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ジュール・ヴェルヌの生涯

Jules Verne (1828--1905)
an portlait of Jules Verne

ジュール・ヴェルヌは1828年2月8日、ロアール川が大西洋に注ぐ河口近くに浮かぶナント市フェイドー島に誕生しました。父方は代々続く法律家の家系で、父親のピエールは海事法に通じた代訴人でした。一方母親のソフィーは軍人や船乗りを輩出した家系に生まれ、彼女の縁者には画家や探検家が含まれます。ジュールの小説家としてのたぐいまれな才能は、このような対照的な両親のもとで育まれたのです。

11歳の夏にシャントネーの別荘をこっそり抜け出して西インド諸島に向かう帆船コラリー号に乗り込んだ逸話は特に有名です。ジュール少年の目的は初恋の人であった従姉のカロリーヌに珊瑚の首飾りをプレゼントすることでしたが、父親の必死の捜索の結果、コラリー号が海に出る前に最初の寄港地で連れ戻されてしまいます。このとき父親にこっぴどく叱られたジュールは「これからは夢の中だけで旅行します」と約束したといいます。ただ、この逸話については、あまりにも話がうまくできすぎていることから、その信憑性は疑わしいというのが今日の大方の見方です。というのも、「首飾り」、「珊瑚」、「カロリーヌ」、「コラリー号」という四つの名詞は、原語では collier, corail, Caroline, Coralie というほとんどアナグラムのような組み合わせであり、ヴェルヌ自身その著作の中でこうした言葉遊びを多用しているからです。

厳格な父親は長男のジュールに家業を継がせるべく法律を学ばせますが、ジュールはそのかたわらでユゴーやデュマを耽読し劇詩や芝居の台本を書いていました。20歳でパリに出て学位論文までは通りますが、デュマ父子と知り合って劇場に入り浸るようになり、結局弁護士への道は放棄してしまいます。そして22歳のときにデュマ・ペールの後援で上演した喜劇『麦わらの賭け』はまずまずの好評を博し、その後も幾つかの喜劇やオペレッタが上演されます。しかしそれらの興行から得られる収入は大したものではなく、劇作の一方では公証人の秘書をしたり株式仲買人として働いていました。こうしてジュール・ヴェルヌの創作は演劇から次第に小説へと遷ってゆきます。

初めて世に出たヴェルヌの小説は、23歳のとき雑誌『家庭博物館』に掲載された『メキシコ海軍の最初の船』と『風船旅行』でした。その後も幾つかの作品が同雑誌に掲載され、その中には『ザカリウス親方』や『氷の中の冬ごもり』など後のヴェルヌ作品の原型ともいえる興味深い作品が含まれます。ヴェルヌはこれらの作品のために地理や航海や科学に関するさまざまな本を耽読し、冒険家のジャック・アラゴーや従兄の数学者アンリ・ガルセらと交際し見聞を広めていました。しかしヴェルヌに小説家としての大きな転機をもたらしたのは、作家・写真家さらに冒険家として知られていた友人のナダールでした。後の作品の中で綴りを逆にしてアルダンという名前で登場人物にもなっている彼は、1862年に直径30メートルを超す巨大な気球«巨人号»を作る計画を発表し、これが『気球に乗って五週間』を書くきっかけになります。

『気球に乗って五週間』の草稿を読んで高く評価したのが、編集者で作家でもあったピエール=ジュール・エッツェルでした。当時エッツェルは児童図書の出版に乗り出し、子供や若者を対象にした雑誌を計画していたところで、子供から大人まで幅広い読者が見込める新しい才能はまさに彼が探し求めていたものだったのです。こうして1863年に刊行された第一作『気球に乗って五週間』はベストセラーとなり、ジュール・ヴェルヌは一躍流行作家となりました。翌年には『教育娯楽雑誌』が創刊され、これ以降ヴェルヌの作品はまず同誌に掲載されたあと、«驚異の旅»シリーズと銘打たれた豪華な挿絵本としてエッツェル社から出版されることになります。エッツェルとヴェルヌのあいだの出版契約はその後何度か更新されながら、エッツェルの死まで継続されます。編集者エッツェルはヴェルヌの草稿に細かく注文を付け、ときには自らストーリーのアイデアを提案するなどしてヴェルヌの小説に大きな影響を与えました。

(つづく)

last modified on 2004/02/21