Inamuragasaki Kamakura
COFFEE SHOP TARO'S
 

ボクはスノッブを気取れるほど湘南を知っているわけでもフリークでもけっしてない。
でもなんでかなぁ。やっぱり湘南に足が向いてしまう。

夕陽は森戸海岸〜長者ヶ崎間からの眺めが素敵だ。
伊豆半島と富士山のシルエットに隠れていく太陽と刻々と変化する空は、
荘厳という文字を思い出させてくれる。満月は江の島ヨットハーバのボードウォークから眺めたい。
鎌倉の山からゆっくりと昇ってくる満月と、
その満月が作り出す漆黒の波に揺らめく銀色の光の帯を眺めていると、
時のたつのも忘れて惚けてしまう。
また茅ヶ崎・東海岸ほど気持のいい朝を迎えることのできる場所をボクは知らない。
東雲の空が徐々に明けて、江の島が潮煙りの向こうにぼんやりと見えてくるさまはドラマチックだ。
そして湘南の路地は、うんざりするほど暑い夏の昼下がりがよく似合う。
だれもいない片瀬/鵠沼、北鎌倉、鎌倉山、長谷あたりの静寂な住宅地の生け垣や個性豊かな家にこそ、
湘南の色が現れているような気がしてならない。
クロマツに囲まれた昭和初期に建てられた家などを見ると、
その風情を大切にしている家人を思ってボクは極上な気分になってしまうのだ。

COFFEE SHOP TARO'S は狭くて汚い店である。
留め金が錆び付き看板は傾いている。ドアだってきちんと閉まらない。
取り澄ました店が連なる湘南にあって、じつにあきれるほどの店なのだ。
それなのに主は一向に修理をしようとはしない、
虚飾を嫌うといえば褒めすぎになる。
彼はほとんど暴力的に無頓着といってもいいほどなにもしないのだ。

客へのかかわり方も同様で、およそ接客らしいコトはなにもしない。
必要とされないかぎり動くことはないのだ。声をかけるまで放っておかれるか、
注文を「彼のところに告げに」行かないかぎり客は飲みたいものを得ることはできない。
がしかし、たとえば久しぶりに逢った友人と話し始めたときや
まだなにを飲もうか決めかねているのに注文を即されたら、
客はまちがいなく気分を害するはずだ。
もし喉が乾いているのであれば、ドアを開けた瞬間にビールを注文すればいい。
カウンターにつくころには目の前に冷えたグラスとビールが置かれていることだろう。
そして彼は、客がたった一杯のコーヒーで何時間も海と空に魅入っていようが
好きなだけ放っておいてくれるのだ。
TARO'Sの主はそんなふうに客に接するのである。

客を放っておく。彼のそんなスタイルに魅かれてか、
休日ともなるとバイクを駆って常連たちが集まってくる。
かつてサーファーの溜まり場であったこの店に、
いつの頃からバイク乗りが集まるようになったかは知らないが、
サーファーとバイク乗りの共通点は自由への想いだ。
自由を求めて止まない「不良たち」にとって、
この店には彼らが大切な場所にしたいなにかがきっとあるのだろう。

誰もがなにかを抱えて生きている。
その抱えているモノの大きさを客観視して云々することなどできやしない。
当事者にとって悩みごとや問題はいつだって重たいものなのだ。

自由奔放に見えるTARO'S の「不良たち」にも、日々の生活があり目先の「問題」がある。
そんな彼らは第三京浜を、横浜新道を、あるいは西湘 BP を稲村ケ崎を目指して疾走してくる。
その道程で日々の重たいモノを捨ててくるのだ。
そして故郷に戻ったような安堵感をTARO'S で得ているのである。
そのことが暗黙の約束ごととしてこの店にはあるような気がする。
みんなが自分と同じ思いであることを彼らはよく知っている。
だからここに集まる連中はみな優しいのだ。

しかしその優しさはベタベタしたそれではない。
客を好きなだけ放っておいてくれる優しさだ。
突き放した優しさといえるそれこそが「湘南」なのかもしれない。
伊豆半島や富士山のシルエットに沈む太陽。
鎌倉から昇ってくる満月。そして潮に煙る江の島は、
ただそこにあるだけでなにも語ってはくれないけれど、ボクを癒してくれる。

湘南の優しさはそんなふうにさり気ない。
だからいい。だからボクはTARO'S を大切にしたいのだ。