
科学は宗教か だからこそ国際人になってほしい人のためのコラム 8
かつて米国で面白い訴訟があった。プロテスタントかカソリック
かは忘れたが、とにかくキリスト教の熱狂的な信者たちが、どこか
の州政府に対して、次のような主張をしたというのである。
「初頭・中等教育で進化説を教えるなら、それと同じ時間だけ、
旧約聖書の創世記を教えることを、法律で義務づけるべきだ」。
最初にこの話を聞いた時、ずいぶんと乱暴な議論だな、と感じた
ことを覚えている。いくらWASPが幅をきかせる社会とはいえ、
国家宗教でも何でもない、単なる「多数派宗教」のキリスト教を、
近代科学とまったく同列に扱おうというのだから。それなら仏教の
輪廻思想だって教えるべきだろうし、イスラム教の終末思想やヒン
ドゥー教の神話世界だってとりあげなければならないことになる。
いや、4大宗教に限定する必要もない。ユダヤ教信者が、ゾロア
スター教信者が、そして日本神道の信者が。「それなら我々の教え
も」といってきたとしても、それを拒む理由はまったくないだろう。
しかし本当にそうなのだろうか。もちろんキリスト教を特別扱い
する必要はまったくない。しかしもっと基本的なところで、科学そ
のものが、結局は一つの宗教だといっていいんじゃないだろうか。
どのみち、科学で説明できることは、森羅万象のうちほんの一部に
すぎないのだから。
そういう目で改めて「科学」と「宗教」(特にキリスト教)の関
係を見直してみると面白いだろう。冒頭に挙げた進化説と創世記の
関係からいえば、科学と宗教は真っ向から対立しているように見え
る。或いは、呪術→宗教→科学という発展段階を考え出した文化人
類学者(ジェームズ・フレイザー)もいた。ここでも宗教は、呪術
よりは進んだ段階にあるとはいえ、やはり「科学」という、より積
極的に自然を支配するものに替わられることを前提にしているよう
である。
しかし実際には、近代科学とキリスト教はそれよりはるかに密接
に結びついている。トータルなストーリー。人間中心主義。契約と
いう考え方。両者には、方法論的差異を超えて、共通するところが
多い。
たとえばキリスト教に苦しめられた科学者といえばガリレオだが、
それと同時期に惑星力学を研究していたケプラーは、当時発見され
ていた惑星の個数(6個)に神の数学的意図を見いだし、それに新
プラトン主義の神秘思想を重ね、惑星の楕円運動を導いたという。
実際には惑星の数はもっと多いし、現にガリレオは同時期に海王
星を発見してもいたのだが、彼はそれを恒星と思ってしまったらし
い。少なくとも現代物理学の発達という観点で見れば、ケプラーが
受けた「神の啓示」やガリレオの「思い違い」は、非常にラッキー
な偶然だったことになる。
或いは最新の宇宙物理学。そこに現われるビッグバン(金融改革
ではなく宇宙の始まり)やビッグクランチ(宇宙の終わり)の存在
に関しては、かなり否定的な観測事実も多いのだが、それでも一部
の学者は、執拗にその矛盾を解明できる理論を探そうとしている。
米国ジャーナリストのエリック・ラーナーは、著書『ビッグバン
なはかった』の中で、多くの科学者が理性でなく信仰のレベルで、
この「現代版創世神話」に固執している、と断罪する。確かに宇宙
に始まりも終わりもなく、例えば輪廻思想が幅をきかすようになっ
てしまっては、キリスト教圏の知識人としてはマズイのだろう。逆
にいえば、現代の最先端科学には、そのくらい恣意的な自由度が許
されているということだ。
科学史の巨匠・中山茂博士はいう。「人間の頭で考えた説明原理
が、時空を超えて普遍的に成立すると考えるのは、一つの信仰にす
ぎない」と。
もちろん信仰は大切だ。科学が信仰だからといって、それを否定
する必要はまったくない。ただ、19世紀の西欧文明至上観が20世紀
になって「文化相対主義」に代わられたように、我々はかつてない
多様な科学を認め合わざるをえない、「科学相対主義」の時代を迎
えているのではないだろうか。
〈クラブ4WD〉加藤良平
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