いよいよア-ルヌーヴォー・ベルギー 横綱は何と言ってもヴィクトール・オルタ
ナンシー市のナンシー派ア-ルヌーヴォー
Val Saint Lambert ヴァル・サン・ランベール社のベルギー・クリスタルガラス ア-ルヌーヴォーは建築と共に、中身を彩る装飾的家具・調度品にまで波及した。「芸術は全ての人のために」のナンシー派・スローガンは各国の職人をふるいたたせ、経済復興に絶大な威力を発揮した。森林地帯の田舎に発足したヴァル・サン・ランベール社は、不毛だった20世紀を取り戻すべく、現在旺盛な研究と革新的技法の開発に取り組んでいる。 ☀歴史 Anne Chevalier 和訳要約:綿谷優子 禁転載 仏々辞典「le Petit Robert」にはフランス・クリスタルガラスの項目が無いが、ベルギー内Momigniesのガラス小瓶はフランス・クリスタルガラスとして、毎年2億7千個も作られている。Glaverbelはほっそりしたデザインのガラス製品を最初に輸出した業者で、グラス製品を中国市へ販売した。1826年から創業しているヴァル・サン・ランベール社は、オルタ建築「l’Hôtel Solvay ブリュッセル」にも製品を提供した。1958年「世界クリスタルガラス博覧会、ブリュッセル」ではナンシー派・ガレ、Daum等と共に、ヴァル・サン・ランベールのアールヌーヴォー・クリスタルは決定的な価値を見出された。ラテン式クリスタルガラスは、全て鉱物を加工してガラスのように見せている。石英結晶の透明さは、純粋さと堅牢さの象徴だった。ヴィクトル・ユーゴーは「クリスタルガラスは純粋さを輝きで示す」、と記した。 14世紀酸化鉛製ガラスは、より重くより透明だった。球体ガラスは将来を占う神秘的結晶体として用いられた。 ベルギー・クリスタルが始めて出現するのは王立ガラス工場Voneche、ナミュール近郊に1779-1793年設置。1802年フランス人・化学者Artiguesはディレクターとなり、酸化鉛からクリスタルガラスを造る専門家だった。コスト削減のため炭酸ナトリウムから人造クリスタルガラスを作る開発を行い、50−70%削減に成功した。1813年王立ガラス工場Vonecheには40人の工員が働き、水力回転タービンでガラスを削る作業に従事していた。この技法は西欧で冠たる評価を得て、パリ・スペイン宮廷まで波及した。パリでは「A l‘Eacalier(階段状) de Cristal」と呼ばれる、振り子に用いられるブロンズ工芸の人気も高かった。その後王立ガラス工場Vonecheは、Tanton集落、ブリュッセルCappelmans、マーストリヒトPierre Regoutにもネットワークを広げた。 1815年王政復古の終焉と共にフランス市場は閉鎖となり、Artiguesはバカラを王立ガラス工場Vonecheに吸収した。1826年更にリエージュを含む合弁会社として「Val Saint Lambert社」の名の元に、ベルギー・クリスタルガラス・ソサエティーが発足した。全ての工場は同じ機械・製法を保ち、金銀細工と同等の価値を持つまでに発達した。 1825年12.22、フランソワ・ケムラン等5人は、ヴァル・サン・ランベール社用地として13世紀建立・シトー派修道院跡地を買い取った。この判断は賢明だった。Seraing地方の広大な森と鉱山は、製造に不可欠な燃料、石灰岩の石切り場を持ち、フレマールの鉛工場からミューズ川の水路を搬送に利用する事が出来た。リエージュ地帯は手工業の要所として認められた。 1826年木の溶鉱炉に始めて入火した。 1829年石炭の溶鉱炉が除幕式を迎えた。ヴァル・サン・ランベール社が博覧会金賞授与に輝いたのは、特別な色彩、二重-三重のクリスタルガラス精製、研磨技巧等の圧倒的優位からだろう。 1863年ヴァル・サン・ランベール社ディレクター・Jules Deprezは、アメリカ製ガラス圧縮機を導入し世界初のクリスタルガラスを開発した。酸を使うガラス装飾技術は、彫版したい所に蝋を塗り、乾いてからピンで彫り物を施し余分な蝋を削ぎ落とす。酸水に漬け込み装飾がガラスに浮き彫りになる。蝋の削除や彫り物は機械化され、金属に模様を彫る機械、写図機等が開発された。幾何学模様の蝋版が作られ、工員が針で輪郭を彫るだけで大量生産が可能になった。1901年ヴァル・サン・ランベール社は、オパール・ガラスやエナメル・ほうろうと組み合わせた不透明のクリスタル・グラス製造に成功、「玉ねぎ」型の花瓶等独自のデザイン、VSLの頭文字を青・赤で描きこむ事も出来るようになった。 第1次世界大戦までに2800人の工員を持つ大工場となり、ア−ルヌーヴォー運動と結託して絶頂期を迎えた。1918年以降斬新な技術革新より、過去のコピーを創出にとどまる。1905−1908年、ナンシー派/エミール・ガレの共同制作者だった2人のフランス人が独特のデザインを開発し、すりガラスにエナメル・ほうろうを取り入れた。 第1次世界大戦の不況でロシア・ドイツの市場を失うが、1921年には創業再開、しかし1930−1931年経済効果は3分の1に縮小した。20世紀クリスタルガラスは、無個性で大量生産に向くデザインばかりが繰り返し製造された。ヴィクトール・オルタのア-ルヌーヴォー様式の食堂等にはヴァル・サン・ランベール社の作品が取り入れられ、後にアールデコへと展開する。 現在ベルギー・クリスタルガラス製造は21世紀の発展に向けて、上薬による七宝加工、液体ガス・炎などを噴射し砂で模様を焼き付ける手法、高温の緑青で彫る方法、フランス・ア-ルヌーヴォーとは一味違うベルギー地帯の植物・野菜をデザイン化する方法等が続々と開発されている。 オルタ美術館 25 rue Americaine 1060 BXL Tel: 32−2−543−0490 Fax: 32−2−538−7631 musee.horta@horta.ipisnet.be 入場料金:5ユーロ 冊子和訳要約:綿谷優子 転載禁 ☀Victor Hortaは1861年1.6ゲントに生まれ、1893−1898年有名になった建築物の多くを建設し、現在保存されているrue Americaineに2つの家を購入した。主な建築物: 266 Chaussée de Haecht 1888年 Hôtel de maître 6 rue Paul-Emile Janson 1888年 Hôtel de maître 224 Avenue Louise 1894年 Hôtel Solvay 520 Avenue Louise 1899年 Hôtel Aubecq 459 Avenue Louise 1901年 Roger residence 80 Avenue Brugmann 1901年 Dubois residence 346 Avenue Louise 1902年 Max Hallet residence 85 rue Washington 1903年 Maison Vinck 157 rue de l’Aqueduc 1903-1904年Maison Sander Pierron Musée des Beaux-Arts Tournai 1903-1928年 20 rue des Sables 1906年 Waucquez department store 1922年Palais des Beaux-Arts Jette 1906-1923年 Brugmann hospital 中央駅 1912年 大通りの修復: rue Neuve 1900年 Chaussée d’Ixelles 1903年 Anspach 1903年 Meir Antwerp 1906年 1906年離婚、1908年再婚。1893年よりブリュッセル自由大学教授に就任、1911年新建築設計に反発して辞職。1913年ブリュッセル・美術アカデミー校長に任命。1932年アルベール1世により男爵身分を授与、1939,1946年に全てのアーカイブを破棄、設計図面が出版された事は無い。 ☀オルタ美術館は1898年rue Americaine23番地、25番地を購入した家の一つで、スタジオ兼住居として使用した。2階部分の「冬の庭」とテラスは、娘シモーヌの為に造られた。1908年地下に彫刻スタジオを増設、1919年アメリカから戻り、2つの家は異なるオーナーにそれぞれ売却された。1961年更に売却される事になり、オルタの弟子・設計家Jean Delhayeは、サン・ジル区長を促して歴史的建造物として購入する計画を薦めた。サン・ジル区長は、助成基金により内部修復を歴史考証に基づき完全に施工する事を購入条件とし、1963年ブリュッセルで初めてのア−ルヌーヴォー建造物として認定された。1969年オルタ美術館として一般公開、安全の為の補強資材に、1965‐1966年取り壊されたオルタ設計のアパート+オーベック・ホテルの石材が用いられた。2000年ユネスコ世界文化遺産・永久保存指定を受ける。 ☀ファッサード スタジオと住居別々に2つの入り口が設けられ、必ずしも理想的調和とは言いがたい。高さ6.69mが住居、5.81mの方はスタジオに利用していた。中流家屋はレンガ建築が主流だったが、オルタは歩道と同種の青石・石材に拘り、当時この石材は通常敷居等にのみ用いられた。メタル・ベランダは伝統的ア−ルヌーヴォー様式で、石材補強の役割を果たしている。中央2階-3階の窓、スタジオ部分の3つの窓はそれぞれ趣を異にしており、突出面の異層を創り上げている。中央2階窓はしなやかなメタル・ベランダのみ、3階窓はオルタが生涯愛して止まなかった石材の温かみとメタル・ベランダを組み合わせたもの、スタジオ部分2階窓メタル下にインパクトの強い石材彫刻が見られ、3階窓は完全なガラス嵌め込み式になっている。オルタは石材彫刻家としても本領を発揮し、地下スタジオで石切をしていた。オルタは窓について「修道院のように簡素」を旨とし、回想録にも「monastic simplicity」と記している。黄色石材とグレー・ブルー色石材の嵌め込み、二ス塗りオーク材とピッチピン、ピンク色花崗岩とオークル色メタル等の色彩配合も独創に飛んでいる。大工・鋳造職人・石工等複数の職人芸が集約されている。オルタは鉄材本来の黒色を残す事を失念し、「思いつく限りの色を用いたお陰で、黒をすっかり忘れてしまったと大笑した」と記されている。 ☀入口 クロークがあり二重扉になっているのは、使用人や小売商人達が速やかに仕事ができるよう配慮され、主人や家族・招待客等と分かれて入室する意図の為である。中流家屋設計は1階部分を歩道の上に作り、歩道と同位の庭に面した部分に台所がある。 ☀吹き抜け階段 家の中心部は薄暗く、求心力の強い吹き抜け階段設計になっている。吹き抜け上の窓ガラスは、1880年頃アメリカ・ティファニー&ラファルジュが開発した種類で、ガラスがまだ熱いうちに金属酸化物で色を塗り、毛羽立った絹糸模様、又は波形模様を浮かび上がらせる技術を用いている。光線の加減で複数の色に変色し、両側から見ると色が違う。第1次大戦後アメリカで盛んに造られた「American glass」は、この家の基本的な雰囲気を寄与している。家族や招待客は階段を上がり、さんさんと日のあたるサロンへ出る。階段上のステンドグラスは建設当時から現在まで損傷が無く、採光を重視している。 ☀暖房と電気 オルタが建設した当時、配電技術・集中暖房等が躍進した時期であり、ヒーターやランプ等が設置されているが、全体調和に溶け込み違和感は無い。しかし階段手すりに直立する出縁付きラジエーター、冷気を遮断する暖房の位置等が、かつてない設計様式を不可欠とした事は明らかである。鋳鉄ラジエーターは大型で扱い難かったので、オルタは工業用ラジエーターに曲線の出縁をつけ、使用人用階段脇に円柱のイメージが湧くように直立させた。1879年エジソンが発見したバルブ・ランプが用いられ、電線は花蔓が柱に巻きついているようなデザイン、又は円環状に吊るされている。1890年頃ガス灯が電力に取って代わられ、屋内照明はこの時期から画期的に明るくなる。ガス灯は壁紙、絵画等を煤汚れで損傷させるが、電気ランプのかさには白、ピンク、黄色、オレンジ等の明るい色を用いる事が出来た。壁の大理石模様は色あせているが、カララ大理石を想起させる。 ☀ダイニングルーム 活気に溢れたウィットを表現するこの部屋は、天井に背面ファサードに用いられたエナメル仕上げのレンガが嵌め込まれている。合理主義を建築に取り入れたViollet-le-Ducの影響が明らかで、素材に何ら作為を施さず地のままの色・形状を保っている。しかし大理石やマホガニー等をふんだんに使用し、粉状石膏で彫られたPierre Braecke作レリーフ等が装飾の貴族性を与えている。サイドボードは料理を出す配膳台で、冷めないようにガスコンロと繋がっている。ハンガリアン・オーク材を使った寄木細工のフローリングは、石材より日常暖房に優れ、ウールカーペットより手入れが簡単だった。オルタは周りを大理石モザイクで敷き詰めているが、冬場の寒さが厳しかった。庭に面した「朝の部屋」は完全に趣味を異にし、ダイニングルームから翼のように伸びている。1902年装飾芸術展示会に出展した3面サイドボードは売却できなかったので、後年多少の手を加えてオルタ自身が愛用していた。 ☀音楽室 2階へ上がる階段は寛いだ雰囲気を創出し、音楽室の暖房管は金メッキの真鍮で、ソファーの陰に隠されている。家の面積の約半分を占める音楽室は1906年修復され、正餐の準備が出来るまでの食前酒を飲む部屋としても使われた。この部屋の上部にはゴシック式メタルが仕切りとして、床にはベルギー大理石が用いられている。この1点に立つと家の各部分が流動的に展望出来、間仕切りが厳格で閉鎖的空間を形成していた伝統的設計との明らかな相違が見て取れる。壁は、マホガニー羽目板の低い部分、カメオ細工の絹地が中央、絵がかけてある上部の3つに分かれている。 ☀家族用の2階部分 階段を取り囲む形で広がり、行き来出来るように内部で繋がっている。 ☀客室 客室と娘の部屋は通りに面した2階部分にあり、客室はギリシャ・アッティカ様式。 ☀3階部分 損傷が酷く復刻された部分で、オルタは建物の側面から採光する為に増設した。高い部分に行くほど光に溢れる設計が実現し、アラベスク模様のメタルが無限鏡のように繰り返される。 ☀ジャポニズム 1893年からオルタは日本の版画等に影響を受けた。日本の美術品は1867年パリ展に始めて出品され、1888,1891年ディーラーSiegfrid Bingにより豪華版「日本の芸術」が刊行され、オルタもこれを購入した。Siegfrid Bingはオルタと邂逅し、1895年彼のギャラリーをア-ルヌーヴォー様式に改築するよう依頼する。 又オルタは初めての重要顧客となったタッセルの邸宅を設計した時、日本画の風景画を採択している。タッセルから支払いを受けたオルタは、すぐに日本の美術品収集を始めた。漆、象牙、ブロンズ等日本を始めとするアジアの芸術品を、特定の骨董商から購入して現在展示してある。 *ナンシー市のナンシー派 大分前からアールヌーヴォー文化に興味があった。今回ちょうどフランス・ナンシーに行く羽目になったので、建物のご紹介からしてみよう。 *フランス・ナンシーの町ごとアールヌーヴォー博物館 ナンシーについては、観光局から日本語の良いページが出ているので非常に便利。観光局、レストラン等のサーヴィスが過剰ではないが暖かく、欲深で無いフランス人たちが珍しく、リルと共に好きになった。タクシーは3台に1台親切。コーヒー1.5ユーロとブリュッセルと変わらぬ物価・・・という事はフランスでは格安。 アールヌーヴォー外装の鉄青は、いくら仏王家の色が青だと言っても鮮やか過ぎて調子はずれに見える。ブリュッセルのアールヌーヴォーはよく見なければ古色蒼然の石庭に埋まっているのに反し、ナンシー派は突出していて目を引く。始めて見ると口があんぐり、何だろこれはと思うが、「やりたい事やってみました」という達成感が段々感じられる。ナンシーの人がブリュッセルに来ると、ウラブレテいるから1日で物寂しくなるだろうなと思う。 *L’Ecole de Nancy ナンシー派 和訳要約 綿谷優子 転載禁 ロレーヌ地方はア−ルヌーヴォーの偉大な美術史に必須である。しかし1875年から突如繁栄した事だけがこの理由なのでは無く、孤立していた異分野手工芸が統合された事に真の国際評価がある。ロレーヌ地方は当時、流行の中心となる産業やエリートに受け入れられる文化的水準を持たなかった。経済的に定着する販売システム、生産資源を獲得する必要性に迫られており、ナンシー派はこれらの規範として出現した。 既に1901年までの間、二派が文化的進展を遂げていた。一つは鉄鋼業導入により1854年から飛躍的に地域経済を昂進させた、l’Alliance provinciale des Industries d’art(地方芸術産業組合)、そしてもう一つがナンシー派。1870年仏独戦争の災禍でアルザスがドイツ併合とされた事により地域は拡大し、化学工業・製鉄産業の中心地となった。ナンシーはロレーヌ地方の中心工業都市として脚光を浴びた。伝統的陶器・ガラス産業が復興し、シャッター技術等が一般消費者の注目を集めた。手工芸・家内工業従事者達は、ナンシー派の立ち上げた芸術・工業化の結束に飲み込まれ、創造アイディアはロマン派的世代に属していた。 19世紀後半英国ヴィクトリア女王治世で、John Ruskinは悪趣味に誇張されたイミテーションをブルジョワに提供していた。しかしJohn Ruskinは時流に逆らい、真の職人芸を回復する創造的欲求を示した。ガレが絶賛されるのは、この二律背反を見事に超越した事であり、英国ウィリアム・モリスも又ユニークな立場を守りながら異なるコンセプトを示し、多数の支持者を得た。 ガレはいわゆる「芸術と手工芸」運動に荷担しなかった。彼は芸術的職人芸の成功に専心しながら、しかしブルジョワへのアプローチが絶対的に不可欠である事を知っていた。庶民が通う「marche(市場)」で販売されるものは、収集家達のギャラリーより広範囲の商品を扱っていたので、ガレは自作製品の売り込みを画策した。ナンシー派はガレの功績により、日用品に属する作品から豪奢なレベルのものまであらゆる種類の作品を制作し、安価でも非凡な作品を提供する事に成功した。その後Roger Marxは「社会的芸術運動」のためにそれまでの道具類を適応させる事を推進し、20世紀の技術革新への偉大な先駆けとなった。 伝統的美術とそれ以外の手工芸技術との階級差を断罪し、装飾芸術分野を「発展的近代に生きる」総合表現媒体とする精神がウィリアム・モリスの信念だった。ガレを含めて新興勢力はこの方向へ向かった。品質低下を伴わず一般庶民が享受出来る美的空間として、美術と手工芸が一体化した。まず大組織を持つ商店、国際的贔屓客の獲得から商業的に成功し、革新運動を牽引した。ナンシー派の製作組織は国内にとどまらず、シカゴ、トリノ、ロンドン、ミュンヘン、ブリュッセル等で世界的ネットワークを持つ販売網を獲得し、国際エクポジションへの出展等からむしろ海外で激賞された。 最終段階では、ロレーヌ地方の流儀が世界的に定着した。文化的背景としてロレーヌ地方はロココ・ゴシック・フランボワイヤン(火焔)様式を引き継ぎ、ナンシー派は地域性を生かしてこの様式を復活させた。しかし懐古趣味に陥ったのでは無く、中世花柄(散形花序)を取り入れながら伝統的フランス・ゴシック様式(保守的な人々からは異端と見なされたが)を踏襲して、革新の拠り所とした。初期から後期まで多くの製作家が、精密な写生に基本を置く花柄装飾を試作したが、19世紀末には緻密な細密画法は放棄されて行った。 一方Eugéne Vallinはフランス・ゴシック・フランボワイヤン(火焔様式)へ立ち戻り、伝統とは無限のファンタジーと多様性が永遠に再生可能な表現技術であると強調した。当時の典型的性格として、夢幻的象徴性もあげられる。ア−ルヌーヴォー表現は伝統の照射として、型の内に解放された。 ナンシー派は自然科学の様相から生きるものの形態を得ようとし、ガラス・ブロンズ・木等の媒体に写し取る前に、花や田園風景の植物学に基づくリアル・デッサンを重視した。ア−ルヌーヴォーの前既に1880年頃には錬金術が確立して、ガレやEugéne Vallinの作品に取り込まれた。エコロジーの概念が根底に在ったにも拘わらず、草木の命のもろさが精密に表現媒体に移し取られた所に、ナンシー派の特異性がある。ナンシー派は美術・植物学・工業・産業復興等各方面からの要請に応え、自由な伝達手段として政治的・社会的・科学的なグローバル産業として統合した。 しかし第1次世界大戦の危機感から、地域性を重視するあまり懐古趣味に傾むいた頃、ア−ルヌーヴォー運動は衰退の兆しを見せ始める。手工芸家達の自己満足から製品コストは急騰し、最早庶民には手の届かない特権的産物となった。 マジョレル等は花柄装飾を刷新した様式に高め、独自の彩色で不動の地位を築いた。ナンシー派は、文化的共同体の傾向がより強まるア−ルデコ様式とも深く連携している。 現在我々の文化は世襲にのみ頼るのでは無く、各地域の活力を反映した日常的生産力に芸術的表現欲求を適応させている。芸術は美術館や画廊にのみ在るのでは無く、人々が日々暮らす町の中に、生の尊厳と不可分な在り様を示す生活必需品として存在する。実人生と切り離された文化というものが有り得ない事を証明したのが、ナンシー派の成功だった。 *Musée de l‘Ecole de Nancy ナンシー派美術館 和訳要約 20世紀近く、ヨーロッパ装飾芸術は総合的に再生された。ナンシーにはl’Alliance provinciale des Industries d’art(地方芸術産業組合)とナンシー派が、新たなア−ルヌーヴォー運動を展開した。 ロレーヌ地方首都ナンシーは経済躍進と共に、装飾芸術の中心地として19世紀後半から20世紀初頭まで驚異的発展を遂げた。生活環境の改善と、設計・絵画・彫刻等の美術世界と、職人芸として軽んじられていた手工芸分野との、厳格な差別を廃する事が革新派の意図だった。特に家具・金銀細工・装飾加工職人等を再編し、「l’art dans tout全ての芸術」が生活全ての場面に定着する事に成功したので、おびただしい数の作品が世界的に伝播した。 製作家達はガレの決定的影響により、自然界特にロレーヌ地方の植物相から多くのヒントを得た。1884年既にガレは充分な成功を収めていたが、1889年のエクスポジションで不動のものとした。1900年のエクスポジションでは、ローカル芸術の底力をナンシー派が見せつけた。マジョレル/ヴァラン等は、家具製作分野における装飾芸術の可能性を確実に更新させた。ガラス工芸分野ではドーム兄弟が花柄装飾に成功し、ガレの作品にも見られる新たな技術を開発した。ステンドグラス技術も躍進した。 この美術館は1894年ナンシー・Poirel ギャラリーの作品展示の為に造られた。エクスポジション委員会は、若い芸術家・手工芸職人達を養成する「近代コレクション」に適応する展示場を獲得する必要があった。1901年市議・審議委員会により装飾芸術美術館建設が検討され、1904年から市庁舎でナンシー派によるショーウィンドーが展示された。1935年コルバンは、装飾芸術・絵画・彫刻等の重要なコレクションを収集した市街地邸宅を提供した。1952年市庁舎は、コルバン・コレクションを獲得する事を決議した。後期ナンシー派芸術の家具、美術オブジェ、ガラス工芸、陶器、織物等多様な技術が見出される。建物自体は1900年当時を綿密に復刻していないが、内部は家庭的雰囲気を忠実に再現している。特にマッソンの食堂はヴァランの作品を展示し、ほぼ当時そのままを再現している。ユニークな作品群は類を見ない。全世界に散在してしまったアールヌーヴォー芸術を一堂に見られる稀有な機会である。 庭園は1999年修復され、1904年ワイセンブルガーによる水槽館、この建物の設計家の墓所もある。ナンシー派のアールヌーヴォー芸術は、この庭の植物群から生まれたと言って良い。楢の木はヴァランにより1925年増築の際植樹された。 *マジョレル邸 1898年マジョレルは設計家アンリ・ソヴァージュに、ナンシーに建てる私邸プランを持ちかけた。マジョレル邸は当初妻の邸宅としてJika邸と呼ばれ、1901‐1902年ジェアンヌ・クレッツが典型的ナンシー派の歴史的建造物として改装した。ナンシー派が本格的ア−ルヌーヴォー建築に挑み、主要な各分野製作家を総動員して建てられた最初の試みだった。マジョレルはパリとナンシー派の名高い芸術家を編成し、完全な双方の了解を得る事に成功した。1997年から一般公開され内・外装共に絶賛を得ている。1996年からフランス歴史的建造物・永久保存指定。 1904年再編された食堂は「豊かな食生活」を体現し、1997年ナンシー市ナンシー派美術館として発足した。煙突は砂のまじった固い陶土で造られた焔型で、グルベーのステンドグラス、ジャルダン絵画、家具・板張り・木枠組みはマジョレル自身による。 1902年「装飾芸術」フランツ・ジョルダン記: 「芸術家の為の芸術家の家」というコンセプトは全てに浸透した。アンリ・ソヴァージュはナンシー派の住居に不可欠な、虚栄心を満たす豪奢ではなく、王侯貴族や成り上がり者の住まいではなく、通行人に嘘で固められた豪華な外装を誇示する事のない特別なキャラクターを付与した。芸術家の感性と教養を具現し、眼差しは繊細で、卓抜な雰囲気の中で高い知性を保ち純粋に生きる芸術家そのものが現されている。 外装に4つのファサードがあり、幾何学的均整により奇妙な印象を回避し透明感を寄与している。(*相当私には奇異な感じだけれども・・・・)非シンメトリーの構造は未知のものだが、正々堂々と学識と雅趣を表現している。