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園田 長居 柳井 甲子園 大井



   園田オート

園田

昭和26年10月5日 開場 
競馬場 馬場を使用

26年6月 兵庫県議会によってオートレース場の建設予定地を 芦屋と尼崎のうち芦屋に決定
レース場が建設されるまでの間暫定的に尼崎所在の園田競馬場を使用することとなり


同年10月 園田オートレース場が関西地区の先陣を切って華々しくオープンした。

開催にあたり 審判員 選手など関東から応援を得て 万全を期したが
開催前半3日間はまずまずの売上、、後半の3日間の売上は大幅に減少してしまった。

翌年 2月14日から18日までの4日間開催を行ったが、
極度の売り上げ不振と馬場をそのまま使用したことで競馬関係者から「馬場が固くなる」という声があがり
関係者の努力もむなしく廃止せざるを得なかった。

28年1月9日 甲子園オートに移転という形で廃止



  長居オート跡

長居

昭和26年11月1日 開場
競馬場 馬場を使用

大阪市当局のオートレース場の設置に関する計画は長居競馬場を使用する構想に対し
大阪府は専用オートレース場を建設する案で進めていたが、費用が2億円を要する事がわかり断念した。
そこで大田貸しは長居競馬場の走路及びスタンド等を改修して併用使用することを決定した。

長居競馬場の隣接地には大阪中央競馬場があってその売上は1日平均で2300万円の実績を示していた
従って 長居オートレースの売上はその半分とみて1000万円は固いと見込み、大いに期待された。

しかし開催は予定外の結果となり6日間の平均売上は350万円 入場者は3200人であった。
関係者はその体制の立て直しを図り翌年1月及び4月に開催したが初回と同様の結果であった。

折から 隣接する小学校PTAから轟音の為 朝礼も授業もまともに出来ないとして
オートレース反対運動が起こったため大阪市当局も廃止するの止む無きに至ったのである。

昭和27年4月6日廃止



柳井オート

柳井 下見所

柳井 選手


柳井

昭和26年11月20日 開場 
ダート 1000m 幅員20m 曲率半径81m


26年11月20日 柳井オートレース場が誕生した。
同レース場は山口県玖珂郡柳井町の柳井競馬場跡を利用したもので周長は1000mの走路であった。
初回の開催は5日間で行われ平均の売上は190万円 入場者数は2880人であった。

柳井オートにとっての不運は競走場の幅員が規定の20mに2m程足りず18mしかなく
第1回だけは特別に許可され第2回までに必ず改修し20mにするという誓約書をいれ、改修に入ったが
予想以上に改修に手間取り第2回は翌年4月となってしまった点である。

また 第3回は翌々年5月に開催されたが売上等は初回とほぼ同じであった。
柳井は選手数も少なく、6枠制を5枠もしくは4枠にすることで車券の買いやすい方法等の研究し
売上の向上に努め、一進一退を続けながら開催していたが
30年9月30日 台風22号の為 堤防が決壊し、レース場施設は全半壊の災害を蒙った。

それでも山陽復興鰍フ復興決意によって31年1月再開に漕ぎ着けたが、
売上が著しく落ち込み1日平均で100万円を切るという最悪の事態となり、休止に追い込まれたのである。

昭和32年10月6日 山陽オートに移転という形で休止



  甲子園オート

甲子園

昭和28年3月17日 開場 
周長 350m 幅員15m 競輪場走路内側を使用(3級走路)


兵庫県は園田オートレースの開催が断定的であったことと、売上が不振であった為
園田オートレース場の登録取り消しを行い 28年1月に登録取り消しが決定した。

その後 兵庫県は甲子園競輪場の走路の内側に周長350mのオートレース走路を設置し
甲子園オートレースが誕生したのである。

その当時の甲子園競輪の売上は1日1500万円に達している事から
オートレースの売上も関係者の気体を受けて28年3月17日オープンしたが
初日の入場者数は僅か1100人売上は200万円と散々たる成績であった。

その後 競輪との併催 単独開催を繰り返すも、
3級走路である為重量車のいない3級車 4級車でレースを行わなければならなかった。
また、車の故障、短走路で迫力に欠ける点。競輪場と併用により走路が荒れる。競輪走路にオイルが飛ぶ
という競輪側の不満などが出てきて、次第にオートレースの運営は兵庫県にとって重荷となっていった。

やがて開場から2年が過ぎたが売上は下降線をたどり、
ついに坂本知事の(※阪本と表記している記事もある)廃止声明が出された。

関係者は総動員して猛運動を展開、坂本知事の面談、一応当分の間 保留という言質を得たものの
再び 甲子園で爆音は聞かれなかった。

もちろん 兵庫県競走会は多額の負債を抱えたままオートレース再開に奔走したが
走した努力も遂に実らなかった。

昭和30年3月26日 廃止



大井 4回選手権

大井4輪

大井1号スタンド

大井2号スタンド

大井

昭和29年10月29日 開場 
舗装路 周長 500m 幅員25m 曲率半径52m


26年10月30日 東京都議会財務委員会でオートレース場建設促進に関する請願が採択された。
次いで同年12月22日の都議会本会議で 大井 羽田 洲崎 江戸川 武蔵野の5候補のうち
大井競馬場にオートレース場がを併設する事が議決された。

元々 大井レース場の敷地は東京都競馬株式会社が大娯楽場として発展させようという意図のもとに
競馬場のほかに競輪場 オートレース場を建設しようとしていたものであった。

競輪は都内で京王閣 後楽園と相次いで開設されたが
競輪場建設を目指す大井では肝心の競馬場の建設が遅れていた。
やがて都内3箇所の競輪場建設が通産産業省から許可され大井も競輪場の準備に取り掛かるが
先に立川市が競輪場建設を申請したことから 大井の競輪場建設はうたかたと消えたのである。

さらに競馬関係者は競馬場併設を問題に上げ反対運動を起こした。
それは同じ形態でレースが行われている船橋にも飛び火する事で大問題になったのである。

そこで最新 最良の独立走路の建設を検討し、新レース場を建設することが決定。
走路は周長500mアスファルト舗装で勾配の緩やかなセミバンク式とすることを決定した。

このことは当時のオートレース場がいずれも土面走路であった事を見ても大英断であり
今日の全国舗装がスムーズに実現できた礎となった功績は大きなものとなった

全国初の舗装走路と都心にあるオートレース場ということもあって関係者の格別な期待を寄せられて
開場を迎えることになった。

29年11月 華々しくオープンしたが1日平均の売上は590万円 入場者数3600人という不振ぶりであった。
船橋がオープンした際の870万円、9100人とを対比してみても関係者に与えたショックは相当なものであった。

これらの原因は、選手が舗装走路に不慣れのため、レースに迫力を欠き今日にが薄れたためと思われる。
競走路が川口、船橋と異なり舗装であるため、多くの選手が舗装に不慣れで、タイムも思うように上がらず、
今日のようなスピード感もなく、固定ファンもなかなか集まらなかったようである。

また、当時オートレースは新興の競技で、未だ一般に知られていなかったので、
都内のガソリンスタンドにポスターを掲示したり、競馬のテレビ放送にオートレースの宣伝を一緒に行い、
またファンには「大井オートの狙いどころ」という小冊子を配布して、オートレースの普及に努めた。

そして”石の上にも三年”という諺の通り大井オートレースは、33年に入り関係者の地道な努力がついに報いられ、
「ダートの川口」「舗装の大井」の双璧と呼ばれ 俄然舗装走路の本領を発揮しはじめたのである。

開場してから15年を経過した44年1月、美濃部東京都知事が都営ギャンブルの廃止声明を打ち出し、
選手、従業員他関係団体に補償金を支払う事で合意が得られ、段階的に廃止する事を決定した。


大井オートレースは、1日2レースの削減と年間12日の開催日数の削減が行われ、
ついに48年3月22日の開催を最後に姿を消したのである。

昭和48年3月22日 廃止    移転先 伊勢崎


超満員の大井

さよならパレード


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