「我らは如何にしてモーツアルテイアンになりしか!」


−半世紀前の懐かしく楽しいできごと−


「我らは如何にしてモーツアルテイアンになりしか!」

−−初めて聴いたモーツアルトと素晴らしいと認識した曲−−

倉島 収(千葉県K.449)

 はじめに


 フェラインの季刊「モーツアルテイアン」50号を記念して標題のアンケートをかねた原稿募集をしている。普段余り自分自身のことは書かないようにしてきたので、これは自分のホームページの自己紹介にもなると思い記憶をたどりながら作文をした。終わりの 「3、懐かしいことがら」は、書きながら思いついたことで、札幌北高時代の友人や北大の音楽鑑賞サークルの後輩達が、もしこの文章を見ることがあったら、このHPにひとことご投稿を頂きたいと考えたものである。どうか宜しくお願いしたい。


1、私の初めて聴いたモーツアルト−SP時代−

 私は小学校に入る前の子供の頃から蓄音機やSPのレコード盤が大好きだったようだ。ハンドルでゼンマイを巻くのが大好きだったし、レコードがクルクル回転するのが面白かったし、何よりも音が出てくるのが不思議で中にこびとが入っていると思っていた。家には子供が触れてはいけなかった親父が大事にしていたクラシックの赤盤以外にも、子供用の童謡や流行歌などの10インチ盤が沢山あり、レコードをかけることに慣れ親しんできた。「チャーリーおじさん」という童謡をご存じの人がいるだろうか。これは今でも私が歌える当時の大スターだったチャーリー・チャップリンの子供用の歌であり、ラジオもニュースしか放送しない時代に、レコードでしか覚えられない子供時代の確かな歌の記憶が、今でも私の頭のなかに残されている。10インチの小さなレコードに、今でも覚えている軍歌があったり、お袋が好きだったエルマンのヴァイオリンの小品があったり、「ウイリアム・テル」序曲2枚組などもあった。

 何歳ぐらいから親父が大切にしていたレコードを聴きだしたのかは記憶にはない。子供の頃は難しい大人の曲であった。これらのレコードの中には、豪華な革張りのケースに入った12枚セットのビクターの有名小曲全集の第1巻と第2巻があり、モーツアルトの曲と言えば、その中の1枚にブッシュ指揮の「フィガロの結婚」と「コシファントッテ」序曲が含まれていた。また同じビクターのエドウイン・フィッシャーのピアノ協奏曲第20番ニ短調3枚組とヤッシャ・ハイフェッツのヴァイオリン協奏曲第5番イ長調3枚組があった。モーツアルト以外でもビクターのストコフスキーの組曲「クルミ割り人形」3枚組、ポリドール盤のケンプの「皇帝」4枚組、ラロの「チェロ協奏曲」3枚組などがあった。

 中学2年生のころ音楽の時間にレコードを聴いて感想文を書く授業や宿題があったが、私はこれが非常に得意であった。ビクターの小曲全集から好きなものを選んで、難しい解説などを読んで勝手に書けば良かったからである。オーマンデイの「こうもり」序曲とか、椿姫から「ああそは彼の人か、花から花へ」など1枚分が適切な長さでもあったからである。恐らく親父のレコードをこっそり聞き出したのは、必要に迫られたこの頃であったと思われる。

 私が最初に買ったレコードは、レコード好きの友人に恵まれた札幌北高の2年生の時であり、ワルター・ウイーンの「アイネ・クライネ」2枚組である。しかし、この時期にビーチャムの未完成交響曲2枚組やスターンのチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲4枚組などを買っており、いろいろな曲を聴いていた。標題の「私の初めて聴いたモーツアルト」と意識した曲は、例示したこれらのモーツアルトの曲のどれかであり、この頃に古い蓄音機で自宅で聴いていたに相違ない。現在でもこれらの曲は、何度聴いてもよい私の大事な曲になっている。


2、モーツアルトは素晴らしいと認識した曲−LP初期の時代−

 高校を卒業し北大に入学した時点でLP再生用の電蓄を兄貴が組み立ててくれ、我が家はLPレコードの時代にごく自然に移行した。昭和29年の春の頃である。私のLPレコードの第1号はビーチャム指揮ロイヤルフイルのジュピター交響曲であり、日本コロンビアが欧州原盤発売の最初のもので10インチのレコードであった。次いでオーマンデイのチャイコフスキーの交響曲第5番と第6番「悲愴」、「展覧会の絵・火の鳥」、フランチェスカッテイのパガニーニとサンサーンスのヴァイオリン協奏曲などLPの音の良いコロムビア盤が多かった。これらに続いてモーツアルトでは、ワルター・ニューヨークフイルの35番と40番の交響曲、カサドジュ・セルのピアノ協奏曲24番と26番 、ウーブラドウのパリシリーズでホルン協奏曲第3番やクラリネット協奏曲など今考えても素晴らしいレコードを集め出していた。大学の教養学部時代の頃である。

 標題の「私がモーツアルトがやはり素晴らしいと認識した曲」は、これら一連のLP初期のモノラル時代のものを通じてである。当時LPはまだ珍しい時代であったので、私は友人らとともに北大の売店の二階の教養会館の一室を借りて「レコード鑑賞サークル」を設立し、そこに中古のプレイヤーを置いて、仲間とともに競い合うようにレコードを聞き出した。 サークルを作ると、皆が持っているレコードの他に、レコードコンサートの実施を名目にして、各レコード社の札幌支店から白盤と言われた新譜のテスト盤を借りることが出来、無料で新譜を聴くことが出来た。当時は、東芝からフルトヴェングラーのベートーヴェンやブラームスの一連の交響曲シリーズが発売された時代であり、仲間と一緒に良く聴いたものである。その中で私はごく自然に、自分だけが他の人と好きなものが異なることに気がついていた。

 当時の新しいレコードを聴く仲間では、モーツアルトの曲が響いても余り話題にならなかったが、フルオーケストラの力強い複雑な曲や迫力のある大きな曲が一般に好まれていた。私は心が安まる明るい美しい曲を求めていたが、少数派なのでモーツアルトが好きだとは恥ずかしくて仲間には言えず、心の中に止めていた。当時はやはりモーツアルトは、易しい曲、幼稚な曲が多いと理解されていたためであろう。人前でモーツアルテイアンですと言えるようになったのは、フェラインに入ってからのことである。

 北大を卒業し建設省に勤め始めたが、当時の初任給は9200円で月に2回に分けて支給されたため、一枚2~3000円するLPレコードがなかなか買えず苦労した。生誕200年記念で出されたギーゼキングのピアノ曲全集全11枚が高すぎて買えずに悔しかったことを今でも覚えている。東京に出てきて本省の道路局に勤めだしてから、仕事は忙しかったがアルバイトの原稿料のお陰でレコードが買えるようになった。昭和36年に発刊された音楽之友社の海老沢先生の大音楽家シリーズの末尾の作品表にコツコツと○印を付け出したのはこの頃からである。

(以上)(04/07/10)


3、懐かしいことがら、

 04年7月16日、昭和29年3月に札幌北高校を卒業した4期生の卒業50周年を祝う同期会が札幌のグランドホテルで開催され、出席してきた。東京でも3月に同じ会を実施しており、今回は札幌におられる懐かしい仲間と再会することが目的で出席したものである。私は高校二年生のころからSPレコードを集め出した。当時一緒に始めた仲間達はどうしているだろうか。この頃のモーツアルトに関する忘れられない出来事は、このHPの、[レコード好きの私−「魔笛」のダビングをして−]に述べてある。その頃から51年−半世紀−も経って、私は今でも元気で、モーツアルトを聴き、SPから最近ではSACDにも変わってきたが、好きなレコードを集め、好きな仲間とモーツアルト談義をしている。

 北大の音楽鑑賞サークルを設立したことについて初めてこのHPでご披露をした。昔の仲間達は今どうしているだろうか。このサークルはその後どうなって、このサークルの後輩達は育っているのだろうか。(私が先輩になっている札幌北高−北大土木−建設省・国交省の後輩達は7〜8人は育っているはずだ。)もう10年くらい前の話であるが、レコード芸術誌の恒例のレコード大賞を決める際のファン投票で、北大音楽鑑賞サークルの名前を見た記憶があり、最近はどうなったいるか気になっている。

 音楽鑑賞サークルの仲間達のうち、工学部の人たちは共通の学部名簿で追跡できているが、他の学部の仲間は殆ど分からない。家が近くで親しかった鉱山学科から通産省に行かれた佐山惣吾氏は、同じ役人であったので霞ヶ関でお会いしたこともあったが、今は年賀状だけのやり取りとなった。電気学科の大学院生だった田頭さんは北大の電気科の教授になられ、5年ほど前にお会いしたときは室蘭工大の学長先生であった。機械学科の藤井昭氏はこのサークルの推進者であったが、川崎トキコに勤められたが、50代の若さで病気のため亡くなられた。いずれも懐かしい方々である。

 懐かしさの余り、思わぬ長文になったが、もし当時の仲間達がこのHPに気が付くような機会に恵まれたら、是非、このHPにご投稿をお願いしたい。

(以上)(04/07/19)



フェラインのHPにもどる

フェラインのメッセージ集に戻る

私のホームページへ