グリエール

<1875-1956。チャイコフスキーやクーチカの次の世代に属するモスクワ派の作曲家。教師、指揮者としても名をなし、後進の作曲家に国民楽派音楽の伝統を伝えた。作曲家としては革命前夜においては民族的素材に重心を置きながらも西欧の世紀末音楽に影響をうけた複雑な作風をもっていたが、革命をへて保守的な性向が強まり社会主義リアリズムの路線に積極的に参加、むしろ革命前よりさらに昔に立ち返ったような明快な民族音楽を書き続けた。とくに革命後アゼルバイジャンやウズベクなどの伝承音楽を研究しすこぶる民族音楽ふうの劇音楽にまとめたことで知られる。1927年の「赤いけし」は革命後の代表作となったバレエ音楽で、社会主義音楽の規範的楽曲として認められた最初の作品。作品数はかなり多数多岐にわたる。>


交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(1909-11)

<ここにはムソルグスキー(2楽章)、チャイコフスキー(4楽章)、グラズノフ(3楽章)、スクリアビン(2、4)らの、それまでの全てのロシア音楽が包蔵され、一方でワグナーからリヒャルト・シュトラウス、マーラーといったドイツ・オーストリア世紀末音楽の残響(1、2)、プロコフィエフに繋がるような民族的主題の現代手法による料理(3)、兎に角さまざまな20世紀初頭的要素が混在している。この一曲でロシア民族楽派の終焉と新しいソヴィエト音楽の夜明けが体験できる。無論表題交響曲であるから劇音楽風だが、内容的にもチャイコフスキーの悲愴を思わせる結末では、それがリストの影響色濃いロシア楽派本来の伝統だと気付かされよう。この曲が革命に向かって雪崩落ちる帝政ロシア最後の爛熟大作であることを考えるとさらに感慨深い。スークのアスラエル(死の天使)交響曲と並び、近代と現代の過渡期における最後の民族主義交響曲として、これからも長く名を残すであろう。グラズノフと一括りにされることがあるが、グラズノフが結局ロシア帝国時代の作曲家であったのに対して、グリエールは新しい時代の作曲家であった。この差は聴けば歴然である。>

〜短縮版

(この大曲の短縮版作成にあたってはストコフスキが提案し作曲家本人も了承したと伝えられる。)

ストコフスキ指揮

○フィラデルフィア管弦楽団(ANDANTE)1940/3/27

ストコフスキ/フィラデルフィアの録音は戦前戦中の時代にしては驚異的な良い音で残されている。この録音も古さは感じるものの聴くのにとりたてて支障はない。また、短縮版とはいえ46分を要しており、十分な聞きごたえだ。3楽章がちょっと短い感じはするが、長い曲が苦手な人にはオススメではある。この曲を駄作と断じる人もいるようだが、帝政ロシア末期という爛熟した時代の産んだ最大の記念碑的作品であり、グラズノフのつたえた伝統をしっかり受け継いだ作品としても重要である。そんなにしゃっちょこばらなくても、多彩で美しい旋律だけを追っていても十分に楽しめよう。晦渋さは無いとは言わないが殆ど気にならない。旋律の流れは分厚い音響に埋もれることなくきちんと自己主張している。この演奏はそのあたりの配慮が行き届いているので、「ロシア物?チャイコフスキーくらいしか知らないよ」という面々にも理解しやすく出来ていると思う。ストコフスキの面目躍如、颯爽と、さわやかに、ロシアの昔話を語ってみせたかれの非凡さに打たれた。なんだかんだ言っても録音が古いので、○ひとつとしておく。それにしてもああ、何て面白い曲なんだろう。

○ヒューストン交響楽団(CAPITOL/SERAPHIM)

帝政ロシア末期のロシア産交響曲の中でとりわけ強烈な光をはなっているのがこのイリヤ・ムーロメッツだ。華麗で派手な音響と親しみやすい民謡旋律が、時折半音階的な陰りを見せながらもとてもストレートに心に伝わってくる。こういう曲だからストコフスキがやるとぴたりとハマる。ただ、ストコフスキはデロデロ系指揮者ではない。手兵ヒューストン響も明るくはっきりした発音を行い、音色で謡い込むのに長けたオケではないし、ストコフスキは音響こそ派手指向だがテンポに関してはわりあいとストレートに突き進むようなところがある。ロシアの憂愁などを求めるのはお門違い。たとえばとても美しいグラズノフふうのスケルツォ、3楽章のとりわけ親しみやすい第二主題についても、鮮やかな色彩に染め抜かれた響きの中で明るく朗々と謡われる。細かいニュアンス表現には欠けているが、骨太の演奏は魅力的だ。ストコフスキの近現代モノはとてもよい。スコアに新奇さが加えられていればいるほど、ストコフスキの(編曲)手腕が発揮され、原曲の求める以上に人好きのする派手な曲に脱皮させられる。そのような演奏はいい面悪い面があるが、少なくともこのようなマイナー曲を紹介するのには最適な一枚だ。手元にあるLPが二枚共盤面状態が悪く演奏の内面に潜り込み仔細まで味わい尽くすことができないので、ほんとうは◎かもしれないが、とりあえず○ひとつとしておく。

オーマンディ指揮

○フィラデルフィア管弦楽団(RCA)1971/10/6

この曲の一番の魅力は妖しさにある。その点オーマンディの棒はいささか明るく即物リアルすぎて物足りない。
また、音色が安定しすぎて変化に乏しい(あっけらかんとしているのはアメリカの楽団ならどこでもそうだろ
うが)。3楽章の美しい第二主題でバイオリンのポルタメントが僅かに聞こえるのは寧ろ奇跡だ。解釈もわり
と一直線なので、たとえば1楽章など冗長に感じてしまう(じっさい冗長な楽章ではあるが)。キレの良さは
2楽章の冒頭などに感じられるが、献呈者グラズノフの影響色濃い3楽章ではもっと鋭い刻みが欲しいところだ。
力感がありすぎて鈍重なひびきになってしまっている。もっともこの盤ステレオ正規盤にしては録音が悪いの
で(国内盤のくせに音がよれたりしていてびっくり)その不明瞭さゆえそう聞こえるのかもしれないが。グラ
ズノフをひきあいに出したが、グリエールはグラズノフより響きが開放的で聞き易い。4楽章の陰うつさは物
語の酷い結末をあらわしているが、それまでの楽章の断片を巧く織り混ぜドラマティックな音楽に仕上げてい
る。モダニズムふうの焦操感にまみれた闘争のすえ、長調に転じペットが高らかに凱歌をうたう場面は前半
のクライマックスで全曲中もっとも効果的な場面だが、オーマンディはあまりに引っかかりなく過ぎてしまう。
しかしそのあと3楽章などの断片がからみあって民族的雰囲気を高めたあと、再び弦が凱歌をうたう場面は比較的
効果的にできている。オーマンディはやはり弦楽奏者だな、とヴァイオリンのポルタメントを聞きながら思った。
そういえばこの曲は構造的で対位法的な組み立てを楽しめる場面も多いのだが、高弦と低弦がかけあうところで、
高弦の音に低弦が負けているように感じるところがある。中低音域が今一つぐわんと響いてこない、と感じる
人も多いのではないか(たとえばシェルヒェンのウィーン国立歌劇場管弦楽団の充実したひびきを思い出
して欲しい)。オーマンディがヴァイオリニストだったということと関係があるのだろうか。録音のせいという
のもありうるけれども。場面転じて1楽章の運命の動機のような警句が鳴り響き、チャイコフスキー的な劇的効果が
煽られる。長短調性固定されないゆらぎの音楽は各楽章から抽出されたほの暗いフレーズの断片によって紡がれて
ゆく。終楽章に全楽章の断片をモザイク的に配してゆくこの手法はグラズノフのものだろう。暗さが薄まり2楽
章の断片があらわれるあたりは特にグラズノフのシンフォニーのフィナーレを思い出させるが、グリエールはこ
れら断片を有機的に繋ぐのがとてもうまく、グラズノフの影響が大きいにしても、その技法の完成度は優ってい
ると思う。最後に3楽章の無邪気なフレーズがうたかたの夢のように浮かんでは消えついには暗黒のうちに沈む。
オーマンディは民謡ふうのフレーズより現代的なひびきを浮き立たせるように演奏しており、体臭が無く、サウ
ンドとしてはとても聞きごたえがある。このいささか単純ではあるが構造的に出来ている楽曲を立体的に響かせる
手腕は冴え渡っており、楽曲理解のためのソースとしても使える演奏だ。カット部分も比較的少ない。が、快楽派
リスナーとしては熱狂的に盛り上がるような中心点がなく、ちょっと客観的すぎる感じがする。3時間で終えられ
たというレコーディング条件もさもありなんと思われる録音状態でもあるし、中間をとって○ひとつとしておく。

◎フィラデルフィア管弦楽団(COLUMBIA)1950'

やはりモノラル末期の録音はいい!響きが中心に凝縮されストレートなパンチを浴びせてくる。この音の生生しさ
はなんだろう。下手なステレオより数倍リアルだ(下手なステレオ録音は音が分離しすぎて前衛音楽みたい)。
チェロの音が明瞭にぐわっと力感をもって迫ってくるのにぐっと来た。ステレオ録音のときの弱さが微塵も感じ
られない。かなり周到な録音のようで、これといった弱点が見付からない。しいていえば全曲版でないという
ことぐらいか。2楽章の鳥の声の応酬など、技術的にもステレオ盤より完成度が高い。妖しげな桃源郷の雰囲気も
明瞭な音の集積の上にクリアに描き出されていて秀逸だ。ダイナミックで飽きない演奏。文句無し◎です。作曲家の死直後の録音。

○フリッチャイ指揮ベルリンRIAS交響楽団(DG)1955/9

(LP評)ドイツ・グラモフォンの戦後モノラル録音はどうも余り音がよくない。篭っているし、なんだか弱々しい。この演奏はフリッチャイの水際立った指揮が曲のうねるようなドラマ性をどう引きずり出しているかに興味があって手にしたものだが、録音のあまりの貧弱ぶりに、どうも終始「集中力の欠けた凡演」に聞こえてしようがなかった。グリエールの革命前の代表作であり、世紀末的な雰囲気を横溢させた壮大な絵巻物だが、ここでは中間楽章の精妙な音作りにフリッチャイの奮闘ぶりが聞こえはするものの、退嬰的な題材(イリヤ・ムーロメッツは最後は化石となって斃し、同時にルーシのすべての勇士が死んでしまう・・・どうでしょう、帝政ロシア末期にふさわしい題材!・・・)のそのものに、暗く陰うつな雰囲気に沈殿していくような終わりかたであり、そして「始まりかた」でもある。物すごく暗い。ベルリンの音だからなおさらクライのか。ボロディン=グラズノフのあからさまな影響がみられ、その点ではいくぶん楽天的な箇所もなきにしもあらず、フリッチャイ盤もそういう箇所ではそれなりに明るさを「演じようと」してはいるのだが・・・うーん。高いおカネを出して手にする価値はありません、きっと。

(CD評)DGの特典盤としてプロコフィエフの「古典」1954/11録音(同じDGに同年1/4録音とされるものもある(フリッチャイ・ボックスに収録)が異なる演奏かどうか不明)と共にCD化。はっきり言ってLPとは音質が段違い。暗く何を言っているのかわからない録音だったのが、明晰で緊張感溢れる演奏に聞こえるようになっている。上記のイメージとは全く違います。引き締まった男っぽい渋さのある演奏。○ひとつ。あとで補筆します。

〜(完全版)

ファーバーマン指揮ロイヤル・フィル(UNICORN-KANCHANA)1978/12/14,15,17

〜なっがーーーーーーーーーーーーーーーい!!
45分目処の曲だと思ったら大間違い、ほんとの全曲版は93分かかるのだ。短縮版と同じく4楽章制で各楽章の表題も同じ。全楽章がだいたい半分くらいに縮められているのがわかる。長い英雄譚の筋書きに基づいて書かれている表題音楽だが、ワーグナーの楽劇が必ずしも話の筋を
知らなくとも楽しめるように、「イリヤ・ムーロメッツ」という人物がどんな波乱に満ちた人生を送ろうとも、それから解き放たれて自由に想像を膨らませることができる。大編成のオーケストラでこれだけの長さをもった誇大妄想的な交響曲を書いたロシア人はグリエールぐらいだろう。この作品をもってグリエールは世紀末的な爛熟したロマン性を包蔵した音楽を書くことを止めてしまう。革命後、まるで社会主義体制に寄り添っていくが如く、簡潔で平易な作風に転じる。社会主義リアリズムの思想に賛同し、積極的に体制側につく。いくつかのバレエ音楽で知られるがいずれもこの作品のようにドロドロした暗いロマン性は微塵も持たない作品となっている。まあ、そうはいうもののイリヤ・ムーロメッツは西欧の世紀末音楽に比べればずいぶんと簡単でわかりやすいものであり、「わかりやすい」ことこそがグリエールの本質なのかもしれない。旋律の魅力はグラズノフほどではないにせよその後継者たるべき素質は十分にあったわけである。だが、短縮版で目立ったメリハリある表現、魅力的な旋律は、この完全版で聞くとのべつまくなし、やたらと繰り返されていいかげんイヤになるほどである。比較的ゆっくりとした部分の多い楽曲の中で唯一グラズノフ的な祝祭的雰囲気を持つ、スケルツォに相当する3楽章は、7分(短縮版で5分弱)かけて気分を浮き立たせるが、他の楽章が27、8分という異様な長さのため、それらの中であまりに目立たない。2楽章など私は好きなのだが、まるでスクリャービンの後期交響曲の法悦的場面がえんえんと続くような生暖かい楽章となっている。いや、スクリャービンを通して見たワグナーの影響と言った方が妥当か。最初は好きだから楽しんで聞いているのだが、そのうち「おいっ!!」とツッコミを入れたくなるほど長々と続く法悦に嫌気が差してこなくも無い。終楽章なども長い。寝てしまう。ムーロメッツは石となって死んでしまい、ほかのすべてのロシアの勇士も死んでしまうという悲愴な楽章だが(いかにも帝政ロシア末期的発想だ)まあ楽想は面白いものの、ここまで長々とやる必要があるのか?と思ってしまう。まあ、1楽章もそうなのだが。ファーバーマンは定評ある指揮者だが、若干綺麗すぎる。ロイヤル・フィルのチャーミングな音色も曲のロシア色を薄めている。だがしかし、もしロシアの演奏家による全曲版を聴いたとしたら、あまりの脂身の多さにヘキエキすることは間違いなく、やはりこのような穏やかで美にてっした演奏こそが正しいやり方なのだろうとも思う。録音が弱い。もっとメリハリのある音がほしい。・・・とりあえずは参考記録として無印にしておく。この他に完全版の録音を知らないから相対評価できません。NAXOS盤は全曲版と称しているがどう考えても70分台に抑えられるとは思えないので、あやしい。(未検証ですが。)

ヨハノス指揮チェコスロヴァキア放送交響楽団(NAXOS)1991/2

透明で客観的な演奏。たとえばスクリャービンの影響はなはだしい2楽章にしても、生々しい肉感的な表現はまったくとらず、響きの美しさだけを追求したような演奏ぶりで、イマイチのりきれない。これは国民楽派の楽曲である。グリエールは確かに面白い和声を使う事が有るが、この時期においてはまったくリムスキーやグラズノフの追従者であり、客観的に演奏してもそのよさは伝わらない。熱気がなければこのような75分の楽曲(カットなしとジャケットにはあるが、繰り返し省略程度の事はしているようだ)はのりきれないだろう。ヨハノスは達者な指揮者だが、ヴォックスに入れていたアイヴズやコープランドを聞いてもわかるとおり、整然とした表現を好み熱気を持ち込まない傾向があるようにおもう。1楽章の時点であれば美しくかつあっさりとした解釈が新鮮で私は凄く惹かれたけれども、15分を越えるあたりからあくびが出てきた。4楽章、勇者が滅びる前の武勇を誇る場面で、短調から長調へ絶妙な転調を伴う非常にかっこいい効果的な場面があるのだが、この演奏ではあっさり・・・むしろ弱弱しく・・・表現されていて、かなりの不満をおぼえた。ここで盛り上がっておかないと最後に勇者が石になって滅亡する場面とのコントラストがうまく表現できないだろうに。まあ、演奏は立派ではある。コストパフォーマンスでいえばお釣りが来るくらいに巧い。でも、イリヤ・ムーロメッツはこんなに土の匂いのしない勇者ではない。無印。以下、参考:1楽章、さまよえる巡礼者、イリヤ・ムーロメッツとスヴャトゴール、2楽章、山賊ゾロヴェイ、3楽章、ウラディミール公の「美しき太陽」宮殿、4楽章、イリヤ・ムーロメッツの武勇と石化。

◎シェルヒェン指揮ウィーン国立歌劇場O(WESTMINSTER)LP

シェルヒェンに恰好の曲である。表現主義者としての突き刺すような強烈な音が、曲の本質を明瞭に劇的に浮かび上がらせている。多少民族音楽的な色合いに乏しいが、しかしきらびやかで派手ではある。録音が少ない曲だが、この演奏でも十分満足行くだろう。カップリングは「赤いけし」組曲で、確かCDも出ていたと思う。シェルヒェンのロシア・ソヴィエトものはフランスものと並んで隠れた名盤である。チャイコフスキーを除けば…

余談だが通奏主題はディーリアスのピアノ協奏曲冒頭に良く似ている。本当に20世紀初頭の世界音楽がモザイクのようにちりばめられた曲だ。

*当初カット版だと思ったが測ってみたら83分ありました。一応完全版のようですので掲載箇所を訂正します。

〜V

ストック指揮シカゴ交響楽団(LYS,DANTE他)CD

かなりいじっているようで、ハープはでかいわテンポはたどたどしいわでハラハラする。
抜粋なので評しづらいところもあるが、全般にやや重く、テンポが前に向かわないから、この
爽快なスケルツオ楽章が引き立ってこない。どうやらそれはあるていど解釈のようで、場所に
よってはスピード感があり、決して全てがだらけた演奏ではないのだが、散漫なところ目立ち無印。


バレエ音楽「赤いけし」組曲

◎シェルヒェン指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団(WESTMINSTER)LP

いいかげんこのグリエール集CD化しろっちゅーの。「イリヤ・ムーロメッツ」のダイナミズムをここまで
克明に描き上げた指揮者は他にいないぞ。赤いけしもグリエールの代表作だ。あきらかにハチャトゥリアン
に通じる(たとえば剣の舞のような)戦闘的な舞踏音楽から、あきらかにスクリアビンを意識した官能的な
緩徐楽章までバリエーションにも富んでいる。前者はハチャよりも色彩に富み、演奏のせいもあるが厳しく
敏捷な音楽になっている。そのひびき、コード進行には、まだ世紀末節の残滓が感じられるが、それがまた
個性的で良い。個性が前面に出過ぎるハチャに対してこちらはいくぶん西欧風の洗練が加えられ聴き易さで
は凌駕していると思う。官能的な楽章はイリヤ・ムーロメッツほどではないものの半音階的で、帝政ロシア
期の作品に通じるものがあるが、より透明感がありすっきりしている。グラズノフを思わせる常套的な走句
も聞かれるが気にはならない。チャイコフスキーの影響も感じられるが、広く国民楽派全体からの影響とし
たほうが適当か。同曲旋律の魅力にかけてはグリエール瑞逸で、大衆的な人気を受けた理由がわかる。常套
的でいながらどこかバタ臭くかっこいい。これはシェルヒェンの演奏による印象かもしれないが、なにぶん強烈な
アゴーギグと異常な集中力が支配するこの演奏はウィーン国立歌劇場との幾多の録音の中でもとりわけ凄い
もので、モノラルであまり良くない(クリアではあるが)録音を割り引いても◎をつける価値はある。


ハープ協奏曲

ドゥロワ(HRP)ガウク指揮ソヴィエト国立放送管弦楽団(HERIOD)LP

ハープである必然性が理解できない。音色の新奇さを狙ったにしてはあまりにロシア国民楽派の古臭い手法に
拘り過ぎており、コロラトゥーラ・ソプラノ協奏曲と同様、座りの悪さが気に懸かる。ハープの典雅さを期待
したら裏切られよう。そういうものはここには聴くことができない。ハープでない別の楽器、もっと野太くて
音符の少ない楽器に向いている。うーむ。グリエールの協奏曲群の中では古いほう(30年代)の作品。ガウ
クは国民楽派の楽曲を奏でるように振っている。ソリストはそつなくやっている。無印。


コロラトゥーラ・ソプラノと管弦楽のための協奏曲

ベルガー(SP)チェリビダッケ指揮ベルリン・フィル(AUDIOPHILE)1946/6/7

グリエールはグラズノフの正統の後継者といえようか。帝政ロシア末期にその作曲家人生の半分、ソヴィエト政権時代にもう半分を生きた、まさに過渡期作曲家。どちらかといえば前者の作風のほうが有名だろう。爛熟した末期ロマン派音楽のいいとこどりをしたような「イリヤ・ムーロメッツ」が代表作。ソヴィエト時代には作風を一変してやや旧弊なわかりやすい曲を作り続けた。その時期の作品では「赤いけし」が何といっても有名だが、協奏曲の分野で言うと、圧倒的にこのソプラノ協奏曲が有名だ。無歌詞ソプラノのコロラトゥーラ唱法をふんだんに使ったちょっと耳新しい組み合わせの曲だが、曲想自体はいたって旧弊。ロシア国民楽派のマイナー曲程度の才能を感じる。ソプラノ協奏曲?というと笑ってしまう人もいるかもしれない。そりゃオーケストラ伴奏の歌曲だろう。いやしかし、この曲ではソリストを「歌手」というよりひとつの楽器として扱っている。まあ結果的には歌曲になってしまうのかもしれないが、面白い試みであったことは確かだ。この演奏はひとことで言って地味。12分程度の短い曲だが、あっというまに終わってしまう、といった感じ。録音もあまりよくない。まあベルリン・フィルがこんな曲をやっていたのか、というところで興味を持ったら聴いてみるのもいいだろう。