過渡期のスタイル〜〜改造気動車特急「エーデル」シリーズ

 

 

■「エーデル丹後」「エーデル鳥取」の誕生

 JR西日本福知山線全線及び山陰本線福知山−城崎間の電化(以下城崎電化)により、特急「北近畿」が新大阪・大阪−福知山−城崎間で運行されることになった。「北近畿」には当然ながら、電車が充てられた。ただし新車は投入されず、各地方から 183系や 485系が配転されてきた。

 城崎電化と並行して、北近畿タンゴ鉄道宮福線(福知山−宮津間)が開業した。同線は、国鉄線としての建設は凍結されていたが、第3セクター会社が承継し、開業に至ったものである。開業当時は、全線非電化であった。

 宮津から宮津線(当時JR西日本)を西に入ると、最初の駅が天橋立である。いうまでもなく、天橋立は日本三景の一つであり、全国に広く知られた観光地でもある。大阪から天橋立を目指す列車は、従前は福知山・西舞鶴の2箇所でスイッチバックする経路で運行されていた。

 宮福線の開業には、この状況を大幅に改善する可能性があった。宮津でスイッチバックする必要はなお残るものの、走行距離は西舞鶴経由と比べて大幅に短縮される。しかも、宮福線の線形はごく良好なものである。宮福線を活用すれば、より大きな魅力を持つ列車の運行が期待された。

 しかし、宮福線は非電化である。ここで運行される列車は気動車でなければならない。そして、福知山線には単線区間が介在しているため、新規の列車が入りこむ余地が乏しい。

 「エーデル丹後」は、上記を背景として生まれた。福知山まで「北近畿」にトレーラーとして併結され、福知山から単独自力運行するというかたちをとった。「エーデル丹後」にはキハ65改造車の2両編成が充てられた。2両編成とはやや短い観もあるが、MT比の関係からこれ以上の増結は難しかったという事情がある。

 「エーデル丹後」外観を特徴づける大きな改造は、運転室後方を前面展望席とするものであった。これは「アルファ・コンチネンタル・エクスプレス」及び「ゆぅトピア和倉」から共通する流れといえるが、そのスタイルはより一層洗練されたものになった。

 「エーデル丹後」の成功を受けて、鳥取方面への輸送力強化のため、「エーデル鳥取」が投入された。「エーデル鳥取」は、播但線経由の特急「はまかぜ」を補完するとの性格を有する。車両は「エーデル丹後」とほぼ同様であるが、中間車をはさみ、4両編成以上が基本とされた。また、「北近畿」との併結は行わず、全区間単独運行となった。

 

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■気動車・電車併結特急の系譜

 例えば、JR北海道の特急「北斗」を指して、「『電車』で函館まで行く」と言われてしまうと、鉄道の専門家にとってはおおいに違和感があるし、実際のところ不正確である。しかしながら、この種の発言を不適切とみなすべきではなかろう。なぜなら、一般の利用者にとってはダイヤや内装など列車のサービスが全てであり、その動力がモーターだろうとディーゼル・エンジンであろうと大差ないからである。技術的な厳密さを一般の利用者に求めるのは無理というものだし、それ以前に意味がない。

 そうはいっても、技術的には、気動車と電車を同列には扱えない。また、気動車と電車を併結して運行するのは難しい。ディーゼル・エンジンとモーターでは加速度のパターンが異なるので、これらを協調して制御するという課題が伴うからである。単につなげればよい、というものではない。一昔前のディーゼル・エンジンはモーターと比べ非力であり、特に起動時の加速においておおいに劣る面があった。

 気動車・電車併結特急の始祖は「ゆぅトピア和倉」である。この列車は、当時非電化であった七尾線の和倉温泉に直通するため設定された。従って、「ゆぅトピア」には気動車が充てられなければならず、その車種はキハ65であることが既定路線だった。なぜなら、当時の急行型気動車には大量の余剰が発生していたからである。これら急行型気動車群のうち、経年が最も新しく、出力も大きく、空気バネ台車を装備していたのがキハ65である。

 もっとも、キハ65を北陸本線上を運行するには問題が伴った。最高速度・加減速度とも電車と比べ劣るキハ65は、後続の特急に追いつかれてしまう。ダイヤを構成するためには、「ゆぅトピア」の性能を電車なみに引き上げる必要があった。

 しかし、キハ65側の性能向上は行われなかった。エンジン換装など、時間・費用ともに要する作業は見送られた。解決策は、大阪−金沢間で「雷鳥」に無動力併結されることに見出された。台車の速度向上対応改造は、さして難しくはない。走行動力に関する全てを電車に依存することで、問題の解決が図られたわけだが、本質的な解決にはなっていない点に留意しなければならない。

 「エーデル丹後」の運行形態の基本は、「ゆぅトピア和倉」を踏襲しているといえる。違いは外観デザインと併結相手である。多数のM車を連ねた「雷鳥」には出力に充分余裕があったろうが、「エーデル」をつなげるとMT比が半々になる「北近畿」は苦しい運行を強いられたであろう。

 JR九州では、気動車・電車併結、しかも動力協調運転も可能な車両の開発が行われた。そのベースとなったのは 183系気動車「オランダ村特急」(のちの「ゆふいんの森U」→「シーボルト」→現在では「ゆふDX」)である。 183系気動車は高出力で知られるが、それでも電車と同等の加速を得るにはやや苦しく、さらなる出力向上も図られた。結果として、動力協調運転の技術開発そのものは成功したが、実際の列車への応用事例は極めて少なかった。

 気動車・電車併結ではないが、JR九州では「有明」の豊肥本線(当時非電化)水前寺直通を行ったことがある。これには、「有明」編成全体を電源車を控えたDLで牽引するという手法が採られた。

 非電化区間への直通列車をどのように育てていくか。これは多くの非電化区間を擁するJRに共通する悩みであり、様々な試行錯誤がなされた。気動車・電車併結運転は、実のところ、その中の一手法にすぎないのである。

 

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■早く訪れた落日

 気動車・電車併結特急の欠点は、早い時点で明瞭になった。その欠点とは、気動車側に特別車両を必要とする、という点につきる。特別車両だから高コストにつく、というわけではない。これはむしろ二次的な理由にすぎない。特別車両であるゆえに、少数しか用意できないという点が最大の問題なのである。

 特急運用に就くと、どれほど短距離の列車でも片道の運行に2時間程度を要する。そのため、特急列車1編成は1日に1〜2往復しかできないのが普通である。午前中に都心を出発し、昼前に目的地到着。午後に目的地を出発し、夕・夜に都心到着。これが特急列車運用の典型である。列車が1編成しかないと、通常、1往復の列車しか設定できない。

 営業上、これでは困るのである。目的地が有力な観光地であればあるほど、多数の列車を確保したい。朝のうちに複数の列車を用意したい。そうしないと、利用者の心をつかみ、鉄道の利用を呼びこむのは難しいのである。

 JR各社が現在最も多く保有しているのは電車である。即ち、電車特急が現状では最も汎用性が高い。このことから、支線区の電化が促進された。

 七尾線は電化され、金沢で分割された「雷鳥」付属編成が直通するようになった。

 第3次特定地方交通線に選定された宮津線をも承継した北近畿タンゴ鉄道は、福知山−宮津−天橋立間を電化した。同鉄道は電車を保有しないものの、JR西日本の数多い電車特急が大阪・京都両方面から直通できるようになった。

 JR九州は大村線早岐−ハウステンボス間を電化、特急「ハウステンボス」を多数運行している。「ハウステンボス」は博多−早岐間で特急「みどり」に併結される。「みどり」は博多−肥前山口間で「かもめ」に併結されることもあったから、3列車併結という光景も見られた。

 同じくJR九州では、豊肥本線熊本−肥後大津間も電化した。これは電車による都市圏輸送を行うとの狙いもあるので、上記3例とは性質が若干異なる。とはいえ、この電化により、「有明」が再び水前寺直通を、しかも毎時1本という頻度で行えるようになったのは、まぎれもない事実である。

913D→913M(小樽にて 平成17(2005)年撮影)

 以上のように、気動車・電車併結特急は、全ての事例が短期間のうちに解消されている。特急でなくとも気動車・電車併結運転は稀少であって、現在では函館本線での913D→913M(DC 201系+EC 731系)ただ一例があるにすぎない。気動車・電車併結運転は一時の例外事例といえ、営業政策上は電化を推進した方が有利であったことがうかがえる。JR四国のように予讃線の電化を断行した事例もある。気動車・電車併結特急が登場する事態は、おそらく二度とあるまい。それどころか、JRにおいては、気動車特急じたいが稀少化しつつあるといえる。

 

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■智頭急行の開通

 智頭急行の開通、及び特急「スーパーはくと」の運行開始により、大阪・神戸から鳥取方面への時間距離が大幅に短縮された。開業直後に阪神・淡路大震災が起こり、姫路発着による短縮運行を余儀なくされたため、しばらく苦しい状態が続いたものの、これは一時の現象にすぎなかった。山陽本線が復旧し、震災の打撃を受けた沿線の復興が進むにつれ、高速運転の強味を遺憾なく発揮するようになった。

 「スーパーはくと」の好調は、その一方で「はまかぜ」「エーデル鳥取」の地位沈下を招いた。鳥取までの所要時間が1時間も違う点が、なんといっても大きかった。

 「はまかぜ」「エーデル鳥取」とも城崎以西は閑散区間と化した。「はまかぜ」の場合は播但線内に停車駅を設定することに存在意義を見出せるとしても、「エーデル鳥取」は「北近畿」の区間延伸列車にすぎない。その延伸区間の利用者が少なければ、列車を残す意義が問われることになる。

 

■そして今

 「エーデル丹後」は定期運用から外れ臨時列車対応になっているが、活躍しているとの話は残念ながら届いてこない。「エーデル鳥取」は2両編成に短縮のうえ、「だいせん」に充てられている。「エーデル」にとっても、また「だいせん」という列車にとっても、悲しい状況であろう。その後「だいせん」そのものが廃止に追いこまれ(平成16(2004)年10月)、なんとも寂寞たる展開になってしまった。

 キハ65の経年は30年、もはや老朽車である。新製当時の高出力車も、当代的な基準からすれば非力になった。車体も重く、走行性能は鈍重だ。先に記したように、気動車・電車併結運転は短期間で解消された。また、智頭急行の開通により、既存の特急ルートはその地位を失った。

 してみると、「エーデル丹後」も「エーデル鳥取」も、過渡期の存在であったといえる。今後しばらくは余生を保つとしても、華のある舞台に立つことはないだろう。独特の風貌と存在感。惜しい車両ではあるが、しかし時代は旋回してしまった。時計の針が左回りに回ることなど、ありえない。

 これは「エーデル」ひとりのことではない。国鉄時代の気動車は、近年急速にその姿を消しつつある。内装も性能も旧い車両は消えていくしかないのが道理である。そこに感傷をはさむ余地は、ない。

 

ありし日の「エーデル鳥取」(新大阪にて 平成10(1998)年撮影)

 

 

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■執筆備忘録

本稿の執筆:平成13(2001)年初頭

本稿の加筆:平成17(2005)年初頭

注:上のアイコンの著作権は「Rail&Bike」柏熊秀雄様に帰属します。
  なお、このページではオリジナルから若干手を加えております。