働人口農業人口工業人口農業/労働
40年32483 13842813242.6%
44年31657 13376949442.2%

産業別人口・アメリカ(単位 千人)
年次労働人口農業人口工業人口農業/労働非農業人口
40年56180 954096521.7%37980
44年66040 8950(資料に記述なし)1.3%45010

日本は労働力の半数近くを農業に費やしていることと、40年時の工業人口では 日米にそれほど差はなく、44年時の非農業人口の増加分が全て工業人口増加を 示していると仮定しても工業人口は2倍程度の差に収まっているが、実際の工業 生産高では3〜10倍もの差がついていることに注目。



日本の歳入に占める公債の割合
年次歳入額公債公債の占める割合
37年4395 204546.5%
38年7406 435758.8%
39年8962 519758.0%
40年11644 632854.3%
41年15674 928359.2%
42年22457 1294557.6%
43年38339 2472264.5%
44年80728 6342378.6%


日本はすでに太平洋戦争開戦前から借金で国家財政をまかなっており、
それが44年になると80%近くにまで達している。

単位面積(エーカー)あたりの米収穫量国際比較
国名日本マレータイ蘭領東インドアメリカスペインイタリア
収穫量 31.014.515.9 15.023.7 58.245.5
(単位はキンタル=50.8kg)

農民の7割近くは耕作規模一町未満の過小農であり、機械化するには 規模が小さすぎる上、インフレと高い小作料(5割以上)から 来る貧困のため満足に化学肥料を使えず、特記する程の 生産効率があるわけではなかった。 ちなみに貧困はかなり酷かったようで、専業農家対兼業農家は 45.1%対54.9%、さらに農業を副とする農家と主とする 農家では23.9%対31%となっていた。(42年の数字)

37年度熟練工需給表
業種求人数就職数 需要充足率
機械器具21万1460人 8万2624人39.1%
船舶・車両25608人 11585人45.2%
金属工業14万6935人 57164人38.9%
採鉱・冶金41303人 8117人19.7%%
合計42万5306人 15万9490人37.5%

日米開戦前から労働力は著しく不足していた。 特に船員の不足がひどく、40年より前の段階でも逓信省の 発給する船員手帳は約24万に及ぶが、就職人員は10万に過ぎず、 無線技術者も需要7千に対し就職は2千未満という状態だった。 ○日本の最良の師団とアメリカの平均的師団を比べると、日本師団は アメリカ師団の兵員75.7%、小銃31.3%、機銃35.7%、75mm 未満の火砲27.3%、75mm以上の火砲14.3%、戦車17.4%、 ジープ0%と一回りも二回りも少ない装備しかなかった。


日英米の保有船腹比較(40年)
国名日本アメリカイギリス
トン/隻数562万9千t/2337隻 1149万t/2958隻3889万/1万5699隻

英米:日本の比は隻数で8:1、トン数だと9:1という膨大な 差がついていた。だが、これほどの差を少しでも埋めるための、 効率的に船舶を運用するための行政は戦時日本にはなかった。 (これは後述する)
○相対的に見ると日本は世界第3位の船腹保有国であったが、38年時の 日本に入ってきた総船舶18490隻6200万トン中、日本船は 11456隻3700万トンで、割合にして62%。 他は全て傭船か外国船であった。 載貨量にすると輸出で約3割強、輸入においては約4割弱を外国船に依存していた。 また船腹の内訳を見ると速度12ノット以上の船は全体の10.6%で、 英国の41.1%と比べると優良船が少ないことが分かる。 船齢10年未満の船は13.3%で、これも英国の43%に比べると 劣っていた。 また日本には2万トン以上の船は1隻もなく、37年度以降4ヵ年で 貨物船15万・旅客船15万の高速船舶計30万トンの建造を助成する 計画と、38年度以降4ヵ年計画で2.7万トン級大型優秀船2隻の 建造助成が行われていたのみであった。 これも英国の保有数37隻と比べると大きく劣っている。 快速船もまた少なく、日米開戦前の統計では16〜21ノットの船は 英国128隻、米国75隻に対し日本は45隻、21ノット以上になると 英国8隻・米国12隻に対し日本はゼロであった。


日本船舶比較

−−−31年隻数31年総トン数37年隻数37年総トン数
4千t以下 1170119万33041729 127万4515
4千〜6千t 198103万1580209 107万5567
6千〜8千t 9062万3071120 82万6814
8千〜1万t 3228万08138 34万4126
1万t以上 1721万429418 22万4057
合計 1507335万3302114 374万1479
4千トン以下の小型船が全体の隻数の80%以上、トン数で3分の1を 占めていた。 また、この表からは船齢25年以上の船は除かれている。


4千トン以上の船舶国別比較表

国名4千トン以上船舶総トン数所有船舶総トン数比率
英本国 1380万25211743万620779.2%
米国782万9712トン 975万9854トン80.2%
日本 279万2996447万511064.4%
ドイツ 257万8672トン393万724165.3%
フランス 190万1646287万024966.3%
イタリア 240万1919321万263474.8%
世界合計 5489万39766527万144084.1%
日本は世界に比べると大型船舶の割合が少ないことがわかる。
船齢別比較表(37年)
船齢隻数トン数
5年未満73381万8560
5年以上10年28157万3693
10年以上15年19433万7263
15年以上20年642151万669
25年以上45073万3931
合計2564447万5110

トン数で見ると、船齢15年以上の老朽船が過半数を占める。
近海航路における荷役能率
品名積/揚港航海日数停泊日数
石炭若松〜横浜
鉄鉱石馬鞍山〜小倉 107.5
北洋材敷香〜名古屋 12.59.5
青島〜徳山

後に触れるが、当時の日本の港湾は荷役能率が悪く、本来動くべきものが 半分は泊まっているという状態であり、また近海不定期船は1月のうち 半月〜20日は港に停泊している状態であった。 事実、38年3月29日の不定期貨物船配船状況を見ると全体で合計 756隻に対しドッグ入り・繋停等で輸送可能状態にない船が187隻もあった。 また船込の著しい例となると、39年大連に沖待30隻、滞船日数20日を 超えたものや、八幡に1月の滞船を見たというケースがあった。 各荷主が別々に艀を持ち、仲仕の支配を別にしているため、それらの 労働力の流用ができず、甚だしい例をあげると各荷主別に積み合わせた 石炭1000トンを揚げるのに艀・仲仕を積み合い毎に入れ替えたため 1日で終了すべきものを数日かかったということさえあったという。 ○船腹はごくごく初期から不足を示しており、37年の段階で60万トンの 外国船を傭船せねばならず、38年末の漢口作戦の際には90万トン もの傭船を行っている。 40年度の輸送計画によれば45〜70万トンの船腹不足が見込まれ、 実際に南洋鉄鉱石・樺太炭・北部中国藍に100万トン前後の積み残しが 発生した。 他にも37年には炭鉱の山元には石炭が大量に積まれているにもかかわらず、 輸送能力不足で運べないために内地各地に石炭飢饉が起こった。 また同年の統計によると海上輸送量は前年比で20%程増加したのに 対し、新造船は資材・労力の逼迫で6%の増大にとどまっている。 ○鉄道輸送でも39年は34年次と比べると貨物がトン数で37%、旅客が 52%増加していたが、各種列車は平均19%、輸送設備は10%、運用 効率で4%、職員数でも30%程度増加したにすぎなかった。 その職員も大陸への転出・徴兵などで熟練者が減少し、41年では 50%が採用3年未満であった。 ○40年頃の統計ではアジア海域を中心に運用された各国の船のうち、 日本船はおよそ20%程度。41年初頭で第三国船がこの水域から 相当引き上げた後も日本船が占めた割合は38%ほどに過ぎなかった。 シナ事変前の中国圏内に航行する日本船でも全体の14%であり、 英国系の57%に比べるときわめて小さかった。 ○当時の日本の海路には、海運事故を避け安全に航行を続けるための 航路標識が少なく、英の5浬に1基、米の4浬に1基、独の2浬内外に 1基という割合に対し日本は15浬に1基にすぎない。このため海運事故が 多く、37年の統計では海運事故の喪失隻数は25隻3.4万トンに及び、 これは世界第2位の数字だった。 ○40年8月末の統計によると、施設整備の遅れのためにドッグ入りで 運用不可能状態に置かれる船舶は多い月になると1日平均10%にも なっていた。


主要国交通機関概要表
国名鉄道延長m 一万人當m機関車数客車数貨物車数自動車数人口千人當台数
日本 3.7万3.9 42001.1万 7.3万20.9万
ドイツ 13.8万11.9 2万6.3万 57.3万110万17
イギリス 8.1万12.0 1.98万4.2万 61.87万202.8万45
アメリカ 63.3万34.1 4.5万2.4万 179万2616.7万213
フランス 6.6万15.8 1.88万3.2万 49.4万218万52
イタリア 2.9万4.9 57587245 12.5万39万10
ソ連 8.5万 34.5万

鉄道は国営鉄道の数字(全体に対する国鉄の割合は英95%、独92%、
仏95%、伊77%、ソ100%、日本は国鉄・地方合計)で、日本は
39年度末、ソ連37年末、その外は38年末。
日本車両数は37年8月の数字。
また全体に対する単線区間の割合は日本86.5%、ドイツ60.4%、
イギリス37%、アメリカ84.6%、フランス50.7%、イタリアは
73.7%で、日本が最も複線化が遅れていた。

以上の統計から見て、日本の輸送能力はかなり貧弱であったことは
否めないように思われる。

○道路も最前線ならいざ知らず、国内の幹線道路でさえ未整備で
あり、41年の統計では全道路のうち舗装されているのは国道で15%、
府県道になるとわずか3%という有様で、そのため航空機を工場から
飛行場まで輸送するのに車を使うと、振動で破損の恐れがあるために
牛が牽いて運んでいた。

○旅客の取り扱いや貨物の受付については科学的研究がなく、習慣あるいは
勘で行われていたという。

○交通政策の縦割りも酷く、鉄道は鉄道省、船舶航空は逓信省、道路・河川
港湾は内務省、自動車その外の陸上交通は鉄道省、朝鮮・台湾・樺太の
交通は拓務省と乱脈不統一を極めていた。

○当時の貨物自動車業界は規模が小さく、93%は個人経営であり1社
あたりの自動車数は2台。
一人当たり自動車数で見ても43年頃でドイツが70人あたり1台、
アメリカ10人1台に対し日本は350人に1台に過ぎなかった。

列国航空機概要表(37年)
国名飛行機総数航空総予算 1機当たり人口一人当たり航空予算
英国3297 47060714.00910.19
米国13139 26126419.8852.13
9413 2416523444457.76
4078 16.013
イタリア2443 9674317.2132.29
ソ連5000 29.403
日本1800 7000051.4410.76


列国民間航空機概要表(37年、但し予算のみ35年)
国名飛行機数操縦士数 飛行場数航空総遠距離航空予算
英国1297 3477397734198862
米国9139 147632334102290 49063
1933 147511449069 290560
1578 250023150006
イタリア443 70867155617996
ソ連1000 77000
日本235 6962251621707
日本の航空はかなり遅れていたことが伺える。
2、シーレーンの崩壊と戦略爆撃


原油の生産および在庫(単位 千バレル)
年次蘭印生産南方消費輸入生産ストック残量
42年25927 15415814616707677
43年49614 35126984818143512
44年3195331953 16411581490

44年第四四半期には輸入は完全に停止。 また、42年第一四半期のストック在庫は約1200万バレルとなっている。



日本の食料輸入量(単位 千kg)
期間穀物合計期間
39・4〜40・32793 39・11〜40・101867
40・4〜41・32873 40・11〜41・102511
41・4〜42・33374 41・1〜42・102581
42・4〜43・32279 42・11〜43・101183
43・4〜44・31871 43・11〜44・10874
44・4〜45・31188 44・1〜45・10268


希少金属の所要量に対する取得率
年次コバルトニッケルタングステン・モリブステンバナジュームクローム
40年50% 60%
41年20% 30%
42年10%20%65%70%90%
43年5% 10%65%60%70%

これらの金属は航空機のエンジンに使われるのだが、すでに戦争のごく初期から
資源は不足していた。


マグネシウム・アルミニウムの生産能力と実際の生産量
年次アルミ生産能力アルミ生産量マグネシウム生産能力マグネシウム生産量
41年111200 7174036502806
42年132400 10307548322678
43年171600 14108477003845
44年159100 110398104405125



○鉄鉱石も南方輸入のための船が逼迫したためごく初期から資源不足に
なり始めており、41・42年で240万トンもストックに手をつけている。


○当時日本の鉄鉱石の89%は中国産であったが、これも連合軍の
爆撃で43年上半期の月平均輸入量37万トンから後半期25万トンへ、
そして44年12月には3.7万トンにまで低下した。


○食料用としても、工業用としても重要な塩の供給も似たようなもので、
工業塩で38年を境に41年で供給率60%、43年で50%、44年で40%。
最後の45年には11%となり、年末には火薬(塩は重要な原料)も供給ゼロの
見通しとなってしまった。
さらには肥料の生産・供給にまで悪影響が出、40年を100%とすると以後は
90・64・56・33%とどんどん低下。
それがまた米の生産に悪影響を及ぼし、天候不良やら水田面積の減少やらが
そこに重なって、44年の生産量は37年の10%、45年では40%もの減少と
なった。


○船腹の不足は国内輸送も満足に行い得ず、43年1月からは輸送力不足で
炭坑から遠い本州・四国地域の一部で石炭供給が停止された。


○資源の不足は建築材料にも当然影響し、43年前後には航空機工場の新設も
難しくなる程で、43年初頭ごろからは各航空機会社の間で航空機工場への
転用が容易な紡績工場の争奪が激しくなった。


○ドイツでは空爆を恐れて工場を未開発の地方や森林の中に散開して
建設したが、日本では逆にわざわざ開戦後工場を一ヶ所に集めている。
このためドイツでは27ヶ月で9万トンの投弾量を要したが、日本では
13ヶ月1.6万トンでけりがついてしまった。


○戦略爆撃で受けた全体の工業生産能力に対する被害率は20.1%となる。
また爆撃によって都市人口の30%が住宅を失い、労働力も空襲や
空襲警報に少なからず影響を受けている。
中には50%もの欠勤率を示す産業(電気機械)もあった。
また3月10日の東京大空襲の後の出勤率は相当に酷かったという。


○最終的には下関海峡にまで機雷が投下され、通行量がピーク時の12%にまで低下。
また修理施設は海峡の向こうにあるために船舶の修理もままならないと
いう状況に陥った。


3、杜撰な戦争指導


軍需生産の拡大(単位 億円)
ーーー4041 424344
国民総生産(A)398 403406 451493
中央政府軍事支出47 6699145 202
*軍需産業への資本投下額 28254549
小計(B)4794124190251
B/A11.8%23.3% 30.5%42.1%50.9%
*民間総資本形成中

41ー42年にかけて軍需産業への資本投下が何故か減っている上、
軍需生産伸び率も7%の増加にとどまっている。


戦時中の商船建造(単位 トン)
年次貨物船・客船その他油槽船合計
41年12月4929(3隻)975(1隻)5994(4隻)
42年23万9千(70隻)2万(7隻)26万(77隻)
43年51万4千(200隻)25万4千(54隻)76万9千(254隻)
44年107万(499隻)62万(204隻)169万(703隻)
45年47万(169隻)8.5万(28隻)55万(188隻)
合計2307万(932隻)93万(294隻)3293万(1226隻)

石油を求めて戦争を始めたはずなのに、肝心の石油を内地に運ぶタンカー 建造が完全におざなりだった。 またこのタンカーを護衛するための艦船建造も(4〜5ヶ月で完成する ような小型艦である)同じように忘れ去られ、42年中に起工されたもので わずかに30隻、それも43年5月まではその第一船さえ完成していないという有様で、 連合艦隊も「通商護衛などには駆逐艦の一隻も割くわけにはいかぬ」と いう態度だった。 実際、42年10月から43年10月までに936船団、4591隻の 航行があったが護衛がついていたのは65%にすぎず後は全て丸裸であり、 その護衛も商船5隻に対し護衛艦1隻、多くて2〜3隻という状態であった。 その結果蘭印の石油は一番多かった年でさえ生産量の50%も輸入されず、 商船乗組員の死亡率は46%、出港すると半分の船員が生きて還らないと いう事態となって返ってきた。 ちなみにそういった海上護衛を専門に請け負う部署が新設されたのは 43年11月15日。 その上権限も小さく、ろくな装備も回されないのは同じであった。 なお、参考までにアメリカの商船建造量をあげると貨物船(標準・戦時型合計)が 9082万トン(9226隻)、タンカー1137万トン(705隻)、 合計1億219万トン(9931隻)であった。 ○緒戦の快勝に酔っていた、とはよく言われることではあるが、戦争 経済指導の面でもこれは同じで、開戦後一年は軍需生産でも行政でも これといった重点的措置は取られぬままに過ぎていった。 上記の統計でも42年のタンカー建造量はわずか2万トンであり、 この少なさは後年全造船中の3分の1をタンカー建造に充てても 追い付くものではなかった。 航空機生産でもこれは同じで、42年第一四半期の月産数は 約660機で、以下730・950・1060機とかなり遅々と した増産ペースに留まった。 ○当時は「国力の根幹を養う」「国力の再編成だ」と盛んに喧伝されたが、 実際に「国力」とは何かという研究になるとほとんど行われておらず、 国立の総力戦研究所が開戦前に対米戦争のシミュレートを行ったくらいだった。 また、そのシミュレートの成果(ちなみに日米必敗であった)も東条英樹内閣の 閣僚レベルに限定された上、情勢判断に生かされることはなかった。 ○開戦後は少ない船腹を陸軍・海軍・民需で食い合う形となり、ガダル カナル島をめぐる戦闘では陸軍が船腹の取り合いで作戦部と軍務局の 責任者が殴り合いを起こし、あげく作戦部長が首相を侮辱すると いう事件まで起こったが、そういった問題に対処するための 船舶を陸海軍・軍民関係なくより効率的に運用することを 目的とした一元的な船舶管理機関が設立されたのは昭和20年4月。 この時掌握出来た船舶は40万トンに過ぎなかった。 ○海運においては港湾における労務が小さくない役割を持つが、当時の 日本はこれが全くおざなりにされており、港湾労務者は確固たる組織も なく定まった雇用主もおらず、また陸上の工場一般と違って港湾労務に 対する法令整備もなければ詳細な輸送・出荷計量や、それに対応する だけの荷主間における一元的統制機構といったものも存在しなかった。 (少なくとも43年11月の段階では存在していない) また役所の縦割り行政がひどく、港湾そのものは内務/大蔵省に、倉庫業は 商工省に、海運連絡及び仲仕は逓信/厚生省、臨港鉄道は鉄道省と バラバラに管轄され、前述の港湾労務に対する政府の無策と、全体の8割は 人力に依っていたという港湾施設の機械化の遅れも手伝い、日本の全港湾 荷役能率はサンフランシスコ港のそれに及ばなかったという。 (このうち、縦割り行政については43年11月の行政改革で一応改善された) 実際、当時の日本の船舶の1ヵ年間の活動期間中約180日は出荷のために 入港している状態だった。 ○45年の戦艦大和の水上特攻は「航空機が特攻しているのに水上部隊だけ 高見の見物というのはきまりが悪い」という理由で発案されたのだが、 実行にあたっては海上護衛部隊に回すはずの石油で出撃していった。 護衛部隊が要求した最低必要量は7000トンであったのだが、4000トンが この意味のない特攻に使われ海上護衛に回されたのは残りの3000トンに 過ぎなかった。 このため対潜作戦や物資輸入にますます悪影響を及ぼしている。 ○地域別戦費では陸軍は中国・満州に20〜50%、海軍で5〜30%を支出。 南方地域へは陸軍が5〜23%、海軍で1%〜10%と主戦場である はずの南方地域への出費が対中国支出に圧倒されているという奇っ怪な 数字を示している。 ○開戦後の作戦で船腹がどんどん民需から持っていかれ、41年 12月で174万トンだったのが42年第一四半期で159万、 そのため12月の輸送量は241万トン・43年第一四半期平均で 216万トンに減少。これは41年第一・第二四半期の月平均 500万トンと比べると半減になってしまっている。   ○43年9月の戦力配置をみると陸軍は南西地域に13個師団、南東 地域に5個、中国に26個、満州に15個、本土に11個の計70師団。 海軍はマーシャル・ブーゲンヒル・ラバウル・ダンピールの長大な ライン(直線距離で結んで3000km以上)に固執、ただでさえ少ない 戦力を分散配置するという愚を犯していた。 ○国家の存亡をかけた大戦争の最中でも陸海軍は激しい内輪揉めを 繰り返しており、例えばドイツから航空機のエンジン生産ライセンスを買う時も ドイツ側が日本政府として契約すればライセンス料も少なくて済むと勧めたにも 関わらず結局陸海軍で別々に契約し国費を無駄使いし、ヒトラーに 「日本の陸海軍は宿敵同士か」と笑われることとなった話や、 陸海軍で同じ13mm機銃でも共用性がない別々の弾丸を生産して いたというのは有名な話である。 ○昭和18年8月、米軍の反攻に対し陸海軍の統合問題が浮上。 軍令部、参謀本部の源田実中佐と瀬島龍三少佐がその案をまとめ 提出したが、海軍上層部があっさりと否決。そのために次は航空兵力の 統合問題が焦点となり、海軍は全兵力の海軍集中を求めて次のように主張した。 「対米戦とは太平洋に分在する基地を守り、寄せ来る米海軍を撃退する ことである。その場合、もはや海戦も空戦化している現状に照合すれば 最も必要なのは航空兵力となる。一方、陸軍機は洋上飛行ができないので 対艦攻撃には役立たない。しかし、基地防衛あるいは訓練して海上作戦に 活用することも考えられる。いずれにせよ、太平洋の防衛線を噛み破られたら 戦局は一気に悪化するのだから航空兵力を海軍に集中するのは当然である」 これに対し陸軍は反発、 「戦争は米国が主敵であるにせよ、陸軍は北のソ連に備え、中国軍と も戦わねばならぬ。東南アジアも防衛しなければならない。だいいち、 太平洋で海軍が押され続けている以上、むしろ来攻する敵にそなえる 陸軍航空兵力の増強こそ必須ではないか」 と反論し論争となり、結局は昭和19年度の生産目標5.5万機のうち 陸軍2・9万、海軍2・6万にするということで決着した。 しかし、後になって19年度のアルミ生産量が減少し21万トンになると いう報告がなされるや否や論争が再開され、陸軍は15万トンを要求。対する 海軍は16万トンの要求を出し、両者とも要求を絶対必要量として断固譲歩を拒否。 そのため前記の航空機配分論争と併せて約5ヶ月も大揉めに揉め、 とうとう昭和天皇から直接注意されるに至りようやくアルミ生産量を 0・5トン延ばした上で海軍11・1万、陸軍10・4万という 分け前になって決着した。 ちなみにこの年の実際のアルミ生産量は11万トンであり、21万トンと いう数字は企画院が陸海軍の要求に押されてそんなに生産できないと 知りつつ提出した数字であった。 ○三菱重工業の技師の証言としてこんなものもある。 「外国の新規種のデータを入手した時は、陸海軍は常に研究の 先陣争いをし、業者は陸海軍の研究終了後にモデルと材料を渡され研究に 着手したため非常に手遅れとなった。 さらに陸海軍いずれにも外国航空機のデータを業者に下付する時には、 ただ一つの制作所を選び、データを与え、その内容なり目的なりは 他社には絶対秘密とされていた。従って陸海軍ともに同一の外国航空機について 内密の調査、改良、試作を別々の会社に命ずるという奇妙な事態が多かった。 また一会社内で陸海軍双方の仕事を行う場合すら陸軍作業場、海軍 作業場と区別されていた」。 こういった陸海軍平行の兵器生産が改善されたのは45年3月のことだった。 小銃の生産だけは陸軍が一括生産して海軍に分けていたが、それもシナ事変2年目で 話し合いがつかず、海軍も新しく小銃工場を建設するという始末であった。 ○南方の油田地帯を制圧した際、日本陸海軍は協定を結んで占領地域を 分割担当したのだが、その結果陸軍が南方油田の約85%を支配し、 より石油消費が多いはずの海軍は残りの15%ということになった。 (海軍がそれだけで足りると甘い見通しをしたことも原因だが)   また、石油に関する陸海軍の内輪揉めとしてはこんな事件もある。 「(昭和17年の)11月のある日、海軍のタンカー黒潮丸ほか一隻が 何の通告もなしにパレンパン(陸軍管轄)に入港してきた。 海軍は時あたかもソロモン海域で死闘中であり、バリクパパン(海軍管轄)での 給油が不可能であったので、急遽事前連絡なしに補給を求めてパレンパンへ 来たというわけであった。 しかし、パレンパンでの海軍側での補給は、本廠により船腹割当が 決められており、支廠長の一存で割当を変えるわけにはいかなかった。 許可願いを本廠に打電したが、予定外の補給は東京に 請訓し、陸海軍石油委員会での協議事項になるので、返事は一週間ほど 要することになる。 海戦はそれまで待ってくれるはずはなく、中村支廠長は武士の情けで、 一日滞船した時点で、独断で給油を命じた。 喜んだ海軍の担当将校は、船が島に隠れるまでブリッジに立って帽子を振っていた。 支廠長らは作戦要務令に認められた「独断の適例」であり、上層部も やむを得ない措置として認めると確信していた。 しかし、本廠からは 『今後、一ドラム缶といえども許可なくして海軍への補給まかりならぬ』 という厳しい叱責が下った。 こんなこともあり、海軍側では後に米戦略爆撃調査団に 『陸軍は故意に海軍を石油不足に陥れたことは間違いない』 と供述する関係者が出る始末であった」 (「石油技術者たちの太平洋戦争」より 一部要約、カッコ内全て筆者) ○レーダーや原爆の研究も、陸海軍で相互情報交換のないまま行われていた。 それどころか同じ海軍内ですら航空機用と艦船用のレーダーでは 別の部局が別個に行っていた。 ○上でも触れたが、縦割り行政は陸海軍のみに留まらず一般省庁にも 及んでおり、例えば生産上の行政を見ると労務は厚生省、輸送は 逓信・鉄道両省、資金は大蔵省と所管が分かれ、事務的に煩雑である のみならず労務が厚生省から認可されても資材の許可が商工省から おりず、資金調達ができてもそれに合わせた資材の入手ができないと いった混乱が起こっていた。 また官僚の権限・縄張争いも多かったようだ。 ○工業生産ではドイツ技術の輸入の場合はドイツ規格、アメリカ技術輸入の 場合はアメリカ規格といったように規格が乱立し、例えば42年度の 機関車の制式は37、電車同じく37、貨車94種といったようにやたら めったら乱立していた。 ○嘘の代名詞ともなった大本営の虚偽の戦果報告は、当局から出される 生産要求が「なぜ勝っているのに?」と疑いの目でみられ、生産力の 過剰拡大は戦後困るのではないかという不安を招いたあげく、貴重な アルミの横流しが横行するという原因をつくっていた。 42年ですら航空機工業向けのアルミは69%に過ぎず、大量の アルミ屑がリサイクルされずに弁当箱や薬缶になり、闇商人の私腹を 肥やしていたという。 アルミ工業に商工省の管理の手が入るのが43年6月と遅かったことも 横流しを防止し得なかった原因の一つと思われる。 ○開戦直後に立てられた造船計画をみると、42〜45年で1年あたりの 造船量は減らしていく予定であったのだが、その根拠は 「アメリカ人は潜水艦が大嫌いだからあまり使ったりはしないだろう」 という驚くべきものであった。 ○1937年春、日中戦争のために生じた諸問題を解決するために 企画院が設置された。(10月に権限拡大) ただし、これには執行権がなく、計画書を閣議に提出して承認・実行を 請うだけで、それから後は各省庁が自己責任でやるのみであり、計画と 統制を一元的に行うには甚だ不十分であった。   そして太平洋戦争突入後、生産水準引き上げが急務であることを最終的に 確認したのは42年暮(!)。 最初に行われたその問題に対する試みは42年11月組織された 緊急閣僚教育委員会。 それより二ヶ月後、東条英樹は首相に他の閣僚を監督し、また戦争 経済全般を指導する独裁権を付与する案を議会に提出。 激しい論争の後議会は非常大権を可決、43年3月17日に勅裁を得た。 さらにそこから遅れること八ヶ月、各省機能再編成の中心として軍需省が発足。 43年11月に行われたこの変革は、戦争経済の統一的指導を目的としていた。 軍需工業全般の行政権は軍需省に付与されていた。 しかし、その時でさえも陸軍省・海軍省は軍需省の権威には完全に 従わず、多くの場合軍需相は陸海軍大臣の仲裁をつとめねばならず、 それどころかいよいよ追い詰められた19年と20年になると 軍需省側ではもう分けることができなくなり、軍需の合計だけ出して 「あとは陸海軍で分け前をお決め下さい」と匙を投げざるを得なく なり、忙しい両軍務局長が直々に乗り出して40日も議論した末に 結局折半ということで落ち着いたという事例もあった。 結局これでも行政権限の集中化は不十分で、最後まで資材割当に関する 単一で実行力のある中央機関は作られずに終わった。 それどころか、44年7月に成立した小磯内閣の軍需大臣藤原銀次郎氏は 民間人であったために陸海軍大臣と同格の資格が認められず最高戦争 指導会議への出席を拒否され、軍需省への各自の調達要求書類提出も 拒否され、戦争の真相はひた隠しにされで戦力増大に重要な役割を 持つ大臣であるにも関わらず埒外に置かれる始末で、おまけに軍人は 軍需大臣の責任ばかりを追求。 とうとう藤原氏は耐えかねて就任6ヶ月で辞職してしまった。 後に藤原氏は「軍需大臣就任は一生の中で一番の錯誤だった」と 回想している。 ○戦局が悪化した初期は、生産増大上の障害となっていたのは労働力の 不足であった。大工場は軍の応召と中小工場が法外な賃金をバラまいて 行った熟練労働者の引き抜きとで基幹工員が激減し、そこに急激な 増産計画が押し付けられた。この結果大規模徴用が数次に渡って 行われ、今まで工業と無関係だった人員が大量になだれ込んできた。 そのため転職前と現在の収入を比較し終日愚痴をこぼす人や、製品の 質や量に全然無関心にのんびりと一日を過ごす農村人のかもし出す 雰囲気が支配的となり、従来の生産を維持することがきわめて難しく なった。またこれらの工員徴用も宿舎・食糧・通勤等の受け入れ体制が 不十分なまま机上の計画で大量に割り当てられ宿舎の治安は大幅に低下していた。 ○後期になると今度は質の低下と量の過剰が問題になった。熟練工は 前述の通り引き抜きやらで分散してしまったのに加え、重要工場の 召集免除申請などおかまいなしに行われた幾度の軍事召集で激減し、 そこに現場を知らぬ官僚が紙上計画に従い数を揃えれば、というわけで これでもかこれでもかとばかりに未熟工を派遣してきた。そうなると 材料があるうちはまだしもとぎれがちになるとあちこちでぶらぶらする だけで一日を潰す人間が増えて行った。しかしその一方では働き手を 工場に取られた農村は労働力不足で困っているという有様で(既にこの時 食糧不足に陥り、労働者が工場を休んで買い出しや家庭菜園の耕作に 狂奔していたにも関わらず更なる徴用が行われていた)、全く不合理な 統制が行われていた。 他にも一年とどまって働くはずの学徒が突如他工場へ移動するという 例も多く見られ、極端な例になると一日や一週間という期限で派遣されて くる学徒までいた。当然、そんな短い期間では作業を修得できず、 逆に現場を混乱させるだけだった。 ○労働力と資材の統制もいい加減で、国民徴用令の発動と資材配給 機構の整備が個別に行われていたり、適当なドンブリ勘定で出した 企業の要求をまたドンブリ勘定で計算した統制で答えていた。 ○また統制生産のために各産業に企業から人員を募っての統制会が設置 されたが、これは権限委譲を渋ったり、関係省庁がそもそも無関心であったりと いう政府の指導不足や、企業の人員派遣や統制会の視察を拒否したり、 役員が自分の立場を利用してスパイ行為を働いたりといった非協力的態度の うえに、権限不足や会自体の官僚化に小型統制会の多数乱立、財閥の 影響力から逃れ得ないといった問題など、様々な欠陥を抱えていた。 43年には繊維・化学・油脂等の産業を対象とした統制会の設立が考えられたが、 これは関係官僚の見解の対立があって決定されるまでに5ヵ月も要した。 ○奇妙な精神主義は後方の下級官僚にまで及んでおり、例えば工場建屋を それぞれ100m程離して林間に隠し空爆に備えようとすると 「軍が北に南にと作戦しているのに、いたずらに空襲を懸念するとは何事か」となり、 当時りゅう弾の製造方式を造兵廠では普通旋盤使用と決めていたがこれを 自動旋盤にすれば、最低でも一台で普通旋盤の6〜8台分の仕事をする。 そこで自動旋盤を国産化してこの仕事にあてようとしたが、これも 「工員が汗水流して削り出した砲弾であればこそ戦場で威力を発揮する。 それを自動旋盤に削らせるとはもってのほか」となる。 その実態の前にある民間会社の社長は「米国とだけ戦っているのではない、 帝国陸軍とも戦わないと戦争は勝てない」と嘆いたという。 ○航空機生産においては合金鋼原料の計算にさいし航空機増産を 考慮しなかったため、航空機の需要が増大するや43年に合金鋼規格を 変更することを強いられた。 ○「2、シーレーンの崩壊と戦略爆撃」で見たように、全食料消費量の 2割に達していた輸入は年々低下の一途で、その間国内生産も特に増加 しなかったため輸入分を補うことはできなかった。 だが、それに対し当局は主食の米を大豆や麦で代替するという努力を怠った (44年で全供給量に対する代用食の割合は14%、45年でも18%)ために、 1944年の時点で国民一人あたりの食糧所要量2165キロカロリーに対し 実際の摂取量は1900キロカロリー、45年ではさらに低下して 1680カロリーにとどまった。 また、昭和20年7月21日時点の国民一人あたり配給量を見ると 一日二合一勺(雑穀込みで)しかなく、これを一合九勺にするかどうかと いう段階で終戦を迎えた。 この時の米の残存備蓄量は四日分であった。 ○また、統計的情報の全領域に渡って責任をもつところの単一機関と いうものは日本にはなく、関係部署の個別の資料に頼っていた。 実際、シナ事変から6年経った43年の時点でも統制対象となる産業の 実態把握はあまり進んでいなかったという。 そのため、戦前及び戦時中の日本の経済的発展の真相を正確に 示す経済統計を収集し、校合することは合衆国戦略爆撃調査団の 主要課題であった。


「主は怒りを持ちて軍を興すべあらず、将は憤りを以て戦うべからず。 利に合わば即ち用い、合わざれば即ち止む。亡国は以て復た存ずべからず、 死者は以て復た存ずべからず」 孫子 (君主は一時の怒りから戦争を始めてはならず、将軍は一時の憤激にかられて戦闘してはいけない。 国家の利益に合えば軍事力を用い、そうでなければ用いない。 死者は蘇らず、滅んだ国も戻らない) もどる
参考資料(敬称略・順不同)   「日本戦争経済の崩壊」 アメリカ合衆国戦略爆撃調査団(正木千冬訳) 「石油技術者たちの太平洋戦争」 石井正紀 「貧国強兵」 森本忠夫 「魔性の歴史 マクロ経営学からみる太平洋戦争」 同上 「特攻 統率の外道と人間の条件」 同上 「海上護衛戦」 大井篤 「日本経済史」 永原慶二 「太平洋戦争 日本の敗因1 日米開戦勝算なし」 NHK取材班 「太平洋戦争 日本の敗因2 ガダルカナル学ばざる軍隊」 同上 「太平洋戦争 日本の敗因3 電子兵器『カミカゼ』を制す」 同上 「誤算の論理」 児島のぼる 「戦艦大和誕生 下巻」 前間考則 「面白いほどよくわかる太平洋戦争」 太平洋戦争研究会 「史料・太平洋戦争被害調査報告」 中村隆英・宮崎正康編 「昭和国勢総覧」 東洋経済新報社編 「アメリカ歴史統計」 原書房編 「ルソン海軍設営隊戦記」 岩崎敏夫 「海軍設営隊の太平洋戦記」 佐用泰司 「日本海軍の戦略発想」 千早正隆 「帝国陸海軍 補助艦艇」 学研歴史群像 「昭和16年夏の敗戦」 猪瀬直樹 「日本の粘土の足 迫りくる戦争と破局への道」 フリーダ・アトリー 「国力なき戦争指導 夜郎自大の帝国陸海軍」 中原茂敏 「戦場パプアニューギニア 太平洋戦争の側面」 奥村正二 「日本経済の基本動向」 土屋清 「日本戦争経済の課題」 同上 「日本戦時海運論」 藤川洋 「日本戦時経済読本」 小島精一 「戦時日本重工業」 同上 「日本重工業読本」 同上 「戦時経済国策大系 戦時経済と交通運輸」 長崎惣之助 「戦時経済国策大系 戦時経済と海運国策」 安田丈助 「戦時経済の実際問題」 東京日日新聞社編 「海運」 岡崎幸黍 「ジャパニーズ・エア・パワー 米国戦略爆撃調査団報告 日本空軍の興亡」 大谷内一夫訳 2002年7月11日 掲載 7月19日 改訂(文章追加) 7月31日 改訂(文章追加) 8月8日  改訂(文章追加) 9月9日  改訂(文章追加) 9月27〜10月3日 改訂(文章大幅追加) 11月7日 改訂(文章・付記資料追加) 11月8日 改訂(文章追加) 11月13日 改訂(文章追加) 12月5日 改訂(文章追加)
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