2CVの父親たち

第2回 アンドレ・ルフェーブルの巻

 アンドレ・ルフェーブルAndre Lefebvre(1894〜1964)はパリ郊外のルーブル生まれ。パリの航空学校で飛行機の設計を学びました。学校はモンマルトルにあり、当時はピカソなどの芸術家がカフェやビストロに出入りしていました。こういう雰囲気の中で進歩的発想を育んでいったルフェーブルは、名設計者、ガブリエル・ヴォワザンの会社に入ります。

 ヴォワザンはもともと飛行機の設計者でしたが、後に自動車の設計を始め、さらに名建築家ル・コルビュジェと共同でパリ都市計画案「プラン・ヴォワザン」を発表するなど、その才能は多岐に渡っていました。そんなヴォワザンにとってルフェーブルは右腕的存在となり、レーシングカー設計などを手がけてゆきます。ヴォワザン自身もレーシングドライバーとして1923年にレースに出場、総合5位という結果を収めています。彼の設計したレーシングカーは飛行機の流体力学を参考にした流線型ボディが特徴で、この当時から空気抵抗の考えを自動車に導入していた彼の先見性がうかがえます。また、レーシングカーの設計を通して、彼は一つの設計持論を確立します。それは「自動車はエンジンが優れているだけでは速く走れない。総合的なバランスが取れていて初めて速く走れるのだ」というものです。当時は1万ccを超える排気量のエンジンなどが出場していましたが、重量配分が悪かったり足回りが未完成だったりするなど、その強力なパワーを充分発揮出来ずに負けるケースが多かったのですが、ルフェーブルは軽量化、空力化、重量配分など、飛行機の世界で用いられていた設計技法を流用することで成功したのです。

 ↓トラクシオン・アバン(1935-58)

やがてヴォワザンの会社が傾き始め、ルフェーブルはルノー社に移りますが、保守的なルイ・ルノーと革新的なルフェーブルでは衝突が避けられず、当時発案した前輪駆動車のアイディアも「そんな下らない話に付き合う暇はない」とルノーに一蹴されてしまいます。1933年、ルフェーブルは喧嘩別れしたルノー社からシトロエン社に招かれます。そこで前輪駆動車プロジェクトを推進、有名な「トラクシオン・アヴァン」を完成させます。

 その後彼は2CV開発プロジェクトに参加、非常に困難な条件に多くのエンジニアが匙を投げる中、積極的に取り組みます。相当な変わり者であったことは間違いないようです。彼は仕事熱心で、一旦仕事に取り掛かるとなかなか研究所内から出なかったとか。当時珍しかったナイロン製のノーアイロン・シャツを「洗ってアイロンがけもせずすぐに着られるから」という理由で好んで愛用していました。

 ↓DSのハイドロニューマチック透視図

2CVの設計だけでも立派なものですが、さらに彼は戦後フランス高級車の傑作、DSも設計します。その前衛的なスタイルとメカニズムは世界に衝撃を与え、今でも根強いファンを世界中に残しています。トラクシオン・アヴァン、2CV、DS、いずれも”CAR OF THE CENTURY”にノミネートされ、25台に絞られた時も3台共に残りました(ちなみに3台が候補として残ったのはメーカーで唯一シトロエンのみ。日本車は0台)。いかに彼の才能が非凡であったかが分かります。

 彼は長身でハンサムということもあり、かなり女性に人気があったらしく、当時としては珍しい3回の結婚をしています。またワインは飲まず、水かシャンパンのみだったそうです。天才にはありがちなことですが気性が激しく、仕事のペースも速かったために他の研究員がついてゆけず、研究所内で彼は孤立がちだったようです。

 1958年にシトロエン社を退職しましたが以後もシトロエン社のために設計業務を行い、64年に70歳で死去しました。その後に登場したGS、SM、CXは彼の影響を受けたと思われます。いわばシトロエンのアバンギャルド路線を確立した立役者とも言えるでしょう。

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