白木みのる遊ぼう!


永遠のアイドル”珍念”

〜〜〜〜〜〜〜〜 白木みのる 活動近況 〜〜〜〜〜〜〜〜
出演映画(1959年~)

2004年度版
2005年度版


その他
白木みのる”が命名!!
諏訪泉の古酒”美濃溜
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本人も語る真実(ちょっと思い込み有り)の
♪♪♪♪♪♪♪♪ 白木みのるストーリー ♪♪♪♪♪♪♪♪



<序章/前説>

これからのお話は私(大河内元規)が2001年11月 舞台音楽を担当した”喜劇人まつり公演『裏町の友情』”で知り合い「アッ!&えっ!&うっそ〜!!」と言う間もなく、家系や戸籍を超えて私の最も愛すべき親戚のオッチャンになった芸能界の大先輩であり伝説の人”白木みのる”氏との記録であります。それと同時に戦後の芸能史に名前を残す”白木みのる自伝”でもあります。ただ私とのやりとりで聞き出した本人の話をそのまま掲載するので、その出来事の時期&場所が記憶違いの場合もあり得る事はご容赦を。しかし、それは本人の言葉を尊重すると言う事でご勘弁いただきたい。話をすすめる前に白木さんと知り合う切っ掛けを作って下さった「スチャラカ社員」「てなもんや三度笠」「花王名人劇場」「ズームイン朝」等々、日本のテレビ史に残る多くの名番組を生み出し、数々の芸人・役者を番組制作を通じて育て上げた東阪企画社長”鬼”の”澤田隆治”さんに心より感謝いたしたいと思います。


       
”私(大河内元規)”と”白木みのる”さん 
                      平成13年11月2日大阪上本町/近鉄ホール楽屋にて
◆白木みのる(しらき・みのる)
 
 本名 :柏木彰(かしわぎあきら)
 ニックネーム :ベイビー(由来は白木みのるの歴代の内弟子&付き人参照)
 5月6日生まれ。
 島根県 八束(やつか)郡八束村/通称大根島(だいこんじま)出身。


◆名前の由来(本人談)

 姓は”柏”を白と木に分けて”白木”。「”みのる”は?」と私の問いに答えて
 『”みのる”ほど頭を垂れる稲穂かな!』ご自分で付けた名前だそうです。
 (白木さんの芸に対する姿勢の全てがここに集約されている気がします。)


◆プロフィール

中学卒業後、歌手を志し旅の一座に参加し歌謡ショーで山陰地方を回る。当時は”マメ 田端”と呼ばれる。大阪のキャバレーで大劇(大阪劇場)の支配人にスカウトされ専属タレント(千土地興行)として活躍。その後吉本興業に入りテレビ界へ。当時、吉本はまだ寄席しかなかったため、芝居を学ぶ為に自ら”ミヤコ蝶々(故人)に弟子入り。61年の「スチャラカ社員」で人気を得て、62年からの伝説の『てなもんや三度笠』で人気を不動のものにする。「てなもんや・・」の後は松竹に移籍、75年に「松竹新喜楽座」を旗上げし座長を務めたが1年で解散。その後は30年に渡って新宿&梅田コマ劇場の”北島三郎”座長公演に出演、現在も欠かせない存在に。2001年6月、人気ロックグループ/ミスターチルドレンのアルバムCMスポットに出演、世間を驚かす。


2003年東阪企画創立30周年記念パーティにて
左から東阪企画会長澤田隆治氏(”てなもんや三度笠”演出家)、白木”BABY"みのる氏、参議院議院山東昭子氏、そして音楽人/大河内元規


白木みのる”誕生

幼少よりの夢は医者か画家(油絵)になる事であった、しかし生家が貧乏であった為に断念。中学卒業後やむなく自分の才能を活かした歌手を志し旅の一座に参加。当時は”ミサイル小僧”という芸名で山陰地方を歌謡ショーで回る。そのころは”田端義夫(ばたやん)”のレパートリーが多く”マメ 田端”と呼ばれる。その後自分で一座を率いて旅は続く。あるとき大阪のキャバレーにピンチヒッターで呼ばれ出演。そこの客として来ていた大劇(大阪劇場)の支配人にスカウトされ大劇専属(千土地興行と契約)となり”田端彰夫(たばたあきお)と言う芸名で活躍。その後吉本興業に入り芸名を”白木みのる”と変更しテレビ界へ。ここから、その後『てなもんや三度笠』の”珍念”として日本中を席巻する事になる”白木みのる”の伝説はスタートするのである。


<第1章/”生”白木みのる登場

2001年11月2日午前7時過ぎ。私は実に12〜3年?振り(*)に幼稚園から小学5年生までを過ごした大阪に向う新幹線の中にいた。私の普段の生活を考えれば簡単に想像できる事であるが・・・・当然”貫徹”。10年?振りに乗る新幹線の心地よい緊張感と同時に幼少期テレビにかじり付いて見ていた”お笑い芸人さん達”を生で見れる興奮で頭は冴えわたっていた。JR新大阪から迷いつつも電車を乗り継ぎ上本町(うえほんまち)の近鉄ホールに着いたのはお昼ちょっと前であった。近鉄”上本町駅”は近鉄デパートの地下にあり1階のロータリーを挟む様に目指す会場”近鉄ホール”は立っている。『着いた!』と独り言を言いながら楽屋口から会場へ。既に本番前日の仕上げの舞台稽古が始まろうとしており、心地よい緊張感を楽屋はたたえていた。楽屋に通じる階段を登り始めた時、遠くに何やら奇声が・・・”ah〜〜〜〜”。そして私がトイレに差し掛かった正にその時・・・・”ガチャ!!”っと私の進路をふさぐ様にドアが開きそこから飛び出してきたのが”白木みのる”その人であった。『おっ!!な・・・・生・白木みのる見〜〜ちゃた!!』『ち・・・小っちゃい!(え1)』『本物だ・・・・!!』・・・今考えれば睡眠不足もあり支離滅裂な興奮であった!!そして控え室で荷物をおろし、プロデューサー&演出の澤田隆治さんに挨拶をし客席中央で舞台稽古を見る事に。

(*)私はその前月も大阪に大阪新聞の取材の為に梅田にあるサンケイ新聞大阪本社ビルを訪ねているのだが、25時間不眠不休で私の友人の運転による日帰り”東名〜名神”自動車移動の為ほとんど記憶に無い。)


<第2章/出会い>

舞台上では芝居の演出の打ち合わせも終わり、いよいよ舞台稽古が始まる。緞帳が閉まり私が作曲した喜劇”裏町の友情”のテーマソング”喧嘩は友情のしるし”が会場に流れ始め緞帳が上がる。するといきなり『おっ!!”白木みのる”だ・・・・』『俺の曲に合わせて”ほうき”で掃いてる。』『リ・リズムに正確に乗ってる。』『このリズム感の良さは一体・・・こ奴何もの!!!』が第一印象であった。そんなこんなで休憩の時、私はプロデューサー&演出の澤田さんにお願いを。『澤田さん、あの〜〜思いっきりミーハーしても良いですか?』『何や?』『俺、てなもんやの時から白木さんの大ファンなんです!紹介してもらえませんか?』『ええよ!』そして舞台上で初めて”白木みのる”さんに紹介され、「ほい!」と差し出された右手と握手をしたのでした(ちっちゃい手でした)。そして伝説の芸人”白木みのる”さんと私の関係はこの一瞬の出会いから始まったのです。大阪に出発する時より、私は『”白木みのる”を抱っこして写真を撮る!』と誓って国を・・・じゃない家を出たのでした。そして弁当を抱え白木さんの楽屋をノック!『あの・・・一緒に弁当食べさせていただいても良いですか?』『ええよ、どうぞどうぞ!』優しい白木さんの声と同時に同室の”芦屋子雁さん”も椅子を私に用意して下さり感激の一瞬でした。大阪のいや関西芸人さん達の何とオープンで優しい事!!弁当を食べながら子雁さんを意識しながらも白木さんと談笑。まず3人(子雁さんと)の記念撮影をお願い。そして・・・いよいよクライマックス!白木さんにお願いを・・『あの・・・失礼かとは思うのですが、抱っこして写真を撮らせていただけないでしょうか?』『ええよ!』『ほ・・・本当ですか!!やった〜〜!!!』とだっこした写真(上の写真)を撮らせていただきました。この写真は引き伸ばして白木さんと再会した2002年3月にサインをしていただき私の仕事部屋に飾ってあります。



<余談/ミスチルCMに出演>

2001年6月、人気ロックグループ・ミスターチルドレンのアルバムCMスポットに出演。ヴォ−カルの桜井が白木みのるのファンであった事からイメージキャラクターとして突如登場しミスチルファンのみならず、お茶の間を驚かせる。本人曰く「最初はMr.チルドレンという新しいおもちゃのCMだと思った。(レコード会社はトイズファクトリー)」。5バージョン撮影され白木がミスチルの曲を歌うバージョンも制作。撮影で白木さんが抱えているリッケンバッカーのギター(ベースくらいの大きさに見えますが・・・・)は桜井が実際に演奏に使っているものを使用。撮影にミスチルのメンバーは来なかったが、その後梅田コマ劇場で”北島三郎公演”に出演中メンバー全員が白木さんの楽屋を訪ねたそうです。それと笑い話を一つ・・・丁度CMがオンエアーされていたころ、新宿コマ劇場で”北島三郎公演”に出演中でした。買い物好きな白木さん、ふらふらと新宿を散策中、突然”鎖ジャラジャラ&鼻ピアス”のヘビメタ少年に追っかけられたそうです。恐怖のあまり逃げますが敵は若い少年、遂に追い詰めらた白木さん、絶体絶命!運命やいかに!!その時、少年の右手がす〜っと伸び「白木さんですよね?僕ファンなんです握手して下さい。」と・・・・・「あ〜〜〜ビックラこいた!ホンマ恐かったで〜〜〜!!(本人談)」



<第3章/白木みのる歴史Part1>

毎週のように電話で話す内容が日本のお笑いの歴史そのもので、非常に貴重なお話なので
今回このような形で残そうと思ったのでした。

<戦後の吉本興業>

戦後の吉本興行は”花菱アチャコ””江利チエミ”の2人でスタート、間もなく”白木みのる”が加わりしばらくは3人しか所属タレントがいなかった。にもかかわらず、伝説の社長(当時)”林正ノ助”は寄席に出演中の白木を見て「あの小っこいのオモロイやないか!ああいうのをスカウトしてこんかい!」と白木のマネージャーに言ったという、笑い話の様な実話が残っている。


<白木みのるの歴代の内弟子&付き人>

1)初代内弟子”ダンプ”こと”青芝フック(当時は横山フック)さん。セクハラで辞任した元大阪府知事の横山ノックとパンチ(上岡龍太郎)と”パンパカパーン〜〜今週のハイライト”で一世を風靡したマンガトリオの1人。ではなぜダンプと呼ばれたか。最初の吉本花月は4階建ての映画館を改造して劇場を作っていた。その1階が劇場(寄席)で吉本新喜劇が上演されていたが楽屋は4階であった。体が小さい白木さんにはその楽屋との往復が結構大変でフック氏がおぶって”ガ〜〜〜〜”っと走っていたそうである。それでフック氏は”ダンプ”とあだ名を付けられたそうである。ダンプは砂利(じゃりは大阪弁で子供の事も差す)を運び、その砂利(子供)=”白木みのる”である。それでダンプと白木さんのニックネームの”ベイビー”はその時誕生したのでした。
2)”西川きよし”さん最高の漫才コンビとうたわれた”やすしきよし”てなもんや三度笠に出演当時は白木さんの内弟子。3)”石倉三郎”さんなど。4)弟子ではないが、今を時めくジャニーズのキンキ・キッズ”堂本剛”を子役時代に舞台作法等を指導。これは以外と知られてないでショ!いまだに白木さんの舞台出演時の楽屋には花が届いています。



◆みのる窯(がま)

師匠ミヤコ蝶々の『おい白木!お前もいっぺん東京へ行って、あっちの芸人を見てこい。金語楼センセの所へ電話しといたる。』 ・・・との勧めで”柳家金語楼え2宅に居候。金語楼氏の趣味が陶芸であった事もあり白木自身も夢中に。現在は兵庫県芦屋市の自宅1階を改装して工房「みのる窯」を作り、近所の夫人たちが連日集まっている。「電動ろくろは嫌いなんです。同じ物が出来てしまうから。手で作ってこそ、オリジナルの物が出来るんですよ」・・・・と言いながら2002年8月には鳥取の陶芸家のもとで1週間電動ろくろを習い、現在は手捻りと両方を使い分けている。


解説

え1えぴそーど1
体のサイズは今でも小さいのだが”てなもんや〜”当時は、な・・・なんと身長110cmそこそこで体重28kgであった(本人談)。『てなもんや三度笠』の番組から現在まで身長が約30cm延び(てなもんや終了時は30歳・・・なのに)今は身長140cmちょいで体重5?kgである。この事実は最初、渋谷天外さんと食事(2001年11月2日の舞台稽古後)をしている時、『白木先生はな『てなもんや』の後(実際は6年間の放送中から現在まで)背が30cm伸びたらしいでっせ!」と聞かされ、び・・・びっくり!!その後ご本人に確かめたら真実であった。先日、白木さんご本人からお借りした”てなもんや三度笠”の映画をビデオで4本見たが、確かに少しずつではあるが背が伸びているのが分かる。


え2えぴそーど2
”柳家金語楼/やなぎや・きんごろう落語家であり”有崎 勉(ありさき・つとむ)”と言うペンネームの落語作家でもあり、発明家としても有名であった。筆者の幼少期は元SKD(松竹歌劇団)の”水の江滝子(みずのえ・たきこ/ターキー)”さんと共に、当時大人気のTV番組であったNHK『ジェスチャー』の司会者として活躍していた。白木が居候していた当時、金語楼氏は女中”とら”に扮した『おとらさん(現テレビ朝日)』と言うドラマに出演中であった。アメリカの雑誌”ライフ”に取り上げられるほどの話題の大人気ドラマであった。これに白木は「家で遊んでいても仕方ないから一緒に出るか?」と金語楼氏に言われ”小とら”と言う”とら”の妹役で共演。「弟子時代のそれも居候先でのドラマ出演でしたからノーギャラでしたわ。でも金語楼先生にはその後も本当によう可愛がってもらいました。先生の晩年、体の具合がわる〜なって来た時も『先生、椎茸とニンニクを焼いて食べると精がつきまっせ。』と言うたら楽屋に持ち込んでよう焼いてはりましてな、それがまた”くさい”の何のでたまりまへんでした。でも先生は僕が言う事は素直によう聞いてくれました。(白木談)


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唐突ですが続きは次回
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