『西遊記』をめぐるシリーズ 1
  インテリの「三蔵」  だからこそ国際人になってほしい人のためのコラム 13




 孫悟空といえば三蔵法師。三蔵法師といえば孫悟空。『西遊記』
で有名な玄奘三蔵には、半ば無意識的に、こんな連想ゲームが働く。
 ところが実際には、三蔵法師というのは固有名詞ではないらしい。
「三蔵」とは、経蔵、律蔵、論蔵という3種類の教え。その3つに
深く通じ、あるいは伝え訳した高僧に与えられる称号、それが三蔵
法師だという。だから玄奘だけが三蔵なのではない。ほかに義浄、
金剛智、不空など、多くの三蔵法師がいるわけだ。

 それでも玄奘が三蔵の代名詞的存在になっているのは、もちろん
『西遊記』の影響も大きいのだろうが、やはり玄奘こそが、中でも
突出した存在だったからだろう。
 何しろ訳した経典の数は1340。これは中国語に訳されたすべての
経典の数の、実に1/4弱にあたる。その中には『大般若経』『成
唯識論』『異部宗輪論』など、きわめて重要なものも多い。特に
『成唯識論』は、彼が10年間におよぶインド留学中に学んだ唯識論
の、集大成的なものである。

 そんな玄奘三蔵だが、肝心の『西遊記』の中では、何とも優柔不
断で無能なリーダーとして描かれることが多い。実際に妖怪を倒し、
積極的に先へ先へと向っていくのは、完全に部下たちである。玄奘
はといえばお題目を唱えるだけで、最後には助けられてばかりいる。
これでは『西遊記』の主人公を孫悟空に奪われてしまうのもやむを
得ないことだろう。

 いや、それだけならまだいい。
 『西遊記』にはいくつかのバリエーションがあるのだが、その中
の一つ、宋代に成立した『大唐三蔵取経詩話』では、食いしん坊の
玄奘が悟空らしき行者に、桃の実を盗むようにけしかける場面があ
るという。実に高僧にはあるまじき行為ではないか。
 もっとも、明の時代にできた『西遊記』では、逆に人参果を盗ん
だ孫悟空や猪八戒をきびしく叱責する、人格高潔な玄奘に変わって
いるのだが。

 優柔不断であるかどうかはともかく、こういった玄奘のモラルに
ついての矛盾がなぜ生じたのか。太田辰夫氏はこれをきれいに解き
明かしている。
 そのカギは、前述したように「三蔵法師」が固有名詞ではないこ
と。具体的には、善無畏というインド人の三蔵法師がいけない。粗
野で食いしんぼうだったこの善無畏法師のエピソードが、同じ三蔵
ということで、いつのまにか玄奘の行為と混同されるようになった
のだろうという。

 となると、やはり明代の『西遊記』にあるように、玄奘とは虫も
殺さぬ聖人君子だったのか。
 しかし一方で、玄奘が国禁を犯す形で唐を出国したのも事実であ
る。日本では戦後の混乱期に、ヤミ米を頑として食べずに餓死した
司法関係者がいたが、玄奘は決してそんな杓子定規の堅物ではなか
った。だいたい、いかに部下が汚れ役をひきうけたとしても、司令
官が正直一途で、あんな大旅行ができる訳がないではないか。そう
考えると、善無畏ほどでなくても、それに近い粗暴さが、玄奘にも
あったのかもしれない。

 『西遊記』の作者はインテリである。一方、『大唐三蔵取経詩話』
を編んだのは庶民だといわれている。
 「だから前者には嘘がある」。かつて魯迅はこう決めつけた。そ
こまで単純に言いきれるかどうかはともかくとして、インテリほど
「あれだけ有名なお坊さんなんだから人格高潔に違いない」という
建前論に縛られやすいのは確かだろう。

 無知による誤解は怖い。しかし建前やタブーによってバイアスさ
れた理解はもっと怖い。教育の普及やメディアの発達により、いわ
ば一億総インテリとなった日本。情報が溢れかえる中で、われわれ
一人一人が、そんな建前論に縛られて〈にせの三蔵〉を作り上げて
いないかどうか、今一度振り返ってみる必要があるだろう。



                〈クラブ4WD〉加藤良平


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