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事件や問題

過去に起きた事件や問題 社会的出来事をまとめてみました。
近年 日動振等は過去に起きた不都合な出来事を隠蔽する
(近年の資料には全く記載していない)
傾向にあると言えます。
そこで過去に起きた出来事を紐解いてみましょう。当然オフィシャルにこのようなページはありません。



 柳井 台風直撃

天災 柳井   (柳井オートが廃止になった理由の一つ)

昭和30年9月30日 四国 中国地方を中心に襲った台風22号は
瞬時にして柳井オートレース場を一面水浸しにしてしまったのである。

直接原因は暴風雨による正面と左右の堤防の決壊だが、
折からの高潮で3万坪の敷地内を水位4mに及んで浸水。
この為 走路の両コーナー部バックストレッチは原型を止めないほど損壊、
建物も招待席 警察官詰め所 下見台 審判台 消防官詰め所などは全壊
大スタンド 投票所 競走会事務所などは半壊。

浸水は一向に引かず10月12日になって応急処理により浸水を食い止めたが
レース再開は極めて見通し困難であった。

山陽復興鰍フ必死の復興によりレースは翌年から再開されたが
決壊した堤防の本格的復旧工事のために柳井オートは休止を余儀なくされ
併せて地元柳井市がオートレース場を工業用地に転換する都市計画をたてたのである。

まさにこの災害が柳井オート廃止の引き金になったといえよう。


天災 タイヤ工場被災  (名古屋タイヤになった理由)


平成7年1月17日 阪神淡路大震災が発生した。5500人もの命を奪った戦後最悪の災害であったが
オートレースはたまたまレース場に存在しなかった事もあり直接的な被害は皆無であった。

しかし オートレースのタイヤを生産していた住友ゴム工業鰍ェ被災したのであった。
神戸工場の被災はオートレースのタイヤ供給ストップにつながる出来事であった。

そして、他のメーカーでは作れない「三角タイヤ」が供給されないとなると
オートレースそのものも開催できなくなる事態が想定されオートレース関係者は困惑した。

その結果、
@ 全場のレースに使用可能な未使用タイヤの在庫数を調査する、
A 選手養成所の在庫タイヤ(208本)も補給用として考える、
B タイヤ不足の大きな影響は全日本選抜以降あたりと予想されるが、全日本選抜についても出場者の
   タイヤ在庫数を把握し、必要があれば対策を講じる、
C タイヤ不足の影響により選手間の公平な成績審査が困難な状況と判断されるため、
   平成7年2月3日を初日とする開催からタイヤが安定供給できるまで、
   当分の間、登録消除のための競走成績は審査の対象外とする

などが確認され、メーカー側のタイヤ生産再開のスケジュール等も視野に入れながら対応していくこととなった。

一方、住友ゴム工業鰍ヘ、タイヤ金型と成型機等を被災した神戸工場から名古屋工場へ移転して
名古屋工場での生産再開へ向けて急ピッチで、その体制を整えつつあった。

しかし、住友ゴム工業鰍フ努力にもかかわらず「納入品はレース使用には耐えられない」との評価であった。
タイヤの生産とその品質管理の技術がいかに微妙で、大変むずかしいかを物語るものであった。

ようやく住友ゴム工業鰍フ名古屋工場での厳選された材料と高度な工程管理によって、
被災した神戸工場でのタイヤを上廻るタイヤが安定して供給されるようになり、
オートレースタイヤ供給の危機は回避されたのであった。


食中毒 浜松

浜松オートレースで参加選手の過半数が食中毒に遭う事件がおきた。
昭和45年9月12日市営第6回第1日の夕食の膳のブリ及びボラの刺身が原因で中毒を起こし
5名が入院 41名が軽症の下痢をした。

中毒の原因は刺身から検出された腸炎ビブリオ菌であることが判明

開催執務委員長は第2日から第4日まで3日間のレース中止を決定。
食堂業者は営業停止になった。



  女子レーサー

女子レーサー

売上が低迷が続いていた船橋オートレースは
昭和29年その人気挽回策として女子レースの採用を決めた。
同年7月千葉県競走会が規格車として150ccの車両10台を購入、オーナーとなり女子選手を乗せた。

その背景には当時競輪で女子競輪がそれなりの人気を得ている事にもあった。
しかし、オートではまず女子選手の獲得が簡単ではなかった。
今日では女性がバイクに乗るのは当たり前の時代であるが
昭和29年当時では運転免許証を持っている女性は多いとはいえなかった。

まして、収入が多いとはいえ、当時大変危険であったオートレース選手を志願する者は少なかった。
それでもなんとか1レース分の10人余りの女子選手が集まってきた。
その大半はオートバイメーカーのキャンペーンガールからの転向組であった。

物めずらしさもあって観客は大喜びで拍手喝采し、その人気は一時 男子レースに劣らなかった。
スカーフを風になびかせ疾走する女子選手の雄姿はファンの話題となった。

昭和31年 浜松オートが開設されると船橋の人気にあやかろうと浜松でも女子レースが採用された
中でも岡本七重選手は「岡本時代」を築いた浜松の女王であった。

しかし 女子レースの最盛期は長く続かなかった。
選手層の薄さから同じ顔ぶれによるレースが繰り返された結果 
車券の対象として次第にファンの興味を失っていたからである。

やがて結婚 その他の事情で引退する選手が出てくると もはや女子だけによるレースは不可能となってきた。
競走会では男女混合レースを企画し、ハンデによる調整を行うなどしてレースを続行。
中には男女混合レースで男子選手を振り切る実力派のレーサーもいた。

しかし、それも長く続かず 最後まで1人健闘していた岡本七重が昭和35年結婚を理由に引退すると
笑顔と闘志で花を添えた女子選手はその姿を消した。

迫力に乏しいレースと言われながらもオートレースの女子選手たちはやはり厳しい競争の世界の中で
頑張っていた事にかわりはなかった。


※女子レーサーの死亡事故が当時多発した事を補足しておきます。



  防音壁 川口
 

騒音問題  船橋 川口    (船橋 川口の防音壁 スタンドの理由)

昭和42年 9月 船橋オート移転の為の公聴会ではじめてオートレースの騒音問題が浮上した。
「音の魅力」がオートレースの醍醐味というファンが少なくないのにその爆音が公害であると指摘されたのは
かつて無いことであり、走路の舗装化を景気にオート界が抱えざるを得ない問題となった。

当時のダート走路は爆音の吸収率がよく舞い上がるほこりに音が吸収されるため
比較的広い敷地を有するオートレース場ではほとんど問題にならなかった。

しかし、騒音問題が舗装化のみを原因とするのでなく
首都圏の居住地帯の拡大化と無縁でない事が背景にあった。

翌43年には川口レース場の隣接地鳩ヶ谷市南8丁目地区の住民が
「騒音被害があるだけで利益は何も受けていない」
と言い出してからオートレースの爆音が公害問題として看過できなくなった。

ただ、鳩ヶ谷市の場合 レースの主催権が埼玉県と川口市で関係が無い為、
騒音と収益との損得勘定が働いていたのが事実である。
この問題は国会問題にまで発展した。

川口市も事態を重く見て日動振に対して騒音対策の研究を要望するとともに周辺地域の騒音を測定。
防音壁による騒音を遮断する事を決定。第3コーナー曲線部外周沿いに防音壁を建設(写真)した。
しかし、防音壁西側から爆音が漏れる方角から市内を含めて新たな苦情が持ち込まれ川口市では
引き続き2階建てスタンドの建設に着手することになった。

この間にレース場周辺対策として地元町会自治会と話し合いを進め
47年4月より鳩ヶ谷市内の5町会の自治会に対して80万円の清掃活動協力費を交付。
川口市内の5町会の自治会に対しても同様に84万円を交付する事にした。
かくして43年5月国会質問に端を発した騒音公害問題は一応の解決を見たのであった。

一方 船橋では周辺に公団住宅が建設されるにあたり東側に防音壁を建設。
住宅公団も着工前であったのでレース場に壁面を向ける1棟を配して騒音を聞こえにくくする工夫を凝らした。
この為 船橋は爆音が著しい公害騒音問題にまで発展しなかったのは不幸中の幸いであった



    消音器

鳩ヶ谷問題再熱  川口オート  (レース場の周辺を朝早く掃除している理由)

47年4月より鳩ヶ谷市内の5町会の自治会に対して80万円の清掃活動協力費を交付することで
一応解決したかに見えた騒音公害問題は鳩ヶ谷市川口オートレース公害対策委員会から
埼玉県及び川口市に対して請願書が出された事により再び顕在化した。

50年5月20日付で鳩ヶ谷市長からも県知事 県会 川口市長に要望書が提出された事により
否応なくその対応を迫られたのであった。
鳩ヶ谷市川口オートレース公害対策委員会からの請願については県、市ともにこれを却下した。

鳩ヶ谷市の要望は次の通り

@ オートレースを廃止する事
A 廃止になるまで各家庭に防音装置を設置する事
B 周辺住民に対して身体的精神的負担に対して補償する事

同年6月26日 知事と市長とが鳩ヶ谷問題を協議し、オートレースの廃止は考えないという結論を得
次のような対策を実施する事を確認した。

@ 防音壁の改修
A 消音器の研究
B 違法駐車の規制
C 防犯パトロールの実施
D 周辺市域の清掃

防音壁改修はバックストレッチから2コーナーにかけ延長。屋根を鉄板から遮音壁に改修
違法駐車の規制については駐車禁止の三角塔を無料で配布。駐車場の増設にも努めた。

防犯パトロールはガードマンを10名ほど終始パトロールさせ犯罪発生を事未然に防止。
バスの発着所を北門に移動。3台ずつのセット運行を可能とする。

周辺地域の清掃は清掃班を5人1組で5班編成としレース場半径600m以内、西川口駅に至る間の清掃
以上のように改善された。

しかし鳩ヶ谷市はまたも県に対して一開催の開催権を譲渡するように要望。
川口市長が知事公舎を訪れてこの問題を協議。

県、市 それぞれ1000万円ずつ計2000万円を交付する事で一致 53年から実施された。
鳩ヶ谷市の収益分配問題に対するいわば政治的決着であった。

これにより5町会に交付されていた協力費は打ち切りとなり
鳩ヶ谷市内の問題は鳩ヶ谷市当局が解決に当たる事になった。

一方 日動振は騒音対策委員会を設置し 騒音対策の検討に入った。
オートレースの爆音の魅力を残しながら レースに支障のない計量
かつ耐久性の高い消音器を開発する事は容易ではなかった。

数10回に及ぶ試作とテストを繰り返しながら
ようやく昭和51年2月に試作品が完成、装着時期は同年5月となった。

その直後 取り付け部に難点がある事 現物支給する事 装着の延期など
9項目の要望書が選手側から提出され消音器の装着は見送られる事になった。

この後 消音器は小型 軽量化へ向けて改良されていくが、騒音問題も沈静化したので
騒音問題再熱の事態に備えて954本の消音器はそのまま倉庫に保管される事になった。



 ギャンブル廃止
    都議会

都営ギャンブル廃止     (大井オートが廃止になった理由)

昭和44年 美濃部東京都知事は東京都のギャンブル廃止宣言を行った。
都内の公営競技はもちろん宝くじなどすべてのギャンブルを廃止するというものであった。

42年の都知事出馬のさいの公約に
主婦と子供が安心して暮らせる東京にする
都民の税を都民のために使う
都政の体質改善と科学化の実現
という項目があり、背景となったと言われている。

やがて宝くじだけは廃止しないと縮小 修正したものの
公営競技については競走事業廃止対策審議会を設置その対策を決めると宣言。成立させた。

大井オート関係者は「大ーオートレース防衛措置要綱」を作成
大井オート存続対策協議会を結成して廃止反対声明を発表し、
同年7月には来場ファンを対象にアンケート調査を行い存続を訴えたが、廃止への流れは止める事が出来なかった

東京都が単独開催していた大井オート 後楽園競輪は完全廃止
また、大井競馬 江戸川競艇 京王閣競輪は肩代わり廃止という形がとられた。
大井オートは選手、従業員他関係団体に補償金を支払う事で合意が得られ、段階的に廃止する事を決定した。

48年をめどに大井オートは日数とレース数を削減し開催する事になったが、
その間 不正レース容疑で逮捕される事件が相次いだ。

これは当時世間を騒がせた「黒い霧事件」(プロ野球選手4名 暴力団10名 オート選手19名)に関与するもので

選手権覇者 戸田茂司、そして2名の元選手も逮捕され、オート界において衝撃だった。

また、同年 4輪車レースでも八百長が発覚した。



 ダミー人形実験

舗装走路全国統一  (現在の500m舗装路になった理由)

昭和38年 オートレースは人身事故が多くいかにしてこの事故を防止するか
関係者は真剣に対処しなければならない時期に立った。

オートの競走路は土面と舗装の2種類があり、過去の統計から舗装のほうが土面より人身事故が少なく
その上選手の走行面から見ても数々の利点があり、また運営者側から見ても経費その他の面で
有利な点が多いのでまず舗装走路について検討を加えていく事になった。

競走路基準の骨子は大井オートレース場がモデルとしたものであった。

ところがこの案も一部の強い反対に阻まれたのである。

全国的に土面が多かった為オートはダートというイメージが強くダートを舗装化した場合に
果たして興行的になりたつかどうか?

舗装化するには数億円に上る費用が必要で果たしてその冒険をするだけの価値があるか?
という理由である。

また、選手自身も長年土面走路に親しんできた為、「土面が舗装になったら陸に上がった河童同然」
だと舗装に対する不安が反対に拍車をかけた事は否めない事実であった。

しかし安全対策が急務であったため舗装走路専門委員会を設置。
様々な計算や意見を取り入れ全国のレース場を周長500m 曲率半径52m 幅員30mと決定したのである。

舗装化と同時に事故防止対策で特に重要視されたのは緩衝柵の開発であった。
緩衝柵は緩衝ネット自体で衝撃を吸収する構造で、ネットの材質、寸法 張り方 固定の仕方によって
緩衝効果を考慮してあり、ネットが主なるエネルギーを吸収して変形し、その他に使用している材料の弾性
によって選手が走路に強く反発する事の無いように設計した。

全国舗装路統一決定は昭和40年8月。
38年4月の第1回競走路に関する打ち合わせ会が開かれてから3年後のことであった。



4輪車 出走表

4輪レース(舗装)

4輪事故
川口

4輪レースの廃止

昭和46年12月26日 川口レース場で行われた第10レースの4輪ハンデレース(3600m)は
欠車なく発走し1周回から3周回まで異常なくレースを展開した。

4周目に入り第1コーナーと第2コーナーの中間付近を2番手で走っていた7号車(佐久間徳三選手)が
急に進路を外線よりに向かって走り出し、態勢を整えるべく努めていたが、ハンドルを切りきれず
そのまま外線を突破し、バックストレッチの外柵に激突した。

この際 7号車は大きく2回転して外部回避地帯外側に転落、佐久間選手は車体から放り出された。
衝突角度は45度 事故原因は不明であった。

佐久間選手は幸い生命に別状無かった者の大腿部骨折という重傷であった。


そして1日おいて同28日 第10レースの4輪ハンデレース(3600m)で事故はレース終了後に発生した。
6周回を終えゴールしたのち第1コーナーにおいて7号車(福田守男選手)は
外側を走行の3号車(金子光男選手)に接触、3号車は右前方に直進した。

7号車は接触と同時に外線方向にはじかれ、走路中央付近で車体の位置が横になったところで
後続の2号車(中村正邦選手)に接触され、2号 7号車とともに接触状態のまま
第2コーナーの外柵に激突した(写真)選手は2人とも乗車したままであった。

衝突角度は75度 事故原因はスロットル全開で、
アクセルアーム リングアーム リターンスプリングアームの相互の取り付け位置(角度)及び
コネクティングロッドの調整が原因であったと推測されている。

この4輪レースで起きた2つの事故は4輪レースの競争タイムの著しい向上である。
これは42年10月実施した舗装走路がもたらした異変というべきものでダート時代と変わり
タイムは2輪車を追い越してしまったのある。
船橋 川口 大井で開催され20年以上ファンに親しまれてきたものが再検討の段階を迎えたのである。

関係者が有効策(レースカーの安全対策や緩衝柵)を求めて苦慮している時、不正レース容疑により
4輪選手が次々と検挙されたのであった。しかもいずれも日動振5期生
高橋 篠田 中村 仲田 中川の5選手でわずか5年半の新人ばかりであった。

この為 船橋 川口両レース場は1日2レースずつ番組を組んでいたが
川口では1日1レースしか組めなかった。
48年4月18日 関係者は4輪車の安全確保について検討、

さらに5月30日の会議で4輪車レースの廃止を決定した。
選手には廃止措置費が4施行者から支給された。


オイルショック   (11R 6周回になった理由)

昭和48年 第4次中東戦争が勃発し、世界がオイルショックに見舞われた。
オートレース界は石油と密接な関わりを持つので石油供給削減の事態に対処し、石油 電力等の
消費の節約を協力に推進する為 措置をとった。

@ 1レース場辺りの1日のレース数を、1レース削除し、11レースとする。
A 1レース辺りの周回数を1周削除して6周回とする。
B 練習用、整備用のガソリン等は、極力節約に努める。
C 選手宿舎および特別観覧席等の室内の温度は20度以下とする。
D 事務室、投票所等の窓際の電灯は、事務に支障のない範囲内において、極力節電する。
E レース終了時間は、極力繰り上げる。
F ファンに対しては、マイカーによる来場の自粛を求める。
G 競走場の設備改善についても、当分の間極力抑制に協力する。


暴動事件

昭和32年9月16日
川口オートレース場
 

1、2級車ハンデ 3400m 第9レースにおいて
本命のランナー号(桑原孝夫選手)が2着に落ち、
人気薄のミシシッピー号(高山正美選手)が1着になったにも拘らず
配当金が640円と意外に低配当であった為「八百長だ」とファンが騒ぎ出し、

「選手を出せ!」と言って約300人が選手控室、警備本部に乱入、
ガラスを破壊し、また第1 第2 第3投票所や板塀を破り
事実上のレースの続行が不可能となり
第10レース以降は中止され、翌日のレースも打ち切りとなった。



昭和34年7月29日
飯塚オートレース場
 

1、2級車ハンデ3マイル競走 最終レースにおいて
1着 原田重寛選手、2着 坊田日本選手でゴールしたが、
坊田選手が5周目で外線を踏み切ったと言うファンが「失格だ!」と騒ぎ出し、
これに対して主催者側は「規定の30cmを越えていないから失格ではない」と判定。
配当金の払い戻しを行ったところファン約300人がコース内になだれ込み判定の撤回を迫った。

夜7時に至ってようやく主催者側が判定をくつがえして、全面的に誤りを認めるや、
ファンの激昂は更に募り、弁当代、車代を要求、険悪な気配となったが、
結局情報協会が400人に車代として1人あたり300円を支払って
夜11時すぎに納まった。



同年期日記載なし
浜松オートレース場
 

第5日目の1、2、3級車混合一般3400mレース 第9レースにおいて
選手の走行態度が悪いとして抗議、約30人が管理地区に乱入投石する事件がおきている。
3時間にわたり紛糾の末 警察官の実力行使でようやく退去させた。



昭和42年11月19日
川口オートレース場 


  
破壊された投票所     破壊された壁
     川口
            川口  

4輪ハンデレース 3090m 第6レースが終った後
第7レース1,2,3級チャレンジレース 3090mの試走において
1周目第1コーナーで1号車スーパーシェル号(小林利久選手)がスリップ転倒した。

同じ場所で続いてレーシング号(小堀利治選手)がスリップ転倒した。
小林選手は右臀部擦過傷、車のクラッチを破損し、
小堀選手は全身打撲で車のフォークが曲がってしまった。

アクシデントはこれに終らず、今度は第4コーナーで6号車コマツフジ号(小松邦久選手)
7号車シェリーマン号(日馬信政選手) 5号車ビンセント号(阿佐美博光選手)が次々と転倒し、

2周目の第1コーナーで4号車ユウセイ号(八木文夫選手)もスリップ転倒した。
小松選手はクラッチレバーを、日馬選手、八木選手は共にクラッチを破損し、
阿佐美選手はハンドルが曲がってしまった。
転倒を免れた3号車ホウショウ号(中内安二選手)は2周目の発走地区で停止した。

走路審判員が走路を点検したところ、走路全域に渡りオイルが漏れている事が判明した。
この状況を見て開催執務委員長は第7レースの打ち切りを決定した。

そこで走路を工業用の石鹸で溶かしデッキブラシでこすり 拭き取ったのち、次の第8レースの試走を行った。
しかし、やはり第1コーナー付近で1号車、2号車がハンドルをとられたのを見て、
後続の各車は速度を緩め全車試走を中止した。

さらに走路を調査したところ、オイルが全面的に霧状に散布されていることがわかり、
走路全体を散水用ホースで放水し洗浄を行った。

他方、審判長は第8レースの出場選手に対してタイヤを雨天用に交換するよう指示した。
雨天用タイヤに交換した選手によりテストを行う事とし、
第8レースの佐藤竹男、第9レースの山中義治(旧姓西方)、三浦喜八の3選手が出走したところ、
1周目第1コーナーの突っ込みで山中選手が落車、さらに第3コーナーで佐藤選手がスリップ落車した。
このため 三浦選手は走行を中止し発走地区に入った。

落車した両選手は全身打撲、車のクラッチ、フォークなどを破損した。
午後2時55分 神山開催執務委員長は「レース中止 打ち切り」を決め
ファンに対して放送を行った。 オイル漏れが発見されてから約1時間半を経過していた。

この時、入場者は1万8000人に達していた為 
次回開催の入場券交付のさい、入場門付近で混乱が起きた。

午後1時から2時の間はちょうどたくさんのファンが入場してくる時間帯で、
オイル漏れでレースが中止になるか否か不明のまま入場者数が増えていた。
従って ファンの不満の理由はそういう状況下で入場券を発売した事、
また、他のレース場に行こうにも行くゆとりがない事などが主であった。

そうしたファンが群れをなして投票所のガラスを割ったり(写真)
火をつけたりの乱暴を働き、4時頃には管理地区にも投石を始めた。

ファン若干名は障壁のブロックとくぐり戸を破壊(写真)し、管理地区に乱入して食堂に火をつけたり
選手の自家用車を破壊した。なお、管理地区の火は選手数名が消し止めた。

5時頃になってようやく機動隊の応援を得て事件も終息した。
また、ファン代表が日当として3000円から5000円を要求してきたが神山委員長はこれを拒否。
次回からの入場券を交付する事で納得させ6時半解散した。
この間 警官7人 ファン1人が怪我をし、器物破損現行犯で7人のファンが逮捕された。

この事件による被害額は建物250万円 備品20万円 計270万円に上った。

事件の発端となったオイル漏れを調査したところ、
第6レース出場の4号車フォーミラワン号(前田武邦選手)の競争車の右後輪の内側が
オイルのために濡れておりミッションオイルが約3分の1に減少していた事がわかった。

ミッションケース下部にあるオイル抜きのドレンコックが緩んでおり、
この箇所から競走中にミッションオイルが加熱され霧状に漏洩したと推測された。


昭和43年5月28日
大井オートレース場


春のスピード王優勝戦のスタートでファンが騒ぎ、投票所などのガラスが破壊された。
払い戻し所を中心に暴動が起きたが機動隊の導入が事なきを得た。
この時大井オートに出動した警官は957名であった。


昭和43年12月28日
山陽オートレース場


第11レースで最高ハンデ50mの福永勝也選手が
7周目 1コーナーで2番手からトップに躍り出ようとする瞬間 大きく揺られて片手を挙げて停止
失格となり、このため 10.200円の大穴となった。

ファン約50名が騒ぎ出し「福永に釈明させろ」と言って聞かないので、
観客席前走路中央で審判長が同行のうえ、福永選手に故障状況について釈明させた。

折りしも次の第12レースの締切時間が迫っていて抗議していたファンは車券を購入していなかった為
今度は走路内で第12レースの発走を阻止する挙に出た。

そこで、2分間の再発売を決めたが、日没が迫る事と発売の準備が不足していた事もあり
直ちに発走を行うように切り替えた。かろうじて第12レースを完了したものの、ファンの不満は納まらず
一部のファンから「夕食代及び帰りの電車賃をだせ」と言う要求が出された。

もちろん施行者、競走会は断固拒否したが、ファンの態度は一層硬化したので
ファン318名に対して1人2000円を山陽復興鰍ェ支給することで事態を収捨させた。
時間は7時40分であった。しかし施設会社からとはいえ、現金支給は固く禁じられている事であり
通商産業省からは厳重な警告が発せられた。

この事件の直接的な原因は福永選手が12月7日〜10日の開催で不可抗力と言いながら
彼のスカットマン号がリテーナーの破損(9日)
チャレンジマン号がリフトアームの破損(10日)
と2日続けて故障を起こし、その日もまた故障と3日間連続故障となった為ファンの憤まんをかったのであった。


昭和44年5月6日
川口オートレース場



  放火され炎上
     川口


川口レース場で開催中の第13回オールスター優勝戦で人気の高沢健治選手がスタートで1回出遅れ
2回目正常に発走したが、スタート後100m程から徐々に減速しゴールで他車と1周以上も遅れる
凡走に終った事により、ファン約150名が「八百長だ!」と騒ぎ出し、現金及び車券を奪った。
なお、ファンの暴走は留まらず施設に放火した。      


昭和44年7月20日
山陽オートレース場


第10レース1・2・3級ハンデレース3100m・6周で、
スタートのやり直しが4回に及び、吉田光選手が出走停止となり、

5回目にようやく成立したものの、3周目3コーナーで本命の福永勝也選手が
ロッド下焼付で故障失格したため、
ファン約100名が警備員詰所に押しかけ審判長の釈明を求めているうちに、
次第にエスカレートして競走会通用門を押し倒し乱入、

競走会事務室、選手寮、検車室等のガラス窓に石、空瓶木片、競走車の部品等を投げつけ大部分を破壊し、
走路内にも空瓶、石油ストーブ等を投げこみ火をつけるなど狼藉の限りを尽くした。

この頃になると、騒ぐファンは500名を越え、第10レースと第11レースの払戻を要求、
警察官約200名が駆けつけたが、しばらくは手のつけようがないほどであった。

結局、ファンが完全に退場したのは翌21日の午前2時半近くになっていた。




昭和46年6月26日
飯塚オートレース場


市営第3回第7日第11レースで
順当な展開状況で6周回を経過、6周後のゴール線上を通過した直後、
1号車ニ田水選手はいかにも競走直後の如き態勢で1コーナー突込み点を
外線寄りに張り出したため、大きく順位を変えゴールした

審判長は、この1号車の走路に異議ありと認め、
直ちに配置してある検車委員に競走車の調査を命じたが
この調査結果は競走車には異常なしとの報告であった。

一方、審判長は1号車に周回誤認の疑いがあるので、
直接ニ田水選手を電話口に呼び出して調査したが、同選手はこれを否認し、

6周目の3〜4コーナーにおける態勢が張り過ぎそのままの状態で
直線部を全力疾走したため7周目に入る1コーナー直前附近の態勢が、やや突込みすぎとなったため
態勢の立て直しができず、スリップ気味で外線寄りに張りすぎる形になったとの説明答弁であった。

ファンはそれでは納得せず、第12レースの試走中からかなりのファンがゴール線附近に集まり、
その中の1人が外柵を乗り越えて走路内に飛び込んだ。

また別の一団は自警本部に押しかけ、審判の説明を求め、
口々に「周回誤認だ」「ニ田水を出せ」と大声を出し、益々険悪な状況となった。

16時35分ごろ、事態の推移から競走会理事および審判長が走路内に出て
全ファンに状況を説明することになり、2人が通用門から競走会側に入ろうとしたとき、
附近にいたファンが強引に次から次に50名ほどが入りこんでしまった。

これより先 不穏な状況を見て、ロッカーのシャッターを閉じて万一に備えていたので、
ファンが「ニ田水出てこい」などと口にしてシャッターを蹴飛ばすなどの
乱暴を働いたが、大事には至らなかった。

飯塚警察署長等の助言もあり、ニ田水選手を出して釈明と陳謝を行わせることとしたが、
当のニ田水選手は身の危険を感じて裏山に退避していたため、
選手会支部長が代わって走路内から全ファンに釈明と陳謝を行った。

これに対してかなりのファンが拍手で応えたが、競走会管理地区にいるファンは納得せず、
そのうちニ田水選手が戻ってきたので、今度は彼に走路内で釈明と陳謝を行わせたところ、
これには大声を出して抗議し、憤懣をぶちまけた。

17時40分ごろ、第12レースの中止が放送され、一般ファンは平穏に帰路についたが、
管理地区内のファン40〜50名と、場内にいた30〜40名は退去しなかった。

その後は競走会事務所前で、ニ田水選手を交えての押し問答となった。
これらのファンに対して何度か退去命令が出された。

しかし中々退去せず話し合いは続けられたが結局決裂となり、最後は競走会長によって告示が出され、
22時ごろ大きな混乱なく場外に排除された。

同事件は、実際はニ田水選手の周回誤認であったようで、事件の発展経過の中で
当人が主張を変えたこと(後に周回誤認を認めた)により混乱はやや別の方向に
進んでしまったといえる。

競走会では、今後の対策として、従来どおり”ゴール後もバックストレッチで掲示する
赤旗を確認するまでは、競走態勢を崩さずに全力疾走すること”を厳守させるとともに、

選手の自覚訓練、周回数の事前徹底、

警備員の訓練(異常事態発生に激昂したファンの力に対抗し得ないところから平常訓練が必要)
に力を入れる方針を打ち出した。

この事件により、飯塚市は6月27日、28日の両日の開催を打ち切りとした。




昭和53年1月2日
浜松オートレース場

10レースで小松久二一選手が残り1周回 第1位に接近して第2位を走行中
ゴールラインを通過直後よりスピードを急激に減速しつつ第1コーナーを大きく迂回、
外側回避地帯に入り、第3、第4コーナーの中間地点外側付近に停止した。
小松選手は競争車 身体共に異常なく、錯覚による周回誤認をした旨申し出た。

自警本部に納得のいかないファンが説明を求めに詰めかけ、担当者は事情説明に懸命であった。
11レースは15分遅れで異常なく競走を終了したが、
終了後も説得を了承しない約200名のファンが残り、抗議を続けていた。

施行者の説明は次の通り

イ  第10レースにおける小松選手については制裁審議会に諮り厳重処分する事
ロ  第10レースは規則に基づいて競走は成立している事。
ハ  第10レースの投票券面金額の返還は出来ない事。
ニ  このような不測事故の発生について誠に申し訳ない旨お詫びをし、
   再びかかることのないよう公正なレースの実施に万全を期すること。 

しかし、異議を申し立てるファンは退場する様子もなく益々激ミし、場内施設に対して危害を加えるに至り
17時 開催執務委員長は警察機動隊の出動を要請、
18時半頃 機動隊200名、消防車2台が到着した。

こうして21時30分ごろファン代表2名を残して全員が退場、ようやく平静に戻った。
ファン代表との話し合いは夜中も続けられ、1月3日午前3時30分 一旦打ち切り、
同日午前9時10分再開、1時間ほどで施行者の態度不変と見て退場した。

しかし、自警本部、賞品陳列所。手荷物預かり所その他のガラス、電話機。壁面、賞品 モニターテレビ
などに被害を受け、被害総額は300万円に上った。
これで1月3日、4日の2日間の開催を打ち切った。


 お疲れ様でした
最後まで読んで頂きありがとうございます。
縦書きの文章を横書きにしていろんな資料をひっくり返すのはちょっと疲れました・・・・・・(笑)

何がつらいって 俺だって怒っちゃうよって事件がたくさんあるんで太字にして↑バカだねえとか書きたいんだけど
なにぶん こういうものだけに主観が入れられないところ。これはつらい(笑)
まだまだ他の出来事がいっぱいあります。以下ほそぼそ更新していきます。
また読んでください。 それでは・・・         元サイバスター


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