F.クープランの履歴書
「F. クープラン」
Paul Brunold著 J.B.Hanson英訳
モナコ The Lyrebird Press 1949年 袋とじ本
抜粋和訳:綿谷優子*印注記
出版者注記:
Paul BrunoldはF. クープラン(1668−1733)のように、サン・ジェルヴェ教会のオルガニスト、優れた作曲家、成功したチェンバロ奏者であり、古楽器史・構造学のエキスパートとして、パリ・コンセルヴァトワール古楽器部門の館長でもあった。彼は1948年亡くなる直前にこの短い論文を見せてくれ、今ここに英訳と共におおくりする事が出来ます。
かつて出版されたことの無い、F. クープラン3枚の肖像画を提供して頂いた、パリのAndré Meyer氏に感謝申し上げます。
Louise B.M. Dyer
*図版目録
1.Jal辞典に復刻された、1690年、第1子受洗時のF. クープラン自筆署名。
2.ヴェルサイユ美術館所蔵、1695年F. クープラン27歳の肖像画、画家不詳、顔はワトーの「ジル」によく似ている。
3.1725年F. クープラン57歳の肖像画、André Boűys画に基づく版画、Flipart彫版、最も有名な大分太っている肖像画。具合が悪いどころか、精力果敢に見える。王室礼拝堂オルガニスト等肩書きが下方に入っている。)
4.F. クープラン肖像画、André Meyerコレクション、デッサン、実寸大、
年代・画家不詳、40歳前後に見える。
5.F. クープラン肖像画、André Meyerコレクション、デッサン、実寸大、
年代・画家不詳、50歳前後に見える。
6.F. クープラン肖像画、André Meyerコレクション、デッサン、実寸大、
年代・画家不詳、60歳前後に見え、No.3の版画肖像に最も近い。
7.シャルル・クープラン署名・結婚証明書、1662年2.20、サン・ジェルヴェ教会、パリ公証人登録より。
I P.9
シャルル・クープラン(1595−1624)は、ブリー地方の小さい町・ショームに住む商人・宿屋経営者で、ルイ(1626−1661)・フランソワ(1631−1708)・シャルル(1638−1679)3人息子を持ち、3男のシャルル(1638−1679)が大クープラン=F. クープランの父親。クープラン家はもともとフランス出身ではなく、ショームのフォルクレイ家のように、商人・居酒屋経営者としてブリー地方の音楽史学者・Théophile Lhuillierに取り上げられている。フォルクレイ家とクープラン家は、共にブリー地方へ渡って来た移民だった、と考える事は不可能では無い。
シャルル・クープラン(1595−1624)に誰が音楽を教育したのかは分からないが、彼は息子のルイ(1626−1661)が、最もチェンバロ作曲に秀でた才能があると書いている。
F. クープランの父親・シャルル(1638−1679)は、ルイ(1626−1661)の死後、1661年12.25、サン・ジェルヴェ教会オルガニストとして契約し、1662年1.1から12年間奉職した。1662年2.20、マリー・ゲランと結婚。婚姻証明書には「子供が生まれれば8000フラン、生まれなければ1万フランを妻に与える」と書かれ、父親・シャルルの豊かな財政状況がうかがわれる。彼はTiton du Tillet、Le Galloisにより、ルイ(1626−1661)と比べて二流の音楽家として位置づけられた。
F. クープランは父親・シャルル(1638−1679)に手ほどきを受け、父の死後11歳で師事したJ.Tomelinに、「既に卓越した即興演奏」と言わせている。サン・ジェルヴェ教会は父親・シャルル(1638−1679)死後、即座にF. クープランを後継オルガニストとして任命する事に執心したが、11歳のF. クープランが18歳に達するまでという条件で、一時的オルガニストMichel de La Landeが任命された。de La Landeの年俸300リーブル(約450−500万円)+住居手当82リーブル(約120−160万円)、F.クープランは年俸400リーブル(約600−800万円)に見積もられた。
1685年11.1、17歳、サン・ジェルヴェ教会から年俸300リーブル(約450−500万円)を受け取った。
1689年7.3、21歳、父が貰っていた年俸と同額400リーブル(約600−800万円)に達し、マリアンヌ・アンソールと結婚、1690年第1子が誕生した。
1690年11.6、22歳、書籍販売ギルド組合に登録、初刊「オルガン作品集」を出版した。
1692年24歳、Pradel編「Livre d’adresses 音楽家年鑑」に、レベーグ、トムランに次いで、(*能力・稼ぎ高共に)第3位のチェンバロ教師として挙げられた。
1693年12.26、25歳、王室礼拝堂オルガニストJacques-Denis Thomelinの死により、ヴェルサイユ宮殿でルイXIV世臨席のもと、後継者選抜試験が実施され、F. クープランは年俸600リーブル(約900−1200万円)で任命された。当時王室礼拝堂は4人のオルガニストが3ヵ月毎の当番制で、F. クープランは1−4月の3ヶ月を勤める事になった。
1694年26歳から王家の王子・王女のチェンバロ教師、1706年38歳からブルゴーニュ公爵の通奏低音・作曲の教師となった。
1695年27歳、サン・ジェルヴェ教会+王室礼拝堂の年俸、個人レッスンの謝礼、他の活動報酬等から、「オルガニスト・チェンバロ教師ユニオン」のトップクラスとなり、年間15リーブル(約22−30万円)の共益金が課せられた。
ダングルベールの後継者として、「joueur de clavecin 宮廷付きチェンバロ奏者」として賞賛されたが、1717年49歳、3.5、国立古文書館アーカイブには、「F. クープランの視力は大変弱くなってきており、まもなくの退職が当然だろう」と書かれている。
F. クープランは称号集めに熱心で、幼少期Sieur de Crouillyとの養子縁組により「le chevalier 騎士」称号、1702年34歳頃ローマから「knight ナイト」称号、モナコ王子から伯爵称号、1696年宮廷軍隊から特別称号を授かっている。
1697年29歳、サン・ジェルヴェ教会の近所にあった家族との住まいを離れ、1713・1716・1717、そして1724年Neuve des Bons-Enfantsの家に落ち着くまで、数回引っ越し、最後の家は現在まで残されている。終の棲家に落ち着いた1724年56歳、「クラヴサン曲集」第4巻が出版され、健康の不調、彫版に充分目を光らせられなかった事、第25オルドルの2作品が忘れられた事等、妻や娘、従兄弟のニコラにさえ頼んだのに〜〜〜〜と、不満たらたらの序文を書いている。
この後あらゆる地位から退き、娘マルゲリタ・アントワネットに宮廷チェンバロ奏者の地位を譲りたいと、ルイXV世に願い出ている。この娘は国王付音楽家として成功し、王家の子供達・ルイXV世の娘達の音楽教師となった。
1723年12.12、55歳、サン・ジェルヴェ教会オルガン奏者席まで登る体力が無くなったという理由で、従兄弟のニコラに地位を譲った。
1733年9.12、65歳、同家で亡くなるまで、苦痛の日々が続いた。
II. 教育目的のために書かれた作品 P.27
「La Régle pour l‘Accompagnement 伴奏法」「クラヴサン奏法」の二つがF.クープラン、「和声論」1722年がラモーにより書かれている。「La Régle pour l‘Accompagnement 伴奏法」は、パリ国立図書館Sebastien de Brossardライブラリー・カタログにリストアップされている。出版された形跡は無く、F.クープラン自身によって語られた事も無い。二写本の両方共、Chanoine de Meauxマヌスクリト(パリ国立図書館、nou.acq.fr.4673 fol. 15−20 verso)にある。
第1写本は第15フォリオ・表ページから始まり、本文第1部に補遺がついた、Brossard手書きの写本。第20フォリオ・表ページで中断し、Brossardは「Progressions of harmonic and chromatic dissonances ascending and descending by conjunct degrees」を、修正付で筆写している。
第2写本は第17フォリオ・表ページから始まり、タイトルとテキスト開始部分があり、第19フォリオ・表ページで終了している。この写本はF.クープラン手書きと思われ、Brossardは同コレクションの為に、マルシャンにマヌスクリト写本を依頼したように、F.クープランにも自筆マヌスクリトを作るよう直接依頼したのだろう。
「La Régle pour l‘Accompagnement 伴奏法」は、「クラヴサン奏法」に基づき、より重要な教則本を出版しよう、というF.クープランの意図により、短いながら、明らかに通奏低音バス課題が書かれている。