ニコンF4伝説

 僕、1991年6月6日付けの読売新聞を保管してあるんです。
 
 当時、国内のトップニュースは、長崎県雲仙・普賢岳の火砕流災害でした。

 以下1991.6.6読売新聞朝刊の一面記事より

長崎県雲仙・普賢岳の地獄跡火口東側斜面に新たな溶岩塊が舌状にせりだしているのが5日午前、本社ヘリから確認されたが、気象庁雲仙岳測候所は同日午後3時に臨時火山情報を出し、このせり出しが崩落して大規模な火砕流を引き起こす恐れがあるとして、厳重な注意を呼びかけている。
 気象庁によると、せり出しは幅80メートル、長さ100メートル。斜面には、3日の大規模火砕流で火口から320メートルほどにわたってV字形の溝ができており、舌状のせり出しが落下した場合、溶岩塊はこの溝を一気にすべりおりる可能性が高い。
 長崎県の雲仙・普賢岳(1359m)の火砕流災害で、5日午後も陸上自衛隊による遺体収容作業が続けられ、22人(うち女性1人)を収容、これで計26人となった。このうち読売新聞大阪本社写真部記者田井中次一さん(53)ら13人の身元が確認され、身元判明者は計14人。
 また、やけどで入院していた消防団員が同夜死亡、病院で亡くなった人は6人となった。
 一方夕方に捜索に出た自衛隊のヘリコプターが遺体らしい一人を発見、県警のヘリコプターが午前中に4遺体を発見したと発表していることから、現場での犠牲者数は33人に上る可能性も出てきた。(関連記事社会面に)

 以下1991.6.6読売新聞−社会面より(画像あり)−

 田井中記者の遺体は5日、報道陣による張り込み取材が行われていた島原市北上木場地区の通称「定点」近くで収容された。
収容作業にあたった自衛隊員によると、遺体は、80−200ミリのズームレンズを装着した愛用の「ニコンF4」を抱え込むようにして、うつ伏せに倒れていたという。
 右手の人差し指だけが、シャッターを押す格好で曲がったままだった。
午後5時ごろ、自宅の京都市から駆けつけていた妻栄美子さん(51)ら家族が島原市内の崇台寺で遺体と対面。
 栄美子さんが「お父さんの指を見なさいね。お父さんは最後までカメラマンだったのよ」と語りかけると、長女澄子さん(25)、2女みどりさん(22)はうなずくように泣き崩れた。
 火砕流の模様が写っていたのは7コマ。1コマ目から猛烈な勢いの火砕流が真正面にとらえられている。
 まだ、中央奥の小高い丘ははっきりと確認できるが、2コマ目では火砕流のガスと猛煙で、もう見えない。
 5コマ目は拡大し続ける噴煙が、右手の稜線をのりこえ、地獄跡火口上空にのびている様子を鮮明にとらえていた。
 最後のカットでは、右手の稜線はかき消され、ものすごい勢いで噴煙が手前の谷へ迫っている。撮影ポイントまでわずか500メートル。
 激しい熱でネガが変質したためか、このカットだけは中央付近に、もやったような横線が入っていた。
 あれだけの火砕流にもかかわらず、カメラにはほとんど損傷はなく、田井中記者のベストの胸ポケットには撮影済みのフィルムも4本入っていた。
 「6/3、ズーム 東側の谷 ○(判読不明)で 噴煙あげる」「火砕流15=07北上木場で 田井中」と、午後3時7分にた中規模な火砕流を移したことを示す、焼けただれた写真説明も一緒だった。
以下、省略

 「デスクワークには向かへん。いつも第一線にいたいんや」。
 31才で写真記者のスタートを切った田井中記者の口ぐせだった。
 「使命」などという言葉を口にすることはなく、いつも「よっしゃ、いくで」と最前線へ出かけて行った。
 「決定的瞬間をものにするのは忍耐力と瞬発力や」−を信条に一線を走り抜けてきた同記者の努力が実を結んだのが昨年1月のベルリン取材。
 ポッカリ開いた壁の穴越しに握手する子供たちを中心にとらえた4枚の組写真「観光化したベルリンの壁」はその年の関西写真記者協会の報道写真スチール企画部門賞に輝いた。

 なんて、記者なんでしょう!田井中記者。
 そして、その田井中記者が命がけで伝えようとしたもの。
 命がけで守ろうとしたもの。
 もちろん、カメラなんかじゃないですよね。
 そして、ニコンF4も田井中記者同様、カメラとしての使命を充分に果たしたと言えます。
 伝説とするのに、充分な資質があります。
 田井中記者と、NikonF4。

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