早春の小野路〜小山田を往く@独り走り/2001.03.07

花粉症なのか風邪なのか、はたまたそのW攻撃なのかわからんが、前の晩からとにかく喉は痛いわ鼻水はジュルジュルだわで、そのうえ身体がダルくて仕方がなかった。ってコトで、日給月給の身でありながら仕事を休むことにした。部屋でテッシュBOX片手に身体を休ませていたら、笑太に散歩に出せと命じられた。カースト制度の厳しい我が家においてボクは笑太の家来なんである。渋々外に出てみると風が強くて、あたりの梅が散りはじめている。くしゃみを連発しながらボクは小野路の梅林を思って気がきでなくなっていた。「あの梅たちは大丈夫かな?」

次の週末では間に合わないかもしれない。この強風でみんな散ってしまうのではと心配になった。R・ブラッドベリ『たんぽぽのお酒』のダグラス少年じゃないけれど、今日行かないとイケナイような気がしたボクは、笑太の散歩を早々に切り上げて小野路へと町田街道を急いだ。

小野路/小山田地区は、多摩市・八王子市と隣接する町田市の西北に位置して多摩丘陵の南部周縁を成す。司馬遼太郎を真似て『道』のウンチクを語るなら、「小野路はかの近藤勇と由縁の深い土地である。独立独歩の旺盛な多摩郷士たちにとって、幕末の混乱期は自らの野望を成就させる絶好の機会でもあった。大政奉還までの一時期、多摩丘陵に縦横にはり巡らされたそこかしこの道から、多くの多摩郷士の子弟たちが青雲の志しを胸に抱き、江戸あるいは京都へと旅立ったのであろう」。てなカンジになるのだろうけど、『弁士、見てきたように嘘を言い』だ。信じちゃぁイケナイ。

が、信じてよいのは、この丘陵一帯からは旧石器時代の遺物が出土し、縄文早期〜晩期/弥生・古墳時代/中世の住居跡が数多く発掘されていることだ。青森県・三内丸山遺跡の発掘調査で、縄文人が栗/胡桃/漆を植林していたことが判っている。ここ多摩丘陵からも縄文時代の大集落のムラ跡が発掘されていることを考えれば、多摩の縄文人も『植林』や雑穀類の『耕作』を行っていたであろうことは容易に想像することができる。そしてここ小野路と隣接する野津田地区からは鎌倉期に造られた街道跡が発掘され、その一部は現役の生活道路として今なお活用されている。つまりこのあたりというのは、1万年あまりの悠久の時代からヒトが継続的に生活しており、営々と先祖たちが造り守ってきた「森」や「道」が残されていることになる。

TLR -200 に乗っていた頃、小野路/小山田/野津田の丘陵に蜘蛛の巣のように巡らされた「道」を走る愉しさを知った。今でいう『里山ウォッチング』をしていたことになる。四季を問わず、昼夜を問わず、なにを見るというコトもなく、雑木林のなかや田んぼのあぜ道を走ったものだ。SEROW-225に乗りはじめてルートが少し変わり、さすがに笹ヤブに入ることはなくなったが農作業の軽トラが通過した痕跡があれば構わず突入した。 TRANSALP になってボクはここに来なくなった。重たい車体が田んぼや溝に落ちたときのことを思って危険回避をしたのだ。赤土のぬかるんだ急斜面の切り通しを通過する度胸がなかっただけのことでもある。

薪や山菜採りあるいは耕作地として、里山はヒトの生活に不可欠な場所だった。里山の「自然」にとってもヒトは必要だった。下草苅りや潅木を伐採する手間が入ることで、森は常に健康でいられ清浄な水を枯渇させることなく大地に供給することができた。ヒトの手が入ることで土は養分を与えられ、植物は育ち、昆虫は集まり小動物が里山の周辺で棲息することができたのだ。里山が作る空間は一つの完全な自然サイクルを成していて、ヒトはそのサイクルのなかで重要な役割を担っていた。そして里山からの恵みを享受していたのだ。それがホンの半世紀前までは当たり前の『風景』として、日本中のどこに行っても見ることができた。ヒトと自然との共生のバランスがとれていた。

 

上の写真だけ見るとさも豊かな『自然』が残されているように見えるけれど、森の向こうには人口 32 万人を抱える多摩ニュータウンが控えているのだ。この里山は東京都公園管理課の庇護で森としての体裁をかろうじて保っている。仕方がないとはいえそのような形での『保存』は、本来の里山の成り立ちからして歪に思えてしまう。まるでゲージの中でしか絶滅を免れないでいる佐渡のトキのようだ。

 
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