JUNKBOX

1999/12/31

1999

 1999年は俺にとって今までにない激動の年だった。BIKE関係では、10数年乗ってきて今まで事故以外トラブルと無縁だったのに今年は数多くのトラブルに見舞われた。でもBIKE屋、そしてインターネットを通じて数多くの人と出会うことができた。これは自分にとって大きな収穫だった。そしてそういう人達から刺激を受け、より遠くへ、普通の人が知らない所へという欲求がどんどん大きくなり、ついにOFFにまで足を踏み入れることになった。
 音楽の方でも大きな収穫があった。今まで80年代はイマイチだと思っていたが、実はアメリカのアンダーグラウンド=インディーズに強烈な連中がいたことを知った。退屈なROCKに飽き飽きしていた俺はオルタナに飛びついたが、そのオルタナが完全に下火になってからその元祖を知った。このインディーズのスタイルにこだわらない、先進的でストイックな姿勢が最高にカッコいい。こういう連中を知ることができたのは実に幸運である。そして11月にそのインディーズの精神を受け継ぐR.A.T.Mの最新作が出た。「ROCKは死んだ」と何度も言われているが、これを聞き来世紀もROCKが生き続けることを確信した。

 このようにいろいろあった今年も後数時間、そして新世紀を迎える。みんなにとって良い年であるように、そしていろいろ迷惑かけるかもしれないけど俺のことどうぞよろしく。

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1999/ 5/23

さくら道国際ネイチャーラン


 4月16日に一泊二日の予定で車で名古屋まで遊びに行った。いつもならBIKEで行くのだが、今回は目的のひとつに名古屋にある某大型BIKE用品店に行く事があったので、大きな買い物をしたときのために車にした。これが後から大いに悔やむことになる。
 17日に金沢へ帰る途中、岐阜のR156を走っていて確か美濃市のあたりで歩道をゼッケンをつけたランナーを見かけるようになった。外国人も結構走っている。でも普通のマラソンだったら交通規制とかしていると思うのに、そんな感じはまったくない。どんなマラソンなんだろうと思っていると、普通のマラソンならとっくに折り返しているはずなのに、いつまでたってもランナーの姿が見える。これはもしかして新聞にのっていた名古屋と金沢間250K以上を走るというあのマラソンではないかと思った。時折見えるエイド地点ののぼりを良く見てみると確かにそうだった。
 新聞の記事を見たとき、会社の同僚でトライアスロンやマラソン、そしてツールド能登などに出てる人に冗談でこれに出ないのか聞いたことがある。その人は出るなんて全くとんでもない話だという感じだった。だいたい単純に言ってフルマラソンの6倍以上。考えただけで気の遠くなる話だ。
 車の窓からランナーを見ながら考えた。なぜこんな過酷なことに挑戦するのだろう。走りきったとして、一体何が得られるのか。体はぼろぼろになるだろう。足を痛めるかもしれない。そこまでして得たいものとは?
 聞いたわけではないからわからないが、やっぱりゴールした瞬間の一瞬の喜びのためじゃないのだろうか。そして自分の限界への挑戦だと思う。
 そういうふうに考えながら、ランナーの一生懸命走っている姿を見ているうちに胸があつくなった。そしてBIKEで来なかったことをひどく後悔した。ランナーにエールを送りたいが、車ではできない。車にいる自分とランナーとの間に大きな隔たりを感じた。でもBIKEだったらもっと近づくことができる。そしてエールを送ることができる。同じ空気を吸い、同じ自然の気持ち良さを感じることができる。車じゃだめなんだ。
 自分は来年必ずこのマラソンになんらかの形で参加しようと思う。エイドに加わるのもいいし、実況レポート(メールで様子を送る)を募集しているのでそれでもいい。またBIG BIKE軍団を作って応援しながら走るっていうのもおもしろいと思う。
 最後になぜこんなマラソンがはじまったか。それは桜を愛したある一人のバス運転手の遺志を受け継いだから。その詳細は自分の目で見てください。自分はそれを知ってまた胸があつくなった。

1999/ 3/25

広島

 3月の頭から出張で約3週間、広島市内からだいぶ離れた所にあるとある町に滞在した。そして休みの日せっかく広島まで来たのだからという事で広島市内にでかけた。目的地は広島平和記念公園、そしてうまいという噂の某お好み焼き屋だった。
 はじめは観光気分だったが、平和記念館に入りその気分がふっとんでしまった。そこでは被爆した市民自身の書いた絵が展示されていた。以前修学旅行で来た時にはなかったと思う。当時の遺品とか見るよりもこっちの方がよりインパクトがあり、見ていて胸がふさがった。まさに地獄図だった。そしてその絵が展示してあるフロアでは、当時の被爆者らしい人達が修学旅行の中学生に経験談を語っていた。そしてここにはさすがに外国人も多数見にきていた。彼らはこれを見てどう感じたのだろうかと思った。
 

1999/ 3/22

CHICAGO BULLSの崩壊

  アメリカのプロバスケリーグNBAに興味をもったのは、ある強烈なプレイヤーを見たから。暇つぶしにバスケを見ていると、一人おもしろいやつがいるのに気づいた。髪をカラフルに染め、体にはすごいTATOO。アクションがいちいち派手。ゴール下でぶつかり合いをし、自分の絶好のシュートチャンスであっても味方にパスして得点させる。そして彼がいいプレイをするとチームが一気に勢いづく。その男の名はDENNIS RODMANといった。NBA史上最大の問題児である。そしてこの男のプレイが見たいと思うようになり、以来NBAの試合を欠かさず見るようになった。
 一番好きなチームはやはりこの男がいるCHICAGO BULLS。このチームにはバスケを知らない人でも知っているMICHAEL JORDAN、そしてデミオのCFでマヌケ面をしているが、実はNBA屈指のオールラウンドプレイヤーのSCHOTTIE PIPPENがいた。そしてヘッドコーチはPHIL JACKSON。このチームが素晴らしいのはチームプレイが抜群なところ。3人のスーパースターがいるものの、このチーム以上にチームワークがいい所は無いように思った。この強いチームができたのはPHIL JACKSONの手腕。そしてあの「問題児」を「使える」ヘッドコーチはNBAの中でもめったにいない。MJもこのヘッドコーチに心酔していた。
 そのBULLSがUTAH JAZZとのリターンマッチの死闘を勝ちぬき優勝した。これで何度めかの3連覇を成し遂げたことになる。その優勝チームが崩壊してしまった。
  原因はBULLSのトップがPHIL JACKSONを追い出したから。あれだけの実績を残し選手から信頼されているコーチがお払い箱になるなんて理解できない。そしていつもこの人の元以外ではプレーしたくないと言っていたMJは引退してしまった。そしてPIPPENはHOUSTON ROCKETSに移籍した。行先がいろいろ取り沙汰されていたRODMANはLA LAKERSに移籍した。その他BULLSの主だったプレイヤーの多くも移籍してしまい、主力で残っているのはKUKOCとHARPERぐらい。これで勝てということがおかしい。
 BULLSが崩壊した今、俺はROCKETSとLAKERSを応援していこうと思っている。ROCKETSはもともとBULLSの次に好きなチームだった。LAKERSはRODMANの加入で優勝を狙えるチームになった。ただし、コーチがRODMANを使えれば。
  ともあれ、BULLSというずばぬけたチームが崩壊した事でどこが優勝するかわからなくなった。本命はJAZZだろうが、元BULLSのメンバーが入ったROCKETSやLAKERSはメンツからいえばJAZZより上。シーズンの開始が大幅に遅れたが、NBAはやはりおもしろい。