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ヴェルヌに関する評論(1)

== KISAICHI Yasuhiko (1933--) ==

私市保彦 :: 十九世紀を駆けぬけた編集者エッツェル :: 水声通信 2006(13), pp.44--50
私市保彦 :: 十九世紀フランス文学情景---エッツェルをめぐる大作家たち(バルザック、ユゴー、ヴェルヌ) :: 武蔵大学人文学会雑誌 2000(31-3), pp.49--80
私市保彦 :: ヴェルヌ「青少年時代の思い出」とヴェルヌ伝説 :: 武蔵大学人文学会雑誌 1999(30-4), pp.91--107
ヴェルヌの貴重な自伝的エッセー「少年時代の思い出」をオリジナルの原稿から翻訳し、それをもとにヴェルヌの少年時代の逸話について考察する。有名なコラリー号の密航事件についてはすでにオリヴィエ・デュマらによって創作ではないかと指摘されていたが、このヴェルヌ自身のエッセーで触れられていないこともそのひとつの傍証ではないかとしている。 NEW!!
私市保彦 :: 未来はバラ色か---ジュール・ヴェルヌ :: 週刊 朝日百科 世界の文学 1999(19), pp.274--278
私市保彦 :: 『文明の帝国---ジュール・ヴェルヌとフランス帝国主義文化』(杉本淑彦) :: 比較文學研究 1998(71), pp.138--142
ヴェルヌ作品に見られる人種観や帝国主義意識について痛烈かつ執拗に批判した表題書籍の書評。全作品を読破しての網羅的研究に対して一定の評価はしているが、テキストから切り離して民族観や政治思想のみを論じることに批判の目を向けてもいる。『文明の帝国』を読んで何か割り切れないものを感じた人には、ぜひ一読をお勧めしたい。
私市保彦 :: 『八十日間世界一周』の移動装置、あるいは「はじめに移動ありき」 :: InterCommunication 1992(1), pp.82--88
私市保彦 :: ジュール・ヴェルヌ---科学と神話 :: へるめす 1991(30), pp.25--34
単なる少年向けの冒険小説や古典的空想科学小説の域を超えて、ヴェルヌの作品群がいかに多様な読みの可能な豊穣な文学であるかを、様々な作品を例に引きながら概観する。『ロビンソンの学校』にかなりの行数が割かれているのをはじめ、幾つかの未訳作品にも言及されている。
私市保彦 :: 世界崩壊の象徴としてのSF---ヴェルヌからバラードへ :: カイエ 1978(1-6), pp.137--145
J. G. バラードの長篇群や1960年代のSF映画に描かれた終末観について概観したうえで、その原型をウォルポールやポオに求め、さらにヴェルヌとの親近性について論じる。バラードの終末世界を想起させるヴェルヌの作品として『永遠のアダム』を挙げ、そこに見られる循環的時間の観念がニーチェとは別にすでに『神秘の島』にも見られることを指摘している。
私市保彦 :: 夢想家ヴェルヌ---その生涯と作品 :: ユリイカ 1977(5), pp.80--102
私市保彦 :: 空想旅行文学---ロビンソン・クルーソーとジュール・ヴェルヌの三部作 :: 『講座 比較文学[7] 西洋文学の諸相』(東京大学出版会 1974)
私市保彦 :: ジュール・ヴェルヌと永劫の旅人たち---三部作をめぐって :: 比較文學研究 1970(17), pp.88--103

== NAKAJIMA Hiroko ==

中島廣子 :: ジュール・ヴェルヌにおける空想の都市 :: 都市とフィクション(COE国際シンポジウム報告書) 2003, pp.121--147
ヴェルヌの小説に描かれる都市像を四つのパターンに分類して考察する。メジャーな作品ばかりでなく、西暦2000年のアミアンについて講演した『理想都市』にも言及されている。
中島廣子 :: ジュール・ヴェルヌの作品における《メディア》 :: 『神話・象徴・文学[3]』(楽浪書院 2003)
中島廣子 :: SFの2人の先駆者---ジュール・ヴェルヌとヴィリエ・ド・リラダン :: 年報フランス研究 1996(30), pp.163--175
中島廣子 :: ジュール・ヴェルヌ---驚異の牢獄 :: 人文研究(大阪市立大学文学部紀要) 1993(45-9), pp.843--866
ノーチラス号、地下世界、カルパチアの城などヴェルヌのさまざまな小説に登場する閉鎖空間に着目し、そこに描かれる人工的な「驚異」への嗜好が同時代のヴィリエ・ド・リラダンやユイスマンスら大衆に背を向けた作家たちと共通のものであると指摘している。

== ÓTOMO Noriaki ==

大友徳明 :: 神秘の島---魅力溢れるロビンソン譚 :: 関東学院大学文学部紀要 2001(94), pp.157--170
『神秘の島』の原型的作品として1870年に書かれた『ロビンソン小父さん』が未刊に終わったことや、ネモ船長の最後の言葉がエッツェルによって書き改められたことが紹介されているのが目を惹くが、全体としては作品紹介に徹しすぎている感が否めない。
大友徳明 :: 二人のジュール---作家と出版者の強固な関係 :: 関東学院大学文学部紀要 2000(91), pp.97--116
エッツェルとヴェルヌの往復書簡集に基づいて、『二十世紀のパリ』を含む初期の4作品の成立過程でのエッツェルの関与(あるいは出版拒否)について解説する。『気球に乗って五週間』などの成功により、ヴェルヌのエッツェルに対する発言力が徐々に増していったと結論づけている。充分に行きとどいた内容であり、この辺りの事情について知っておきたい人は一読するとよいだろう。
大友徳明 :: ネモ船長とはだれか :: 関東学院大学文学部紀要 1998(84), pp.3--16
シモーヌ・ヴィエルヌの論説やLivre de Poche版のC. シュルブールによる前書きをもとに、当初ポーランド人として構想されたネモ船長が、エッツェルの強い意向も反映して無国籍の存在となった事情を解説する。

== ISHIBASHI Masataka ==

石橋正孝 :: カニバリズムの修辞学---ジュール・ヴェルヌ『チャンセラー号』の成立事情、エクリチュール、そしてイデオロギー :: Résonances 2006(4), pp.46--52
石橋正孝 :: 観念装置としての気球 :: SITE ZERO/ZERO SITE 2006(0), pp.354--375
石橋正孝 :: ジュール・ヴェルヌの「驚異の旅」が成立するまで---その文化的背景を中心に :: ヨーロッパ研究 2006(5), pp.129--146
石橋正孝 :: 自己を否定する小説家の肖像---ジュール・ヴェルヌの没後百周年を前に :: 未来 2004(458), pp.28--33
石橋正孝 :: 編集という創作現場---『黒いインド』に見るジュール・ヴェルヌとピエール=ジュール・エッツェルの共作の問題 :: 年報地域文化研究 2004(8), pp.22--42
石橋正孝 :: 表現行為としての編集---ピエール=ジュール・エッツェルの場合 :: Résonances 2002(1), pp.129--135
文学者との関係において毀誉褒貶にさらされがちな編集者という立場について、文学的・経済的・政治的という三つの側面からの総合的な評価の必要性を主張し、その実例として、一面的にしか論じられないことが多い編集者エッツェルの再評価を試みる。特にエッツェルのユゴーとの関わり合いが詳しく分析され、のちのユゴーからヴェルヌへの移行は、編集者としてさらなる自己表現の場を得るためだったと結論づけられている。 NEW!!
石橋正孝 :: 『八十日間世界一周』論---ジュール・ヴェルヌと推理小説の黎明期 :: 創元推理21 2002年夏号, pp.222--262
『八十日間世界一周』という作品が、ヴェルヌの作品中でも特に時代遅れになりやすいテーマを扱いながら、現在まで読み続けられて来ている理由について、同作品の中の普段は見逃されている奇妙な箇所に注意を喚起しながら解き明かしてゆく。ホセ・ファーマーやトゥルニエらの関連小説までもが引き合いに出され、読み物としても「推理小説的に」楽しめるものになっている。

== FUJITA Yúji ==

藤田裕二 :: ジュール・ヴェルヌ『カルパチアの城』における「語り」の問題 :: 論叢(玉川大学文学部紀要) 1994(35), pp.229--240
『カルパチアの城』における視点の揺れについて、物語の語りの中でそれがいかに効果的に用いられているかを分析している。とても明解な内容で、ヴェルヌを論じるアプローチとしても新鮮である。
藤田裕二 :: 『緑の光線』について---ヴェルヌとロメール :: 論叢(玉川大学文学部紀要) 1991(32), pp.295--305
ヴェルヌの隠れた名作である『緑の光線』と、エリック・ロメール監督の同名映画を比較する。どちらか一方の作品しか知らない人にも、もう一方に興味を持たせるだけの魅力が引き出されている。
藤田裕二 :: Jules Verneにおける科学と幻想 :: 論叢(玉川大学文学部紀要) 1985(26), pp.287--305
ヴェルヌの小説における空想科学的要素と幻想文学的要素の共存を、主に『ザカリウス師』と『カルパチアの城』の分析から解き明かす。ヴェルヌ愛好者ならその最も空想科学的な作品の中にも幻想的要素が含まれていることに気づいているはずだが、それがいかにして共存し得ているかを説明するのは難しい。その点でこの論評はひとつの方向性を指し示しているのではないだろうか。

== TAKAOKA Atsuko ==

高岡厚子 :: ランボーとジュール・ヴェルヌ--- Illuminations の sources をめぐって :: 梅花女子大学開学三十周年記念論文集 1995, pp.87--101
別の論文でランボーの『酔いどれ船』に『ハテラス船長の冒険』から借りてきたイメージが含まれていることを指摘している著者が、ここでは『イリュミナシオン』中の詩篇『野蛮人』に注目し、そのイメージの源泉がやはり『ハテラス』にあると結論づけている。謎の多い詩篇『野蛮人』が『ハテラス』を参照することによって解読できるという主張は独創的で、同じ著者のヴェルヌとポーを扱った論考に比べてずっと読みごたえのあるものになっている。 NEW!!
高岡厚子 :: ジュール・ヴェルヌとエドガー・アラン・ポー---『氷のスフィンクス』の成立をめぐって :: 梅花女子大学文学部紀要 人文・社会・自然科学編 1995(29), pp.49--62
『アーサー・ゴードン・ピムの冒険』とその続篇として書かれた『氷のスフィンクス』の比較。ポオについてなされている考察と較べると、ヴェルヌについてのそれは皮相的なものに止まる。
高岡厚子 :: ジュール・ヴェルヌとエドガー・アラン・ポー---『海底二万里』の成立をめぐって :: 梅花女子大学文学部紀要 人文・社会・自然科学編 1992(27), pp.47--61
深淵の底で繋がる地球の両極やメールストロムを描いたポオの一連の作品と『海底二万里』の比較。空想家としてのポオと推理・分析家としてのポオという二面性が『海底二万里』のネモとアロナックスに引き継がれていると指摘している。
高岡厚子 :: ジュール・ヴェルヌとエドガー・アラン・ポー---『アトラス船長の冒険旅行』の成立をめぐって :: 梅花女子大学文学部紀要 人文・社会・自然科学編 1991(26), pp.97--108
南極行を描いた『アーサー・ゴードン・ピムの冒険』の後半部分と『ハテラス船長』の比較。どちらの作品についてもあまり深い追及はされていない。
last modified on 2006/12/15