
ジュール・ヴェルヌは明治時代に最も数多く翻訳出版されたフランスの文学者であり、海外文学全体でもそれを上回るのはシェイクスピアくらいしかいないと言われます。ヴェルヌの最初の翻訳は、1878年の川島忠之助による『新説:八十日間世界一周』でした。この翻訳はフランス語原典からの忠実なものであり、フランス文学全体から見ても原典訳の嚆矢として高く評価されています。しかしこれは例外的な存在で、これ以外の多くの翻訳は英語からの重訳であり、抄訳はもちろん原書に忠実でない訳なども多く見られました。
そのような英語からの翻訳者として重要なのは井上勤と森田思軒の二人です。井上勤の翻訳は多くの部分で忠実に英語版をなぞっていると思われますが、ごく一部に縮約あるいは脚色されたような箇所があって翻訳の質を落としているのが惜しまれるところです。翻訳以外で特筆すべき点として、彼の最初の翻訳であった『九十七時二十分間:月世界旅行』では、英語版に入っていた原書の木版挿絵を精密に模した二十二葉の挿絵が入れられました。森琴石によるこの素晴らしい銅版画の挿絵が、当時の日本の読者に与えた驚きは想像するに難くありません。そしてこれ以降ヴェルヌの翻訳は、挿絵の入っているものが主流になりました。
一方、森田思軒は新聞での連載を中心に活躍した翻訳家で、翻訳の質はどうあれヴェルヌの作品をこれだけ多く翻訳した人は他にいません。その中には『大氷塊』 [PF]、『大叛魁』 [MV]、『無名氏』 [FS]といった未だに現代語訳のないものも含まれます。思軒の翻訳の特徴は何と言っても、漢学の知識に支えられたその流麗な文体にあります。中でも「一千八百六十年三月九日の夜、彌天の黒雲は低く下れて海を壓し……」といった名調子で始まる『十五少年』は、明治時代の少年文学を代表する作品として長く愛読されてきました。この翻訳は思軒のヴェルヌ翻訳の中でもかなり圧縮率の高い抄訳の部類に属すものですが、そこに見られる抄訳の技術は特筆すべきもので、会話文を地の文に移し替えたりときには構成も変えてしまうなどかなり自由に翻訳しながらも、ヴェルヌの身上である緻密な細部に対する気配りも忘れられてはいませんでした。
しかし思軒はこの仕事を最後に36歳の若さで早逝し、ヴェルヌの翻訳は長い停滞期間に入ります。出版されなくなったわけではありませんが、そのほとんどがすでに翻訳された作品ばかりであり、中には英訳本などからではなく過去の邦訳書からの再翻訳のようなものまでありました。そうして翻訳の質の低下とともに、原書の挿絵を入れるというような良き伝統も忘れ去られていきました。
| 1878 | 明治11 | 新説:八十日間世界一周 | 八十日間世界一周 | 川島 忠之助 | |
| 1880 | 明治13 | 九十七時二十分:月世界旅行 | 月世界旅行 | 井上 勤 | |
| 二万海里海底旅行 | 海底二万里 | 鈴木 梅太郎 | |||
| 1883 | 明治16 | 亜非利加内地:三十五日間空中旅行 | 気球に乗って五週間 | 井上 勤 | |
| 月世界一周 | 月世界一周 | 井上 勤 | |||
| 1884 | 明治17 | 英国:太政大臣難船日記 | チャンセラー号の筏 | 井上 勤 | |
| 六万英里:海底紀行 | 海底二万里 | 井上 勤 | |||
| 白露革命外伝:自由廼征矢 [改題] 政治小説:佳人之血涙 | マルティン・パス | 井上 勤(?) | |||
| 五大洲中:海底旅行 | 海底二万里 | 大平 三次 | |||
| 1885 | 明治18 | 拍案驚奇:地底旅行 | 地底旅行 | 三木 貞一 高須 治助 | |
| 1887 | 明治20 | 万里絶域:北極旅行 | ハテラス船長の冒険 | 福田 直彦 | |
| 学術妙用:造物者驚愕試験 | オクス博士の幻想 | 井上 勤 | |||
| 仏・曼二学士の譚 [改題] 鉄世界 | インド王妃の遺産 | 森田 思軒 | |||
| 天外異譚* | 彗星に乗って | 森田 思軒 | |||
| 煙波の裏* | 封鎖破りの船 | 森田 思軒 | |||
| 盲目使者 [改題] 瞽使者 | 皇帝の密使 | 森田 思軒 | |||
| 1888 | 明治21 | 大東号航海日記* | 洋上都市 | 森田 思軒 | |
| 大氷塊* | 毛皮の国 | 森田 思軒 | |||
| 炭坑秘事* | 黒いダイヤモンド | 森田 思軒 | |||
| 通俗:八十日間世界一周 | 八十日間世界一周 | 井上 勤 | |||
| 1889 | 明治22 | 探征隊* | グラント船長の子供たち | 森田 思軒 | |
| 大叛魁 | 蒸気の家 | 森田 思軒 | |||
| 一千年後の新聞社* | 西暦2889年 | ||||
| さすらへびと* | 神秘の島 | 楽如先生 | |||
| 霹靂一震* | 南十字星 | 渡辺 台水 | |||
| 1890 | 明治23 | 三英三露:大観測* | 三人のロシア人と三人のイギリス人の冒険 | 原 抱一庵 | |
| ジュールス・ウェルヌ* | ジュール・ヴェルヌ邸にて | 徳冨 蘆花(?) | |||
| 1891 | 明治24 | 余が少時* | 少年時代の思い出 | 森田 思軒 山縣 五十雄 | |
| 1893 | 明治26 | 入雲異譚* | 神秘の島 | 森田 思軒 | |
| 1894 | 明治27 | 無名氏 | 名前のない家族 | 森田 思軒 | |
| 1896 | 明治29 | 冒険奇談:十五少年 [改題] 十五少年 | 二年間の休暇 | 森田 思軒 | |
| 1897 | 明治30 | 仏国小説大家の動静 | ジュール・ヴェルヌ訪問 | ||
| 1898 | 明治31 | 絶島秘事* | 神秘の島 | 緒方 流水 | |
| 1899 | 明治32 | 海賊尼コラス* | エーゲ海燃ゆ | 原 抱一庵 | |
| 1903 | 明治36 | 高加索から北京に至る途上 [改題] 日・英・独・露・仏・伊同乗:大亜細亜鉄道 | クロディウス・ボンバルナック | 原 抱一庵 | |
| 刊否不明 | 地中紀行 | 地底旅行 | 織田 信義 | ||
| 刊否不明 | 北極一周 | 毛皮の国 | 井上 勤 | ||
| 雑誌等への掲載のみの翻訳には*を付けました。[ 翻訳の詳細 ]も参照ください。 | |||||
なお、一部でヴェルヌの作と誤認されている貫名駿一『千万無量:星世界旅行』については、横田順彌氏の「明治十五年の人造生物」に詳しい紹介があります。また、明治22年に『新小説』に連載された森田思軒訳『毛家荘秘事』についても原作者が特定されていません。