原 博氏の主張する機能調性音楽復興について

ここでは、原 博氏の著作から一部を引用して 原 博氏の主張を紹介しています。



<フーガを通して>

フーガという音楽形式が、他の諸々の音楽形式から抜きんでて、とりわけ高度なものだという認識は、特に間違っているわけではないと思う。問題は「高度」の意味の取り方である。そのとり方の内で大変多いのは、何となく知性に訴えて理解できたような気分にさせてくれる.例えば「フーガは音楽様式として非常に知的、理念的で抽象性が強く、したがって作曲者の高度な精神性が要求される」などというものである。人々の頭の中にJ.S.バッハの厳めしい例の肖像が浮かび、言葉の観念的な言い回しとは裏腹に、この大変単純で具体的なイメージによって、フーガの内に高度な精神性の存在を納得してしまうのである。多くの場合 人々は作曲家の現場の仕事の実質まではなかなか理解できないので、わかりやすい概要の説明によってわかったような気になることですませるのである。

 フーガという音楽様式は 実は大変実際的・現実的、つまり職人的に高度な技術をまず要求するのである。しかしこのことは言われてみれば誰でもそれはそうだろうと思うはずのことだろう。あるいは「言うまでもないことだ」とさえ言い切る人もあるはずだ。しかしそれは言うまでもないどころのことではない。実際はそこに真実があるのである。
 これを一応整理すれば「フーガが直接に要求するのは実際的・現実的な職人的技術」であるということ。そして「この職人的な技術の修得のために必要な、底なしの探求心を支える忍耐と情熱が 高度な精神性を要求する」のであるということである。ただこの説明もまた、知性にうったえてわかりやすいが具体性に欠けているといえる。音楽の作曲現場的実際は当事者以外にはわかりにくく、それだけ虚飾された説明が通用しやすい。
 なるべく想像つきやすい例をひいて言えば、これは木組みだけで釘も詰め物もたがも用いずに水の漏れない器を作る技術と同等のものである。そこには「水がもれない」という絶対条件がある。器の格好をしているというだけでは意味がない。フーガにもその意味での満たすべき絶対条件がある。つまりフーガの格好をしているだけ、あるいはこれはフーガだと唱えるだけでは意味がないのである。水がもれないのも、フーガがフーガであるのも解釈の問題なのでなく、実質の問題なのである。バッハの時代にはこの絶対条件を守るための社会的規範が厳然として存在していた。この規範のみが高い技術を保証するものである、それは当時疑うべからざるものであった。今日では過剰ともいえる自由が芸術家のために保障されているので、この絶対条件を守るための規範を自己に課するか課さないかは個人の選択にまかされている。

 つまりこういうことである。
 バッハが持っていた物は規範であって自由ではない。
 今日の芸術家が持っているものは自由であって規範ではない。

 しかし今日でも芸術家が自分の意思で規範を持つ自由はあるのであるから、望みさえすれば自由と規範の両方をもつことができるのである。しかしこの困難で厳しい規範を一体誰が自らの自由によって自らに課そうなどと考えるだろうか。人間は自己弁護自己正当化をする動物であり、特に自由人をもって任ずる現代芸術家の これはもっとも苦手とするところなのである。事実そのような例は一つもなかった。
 しかし「自由の中で自らに規範を課する」ことは もしそれが可能であるとすればそれはバッハにではなく現代人にのみ可能なのである。つまり我々はバッハにも与えられることのなかった機会に 自分が望みさえすれば対峙できるのである。これは傲慢か傲慢でないかの問題ではない。望むか望まないかの問題である。
 規範は二十世紀の主張に反して今後とも必要であり、しかしその規範は今日では社会的強制力に欠けているので、かつて必要としなかった強力な自己強制力が必要となったのである。「もれない器」は社会規範を背景にして必然であったが、二十一世紀には必要でなくなるというものではない。社会規範が失われた以上、個人の自由意思が最後の砦ではないか。全くの絶望的状況を 私はバッハにも恵まれなかった機会としてとらえた。
 私は実現したと思っている。

<<「フーガを通して」ART-UNIONのCD「オルガン四部作」のブックレットから引用>>


弦楽のためのセレナード第1番ハ長調(全音出版社刊)

1960年完成
  1950年代でさえ、機能調性で音楽を書くことは嘲弄の的であるどころか、その上「神聖侵犯」行為そのものだったのである。これが私の実感である。学校では担当教官から厳しく「断罪」され、その結果の破戒者としての私は、さまざまな経緯ののちは流刑囚さながらであった。

 これは決して皮肉や当て擦りで言っているのではない。私は本気で、現代作曲家たる心得としての戒律と、宗教者として守るべき戒律とが、同義であり同作用を持つことを疑わないのである。多くの人々にとっては、真理について一から考え模索することは不得手なので、例えばある宗教の信者達が、切実な思いで高僧の説く救いの道に縋るように、一般では情報の又聞きや あらかじめ学習した先入観から引き出された結論に縋ることで済ませてしまう。そこに趨勢という要素が加わることによって利害がからめば、それはほぼ強制に近いものとなる。そのため、そこで出された結論についての真偽の再検討のチャンスは永久に失われることになってしまうのだ。長い間、音楽の宝庫を築いて来た機能調性は、20世紀以後では「過去のもの」という実に簡単明瞭な定義によって、まさにこの再検討から外されたまである。私には宝の山であり、もったいない限りだったのである。

 在学中私はただ一曲だけ無調性らしき曲を書いた。「前奏曲とフーガ」と題された。フーガを無調で書くということは、フーガの根本が調性を基盤にしている以上、不条理でしかないのである。調的フーガを書くということは、そのようなことへの深い理解と熟練がなければもはや不可能である。その頃の私は二・三のフーガを書いて恐ろしい程の稚拙を晒していた。

 そして私はこの無調性フーガを書いた。これには理由があった。まずフーガを無調で書くことは、調的な整合性なしに済ますことができるので、誠に容易いのである。私は「これで現代作曲家としての責任は果たした。あとは自分のしたいことをする。」と決心し、けじめをつけたのである。ここには二重の皮肉が込められた。一つは、正真正銘のフーガを書くのは先のことだということ。もう一つは現代式無調フーガはもう書いたということ。

 作曲界と私との距離は、どちらの側から作り出したというものではない。どちらにも別個の理由があっただけのことであり、私は価値基準を「外界」に置かず、私自身の内にとっただけのことである。

 私の据えた「標識」は二人の巨匠であった。J・S・バッハとW.A・モーツアルト。
 この二巨匠を私の内なる聖檀に祭った。二人は私にとって指標であり守護神だった。
 我々の世紀を席巻した藝術上の熱狂は、科学的進歩主義を模したもので、盲信されただけ、その環境の破壊性は、そのどちらの側からも凄じかったのである。近景は巨大で、遠景はとるに足りないものに見えるが、実態は逆であって、この科学的というにはあまりにも非科学的な錯覚に類したものが、例えば「蛙にとっての井戸」の構造を成してしまった。このことは近い将来、というよりも、すでに、といってよい程 明らかに証されるに相違ないが、実際、現代曲にたいして古典曲が圧倒的に、演奏家聴衆の両者から支持されており、私にはそのような人間の在り方の方がはるかに信頼できるのである。

 私が極く自然に作曲界とは別個の視点を保持し、また遠景にある巨匠達が、私の守護神であった理由はそのようなことからである。私はこの二巨匠から機能調性の二つの姿と 線の運動と、そして形の構造とを学んだ。セレナード第一番はその一つの果実である。
 この曲の編成は作曲終了後に行われた。その他に木管五重奏の編成があり、ほぼ完全にウイーン古典派の様式を採っている。実質的には弦楽による交響曲だが、セレナードの持つ晴れやかさは、その名の通りである、私がどんな勉強をしたかがここに現れており、これは発表してもよいと思った「初期」作品の数少い内の一つである。

<<ART-UNIONのCD「交響曲/弦楽のためのセレナード第一番」のブックレットから引用>>



「平均律の初演にあたって」(音楽藝術1984年6月号)

 1980年から81年にかけて24の前奏曲とフーガを書いてすでに満三年が経った。
 ある人々は時代をつくり、またある人々は時代に動かされる。フーガという音楽様式が一朝一夕に作られたものではなく、またそれによって偉大な精神の表現が遺産となって残されているということは、意識されるとされぬに関わらず尊重され、その技法は現在学習フーガという形でアカデミズムの世界に残されている。そこでは主題の提示法やその調性、エピソードの回数、ペダルの位置、果ては追迫部の設定に至るまで、ワンセットでほぼ規則づけられている。これは勉強のための致し方ない方便ではあるが、一方で結局は学習者はフーガを知るのではなく、「学習フーガ」を知るだけになってしまう。フーガがかかれなくなったために学習フーガが生まれ、その学習フーガに阻まれてフーガの実体はますます把握困難になり、書かれる機会はさらに失われていった。

 フーガの現場は学習フーガの現場とは全く異なっている。バッハの18,9歳頃のフーガは、もうそれまでに10年以上は書き続けているであろう修練の積み重ねの膨大な量を感じさせるが決して巧妙ではなく、どちらかと言えば生硬である。一方今日では、3、4年の期間、学習フーガを勉強した、その頃のバッハと同年代の優秀な生徒たちの仕事は限られた条件の中でという意味ではあるが、よほど洗練されている。つまり、これほど好まれたり嫌われたりする言葉も少ないが「エクリチュール」ができているというわけだ。しかしフーガに関して言えば バッハはその18,9年後には「平均律第一巻」を書き、現代の学生はその前で立ち止まる。修行の質が違うのである。

古典派の時代になると、一旦途切れたフーガの伝統は、しかし個人的な努力によって受け継がれている。ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェンは各自が別個にフーガを勉強し、純粋なフーガ作品も書いたが、主に応用フーガの中でそれを生かした。その結果、普通の考えからなら、バッハは時代の確立したメトードの中でこれを書き、古典派の彼らはより自由に書いたと見るだろうが、私はそのようにばかりはみない。バッハは確かに確立した時代の中にいたが、彼の勉強の跡もまた、間違いなく孤独である。少なくとも現代のように学習フーガの中で「皆で同じことをする」状態ではない。彼の探求は一人で行われたのである。実際彼が若年の折、何十キロも徒歩でブックステフーデの演奏を聴きに言ったのはそのことを証明している。一方古典派の巨匠たちはやはり個人の勉強によりつつも、フーガ的遺産の力に束縛される面が強く、バッハが大集成した技法に意識が奪われている分、自由でなく、バッハのような自然さと本格性において及ばない。しかしこの両者の比較は誤解を招きやすいであろう。何故なら現代の我々学習フーガの教師や学生に比べて古典派の巨匠達はよほど生き生きと、そしてずっと自由にフーガを学び、その上実際に作品の上で活用したのだから。

(中略)

 私はこの24の前奏曲とフーガをちょうど「平均律第三巻」のようにして書いた。もちろんバッハの48曲に比肩する思い上がりでしたことなら私は間違いなく地獄に落ちるだろう。またこの長くかかるきつい仕事を一旗あげたい野心によってしたことなら、バッハの前で直ちに優劣を問われる間抜けな割の合わなさを人々は笑うであろう。なるべく比較できないことで勝負するのが我々の時代の流儀であるから。しかし結局は私はこれを書いた。これはあくまで私の内的な問題であった。心境について言えばそれは巡礼者のそれであった。この曲集に私の名を記名することはするが、それは出所に責任をとるためだけであって、心情としては無記名がふさわしい。

「無視された聴衆」(原 博著:アートユニオンクラシック音楽事業部 \1750)