京王御陵線について
 京王御陵線とは、多摩御陵(武蔵野陵)への参拝客の輸送の為に建設された線で、昭和6年3月20日に全線開通。昭和20年1月21日に運転休止となった路線です。
 昭和42年10月1日に京王高尾線が開通しましたが、北野〜山田・めじろ台は、この御陵線の跡を利用した物です。
1−計画
 京王電気軌道(現:京王電鉄)は昭和2年に大正天皇の御陵墓が南多摩郡横山村の御料地内に定められると、同年12月に「北回り計画」と呼ばれる計画で敷設特許(敷設免許)を得ました。
 この「北回り計画」とは東八王子(現:京王八王子)駅に進入する手前から上り坂を築き、都立第四女学校(現:都立南多摩高校)の西側で甲州街道を跨いで浅川の堤防へと抜ける。その後堤防に沿って西に向かい、浅川橋付近で国道16号線を跨いで秋川街道と平面交差した後にやや南寄りに進路を変えて元本郷町の多賀神社の西側で南浅川を渡り横川、舟田を通り多摩御陵前に至るという計画でした。
 この計画は八王子市議会にて「八王子が鉄道により東西に分断されると東部地域が開発から取り残されてしまう」と言う理由で否決されました。この対案として「計画よりも東へ曲げて大和田橋で浅川を渡った後、堤防に沿って西へ向かう」と言う折衷案が出されました。しかし、この案を実行するには近くに山田川が流れている為に中央線を潜れません。しかも莫大な費用が掛かる為、結局この案も実現には至りませんでした。
 当時国鉄と参拝客の獲得競争を行っていた京王側が何もしない筈が無く、「北回り計画」に変わり新たに「南回り計画」を作成。すぐに用地買収を始め、昭和4年5月には路線変更の許可を得ました。
 「南回り計画」とは、北野駅から現在の京王高尾線と同じルートで進み山田駅の西500m程の所で進路を南西に変え、中央線を跨ぎ多摩御陵に至るという物でした。
2−工事
 工事は昭和5年5月10日に北野側から始まりました。まず横浜線を跨ぐ為に土を盛り、土手を作る事から始めました。打越町、片倉町、小比企町、山田町(町名は現在の物です)の丘陵地帯を通り、山田を過ぎると中央線を跨ぐ為に再び土手を作る。南浅川に橋を架け、多摩御陵前に至る路線が昭和6年3月
20日に開通しました。6.4キロの路線を約10ヶ月で造るというもの凄い速いペースで工事が行われていた為、工事開始から1ヶ月後の6月10日には労働条件の改善を求めて労働者がストライキを起こしました。それから1週間後の6月17日には山田町と散田町の間にある峠の開削作業中に土砂崩れが起こり、作業員3人が生き埋めになる(うち2名死亡)事故が起きています。それだけ開通を急いでいたのでしょうが、無理な作業を作業員に行わさせてた理由には朝鮮の方々を多く雇用していたらしいと言うのも理由の1つだったのかもしれません。
3−歴史
 計画から運転休止に至るまでを箇条書きしてみます。
  昭和2年初頭   大正天皇の御陵墓が南多摩郡横山村の御料地内に定められる。
      12月   京王電気軌道「北回り計画」で敷設免許を得る。
           八王子市議会が「北回り計画」を否決。
  昭和4年5月   京王電気軌道「南回り計画」提出、路線変更の許可を得る。
           用地買収開始。
  昭和5年5月10日 御陵線工事開始。
      6月10日 労働者のストライキが起こる。
      6月17日 山田町〜散田町間の峠で土砂崩れが起きる、2人死亡。
  昭和6年3月20日 御陵線開通。
  昭和12年5月1日 駅名改称、横山→武蔵横山、御陵前→多摩御陵前となる。
  昭和20年1月21日 御陵線、不要不急線と見なされ運転休止。
4−駅と付近の当時と現在の状況
「北野駅」
 御陵線の起点で、現在は高尾線の起点となっている。新宿から36.1辧
 玉南鉄道の駅として大正14年3月24日に開業しました、業当時はもちろん高架でありませんでした。北野駅を出ると御陵線は上り勾配になっていましたが、その上り勾配は先程も述べた通り横浜線を跨ぐ為に人の手によって築き上げた物で、横浜線より西は現在でもそのままです。横浜線より東は北野駅のすぐ横を通っている国道16号線のバイパス工事の際、北野駅高架化工事と共に崩してしまいました。

「片倉駅」
 新宿から37.8辧昭和6年3月20日京王電気軌道御陵線の駅として開業しました。現在は「京王片倉」と改称されています。改称の理由は、開業当時横浜線の片倉は信号所だったので御陵線は片倉としていました。その後運転休止となり高尾線の駅として再開業する時には、横浜線の片倉が信号所から駅になり開業していたので京王片倉と改称しました。この付近には片倉城址公園や、絹の道などがあり玄関口となっています。

「山田駅」
 新宿から39.3辧昭和6年3月20日京王電気軌道御陵線の駅として開業しました。付近には、室町時代に作られた広園寺、夏に花火大会が行われる八王子市民球場、富士森公園があります。
 高尾線として再開業した御陵線の駅は以上の3駅で、山田駅から西に500m程行った所(架線柱盪嚇
14〜15)で現在の高尾線から分岐します。分岐した後は現在畑となっている上り坂、中央分離帯のある道路を通っていました。この道路が土砂崩れの起こった場所です。その先道路は下り坂になりますが、御陵線はここに築かれた土手の上を走っていた。道路はそのまま中央線を潜りますが御陵線は高架で跨いでいました。中央線を跨ぎ終わった少し先が横山駅の有った場所です。

「横山駅」
 卍についての資料が見つからなかったのでわかり次第記述します。昭和6年3月20日京王電気軌道御陵線の駅として開業しました。その後、昭和12年5月1日に武蔵横山に改称しました。当時としては珍しい高架駅で、更に珍しく離合線が有りました。駅の北端は甲州街道に面した場所に有りました。
 御陵線は甲州街道を跨ぎ、南浅川へ向かいます。現在甲州街道に面したところはガソリンスタンドになっていますがこのスタンドの用地が甲州街道に対して斜めになってしまっています。これは言うまでもなく御陵線の影響で、住宅地図を見ると甲州街道から南浅川を渡り、進路を西に変える辺りまでが良く判ります。南浅川を渡った所に工務店が有るのですが、この裏手の住宅に御陵線の橋脚が2本取り残されています。なぜこの2本だけ取り残されたのかは謎です。進路を西に変えた辺りで御陵線の痕跡が無くなってしまいます。何故かと言うと都営住宅が造成され、地形がかなり変わった為です。恐らくこの住宅の57、60、65、68号棟辺りを走っていたのでしょう。68号棟の東は細長い畑が続き、その先は細い道路になっています。この細い道路が御陵線の跡でしょう。この道路を進んで行くと終点、御陵前駅の有った場所に着きます。

「御陵前駅」
 新宿から42.5(北野駅の卍+6.4)。昭和6年3月20日京王電気軌道御陵線の駅として開業しました。その後昭和12年5月1日に多摩御陵前に改称しました。駅舎は神殿風に作られていて、駅前には噴水も有りました。ホームはコの字形(JR野駅地下ホームの様な行き止まり形)になっていて複線が入っていました。脇には測線も1本有りました。現在は、駅の跡形も無く歯科医院が建っています。ここから多摩御陵迄はケヤキ並木を通り徒歩5分程で行けます。ケヤキ並木は旧東浅川宮廷駅から甲州街道を越え、多摩御陵迄続いています。この並木の脇に陵南グランドが有るのですが、ここは昭和33年に行われた東京オリンピックの自転車競技場だった場所です。現在は公園と野球用のグランドしかありません。
旧版地図の入手方法
 国土地理院のホームページで、地理情報の閲覧・提供サービスに有る
「図歴 地勢図 (1:200,000) ・ 地形図 (1:50,000・1:25,000)を選択 。
 地図と国土の各種データに有る図歴リスト:「地形図」(5万・2万5千分1)をクリックします。
 ここでは国土地理院で保存している地形図のリストが、日本地図から地域別に選択できるようになっています。
 ここで地域を選択すると図歴表が表示されます。この表で欲しい年代(図歴から判断)のリスト發鮹気掘▲螢好鉢發鮃気┐泙后
 例えば、東京東南部にある東京国際空港の昭和20年頃ならリストNo.は「76-3-4-3」となります。この番号は、後で謄本交付申請のときに使います。もしこの時に欲しい物がどれかわからない場合は、直接閲覧をして確認しましょう。閲覧の方法は、図歴表の下に「旧版地図の閲覧について」という項目がありますので、これをクリックして確認して下さい。
 次に謄本交付申請です。申請書を先程の日本地図の下にある「旧版地図の謄本交付について」という項目をクリックすると、申請書がダウンロードできるようになっていますので自分に都合の良い物を選択してダウンロードします。この時記入例もダウンロードできますので、一緒にしておいた方が良いでしょう。
 同じページに謄本交付窓口も書いてありますので、郵送を希望する方は電話等で方法、送料の確認を行うと良いでしょう。直接本院(つくば)又は関東地方測量部(大手町)へ行かれる方は、申請用紙が窓口にありますのでダウンロードしなくても大丈夫です。
 なお本院(つくば)・関東地方測量部(大手町)では、第2次世界大戦直後に米軍の撮影した航空写真も閲覧できますので、興味のある方は訪問してみてはいかがでしょうか。
5−廃止後談話
 御陵線は多摩御陵への参拝客の輸送を目的として作られたものですが、皇族の方々の移動はどの様になっていたのでしょうか。京王電気軌道では500号貴賓車を作りましたが、皇族の方々がこの車両を使う事は殆どありませんでした。戦後この貴賓車は普通客車電車に改造されてしまいました。何故利用される事が殆ど無かったのかと言うと、皇族の方々がご旅行される場合には赤坂御用邸から原宿駅へ行き列車に乗り換えて目的地に向かう訳です。しかし京王線を利用するとなると新宿駅まで行き、乗り換えなければならず備上の都合も有り利用されなかったのです。
 御陵線には当時珍しかった物が2つ有りました。1つは先程出てきた高架駅。もう1つは、郊外電車による2輌編成運転です。これは休日だけ行われていた物で、新宿〜御陵前迄直通運転していました。
 珍しい事は廃止後にも起こりました。南浅川の鉄橋ですが、これが白昼堂々盗まれてしまいました。ある日、作業員数名がやってきて鉄橋を解体してトラックで持って行ってしまったそうです。あまりに堂々とやっていた為、周りの人は京王の人が撤去したんだと思ったそうです。当時鉄屑は高価で売買されていたので、鉄橋に目を付けた者が仲間とやって来たのでしょう。
 計画時といい、廃止後といい、災難に遭ったこの線も廃止から22年後1部区間ではありますが復活したのは私にとって喜ばしい事です。今後も御陵線については折を見て調べていきたいと思います。
御陵線跡の判別できる地図はこちら(かなりの容量です<1.6MB>)
御陵線跡等記入してありますがかなり細い線です(地図上の痕跡を出す為)。