第2章        受胎と誕生
 以後40年間、シトロエン社の運命はタイヤ製造会社の創業者であるミシュラン一族の手に委ねられていた。通常自動車メーカーが財政的に破綻し他者に引き継がれる場合、やたらと変化をもたらし、新しい原則を押し付け、旧来の創業者精神を根絶やしにするようなライバルが引き受けるものだが、シトロエンの場合はそうした合併に伴う衝突はなかった。ミシュランは債権者に過ぎず、ライバルではなかった。自動車製造の経験も無かった。そのため自動車設計について正しいかどうかの哲学を思い描くこともなかった、ミシュランタイヤが大量に使われること以外は!そうでなければ会社のコントロールを掌握するために、ミシュラン一族はシトロエンの進歩的だがリスキーな政策を差し止め、自身の製品にとって安全で忠実な市場を生む会社と扱うだけだったかも知れない。

 しかしミシュラン社はそれ自身先駆的存在で研究志向の企業であり、新しいアイディアを奨励する長期的視野に立った経営がなされていた。シトロエン社引継ぎと同時に、輸送手段技術界における真に革命的な大発明となる研究―なんと第二次世界大戦前にミシュラン社によって取得されていた技術的基盤、すなわちスチールベルト・ラジアルタイヤ―を既に進めていた。さらにロープロファイル型のピロトタイヤ(すでに生産の核となるまでに成長していた)のような大いに進化したコンセプトを売り込むため、ミシュランはミシュランタイヤのノウハウの先進性を打ち出し誇示するにあたり、新製品を路上に広めるのに役立ちそうな特製サスペンションやステアリングを持つ進歩的な自動車を作る革新的自動車メーカーとの協力を必要としていた。

 戦争によって遅れはしたが、スチールベルト・ラジアルタイヤの基礎となる商品―ミシュランXタイヤ―は1949年のパリサロンでトラクシオン・アヴァンに装着されて(当然の事である)発表された。それ以来この長持ちするミシュランラジアルは徐々にシトロエンの全モデルに標準装着されるようになった。最初の5年間、2CVは平凡なピロトタイヤを履いていたが、1953年にはミシュランXに切り替わった。そして1964年、2CVはチューブレスタイヤチューブレスタイヤ(10万qを走破出来る能力があり、現在では欧米でも日本でも標準装備となっている)を装着した初の自動車になった。

 どの自動車メーカーも遅かれ早かれ創業者と創業精神の消滅には苦しむもので、結果としては多くの試練の後、終焉を迎えることになるものだ。しかしシトロエン社は創業者の死が代わりに目覚ましい幸運な復興へとつながった。かつてのような冒険的ポリシーを引き継ぐのではなく、アンドレ・シトロエンの過度な浪費とも無縁になった会社は程なく第二期黄金時代に向かっていった。それは素晴らしき二人組チーム、ミシュラン兄弟が新たな自動車会社の経営及び2社間の技術的協力の監督を選んだおかげである。


2CV命名の由来

 ご存知の通り「2CV」は「deux chevaux(2頭の馬)」を表す。では何故そんな名前が付けられたのか?

1948年1月、旧RAC(英国運輸省)が自動車の馬力に対する課税を廃止して以来、イギリスのドライバーたちは自家用車であればどの車でも体積やエンジン性能にかかわらず同一額の課税額になるという、均一額自動車税に従っていた。しかしフランスでは複雑な公式によって決められる様々な道路税額が大衆車の登場以来適用されていた。そしてこの税額査定方法は第二次世界大戦後も維持され、今日に至るまで適用されている。その課税方式は19世紀後半における蒸気自動車(Cheval Vap-eur、即ち「蒸気の馬」)の出力測定方法に由来している。

 フランスの道路税方式(puissance fiscale・馬力税)は、かつてイギリス運輸省が行ったのと同様、エンジンの容量や出力が大きくなるにつれて課税額も急上昇してゆくものである。税額は400cc未満(2CV)が最も安く、中級クラスの2ℓカー(11CV)まで課せられるが、2.5ℓを超える場合(13CV)、ぐっと税額が増える。2.9ℓを超える(16CV)大きくてパワフルな車には懲罰的レベルの税金が課せられる。

 オリジナルの2CVが積んでいた375ccエンジンは最も低くて安い税金のカテゴリーに当てはまるよう設計された(もっとも最終版のモデルには602ccエンジンが搭載され、3CV分の税額となっていたが)。こうしてTPVに名前が与えられる日が来た時、その車は単にシトロエン2CV即ち「2馬力」と発表された。ちょうどルノーが760ccエンジンの「国民車」を「4CV」と命名したように。ともかく凝った名前をその車に付けることはブーランジェの主義に全く反することだったろう。

←ピエール・ミシュラン

 フランス語で「ピエール」とは「岩」を意味する。確かに二人の「ピエール」(ピエール・ミシュランとピエール・ジュール・ブーランジェ)は手を組んでシトロエン再建における堅固な基礎を築いた。ピエール・ミシュラン(エデュアール・ミシュランの息子であり、ミシュラン社創業者の孫)はシトロエン社の営業、財政、そして管理面を担当する一方、ピエール・ジュール・ブーランジェには工場経営監督者とビューロー・ド・エチュード(研究開発所)における進行中の実験作業の監督者としての業務が任された。3年以上に渡って共同で働いたこのペアはシトロエン工業帝国の秩序回復と安定化のみでなく、かつての創業者によってもたらされた様々な技術的優位性のいずれをも従来より遥かに上回るレベルにまで向上させた。しかし1937年12月、ピエール・ミシュランは妻子と新年休暇を過ごすためパリからクレルモン・フェランへと向かう途中で自動車事故で亡くなった。以後13年間、経営責任という負荷がピエール・ジュール・ブーランジェ一人にかかった。一見してブーランジェは、ジャベル河岸の主として君臨していたあの活発で楽天家で美食家のアンドレ・シトロエンに取って代わるには最も相応しくない存在のように思われる。性格はまるで正反対だった。ブーランジェはケバケバしくてこれみよがしなものを嫌い、前任者が好みそうな自由奔放な社交界やパーティーの席を常に避ける、気難しくてシャイで内省的な性格だった。

↓ピエール・ジュール・ブーランジェ 
現在の様々な資料では彼のことを背が高く、飾らず、控えめな性格で、有能かつ果断な行動力を持ち、やや率直で独断的な意見を言いがちだが、仲間たちには思いやりがあって気さくな人物だったと描かれている。いつもフェルト帽と大きくて皺くちゃのレインコートに身を包み、絶えずジターヌの煙草をくわえていた。ポケットには小さな黒い手帳を忍ばせ、アイディアや計画、意見、そしてもちろん、彼が個人的にテストした一連の自動車群に対する感想が書きつけられていた。これもアンドレ・シトロエンと見事に対照的だが、ブーランジェは運転好きで車の良し悪しが直感的に分かり、ロードホールディング性能の長短所を座面から感じ取り、その後即座に次々と提案をしてハンドリング性能に微調整を加えるという、優れたモータリストであった。平穏さと果断さ(それはほぼよそよそしさとワンマンの本質たるものだが)によって、ブーランジェは共に働く者たちに自尊心と自信を吹き込み、厳格だが父親みたいな校長先生のごとく、わがままな生徒たちに新しい達成レベルの高さを示した。

 今日では法人管財人やうるさ方の顧客によって下される、新しいアイディアに対する厳密な評価は、生産開始を万人に約束しそうなほど個性のない、ありふれた車のみにお墨付きを与える。しかしブーランジェの時代は自動車の設計がまさしく独断的かつ個人主義的なプロセスであり、必然的に設計者の個性や偏見が反映される製品へとつながっていた。一人の好みによって形作られた自動車はエンジニアリング及び審美的文化的価値に対する個人的声明―つまり、今日我々がクラシックカーに対して認め賞賛する、説明は難しいが間違えようのない特徴を表していた。簡素な2CVはブーランジェの個性を的確に反映していた。

 ブーランジェは自動車設計者ではないが、訓練を積んだ建築家だった。1885年に生まれ、23歳の時に彼はフランスを離れアメリカとカナダへ富と名声を求めに行った。ロッキー山脈でカウボーイをしたり、サンフランシスコで路面電車の運転手をするなど様々な仕事を経験した後、1911年にカナダのブリティッシュ・コロンビア州で、当時羽振りの良かった住宅建設ビジネスを創業した。1914年、軍隊の召集により彼はヨーロッパに戻り、フランス空軍大尉という栄誉を得て従事した。戦後ブーランジェはフランスにとどまることを決意し、ミシュランタイヤ社工場とクレルモン・フェラン本社の工場拡張計画責任者という、エデュアール・ミシュランからの採用申し入れを受諾した。

 シトロエン社の指揮を引き受けたブーランジェの最初の仕事は、向こう10年及びそれ以降のシトロエンのモデルレンジを決定する指揮計画を作成することであった。ほんの2年前までの会社の苦境から見れば、それは目覚ましい勇気と大胆さを持つ計画だった。ミドルクラスのトラクシオン・アヴァンはもちろん生産続行だったが、AXと呼ばれる現代風の流線型ボディワークに改良を受けた。それに加えて先進的な特徴を持つ新型の豪華車、VGDというコードネームの車が現れた。全く新しい前輪駆動のユーティリティバン、TUBも生産された。しかしラインアップの最下部にブーランジェは全くの新型、「白紙の設計」たるコードネームがTPV(訳注:Toute Petit Vehicle・超小型車)と呼ばれる車、つまり農民や労働者のための安価で経済的な車を1940年頃までに世に送り出すよう指示した。

←戦前のTPVまたは2CVプロトタイプとして生存している2台のうちの一つ。1973年にラ・フェルテ・ヴィダムで発見され、シトロエン社で社内ミュージアムの要請を受けてレストアをした。設計された当時、フランスの法律ではヘッドライトは1個でも構わなかったため、車重軽減のため1個のみが装着された。

 これが2CVのコンセプトの核であった。独創的アイディアは60年前、ブーランジェのオリジナル設計ラフ案から初めて発生し、今日我々がよく知っている車を生んだのだった。存命のために細部は変更を受けたが基本は変わらず、半世紀に渡って送り出された。実はそのような車はミシュラン社によって1922年頃検討された。その頃ミシュラン社はフランス人のための「国民車」が商業的に成功するかどうか、大規模な全国的調査を命じていたのであった。「アメリカでは住民10人に1台の割合で車が存在するが、フランスでは150人に1台だ。アメリカでは自動車は誰にも買える道具だが、フランスでは金持ちしか利用出来ない。何故なのか?」とアンケート用紙に書かれてあった。

←大部分が軽合金とキャンバスで出来ており、雲母の窓を備えた最初期のTPVプロトタイプは水冷エンジンを搭載していた。

 

 TPVのアイディアがブーランジェに突如浮かんだことについては伝説がある。彼がクレルモン・フェラン近郊のランプドという農村で、市場のある日にオーベルニュ地方の農民たちの習慣を見て思いついたというのだ。そこに彼の別荘があった。その頃フランスは小作農が大半を占める農業国で、小規模自作農やワイン醸造業者らが方々の田舎に散らばって住んでいた。大きな工業都市や大規模な商業施設とはナポレオンによって設けられた戦略的道路ルート・ナシオナルによってつながっており、小さな村や市場のある町は荒れた田舎道や轍のある小道によるネットワークでつながっていて、それに沿って農民は自転車や子馬や馬車で作物を運んだ。到着すると女子供は日がな市場に携わる一方、男たちはビストロで酒を飲みしゃべっていた。日が暮れる頃に家族は再び帰っていった。「必要なものは」ブーランジェは考えた。それは小型軽量で多目的でどこでも走れる車、農夫の妻でも運転やメンテナンスが出来る車である。そんな車があったらフランスの農業生産効率を大きく上げるだろう。シトロエン社の販売にも大いに刺激となるだろう!

←1939年6月、3台のTPVがラ・フェルテ・ヴィダムのテストコースでエンジンテストをしていた―ブーランジェの命令でこうしたスナップを含む全ての写真が公開を禁じられた。


そうして「福音」がシトロエン社の宣伝部によって何年にも渡り語り継がれたのであった。しかし事実はさほどロマンティックではない。多くのフランス自動車産業ウォッチャー同様ブーランジェも、アンドレ・シトロエンの唯一重大なミス、つまり1926年に7.5馬力の5CVを代替車種なしに生産中止したことは、ひとえに彼の大胆さゆえと信じていたのだった。

 これまででお分かりの通り、5CVは当時まだ根強い需要があったのだが、進歩的でモダニストたるアンドレ・シトロエンにとっては時代遅れの設計と技術たる存在でしかなかった。それゆえ彼はより大きく全鋼製ボディの11.4馬力B12モデルへ5CVから切り替えることに何のためらいもなかったのだが、その結果最下部クラスの市場を放棄することになり、プジョー・クアドリレッテやオースチン・セブンのようなライバルに「うまみ」を持って行かれ放題だった。奇妙な偶然だが、シトロエン5CVがパリサロンに登場した1921年の正に同じ月に登場したオースチン・セブンは以後17年間生産され続け(5CVは4年間)、ドイツではBMWによって、日本ではダットサンによって、そしてフランスではローゼンガルトによって、セブンがライセンス生産されていた。

 さらに、構想を練るにあたってブーランジェは、イタリアで1935年10月に登場し、フランスではその半年後にシムカ・サンクとして登場したフィアット500トポリーノのような「ベビーカー」時代が到来するだろうと確実に

理解していた。シムカ社は自社の歴史の中で唯一その時期にフィアットのライセンスを受けていた。

←生存しているもう一つのTPVプロトタイプをロシュタイユの博物館前で撮影したもの。戦時中はクレルモン・フェランのミシュラン社内で過ごし、ピックアップ型トラックに擬装されていた。


しかしインスピレーションの源泉が何であれ、開発チームが新車開発を始める際にブーランジェが有名な設計条件の指示を出した時、その命令はシトロエン社研究所の老警備員によって、疑いを持たれつつ受け取られた。研究所のチーフ、モーリス・ブログリーは、自分が今まで受け取った中で最も無茶な設計仕様書であり、そんな指示内容など実行不可能だと反対した。しかしブーランジェは自分の構想が成功すると動じなかった。フランスは大きな社会的変化に直面しているのだと彼は指摘した。将来自動車はもはや富める者だけの物ではなくなるだろう。経済的に恵まれぬ人々もまた自動車に乗る権利を持つ。フランスの「国民車」が到来することは必至である。進歩的なミシュラン家にも支持され、彼はそれをシトロエン社の製品とすべく決心した。

 1936年初頭には、ブーランジェの設計指示内容はTPVを、自動車運転経験がなくても各種機械の所有経験がなくても動かせる、機械化された小さな馬車として位置付けるのをやめた。「こうもり傘の下に4つの車輪」、つまり木靴を履いた2人の農民と110ポンドのジャガイモと小さなワイン樽を載せて最高時速30マイル(約48q)で走れて、燃費は90マイル/ガロン(約32q/ℓ)以上を求めない車とした。さらに乗客と荷物を乗せて荒れ放題の道を最高の乗り心地で走り、籠一杯の卵を運んで農道を走っても卵が一個も割れないだけの性能も持つようにした。機械の知識がないオーナーでも運転やメンテナンスが容易に出来て、価格はトラクシオン・アヴァンの1/3を超えないこと。経済性・実用性。多目的性が潜在的オーナーにとっての関心事であるとブーランジェは考えていた。見た目や仕上げの感じはさほど重要ではないが、まず信頼性と耐久性を最優先すべきとブーランジェは考えた。「月に1800新フランを稼ぐのみの消費者にとって、300新フランもつく故障は災難である」と彼は後に指摘した。「50新フランぐらいの修理や整備ですら受け入れ難いものだ。だから我々は主要コンポーネンツに関しては完璧な品質を達成するよう努力せねばならない」。

 最初の一本の線が製図版に引かれる前に、ブーランジェは彼の直感を裏付けるため市場リサーチを命じた。5ヶ月以上に渡り、ジャック・デュクロスとジョルジュ・トゥーバン率いる調査チームは、ニーズを掴み、自動車を持つにあたっての期待要素・不安要素を把握するためにフランス中を回り1万人以上の人々に旅行の傾向について調べた。「旅行するのにどのくらいの距離と時間を要しますか?旅行の必需品は何ですか?車を購入する場合どのくらいの資金を用意しますか?」といった項目を質問した。

 その結果はブーランジェの直感を完全に裏付けるものだった。農民や地方在住者のみでなく、商店主や職人、小型車の販売業者も彼の提案に興味を示した。そしてその年が終わる前にTPVプロジェクトはクレルモン・フェランのミシュラン本社からゴーサインが出て、未来の2CVが発進し始めた。

 かつてないほどラジカルな小型車にとって、この巨大マーケットで認められるためにすべきこと、それは設計と製造のみであった!そしてここに再び幸運がブーランジェ側に傾いた。巨大で無限の国際市場ルールに服従するというプレッシャーのない、明らかにフランス的な環境で仕事をすることで、彼はいかにもフランス的な乗り物の問題を典型的なフランス人エンジニア型思考―極めて独創的であると同時に合理的論理的かつ哲学的であるという、ヴォルテールの流れを汲む独特の自由なフランス的手法から自然発生したアイディアで解決していった。

 独創性は正に彼の狙いだった。親会社の積極的なサポートと励ましによって、ブーランジェはシトロエンの研究所を技術革新の「温室」に変え始め、国内最優秀の技術ブレーンチームを組織した。様々な分野の才能が集まった。科学者や技術者はもちろん、知識人や研究家(天文学者までいた)、芸術家や職人もいた。アイディアを持つものには年功序列、資格を問わず誰でも「白紙」(チャンス)が与えられた。ブーランジェにとって自動車産業での経験はさほど重要ではなかった―より大切なのは創造性と、たとえ「不合理」なやり方と思われる状況でも、何事にも取り組もうとする意思であった。「たとえ自分の仕事の10%しか最終的に使われなくても、意義深い仕事をしたと評価されるだろう。」彼はそう語ったと言われている。トーマスがブーランジェの指示の一つを機械的には不可能であるため拒否したところ、彼はその場を去り考え直すよう命じられた。「我々は機械の仕事をしているのではない。車の仕事をしているのだ」とブーランジェは声を荒げた。

 こうした寛容さにもかかわらず、鍵がかけられた研究所のドアの奥や、パリの西130qにある地ドリュー近郊のラ・フェルテ・ヴィダムに作られたシトロエン社の新しいテストコースを囲む高さ3mの壁の向こうでは、仕事それ自体が極度の機密保持の空気に支配されていた。ここはミシュラン家からの指示を受け、ブーランジェがかつて城(取り壊されて久しかった)を囲む2000エーカーの森林や草地を取得した所だった。ポーポニエール(育児室)と仇名が付けられたラ・フェルテ・ヴィダムのテストコースの存在はごく少数の要人と、直接関わるテストドライバー以外には知らされなかった。うっかり秘密をライバル会社に漏らしかねない納入業者はもちろん、シトロエン社工場の者もそこで何が起きているのか知ることを許されなかった。そして言うまでもなく、好奇心の強い記者やカメラマンはシトロエン社やミシュラン社のどの社員からも「ペルソナ・ノン・グラータ」(招かれざる人)と宣告された。TPVプロジェクトの全体的な管理と調整は、1916年以来シトロエンと共にいた研究所のベテラン、マルセル・シノンに権限が与えられた。シノンの責任はエンジン、ギア、サスペンション、ボディに携わる人々との連携や、進捗状況のチェックと生産に向けての準備にまで及んだ。プロジェクト上での彼の仕事は20年以上にまで拡大し、2CVに生涯を捧げ続けた。一方プロジェクトのチーフエンジニアやデザイナーには、シトロエン社の研究開発部長であるモーリス・ブログリーの全面的な監督下で仕事をするよう、「アンドレ・シトロエンの秘蔵っ子」アンドレ・ルフェーブル(聡明なエンジニアであり、トラクシオン・アヴァンの設計で大いに貢献した)をブーランジェは任命した。

 1894年生まれのルフェーブルは1915年に仕事を始める前はパリの航空高等学校で航空機の設計を学んでおり、その後非常に風変わりな有名フランス人設計者のガブリエル・ヴォワザンに雇われ、フランス空軍のために航空機を設計した。戦後ヴォワザンが自身の関心を航空機産業から自動車産業に転換させた時、ルフェーブルも彼と共にシフトして、後に奇妙な流線型グランプリカーの設計を一部担当し、その時代の精神と習慣から彼も個人的にレースに参戦した。1929年の世界恐慌の結果ヴォワザン製高級車に対する市場は崩壊し、ルフェーブルはルノーに入った。そこで(驚くには値しないが)彼は気が合わなかった。ヴォワザンの推薦でアンドレ・シトロエンがルフェーブルにトラクシオン・アヴァン計画に従事するよう話を持ちかけた時、ルフェーブルは自分の前輪駆動に関するアイディアを実行に移すチャンスが来たと自然に胸が躍った。

 自動車の歴史における偉大な設計者の多くが元々はエンジンの設計者で、社シーの設計に関するアイディアは持つ人持たない人いろいろである。しかしルフェーブルは違った。航空機分野の知識が背景にあるおかげで彼は様々な透視図から他の先輩技術者に採用されるまでの問題に至るまで着手した。彼の助言者たるガブリエル・ヴォワザンは、単なる個人的研究というよりも個人ユーザーへ販売するために航空機を設計した間違いなく初めての人物だった。そのためルフェーブルは航空機や自動車を設計する時、設計目標として操縦性能に最重点を置くことを、設計者としてのスタート時点から理解していた。ヴォワザンの影響下で彼は安全性への関心を持つようになり、設計者や製造者としてまずしなければならないのは個々のパイロットやドライバーの腕の無さを認めることである、という考えを構築した。より良いハンドリングやロードホールディング性能が必然的に燃費や快適性や安全性の向上につながるので、単純にエンジン性能を引き上げたりするより、むしろ進んだ空力効率や卓越したシャシー構造を通して性能を改善してゆくほうが先決であるとルフェーブルはいつも考えていた。若い頃彼が従事していた大きなヴォワザンはその時代最速の車の一つであったが、彼はそれを設計者がスピードそのものを目的として追求した結果ではなく、スピードは設計と製造の全体的な品質による当然の結果だと考えていた。こうして20年代に作られた大多数のオーバー・パワーな高級車とは異なり、ヴォワザンは正に性能の限界まで安全に運転することが出来た。エンジンやシャシーの性格や能力は慎重に調整され、ライバルの多くが時速60マイル程度でも明らかに危ない状態である一方、ヴォワザンは時速90マイルでもハンドリングは自信を持ってコントロール出来るレベルであった。

 ブーランジェのTPV向け設計指示内容(何時間もルート・ナシオナルの直線道を全開で走ることの出来る、クロスカントリー・ビークル)に直面して、これは従うべきロジカルな設計の道に再び戻ったのだ、とルフェーブルは結論づけた。結局プレイボーイと農民という、2つの消費者タイプにおいて表面上は大きな相違があったにもかかわらず、運転に求めるものは心理学的にも生理学的にも人類に共通するものであった!

 ↓2CVの構造画。有名なトランスミッションとサスペンションの配置がよく分かる。

ブーランジェの挑戦的な設計指示内容に応じて、ルフェーブルはTPVの設計と製造に3つの主要原則を定めた。第一に、最大限の安定性と不慣れな者でも容易に運転が出来るよう、車はエンジンとギアボックスが前輪車軸の前に置かれ、車輪が四隅に配置された前輪駆動を有する。これは前側に重量を配分し、それによって車の重心を可能な限り低くかつ前方へ持ってゆける。ハンマーを投げる時最初に飛んでゆくのは頭の側であってハンドル側でないことにルフェーブルは気付いた。同様に車がカーブを曲がる時、最大の塊はフロントエンドに集中しているのがベストである。直進性を高めるため、車はラック&ピニオン式ステアリングも備えるべきである(ロック・トゥ・ロックがわずか2〜3回転であり、ピュアなステアリング・ジオメトリーを持ち、バンプステアやキックバックもないため)。

 第二に、エネルギー効率と燃費を最大限にするため、TPVは鉄の代わりにアルミニウム合金を使うことで可能な限り軽く(最高でも300s)作る。構造強度は旧来のシャシーでなく、堅固な長方形ポンツーン又はプラットフォームから生み出す。シャシーの四隅にサスペンションと車輪が2つのチューブラー・クロスメンバーによって装着される。全独立サスペンションはスイング式の三日月形車軸アームを持ち、フロントはリーディング、リアはトレーリングタイプで、複数のトーションバーシステムが作動する。エンジンとトランスミッションは前方の、外側へ広がる部分に固定マウントされ、人間が手押し車を引っ張り馬が荷車を引くのと同様、前輪の駆動軸が車重を引っ張るようにする。さらにリアサスペンションアームと車輪は単純に後ろで付いてゆくだけにする。ボディワークや上部構造は荷物運搬の役割を果たさず単に車輪の上に付いた「こうもり傘」の役とする。つまり、ドライバー、乗員、荷物、機械的部分を雨風から守るための構造的機能以上のものを持たない、軽量シェルターである。これらボルトオン式のアルミニウム製ボディパーツにねじれ剛性を与えるため、ドイツの飛行機設計者ヒューゴ・ユンカース博士によって開発された、畝入り成形加工ボディとする。再度重量とコストを維持するため、出来ればロウを塗ったキャンバスを金属の代わりにボディワークに導入する―たとえば屋根やドア、そして航空機式のハンモックシートに。ガラスは重くてコスト高になるので、窓は全て雲母製にする。そして最後に、荒れた農道や不良な路面でも柔らかく快適な乗り心地を提供するために完全独立式トーションバー・サスペンションシステムが、轍や窪みの上を高速で走破してもショックを吸収して車輪の上下作動距離を並外れたレベルになるよう組まれた。

前輪駆動の理由

 今日、前輪駆動はファミリーカーの設計において標準となり、世界中の大手メーカーが採用している。しかし2CVが設計された1937年ではそのクラスの車としてはシトロエンのみが後輪駆動を捨てていた。1948年に2CV

がデビューした時ですら、シトロエン社は前輪駆動を採用しているという点でユニークな存在とされた。

 前輪駆動が採用された理由は2つの言葉に尽きる。安定性と安全性だ。前輪駆動車がコーナーを曲がる時、正しい軌道を維持しようと自動車の駆動力は曲がる方向に作用する。しかし後輪駆動車は車軸の両端に駆動力がかかり前方に進む働きとなるのだが、カーブではそれが一層作用する。言い換えれば後輪によってもたらされた駆動力は前輪が曲がろうとする方向と交差するのである。そのため同じ速度で同じグリップ度のタイヤを履いていた場合、前輪駆動車はタイヤの粘着性の減少に関係なく強力な遠心力にも持ち応えられ、方向安定性も良い。つまりより高い速度でも滑る危険なしにカーブに入ったり、より滑りやすい路面でも安全に走れるのである。

 複雑なことにこうした遠心力は路面の反り具合や横風といった要因によって拡大される。そのため車はグリップ力の減退や横滑りといった事がなくてもカーブを曲がる時に横へ流れてしまう場合がある。このドリフト(横流れ現象)を相殺するためにドライバーは常に軌道修正をしてバランスと軌道の維持をしなければならない。さらにこのドリフト効果は駆動輪に対して最も強くかかり、後輪駆動の後輪は操舵輪たる前輪よりも先に路面から滑りがちとなるので、ドライバーはロック・トゥ・ロックといった経験と技術を要するような激しいステアリング操作によってスライドを修正するしかない。しかし前輪駆動車は経験や技術のさほど要らない微調整のステアリング操作で容易かつ平穏にドリフト修正が出来る。よって前輪駆動車はより簡単な操作が可能で、ゆえに安全であると言える。 

 1948年のパリサロンに初登場した時、2CVはこれから「国民車」になるであろうライバル車、ルノー4CV(前年に発表されていたが、生産はその年だった)に直面した。VWビートル同様4CVは後輪駆動後部エンジン車であり、フェルディナント・ポルシェ博士の理論、すなわち最善の駆動力を持つためにはエンジン・トランスミッションを共に車の後部、後輪車軸の後ろに集中配備すべきだ、という理論に基づいて設計されていた。そのため全く設計思想の違うこの2つの車を選ぶにあたり、フランスのドライバーは未来のフランス国民車の流れを占ったも同然だった。

 長所も無いわけではなかったが、ルノー4CVは濡れたカーブを高速で曲がろうとすると運転しにくいという悪評もあった。それゆえ2CVは42年間生産され、ルノー4CVは14年間しか生きられず100万台をわずかに上回っただけで1961年に生産終了した。翌年、ルノーはついにポルシェ博士のアイディアと決別し、2CVの規格たる前輪駆動車のルノー4を発表し、結局ルノー社としては最も成功し生産された車となった。

 背が高く陽気でイライラしがちな性格(それは常にシャンパンを飲んでいるせいだが)であり、白いシルクスカーフとフライングジャケットに身を包んでいるアンドレ・ルフェーブルはエンジンについてはほとんど関心を示さず、厚くて油まみれの焼き串回転機程度に見下していた。2CVのパワーユニットの設計は依然として設計研究所に残ったままで、トラクシオントラクシオン・アヴァンのエンジンを設計したモーリス・サンチュラの指揮下にあった。最初のプロトタイプは500tのBMW製オートバイ用エンジンだったが、戦前の熱狂的な研究開発期間だった4年の間にサンチュラのエンジニアチームは、様々なタイプやサイズのエンジン群を含む数多くのアイディアを実験した。1気筒、2気筒、4気筒と試したが、ブーランジェの求める「いかなる運転条件でも見込める信頼性と耐久性」を成し遂げることは出来なかった。


空冷エンジンにした理由

 自動車の歴史上最も意義深く技術的にも重要な車を送り出していながら、空冷エンジン今や路上から消えた。なぜかつては設計者やドライバーたちに空冷エンジンは人気だったのか?そして最も大事なことだが、なぜシトロエン社は2CVに、研究所で開発が続けられていた水冷エンジンでなく空冷エンジンを選んだのか?

 留意すべきことだが、ブーランジェの初期の設計指示内容の狙いとして、2CVに空冷エンジンを採用した最大の理由は、水冷エンジンに比べて軽くコンパクトだったためである。乾燥重量でわずか41s(ギアボックスや付属部品を除く)しかなかった2CVの375t軽合金エンジンは、ほぼ同様の性能を持つ鋳鉄製水冷エンジンの約半分の重量とサイズであった。軽い素材で出来ていただけでなく、ラジエーターやウォーターポンプ、そしてライバル車が冷却液として必要だった水、など余分なものが無かったこともある。

 しかし空冷エンジンが重量以上に節約したものがある。トラブルである。二番目に重要な決定要因は信頼性とメンテナンスの容易性だった。当時は少なくともエンジン故障の1/3が冷却システムの問題(オーバーヒート、凍結、ウォーターポンプやホースのトラブルによる冷却液不足)によるものだった。空冷エンジンはこうした問題を一気に克服した(凍結したり沸騰するような水が無い)のみでなく、エンジンのウォーミングアップを速め(よって燃料の節約にもなる)、室内の暖房にも効果的だった。空冷エンジンは水冷エンジンよりも熱力学的には有効であると考えられている。冷却ファンによりシリンダー強制冷却はポンプを用いた水循環冷却よりもパワーロスが少ないからだ。

 不幸なことに軽合金空冷エンジンの欠点の一つは製造コストが高くつくことだった。材料が高く、フィン付きシリンダーバレルやシリンダーヘッドは同等の水冷エンジンよりもも鋳造過程が複雑である。さらに完全空冷式エンジン(2CVは違うが)は主に冷却ファンの回転音やエアダクトの共鳴音から発生する騒音で悪評が高かった。

 しかし、真に破滅へと導いた技術的問題とは、戦後自動車メーカーにとって設計上優先されるべき事項となった、モアパワーと日々増え続ける需要だった。同じシリンダー容積からより多くの馬力を生もうと思ったら、今以上に洗練された冷却ファンや冷却気管理システム、そしてシリンダーヘッドに今より高コストのフィンを切るなどしないと、空冷エンジンの馬力を上げるのは不可能と分かったのである。

 また戦後、冶金学や材料化学、そしてエンジン内における熱発散の過程についてのより深い理解など重要な進化のおかげで水冷エンジンの信頼性が大きく改善された。加えて新ポリマーの到来で、ボンネット内でもたらされる過度の熱を受けてもひび割れせずに耐えられる、丈夫で長持ちし柔軟な合成ゴム製ウォーターホースが誕生した。その結果、70年代に空冷エンジン搭載の二大名車、シトロエンとフォルクスワーゲンは共に差異性争いに終止符を打ち、他社と同様に水冷エンジンを採用したのであった。

 1937年の暮れ、約20台のTPVプロトタイプが作られ、ラ・フェルテ・ヴィダムでテストされた。建築家と飛行士の共同製作による奇妙な風体の車たちだった。間に合わせのシートと操作機器類を備えただけのテスト用ぷらとフォームには外装ボディがなく、テストドライバーは革製のフライングスーツを着る必要があり、TPVの風変わりな半航空機的外見を強調していた。

 この時点までにTPVプロジェクトの終結はブーランジェにとっての最優先項目となっていた。彼はミシュラン社のトップに生産が翌年から始まる予定であると知らせていた一方、ルノーが同じ方向で開発を進めているのではないかという考えに取り付かれていて、もし自分たちが先に生産しないとシトロエン社の巨大なライバルが自分たちを倒し、初のフランス製「国民車」を作るかも、と思っていた(現在では似たようなプロジェクトがドイツで進行中だったことが知られている)。そのため研究所では24時間体制で熱心に仕事が続けられた。もはや順序立った作業や冷静な職務分析などしている時間はなかった。

 ルフェーブルのオリジナルコンセプトに若干の修正を加えたにもかかわらず、ある基本的な欠点がかなり克服困難であると分かってきた。最大の悩みの種はデュラリノックスとマグネシウムで出来ているプロトタイプの組み立て時に経験したことだった。当時は原始的な技術しかなかったため、フロアパンのジョイント溶接技術はかなり難しい作業であり、ねじれ圧力がかかった時に車が接合部からひび割れたり曲がったりしがちだった。クロスメンバーによる強化が剛性確保のため必要だったが、それはただでさえ日々増加してゆく車重を一層重くした。また、材料自体がそもそも危険なものだった。あるプロトタイプは燃料タンクに火花が飛ぶ電気ショートに悩まされた。炎がマグネシウム製ホイールやサスペンションアームに届くとまばゆいばかりの閃光が飛び、車は文字通り煙に包まれた。もっとひどいことに、こうした材料は貴重で高価だった。プロジェクト初期、軽合金のコストは製造使用量が増加すれば大幅に削減できるとブーランジェは見積もっていたのだが、決定的なコスト減少が起こりそうな気配はなかった。

 ブーランジェの初期の設計目標は燃料節約のためTPVを出来るだけ軽くすべき、というものだったが、別の分野で深刻な問題を引き起こしつつあった。乾燥重量(300s)とフル荷重状態(700s)の違いは、それに対処すべく作動する複雑なトーションバーサスペンションシステムにとっては過大なものであった。ドライバーのみが乗っている状態でかなりソフトなレベルにセットすると、助手席に人が乗る場合ボディが路面に向かって沈み、ブレーキが作動するたびに車体はノーズが地面に当たって沈む前に激しく揺れるのだ。この現象を防ぐためにサスペンションとブレーキペダルをつなぐアンチダイブ機構が必要となった。しかしテスターが袋入りジャガイモを後ろに積むとノーズが空を向いてしまう。

 ←1965〜6年モデルのエンジンルーム。とても珍しいものを装備している。燃料燃焼式ヒーターである(ダクトの先の黒い部分)。極寒の地で乗る際に使われた。

最新のエンジンもトラブルがあった。凍結しやすく極寒の気候では始動しなかった。燃費と出力は絶望的で、ブーランジェのオリジナルスペックを大きく下回るものだった。にもかかわらず1939年の春、47台以上のいろいろなプロトタイプを個人的にテストした後、ブーランジェはTPVがついに使えるレベルになったと宣言、秋のパリサロンでのデビューを早々と想定して250台のパイロット版を製作するよう命じた。

 その年にTPVが出ていたら間違いなく商業的に失敗していただろう。エンジニアは満足させても当時の一般大衆を喜ばせることは出来なかっただろう。不慣れなドライバーにとっては機械の悪夢だっただろう。エンジンオイル補充のような定期的エンジンメンテナンスは前フェンダーを取り外す必要があり、燃料計はなく(ディップスティックすら無かった)ガス欠を避けるのは困難だった。空電のバッテリーに高圧チャージをすると雲母の窓が路面の埃を大量に引き付けるので曇りガラスになったも同然だった。ステアリングホイールやペダル類はひどい位置に付けられ、ハンドブレーキはほとんど作動しなかった。ドアや窓はきちんと閉まらず、屋根は雨漏りがして隙間風が侵入してきた。適切なヒーターもないので車内はいつも寒く、しばしばびしょ濡れにもなった。スターターモーターを取り付けることなど誰も思いつかず、リアビューミラーもなかった。重量を節約するためにたった1個だけヘッドライトが備わっていたが、これは当時のフランスの道路交通法で認められていたためである。ホタルの方が軽くて安いんじゃないのか、そうすればバッテリーも不要だ!そんなジョークが社内を包んだ。

↑2CVタイプAの戦後生産版で初の公式宣伝写真(1948年9月撮影)。リアフェンダーの下端が上方にカーブを描いていることに注目。生産版では見られない特徴である。

 しかしシトロエン2CVスト−リーにおける第二の運命がやってきた。10939年9月1日、シトロエン社ルバロワ工場から最新の試作車が送り出される前日、ドイツ軍がポーランドを侵略した。3日にはフランスとイギリスが宣戦布告し、直後に予定していたパリサロンは中止された。1940年6月までにドイツ軍はパリへ到達し、フランス北半分を軍事的に占拠し、シトロエンの工場へ「監督者」として招かれざるドイツ人の同席を課し、全てのフランス自動車メーカーが占領下に置かれた。

 1940年11月20日のドイツ側命令で、こうした監督者は原材料の購入から賃金の支払い、完成車の販売をも含む商業的業務処理について全面的管理権を与えられた。彼らの力は生産調整のみでなく技術情報の使用制限や技術スタッフへの指示にまで及んだ。ジャベル河岸では個人向け乗用車生産を直ちに中止するよう命令が出て、シトロエン社は(ルノー社やベルリエ社同様)ドイツ国防軍から注文を受けた3〜4トントラックの生産のみに集中された。全面的な会社接収と同じだった。TPVのデビューが数年後に延期されるであろうことは明白で、そのため研究所はマイナートラブルを解決するのに十分な時間が持てた(もちろん極秘で!)。

↑2CVに乗車している写真(宣伝用)。運転席は2CV開発計画のコーディネーターだったマルセル・シノン。助手席はブーランジェの秘書マダム・ゴーロン。リアシート向かって右は1935年に初期市場調査を行った市場調査部長のジャック・デュクロス、左は研究所長のジャン・カデュー。

 

第一次世界大戦での武勇に対し多くの勲章を獲得した英雄、ブーランジェはヒトラーの新ヨーロッパ秩序構想には頑強に反対した。ナチスにも、ナチス協力者たるヴィシー政権にも嫌悪を催した彼は個人的接触をヘルワルタ氏のみに限り、シトロエン社の存続を保証し労働者たちの暮らしを守るために必要な事のみをした。工場の機械や設備の没収に直面しても、ミシュラン社主の全面的支持を受けていた彼はドイツ軍や財界要人との直接協力を拒み、占領者とは部下又は仲介者を通してのみ対処すると主張した。ドゴール将軍の初期の支持者だった彼はドイツ国防軍の駐留が明らかに短期であり、様々な策略を用いれば占領の4年間、枢軸国に協力せよというあらゆる圧力に断固抵抗出来るのだと確信していた。生産遅滞の全記録を破ることでブーランジェはジャベル河岸の組み立てラインからドイツ国防軍輸送部隊に向けて1日に17台のシトロエン製トラックしか送り出さないと保証した。1万台から1.5万台の車両(限られた台数のトラクシオン・アヴァンも含む)が占領下の4年間で生産されたと考えられるが、その多くは生産の過程でサボタージュが行われている。面白い策略として、計量棒の刻み目を間違った所に付け、車両が徐々にオイルを使い果たし、エンジンを壊すというものがあった!この非協力的姿勢でブーランジェの名前はナチスの悪名高い、第三帝国に敵対的な67人のフランス要人ブラックリストに載った(ちなみにリストはパリ解放後、レジスタンスのメンバーによってゲシュタポのパリ本部だったオテル・エクセルシオールから発見された)。その結果、もし連合軍が占領下のフランスに侵攻するか市民が蜂起しない限り、彼は戦争中に逮捕・ドイツ移送の恐怖に曝されていた。

 1940年7月、ベルリンからパリにやってきた他ならぬフェルディナント・ポルシェ博士による、フォルクスワーゲンに対するフランスのライバルを調べるための実地調査が行われたことが知られている。しかしルバロワ(シトロエン)とウォルフスブルグ(フォルクスワーゲン)間の自由な情報交換を約束したのに互いに何も明らかにしなかった。TPVについて質問されたブーランジェはドイツ要人に、プロジェクトがシトロエン社の商売上の秘密であり、フランスのものでもないため、そんな大切な情報はドイツ人だけでなくフランス人にも漏らさないと語った。

 しかしナチスがこの時点でフランスの国民車を手中にしていたら、彼らはそれを「石鹸の空き箱で作ったオンボロ自動車」に過ぎないとして笑いながら退けただろう。まさにそれはドイツのライバル車とは全く異なるコンセプトだった。

 ←49年までにリアフェンダー下端は真っ直ぐなものに変えられたことが、49年ルバロワ工場で撮影されたこの生産直前版写真でも分かる。フロントフェンダー上の小さな駐車灯に注目(実際には採用されなかった)。

戦争勃発時にブーランジェはそれまでに完成していた250台のTPVを当分の間ルバロワ工場かラ・フェルテ・ヴィダムのテストコースに隠しておくよう命じた。信頼出来る目撃者の証言によれば、大量の試作車両が1943年にルバロワ工場に秘匿されたままになっているらしい(訳注:90年代に入り数台の試作車が発見され、2CV生誕50周年にあたる98年に公開された)。しかし戦後1949年、今や現実の路上を走れる車がありながら(2CVとしてかなり違った形にはなっていたが)、ブーランジェは残っている全てのTPV試作車をその他のプロトタイプやアンドレ・シトロエン時代の実験車と共に破棄するよう命じた。しかし幸運なことに1968年、試作車の分解されたパーツ群がラ・フェルテ・ヴィダムのテストコースにある納屋に梱包状態で隠されていたのが発見された。一方占領前・占領中にタイヤ関連の研究プロジェクトが命じられていたクレルモン・フェランのミシュラン工場で、小型トラックに擬装された別の試作車が発見された。両車とも丁寧にレストアされ、現在フランスの博物館で見ることが出来る。

 TPVは戦争中隠されていたが、忘れ去られてはいなかった。商業的責任やプレッシャーとは無縁の研究開発チームは中断せずに秘密開発の空気の中で作業が出来た。フランスの自動車メーカーは占領中、ドイツ側の許可がない限りいかなる自動車の製造(研究や設計すらも)も禁止されていたのだが、シトロエン社はその命令を無視し、想像力が暴動につながろうとした正にその時、通常のビジネスという事実によって解放されたのであった。

 1940〜41年の冬、ブーランジェは戦後すぐに車を復活する準備をしようとプロジェクトのコストを概算した。分かりきった政治的進展はともかく、経済的状況は既に当初の状態から大きく変わった。当初の軽合金設計による材料費や製造費はとうに40%増加し、さらに上昇し続けていると彼は見積もった。より重い鉄鋼製の車にすることは今や避けられず、それはサスペンションや軽くパワフルなエンジンについても再考を要すると意味した。全ての計画は再検討を要した。

 幸運なことに、戦争の激震で卓越した才能を持つエンジニアが転職し、かつてのパリ48区にあったモルス工場から移転した研究所に入った。新規入社の中のチーフは才能に恵まれ経験豊富なエンジン設計者、ワルテル・ベッキアだった。彼はシレスネのタルボ・ラーゴ設計事務所出身で、キャブレターの専門家ルシアン・ジラールも連れてきた。プロジェクト内への新鮮なアイディアの注入としては、他に研究所の新所長ジャン・カデューや、イタリア人彫刻家兼デザイナーでトラクシオン・アヴァンのデビューに関し驚異的な仕事をしたフラミニオ・ベルトーニがいた。カデューは他の設計者の助力を得て軽量鋼製の新ボディシェルデザインを考案するようベルトーニに指示し、ずっと前に頓挫していたAXプロジェクト、すなわちトラクシオン・アヴァン改良版用にベルトーニが作った模型に対し、設計陣の提案を素にして改良させた。ブーランジェはこのTPVマークUにヘッドライトを一つだけ付けるよう再度命じ、ベルトーニはまるで一つ目巨人族キュクロプスのように、ボンネット中央に配備した、シンプルで平板な造形は、美しいカーブを持つボディを作るために必要なプレス機の大半をドイツ軍が持ち去ってしまったことによるものだった。この時点ではまだ復活版TPVの試作車はオリジナルの水冷エンジンと戦前型の複式トーションバーサスペンションを備えていた。

 ブーランジェは失われたプレス機が戦後返還されるかどうか知る手立てもまだなかった。占領中、工作機械やプレス機がドイツ軍に徴発されドイツへ列車輸送されそうだと知ったブーランジェはナチスの動きを妨害するため、レジスタンスに貨車の中身を入れ替えてしまうよう手配した。ある夜、鉄道貨車がまだパリの操車場にあったときにレジスタンスのメンバー数人が侵入し、貨物列車が間違った所へ行きヨーロッパ中へ散らばるよう、行先案内板を付け替えてしまった。戦後この機械群を見つけ回収するために多くの時間と労力が注ぎ込まれた!しかしプレス機があってもなくても装飾やこけおどしのない、この平板な機能的スタイルはブーランジェの美的感覚に訴えるものがあった。インテリで、ル・コルビュジェに強い影響を受けた受けたかつての建築家であり、20年代から30年代にかけて現代工業社会の全製品に渡り広範囲なデザインの基準を築こうと試みたモダニズム運動の思想家だと彼をみなすのは大げさだろう。もしコルビュジェが主張したように家は単に住むための機械に過ぎないのならば、車は移動するための機械に過ぎず、純粋に機能面を考慮したもの以外の全てのデザイン意図やコンセプトは無用なものということになるからだ。

 1944年の解放後、TPVの仕事は出来るだけ早く生産に着手すべきだという考えのもと、熱心に再開された。初めに詳細なコストと実現可能性分析がM.ベルコ(後にシトロエン社役員となる)によって実施され、ラジカルな第三次再設計プログラムが研究所で開始された。この技術プロジェクトはジャンン・ムラテによって率いられ、全体のボディ設計は技術実験部門の車体設計スペシャリストモーリス・ステックによって実施された。一方細部の課題とスタイリングはフラミニオ・ベルトーニの担当のままだった。

 解放後数年間はフランスの経済状況が戦時中と変わらぬほど悪く、たとえさほどでなかったとしても原材料や燃料、機械類の不足が続く現状から生じた困難は政治不安と産業不安の両者によって更に悪化していた。しかし1946年の終わりまでにシトロエン社は復活の軌道に乗り、生産以来1万台目のトラクシオン・アヴァン・サルーンがジャベル河岸の工場から1945年に再び世に送り出された。当時改良版の戦前型TPV生産計画は進んでおり、1948年に現れるタイプ―あの有名な空冷軽合金フラットツインエンジンが特徴である―に車を似せた設計も既に進行中だった。このコンパクトで軽量設計、高精度技術というワルテル・ベッキアの仕事は骨の折れる条件をものともせず終盤に差し掛かり、何時間も全速力状態で進行していた。サンチュラの初期水冷設計と同じ排気量375tで一週間足らずで設計された、この見事にバランスの取れたエンジンは卓越したシンプルさと操作容易性、そして超低燃費と高効率を併せ持っていた。エンジンをスタートさせる時は天候を気にする必要がなく、セルフスターターがなくてもクランク棒で始動させることも出来た。

 当時ブーランジェによって考案されたTPVは3段ギアボックスを持つ予定だったが、ベッキアは迷わず4段ギアボックスを与えた。ブーランジェは自分の指示とかけ離れたことに気付くとひどく立腹した。農民の妻では3速ギアでも十分マスターできないのに4速とは何事か、と彼は主張した。結局妥協案が施され、ベッキアは4速をオーバードライブとすることでブーランジェを納得させた。そのためギアセレクターは3速とリバースギアが表示され、4速の位置にはS(「超倍速」)と記してあった。ブーランジェは分かっていたのかもしえない―今日でも多くの初心者ドライバーにとってギアチェンジが難しい仕事であり、2CVのダッシュボード据付ギアシフトは初心者にとって現代車のフロアマウント式スティックタイプレバー型ギアシフトよりずっと易しいことを。

2CVのエンジン

〜素朴でシンプル?洗練されて上品?

エンジンの進化の過程において通常最も重要な点とみなされる、大きく複雑な金属の塊に対しては全く対照的なまでに様々な方式があるが、ワルテル・ベッキアの小さな2CVパワープラントは自動車設計史上の偉大な業績の一つであり、もっとも耐久性に富む存在としてランクされるべきだろう。同時代のエンジンの中では、伝説的なジャガーXK120(1948年、2CVと同じ年に登場)のエンジンが(2CVの)42年間連続生産という無敵の記録にもほぼ比肩しうる38年間生産され続けた。

 シンプルで合理的なベッキアの軽量空冷設計は、当時の旧来型エンジンの信頼性に影響を与えていたほぼ全ての電気・冷却システムのトラブル箇所を取り除いた。漏れの生じがちなラジエーターも破裂しがちなホースも、切れがちなファンベルトも、停止しがちなポンプも、沸騰・凍結・錆になりやすい冷却液もなく、故障を招く箇所はほとんど無かった。クランクシャフトの先端に冷却ファンを取り付けオイルクーラーを結果として気流部に配置することで、最適の作動温度がエンジンの回り続けている限り保証されるようになった。さらに通常のディストビリューターをなくしカムシャフトの端にコンタクトブレーカーを配することで、クランクシャフトが回転するたびに両方のプラグに火花を供給するための両頭コイルと連動して作動するようにし、長期に渡る正確なタイミングが保証され、火花ミスがあってもコンタクトブレーカーに高圧電流が流れないのでポイントの寿命が伸びた。可動パーツを減らし必要最低限の主要動作のみにすべく、ダイナモですらクランクシャフトと共に動くよう設計され、発電子は冷却ファンが取り付けられる差込口を形成していた。

 要するに2CVのエンジンは荒削りの音のせいで完全に誤解されているが、洗練さと精密さが表現されているのである。1ミクロンの許容度で製造・組み立てがなされ、主要構成部品はその精密度ゆえにガスケットが不要である。センターラインに沿って垂直に分割されたアルミ合金鋳造クランクケースとクランク室、両半分の部品に各一本ずつ冷却目的でフィンが切られた鋳造ピストンシリンダー、半球型燃焼室を備えた合金シリンダーヘッド、それぞれが一般的なシール類を使うことなく精密かつオイル・ガス漏れのないようしっかりとネジ留めされている。50年後における大気汚染防止法を予想してかベッキアは有害な排ガス対策として、吸気マニフォールドの吸気活動によって排気パイプを介して導かれ、キャブレターを通して再利用され、シリンダー内で燃料と共に燃焼するようにした。

 しかし最も興味深く非凡なる2CVエンジンの特徴は、クランクシャフトとコンロッド一体式という、独創的なエンジン設計と構造にある。最大の強度と完全なバランスのために、通常用いられるボルトオン式キャップ  

←↓1975年頃に装着された602cc2CV6エンジンの前後。ベッキアの設計になる比類なきシンプルさとコンパクトさはこれで明白である!
 で保持された2ピース式ベアリング付分割型ビッグエンドは排除され、スリーブベアリング付1ピース型コンロッドを採用した。これが組み立て段階でクランクシャフトにはめ込まれ、全体の造形は堅固かつコンパクトな自給式組立品となった。このクランクピン、ベアリング、ウェブ、コンロッド、前ジャーナルベアリングを含む5ピース型クランクシャフトユニットは工場で油圧により一体成型される。まずクランクシャフトが液体窒素に浸けられ一時的に縮む。様々な部品が取り外しや独立した交換が出来ないので、メインベアリングの破損は全ユニット交換になる。しかしベッキアの設計は本来機械が高温にならず、ストレスも少ないため、まずそのようなことは起こらない。始動時に適正量のオイルが供給され、巡航速度時にグリルの覆いが外されれば、2CVのエンジンは何時間もフラットアウトで最高速度を走るだけの信頼に足るものである。

 40年代の生産開始初期には、工場でのベンチテストではフルスロットル(5000回転/分)で100時間回しても(=ノンストップで5万マイルをフラットアウトで走ったのと同等の状態)ダメージがなく、耐久性の良さを確立した。それゆえ普通の運転条件で走行していて、ペダルを踏めば踏むほどベッキアのエンジンが活発となり、ガバッとスロットルペダルを踏んでも燃費に何ら影響を与えない事を、血気盛んな2CVドライバーが後で気付いたところで驚くには値しないのである。

残りの一つの問題点はサスペンションであった。後にマルセル・チノンによって改訂されたものの、今もなお水平にマウントされ前後を繋ぐ伸縮式コイルスプリングが特徴的であった。初期のプロトタイプに用いられていた、高価で複雑なトーションバーは大幅な改良がなされていて、上下動も抑えられとても快適な乗り心地となったが、ロードホールディング性能は犠牲になっていた。ダンピングの具合によってはリバウンド時に車輪が路面と接触し続けられなかったのだ。それはブーランジェがショックアブソーバー装着の許可をしなかったためであった。彼はそれがコンセプトの純粋さを壊すと感じたのだ。諸問題はレオン・ルノーが戦前に考案した有名な慣性ダンパーを復活させることでようやく解決した。慣性ダンパーは車軸アームの端に装着され、車輪と隣り合っていた。この「器具」を使った変更で、ブーランジェの反対もようやくクリアし、そのしすてむが1965〜75年の間に消滅するまで長きに渡って採用された。それ以降は通常の伸縮式ダンパーが全モデルに使われた。

なぜ2CVは人間のように感じられるのか?

 よくはずむ足回り、そしてコーナリング時の危なっかしいロール角度を乗車時に体験した多くの人が、そのソフトで柔軟性に富むサスペンションは明らかに吐き気を催す乗り心地で、どこへ飛んでゆくのか予測できないハンドリングを生んでいるに違いないと想像するようだ。しかしいずれも事実には程遠い。2CVは引っ繰り返りにくいのである。デビュー時から2CVのロードホールディングは申し分ないことで知られ、今日でも多くの専門家がその乗り心地や走行安定性が多くの現代の小型車よりずっと高いレベルにあると評価している。

 疑いなく、2CVの傑出した快適性と安全性の秘密はそのユニークな前後関連式の水平作動全独立サスペンションシステムにある。このシステムにおけるバネレートは歩いたり走ったりする際の人間の肉体のリズムに調和するよう設計されているのだ。

 2CVでは車輪が車軸でなく、プラットフォームシャシーの四隅に、クロスチューブ部に位置する巨大なローラーベアリングを介して取り付けられた三日月形のリーディング(トレーリング)アームにマウントされている。こうすることでアームが大きく振れることができ、車輪の上下動がかなりの長さで動けるになるのだ。そのため2CVの前輪がコブに乗り上げた時、前輪アームのゆがみでタイロッドが車体下部に水平に取り付けられた筒型スライディングハウジング内のスプリングを圧縮し、衝撃を和らげる。しかし後輪が同じハウジング内の二番目のスプリングに同様の方式でつながっているため、前輪の動作が後輪に伝わり、後輪アームが下がる。それは後輪がコブに出会うための準備となり、サスペンションが硬くなる。こうして轍や窪みのショックが完全に吸収され、振動や上下動もなくなる。そしてホイールベース内に着席している乗員は、路面がどんなに荒れていようと非常にスムーズかつ安定した乗り心地を楽しめるのだ。

 1945〜46年に2CVはブーランジェの個人的な監督下、フェルテ・ヴィダムにおいてほぼノンストップで走行試験を受けた。この時点でルフェーブルのTPVプロジェクトに対する係わり合いは小さくなった。彼の創造エネルギーは今や緩急所で進行中の別の大型研究プロジェクト、いわゆる「大型普通車」、徐々に進化して後にあの革命的なDS19となる車に集中していた。その頃からTPVはすっかりブーランジェの子供となり、結果としてパトロン(=ブーランジェ)の個性や哲学が、車のユニークなキャラクターや外見にはっきりと最後まで反映された。平均的なフランス人とは対照的に、ブーランジェは背が高く痩せていて、ベレー帽ではなく中折れ帽を被っていた。そのため彼を乗せるための車は他の現代的小型車よりもずっと大きなヘッドルームやレッグルームを持たなければならなかった。日曜日になると彼は妻と家族を連れてテストドライブに出た。ドライブのたびにいつも同じ道、同じ速度で燃費が55mpg(約19.5q/ℓ)を下回ることのないようチェックしていた。

←1950年9月号の「モーター」誌に初掲載された2CVの構造画。英国のドライバーにその神秘を説明している。記者は「ピョンピョン跳ねそうな砂利道でも驚くほど快適」と報告している。

 ブーランジェは完全主義者であり、常に何か心配事がないか見つけていた。現段階で彼を悩ますものは車重だった。様々な変更や修正を受けた結果、オリジナルの設計案より25%以上増加してしまった。この重量を減らすための努力として、彼はプロトタイプを完全に解体し、部品を一つ一つ計量して各部品がより小さく、軽く、薄く出来ないか、あるいは部品そのものを削減出来ないか点検させた。全ての部品の正確な重量を計測するためにセルビス・デ・ポア(重量部)と呼ばれる部署が出来た。そしてシトロエン社の製図者たちが、今後は製図の際にどんな小さく些細な部品でも額面重量を検証するよう指導された。

 しかしブーランジェの努力は無駄になった―適切な窓ガラスや二つ目のヘッドライト、原始的な暖房システムといったより多くの重要な追加部品が設計に取り込まれ、重量は増え続けた。そんな状態であってもブーランジェはまだ電気式スターターモーターを拒否し、芝刈り機の、運転席からコードを引っ張るタイプのスターター以外認めなかった。この命令は数週間後に突如覆る。シトロエン社の秘書たちがプロトタイプの使用を求められ、エンジン始動方式に不慣れだったため指を傷つけたせいだった。ブーランジェは直ちに電気式スターターを命じ、重量増加を受け入れた。ワルテル・ベッキアはこの方向転換を数年前から予測していたようで、スターターモーターが簡単に装着できるようエンジンを設計しておいたのだった。

見よ、アンチロールバーはないぞ!

 多くの近代車と違い、サスペンションを固め、コーナリング時明らかに危険な角度まで傾くことを防ぐアンチロールバーを2CVは持っていない。コーナリング時に車体をロールさせる力と、車体を転覆させようとする力との間には何ら因果関係はないとアンドレ・ルフェーブルは分かっていた。かなりロールする車は実際には転覆しにくいのだが、ほとんどロールしない車は予期せぬ転覆がありがちである。車のロードホールディング性能は路面に接触しているタイヤの作用によって左右されるからである。

 曲がりくねったイギリスの田舎道とは異なった、真っ直ぐだが凸凹なフランスの田舎道向けに設計するにあたり、ルフェーブルはアンチロールバーが2CVの素晴らしくバランスの取れたハンドリング性能を損ない、乗り心地も殺しかねないという見解を取った。横向きの力を車輪に伝えコーナリング時に車輪を路面から離してしまうため、アンチロールバーは力の向きが変わってしまう瞬間のような重大局面時にタイヤと路面が離れ、ステアリング制御を突如失いかねない。ある程度までのロールはメリットがあるとルフェーブルが信じていたのは、ロールによって不慣れなドライバーがタイヤグリップの限界に近づいていると警告することになるからであった。つまりロールを減少させた車は端で見ていると安全に見えるかも知れないが、実際の安全性は減じられ、安定性や乗り心地への見返りもない。

 要するに2CVの車体ロールと転倒の危険性との間には関連がないのだ。4輪全てがしっかりと路面を掴んでいることに加え、広いトレッド、低い重心のおかげで転倒作用力を防ぎ、たとえかなりきついカーブであってもタイヤと路面は常に最適の接地状態を保持しているのだ。

↑1948年2CVがパリサロンでデビューした時、130万人以上もの来場者に注目された。しかしkの時ボンネットは閉じたままだった。エンジンの細部がまだ決まっていなかったのだ!背後のスタンドにあるのは当時の2CV最大のライバル、ルノー4CV。

↑翌年の1949年、ついに全てが明らかになった!

↑ブーランジェが2CV空冷エンジンの技術的詳細についてフランス政府のロベルト・ラコステ及びアントアンヌ・ピナイ両大臣へ誇らしげに説明しているところ。

なぜ2CVは細い車輪なのか?

 バネ下重量を最小限にまで減らすため、2CVの前輪ブレーキはインボードマウントされている。そして車輪自体は軽量で細い。タイヤの転がり抵抗を最小限まで減らすのはもちろん、この細い車輪はサスペンションが最も伸びきった時に発生しハンドリングに影響を与えてしまいかねない「ジャイロスコープ力」を最小限にすることにも役立っている。さらに車輪が飛び跳ねるのを防ぐために、初期の2CVはサスペンションアームの接合部に摩擦ダンパーが付いており、4輪全てに慣性重量ダンパーが備わっていた。しかし1975年までに全モデルに通常の油圧伸縮式ショックアブソーバーが装備され、車軸アームに直接は取り付けられず、シャシーのすぐ下に吊り下げられ、車輪をつなぐメカニズムと連動して水平に作動するようになっている。

 2CVサスペンションのもう一つの面白い特徴は、積載荷重によって変化するステアリングジオメトリーへの対処方法である。4人の乗員と荷物による負荷がかかった時、ホイールベースは2インチまで伸び、ステアリングキャスター角は8度まで増加する。これによって負荷がかかったことによるハンドリングやロードホールディング性能への悪影響を緩和するのだ。

 軽く敏感でかなり正確なラック&ピニオン式ステアリングで、車重のいかんにかかわらず2CVは特筆すべき直進安定性能は、まるでレールの上を走っているがごとく安全かつ予測可能な感覚でコーナリングが出来るのだ。

 戦後初のパリサロンが1946年9月に開催され、新たに国営化されたルノー公団は戦時中にフランスの「国民車」の秘密開発に従事していたことを明らかにした。その国民車、ルノー4CVは、戦時中枢軸国軍から爆撃を受け破壊されたが国の資金によって再建復活したパリのイル・ド・セギン工場で生産される予定になっていた。ルノー4CVは平凡な4ドア4人乗りで、757tのエンジンをVWビートル同様後輪の後ろに搭載していた。事実1944年に作られた4CVのプロトタイプは、ウォルフスブルグで生産進行中だったビートルに酷似していた。

 ←ハイウェイで撮影された2CVの初の宣伝用写真。最初期の生産モデルとなる数百台未満の車両はヘッドライトが黒く塗られていた。乗員は研究所のスタッフ。

ルノー4CVの販売は1年後の1947年8月にスタートしたが、それはいわゆるプランボン(ポン計画)と呼ばれる、社会党政府によって提出されたフランス自動車業界再編5か年計画に備えてのことだった。これはポール・マリエ・ポンという、戦前フランス自動車業界についての研究を左翼系雑誌「カイエール・ポリティーク」に発表した人物の仕事だった。彼は論文の中で、イギリスやアメリカのライバルに比べ、30年代におけるフランスの主要メーカーは過度の多車種や派生モデルを抱えており、毎年開かれるパリサロンでわずかばかりの改良や目新しさを発表したいだけのために頻繁にモデルチェンジが為されると批判していた。こうしてプランポンは社会党政府が望ましくないと考える不必要な競争やモデルチェンジを全てなくすことで自動車生産を合理化し効率性を高めようと画策していた。数々の法案の中でポン計画はシトロエン社をトラクシオン・アヴァン11CV及び15CVの生産のみに現地エして存続させ、ルノーは安価なマーケットを独占させるべきだと明記していた。

 この制限的かつ官僚的な命令を無視して、4か月後の1948年2月、ブーランジェはついに大幅改良されたTPVプロトタイプの生産を認可した。それはTPVの初披露の舞台を秋に行われる次回パリサロンにすべきだという狙いがあってのことだった。ついに14年以上に渡る妊娠期間を経て、TPVは誕生しようとしていた。唯一残っていたのは名前の選定とパンフレット用の写真撮影だったが、言うまでもなくブーランジェがその仕事も担当した。

←シトロエンの前輪駆動TUB多目的バン。有名な戦後モデルのH(アッシュ)バンの祖先にあたる。1937年の後半に初のプロトタイプモデルが登場し、1939年のフランス商用車市場参入を目指していた。現代のヨーロッパ製バンは全て、1935年にブーランジェが規定したラジカルな設計によるこのバンに源を発している(彼は同時にTPVにも指令を発した)。前輪駆動とトーションバーサスペンションを特徴とする初の商用車かどうかはともかく、最前面運転席とウォークスルー式荷室を持った初の車であることは確かだ。