和訳:見坊 澄(けんぼう すみ)

トッカータ
序文

この新しい版はヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンク(Jan Pieterszoon Sweelinck)の鍵盤作品を収めており、20世紀の学術的な版の慣習と異なって編集上の考察を具体化したものである。明確で真正な音楽内容を伝えるためには資料から得たすべての情報を使用者に提供し、資料の信頼度に従って数多くの関係書物を系統立てる必要があるとの判断から生じている。各巻はスタッフ・ノーテーション(スウェーリンクが使用した記譜法)で記された作品から始まり、レター・タブラチュア(ドイツ・スウェーリンク楽派の記譜法)による作品が続く。次に作者不詳または真偽が定かでない作品が含まれている。縦長の体裁にすることで、作品が当初すべての鍵盤楽器のために書かれたことを強調した。
重要な資料については使用された紙や透かしを検討し、これらの資料がどのようにして伝えられたかを追跡した。各資料の相関関係が明らかになり、近年問題にされていたことに新たな解釈がなされて、伝達の信頼度が乏しかった従来のスウェーリンクの資料とは異にしている。

本版により提供したいと基本的に考えているものを以下に挙げる。
−資料から視覚的に得た音楽的内容(すなわち音価、小節の長さ、拍子記号、手の配置、符尾記譜、原題)を提示すること
−起源と記譜法に関連した資料を再評価すること
−過去の研究および現在作成中の新たなスウェーリンク目録番号(SwWV)注1)に基づき、スウェーリンクの作品およびその真正な伝達を限定すること
−作曲者の生涯と作品に関する近年の研究を評価し、同化すること注2)

演奏者が取り扱いやすいように作品を4巻に分けた。
 第1巻−トッカータ
 第2巻−ファンタジア
 第3巻−コラールと詩篇歌のヴァリエーション
 第4巻−歌曲と舞曲のヴァリエーション
第1巻の付録にスウェーリンクの演奏法を解説し、指使いと装飾についてオリジナルの指示を記した。第2巻にはスウェーリンクの鍵盤楽器に関する研究が、そして第3巻にはレジストレーションの使い方の研究が含まれている。

生涯 注3)

1564年にオルガニストのペーター・スウィベルツゾーン(Peter Swibbertszoon)は家族とともにデーヴェンターからアムステルダムに引越し、オランダ国内のオルガン奏者にはとても重要な地位であった古教会(Oude Kerk)のオルガン奏者の職に就いた。しかし彼が当時から有名だった2台のニーホフ(Niehoff)のオルガン(1542年と1545年製作)を弾いてその才能を示したのも僅かな間で、不運にも1573年に没した。妻のエルスケ・ヤンスドター・スウェーリンク(Elsken Jansdochter Sweling)と4人の子供が残され、その中には後に有名な画家になった7歳のヘリット(Gerrit 1566-1610年以後)と、11歳のヤンがいた。兄弟は母親の姓を名乗ったが、つづりは異なっている。稼ぎ手を失った家族は市と教会から十分な支援を受けていたと思われる。さらに長男の音楽的才能は幼少の頃から顕著で、オルガニストとして父親の後継を見込まれ奨励された。古教会の神父のヤコプ・バイク(Jacob Buyck 強力なアムステルダム市長ヨースト・バイクJoost Buyckの兄弟)がヤンの成長に大きな影響を与えたと思われる。信頼できる慣習に従ってこの賢明な神父は若いヤン・ピーテルスゾーンの教育係になった。少年の音楽教育については、近隣のハーレム出身の歌手でありショーム奏者であるヤン・ウィレムスゾーン・ロッシー(Jan Willemszoon Lossy)にレッスンを受けた記録しか残っていない。ヤンはハーレムの聖バフ教会の著名なオルガニストであるフローリス・ファン・アドリヘム(Floris van Adrichem)からオルガンを教わった可能性がある。

 1577年に若干15歳でヤン・ピーテルスゾーンは古教会のオルガニストに任命されるまでに成長し、生涯その地位に留まった。しかし、就任して1年後に劇的な変化を経験することになる。北部ネーデルランドにおいて最後のカトリックの塞であったアムステルダム市が1578年カルヴァン派に転向した。カトリックの権力者は市から追放され、敬虔なカトリック教徒であるヤコプ・バイクも逃亡を余儀なくされた。カルヴァン派は直ちに厳しい戒律を課さなかったので、この宗教改革は一般に考えられているほど広範囲に影響を及ぼしていない。むしろカルヴァン派は数十年にわたり限定されるものの、「開かれた」教会ともいえるカトリックとの共存関係を認めていたのである。注4)ジュネーヴの様式を採用はしたが、教会の礼拝はそれまでの儀式の要素を数多く残していた。こうして人々は緩やかにカルヴァン派に移行することができた。この驚くべき展開に不可欠だったのが初代カルヴァン派牧師たちの顕著な穏和主義である。正統なカルヴァン派が力を得たのは17世紀に入ってからである。レモンストラント派と反レモンストラント派(正統カルヴァン派)の争いが起こり、1619年にドルトレヒトの教会会議で厳格なカルヴァン主義の支持者達が最終的に勝利を得たのはスウェーリンクが亡くなる少し前のことになる。

 カルヴァン主義はオルガンやオルガン演奏をカトリック儀式の遺物と見なした。礼拝中のオルガン演奏は禁止され、オルガンはすべて教会から取り去るよう命じられた。しかし教会とオルガンを所有するアムステルダム市(および他のオランダの都市)当局は、オルガンの殆どが高額で購入されたばかりだったため保護することを望んだ。当局はまた、オルガン奏者を市の職員として留めた。ヤン・ピーテルスゾーンにも同様のことが起こり、1578年以後彼の礼拝オルガニストとしての活動はなくなった。新しいカルヴァン派のガイドラインは宗教儀式におけるオルガニストの務めを最小限に定め、信仰者が新しい賛美歌に慣れるために礼拝の前奏と後奏を弾くことを主にした。これに加え、スウェーリンクは公共の演奏会運営を任された。これには主に古教会の2台のオルガンが使われたが、市の公的機関にあるチェンバロも演奏に使われた。スウェーリンクが1604年、有名なルッカース工房で楽器を購入するためアントワープを訪れたのは職務との見方をすべきである。(ついでながら、アムステルダム市の寓意的な描写のあるチェンバロの蓋が最近再発見された。注5))スウェーリンクの他の旅行は建国間もないオランダ共和国内のオルガン視察に限られたようだが、次の都市を訪れている。ハーレム(1594年)、デーヴェンター(1595および1616年)、ミデルブルフ(1603年)、ナイメーヘン(1605年)、ハルデルヴァイク(1608年)、ロッテルダム(1610年)、デルフト(1610年)、ドルトレヒト(1614年)、レーネン(1616年)、エンクハウゼン(1621年、10月16日に亡くなる直前)。

カトリックがオルガンの隆盛をもたらし、その伝統の中で育ったスウェーリンクは、明らかに正統カルヴァン主義に魅力を見出せなかった。彼は家族とともにカトリックを信奉したと思われるが、実社会では心の広い自由市民のように振舞った。彼はアムステルダムの、啓蒙された商人や市の役人そして芸術家から成る、多人数を擁する当時としては典型的な階級に属していた。彼は新しい詩篇を受け入れたが、改宗したオランダ人ペトルス・ダテーン(Petrus Datheen)のお粗末な訳を殆ど評価していなかった。150に及ぶ詩篇全作品のフランス原典版を4−8声部のポリフォニーに編曲したのが、スウェーリンクの主な声楽作品になっている。更に、彼は重要なラテン語のモテット集を発行しているが、その多くはカトリック起源の内容である。この作品集Cantiones sacraeはカトリックの都市アントワープで1619年に出版された。これはおそらく進歩的な人々を落胆させたドルトレヒトの教会会議に対するスウェーリンクの返答である。最後に、スウェーリンクはフランスとイタリアの詩を基にした世俗歌曲集もいくつか書いた。

 アムステルダム市はスウェーリンクの偉大さをすぐに認めた。1580年から支払われた100ギルダーの年俸は1586年に200ギルダーに引き上げられた。1590年にメデンブリク(Medemblik アムステルダムの北50キロにある小さな町)のクレスヘ・ディルクドター・パイナー(Claesgen Dircxdochter Puyner)と結婚した後は300ギルダーになり、住居が無償で提供された。最後の昇給は1607年で、360ギルダーに達した。スウェーリンクは教師としても多額の報酬を得ており、1600年から教職は重要な活動になる。1606年以後隣国のドイツから生徒が集まるようになった。幾多の困難に打ち勝ってルター派は1605年にアムステルダムに教会を開くことを許され、北部と中部ドイツのルター派都市から若い有名なオルガニストがアムステルダムに来る要因になった。その中には以下の人達がいた。
ハンブルクのヤコプとヨハン・プレトリウス(Jacob and Johan Praetorius)、ハインリヒ・シャイデマン(Heinrich Scheidemann)、ウルリヒ・ツェルニッツ(Ulrich Cernitz);ダンツィヒのポール・ズィーフェルト(Paul Siefert)とマティアス・レーダー(Matthias Leder);ケーニヒスベルグのヨナス・ゾルニヒト(Jonas Zornicht);ハノーヴァーのメルヒオール・シルト(Melchior Schildt);ベルリンのアウグスト・ブリュッケン(August Brucken);ハレのザムエルとゴットフリート・シャイト(Samuel and Gottfried Scheidt);そしてライプツィヒのアンドレアスとマルティン・デューベン(Andreas and Martin Duben)。18世紀に入ってヨハン・セバスチャン・バッハ(Johan Sebastian Bach)が現れるに至るまでハンブルクは北ヨーロッパのオルガン音楽の拠点になったが、それを可能にしたのはスウェーリンクの教育活動に一部よるものである。スウェーリンクの主要な作品は彼の人生後半に作られたが、ちょうど1606年頃から教職に重きを置いた時期と一致する。

 若き日のアンドレアス・デューベンがアムステルダムで勉強していた時期と重なる1615年の文書に、スウェーリンクの教授法の素晴らしさが克明に記されている。文書はこのライプツィヒ出身者が「技術を更に磨くために、作曲法を完璧に習得するために、そしてFundamentからフーガの技法を学ぶために」滞在を延長したことを伝えている。注6)オルガン指導はFundamentの模倣、連続、またはカデンツ様式を基にした伝統的な即興演奏だけでなく、鍵盤楽器作品の作曲も含まれた。スウェーリンクがジョゼッフォ・ザルリーノ(Gioseffo Zarlino)の対位法(Institutioni harmoniche,1558-89)のかなりの部分を編曲したものはこういう観点から見られるべきであるが、この作品は17世紀末までドイツ・スウェーリンク楽派にとって重要な位置を占めていた。注7)スウェーリンクのオルガン指導が2−3年間は並外れた評価を得ていたという事実は、若い学生だけでなくヤコプ・プレトリウスやザムエル・シャイトのような著名人がアムステルダムまで足を運んだことから覗える。スウェーリンクは高額な報酬を要求できるほどの格の高いマスター・クラスを指導していた。例を挙げれば、ブランデンブルク選帝候の資金援助を受けたアウグスト・ブリュッケン(August Brucken)という生徒が一人分の実習の謝礼として1613年に200ギルダー支払ったことが知られている。注8)これはスウェーリンクが市から受け取った360ギルダーの年俸の半額を超える。高額の報酬は、スウェーリンクの鍵盤楽器作品の入手や、コピーをするためのギルド的許可の取得から派生するものが含まれているのは間違いない。

鍵盤音楽
 スウェーリンクの鍵盤音楽は17世紀初期の音楽の中でも傑出している。この時期のヨーロッパ音楽の鏡であり、バラエティーの豊かさや、形式のモデル、テーマ、そして音型をふんだんに用いて創作している点で類を見ない。これを可能にしたのは、スウェーリンクの職務が伝統的な宗教活動から離れていて、そのために彼の芸術活動が当時としては稀に見る自由な環境にあったためである。
 スウェーリンクは当初この自由を大規模な声楽作品の作曲だけに充てた。彼の声楽ポリフォニーの技法はヴィルトゥオーゾ的だが一方、詩篇歌のモテット、ラテン語のモテット、マドリガルやシャンソンは、16世紀のポリフォニーの「ネーデルランド」的伝統を継承して人間味溢れる色彩を帯びている。才能ある作曲家達は16世紀末にこの様式を求めて努力したのであり、スウェーリンクはこの分野での技法を確立することに成功した。鍵盤楽曲を記譜することにスウェーリンクがあまり興味を示さなかったのは明らかであり、彼は演奏家として素晴らしい即興演奏をした。数十年に亘って彼の鍵盤演奏は即興に限られた可能性が高い。
 17世紀に入ってスウェーリンクは、即興だけでなく「記された」作品を手がける他の楽派と接触する機会が増えていった。特に重要なのはロンドン楽派(ウィリアム・バード William Byrd とその門弟たち)、ブリュッセル楽派(バードの門弟ピーター・フィリップス Peter Philips)、ヴェニス楽派(クラウディオ・メルーロ Claudio Merulo、ジョヴァンニとアンドレア・ガブリエリ Giovanni and Andrea Gabrieli)、そしてハンブルク楽派(ヒエロニムス・プエトリウス Hieronymus Praetorius)である。これらの楽派が鍵盤音楽を様々な方法で手の込んだ記譜をしているのを見て、スウェーリンクは自身の洗練された声楽ポリフォニーの体位技法を鍵盤にも応用できると考えた。このような汎ヨーロッパ的な影響と、声楽作曲家そして鍵盤楽器の即興演奏者の経験から蓄積した確固たる背景を得て、スウェーリンクは新しい形の器楽ポリフォニーを創り出した。それは一つの鍵盤上で両手を駆使する技術的要求に申し分なく応えていながら、各声部の厳密な作曲を妨げないものであった。しかし彼は16世紀の記譜法(すなわち声楽ポリフォニーを鍵盤楽曲に置き換えたもの)をはっきりと拒否している。ファンタジアに限った一つのジャンルだけでなく世俗のヴァリエーションやトッカータを含むすべてのジャンルにおいて、ポリフォニーを用いた鍵盤楽曲が作られた。音型の繰り返し(repetitio variata)構造が多用されていることも全く新しい。スウェーリンクの技法はこのような特色を有し、一つ一つの様式が厳密に区別できない。例を挙げれば典型的なトッカータの特徴が歌のヴァリエーションやファンタジアに見られ、ファンタジアのテーマがヴァリエーションに取り入れられて発展している。

 スウェーリンクの鍵盤楽曲には大きな特徴が二つある。声楽曲にも認められるが、あらゆるポリフォニー(2声部から多声部対位法まで)を駆使していること、そして様々な宗派によるテクスチュアと旋律を好んで用いていることである。鍵盤楽曲の中でスウェーリンクは頻繁に2声部から4声部に移るが、4声部の方が多いことは稀である。二つの手という限定条件の中でポリフォニーや音型を作る際に、彼は各声部毎の最適な独立に成功している。スウェーリンクは出生による如何なる宗派にも、その独自の地位にも影響されることなく、すべての音楽を受け入れた。その結果彼はジュネーヴ詩篇歌集だけでなく、ラテン語の聖歌や(明らかにドイツ人の生徒達を通して知った)ルター派のコラールの旋律からヴァリエーションを作曲しており、更に当時流行した世俗歌曲やイギリス、フランス、ドイツおよびオランダ起源の舞曲を基にヴァリエーションを作っている。

作品を理解する上で重要なのは、彼が生涯最後の15年前後に鍵盤作品を書きとめたことである。40代に入ってから鍵盤作品を書き始めたことになるが、これは鍵盤音楽史上全く珍しいことである。鍵盤作品(現存するもの)が熟年に書かれたため、様式の統一も質の高さも素晴らしい。全作品のうち60曲以上が伝えられて残っており、このことからも彼が創意力に溢れ、同時代そして後の世代の人々にまでその名人芸による素晴らしい鍵盤楽曲を高く評価されていたことが覗える。注9)

 17世紀にスウェーリンクの鍵盤楽曲は、同業者や生徒たちだけでなくヨーロッパ中の鍵盤音楽収集家の間に広く行き渡り、北部および南部ドイツ、イギリス、ベルギー、イタリア、ハンガリーそしてロシアで写譜が確認されている。スウェーリンクの声楽作品についてはアムステルダム、ハーレム、ライデン、アントワープで1594年から1621年にかけて7つの版が印刷され、遥かに広範囲に普及していた。スウェーリンクは生存中に声楽作曲家としての名声を確立していたが、鍵盤作曲家としては通人やアマチュア音楽愛好家にとりわけ評価された。

 今日その評価が逆になっている。スウェーリンクの鍵盤作品は鍵盤音楽の恒常的レパートリーに含まれるが、声楽作品はめったに演奏されない。鍵盤作曲家としてのスウェーリンクが特にこの40年間注目を浴びてきたのは、適切な歴史的楽器や近年の楽器で彼の作品を演奏する機会が増えてきたことによる。オリジナルまたはコピーのルッカース楽器やアルクマール、ライデン、オーストハウゼンとウットゥムにある歴史的オルガン、または世界中の新しいまたは修復されたオルガン(ストックホルムのドイツ教会を含む)などが、オーセンティックな演奏を可能にする要件を満たしている。こうしてスウェーリンクの鍵盤音楽はオリジナルの特質を備えた演奏を再び聴くことができるようになり、録音の普及も含め音楽文化の中で重要な要素を占めるにいたったのである。

資料の評価および記譜
 スウェーリンクの鍵盤楽曲は一見きちんと伝達されなかった印象を受ける。手稿譜が残されているが自筆譜面は一つもない。本版のために研究を進めているうちに次のことが判明した。最も重要なスウェーリンクの資料Lynar A 1(Ly A1)は主に、彼の生徒アンドレアス・デューベンがアムステルダムで書いたらしい。デューベンはライプツィヒ聖トーマス教会オルガニストの息子であり、後にストックホルムの音楽界で著名になる。生徒の中でデューベンは最も長くアムステルダムに滞在し(1614−1620年)、スウェーリンクの晩年に助手を務めたと思われる。この事実により、1620年代における最も重要な鍵盤音楽の手稿譜とスウェーリンクとの関係をめぐる謎が解き明かされた。またスウェーリンクは広範囲にわたって教育活動を行い鍵盤音楽作曲家として名声を得ていたので、死後も真正な写譜が流通して多くの傑作が確実に残った。これはかなりの量の限定された作品群が、様式面でも質の点でも殆ど同一に伝達されてきたことによるものであり、問題になるケースが質、量ともに驚くほど軽微な所以である。注10)

 資料においてスウェーリンクの鍵盤作品の記譜は二つの様式に分けられる。すなわちスタッフ・ノーテーション(staff notation)とレター・タブラチュア(letter tablature)である。
 スウェーリンクはイギリスとオランダの作曲家達が常用したスタッフ・ノーテーション(6線を有する二段譜表、*フレスコバルディもこの書法を用いている)を大半の鍵盤作品に用いた。スタッフ・ノーテーションはベルリンのLyA1手稿譜に色濃く反映されているが、自筆譜に忠実に倣った様式で書かれている。LyA1手稿譜が今のところ最も重要な資料であり、伝えてきた作品の数という点でも重要である。スウェーリンクの作品は資料フィッツウィリアム・ヴァージナル・ブック(FM Fitzwilliam Virginal Book)においても同様に記譜されている。この二つの手稿譜がスウェーリンクの鍵盤作品を最も多く伝承している。従来のすべての版と異なり、本版はこの記譜法独特の特徴を尊重することにした。
 スタッフ・ノーテーションの他の重要な資料には以下のものがある。Liber Fratrum Cruciferorum Leodinensium(LFCL LyA1やFM と同様にスウェーリンクの時代に書かれた)、ベルギーで写譜された可能性が高いBB1手稿譜(クラコウに現存)、そして忘れてならないのがウィーンのフランシスコ修道会(WM Vienna Minoritenkonvent)が保存する膨大な古写本であり、これは1620年代から1630年代の日付を有している。  レター・タブラチュア(一連の文字が譜表のように配置される文字楽譜)はドイツのオルガニスト達が好んだ記譜法である。その広い普及からスウェーリンクの音楽が大変な人気を博していたことが分かる。記譜が多様であり、スウェーリンクがもとの手稿譜を書いた時期よりずっと後に写譜されたことが多いという事実にもかかわらず、この伝達の流れは非常に信頼度が高い。真偽や内容が疑われるのは1660年代から70年代の日付になる晩年のタブラチュアのみで、ブダペスト(BP)やベルリンの Amalienbibliothek(AmB)がこれに当たる。更に1650年以前の日付のタブラチュアはスウェーリンクの鍵盤音楽に関する充実した概要を、質、量とも豊富に伝えている。特にLubbenau “B” tabulatures(LyB)、ベルリンのGraues Kloster手稿譜(GK), 南部ドイツで派生したトリノ・タブラチュアTurin tabulature(Tor)などは注目に値する。Torは17世紀の鍵盤音楽を最も数多く伝えている。
 現代の記譜法に照らして見た場合、スタッフ・ノーテーションとレター・タブラチュアとの相違点は小節線の違いを比較すると分かりやすい。レター・タブラチュアには小節線がなく、全音符の後にくる文字の間にスペースが取られている。スタッフ・ノーテーションには現代の記譜法と同じように小節線がある。スウェーリンクの記譜法では、LyA1を見れば分かるように、垂直な小節線が二全音符の間隔で引かれている。本版ではスタッフ・ノーテーションで伝承された作品には通常の小節線(主として二全音符の小節に分割)を使用し、レター・タブラチュアで伝えられてきたレパートリーには全音符の間隔で5線の間に線を引いた。こうして近代のコピーから資料の記譜が推測される。  ここに至りスウェーリンクの時代に常用され、いくつかの資料に見られる第三の記譜法に注意する必要がある。これはスタッフ・ノーテーションの様式をとり、二本の5線譜が間隔狭く書かれている。いくつかの資料では5線譜の間隔があまりに近くて、10線譜で書かれているのではないかと思われるほどである。一例としてウィーン・フランシスコ修道会WMの膨大な手稿譜がある。この記譜法は作曲記譜(tabula compositoria)としても使用された。注11)
 資料に関する記載(特にトッカータ)の中で、スウェーリンクの記譜の様々な様式について更に検討を重ねた。ヨーロッパ中に分散した資料と、その伝達の関連を新たに考察した結果可能になったものである。私達の研究の成果で最も重要なのは、LyA1手稿譜の真正が高く認められたことである。この手稿譜はスウェーリンク自筆作品の様式とほぼ同一に書かれた完璧な写譜であると同時に、世界で入手可能なスウェーリンク鍵盤作品の大半を(同類のLyA2手稿譜とともに)占めている。レター・タブラチュアGKについてもその信頼度の高さが論じられているが、写譜したのは間違いなくドイツ人の生徒であり、手本にスウェーリンクの手稿譜(スタッフ・ノーテーション)を使用したと思われる。将来研究者の注意を引くに値する今ひとつの事項はスウェーリンクとクリスチャン・エルバッハ(Christian Erbach 1570-1635頃)の関係であり、これについては今後十分な調査を要する。スウェーリンクがアムステルダムで行ったのと同じような方法でエルバッハはアウグスブルクに実入りのよい教育システムを立ち上げた。スウェーリンクとエルバッハが大変重要な資料を共同筆写した作業や、両者の間で交された文書から二人の接触が実証されることになろう。トリノ・タブラチュアがアウグスブルクから発した可能性はこの視点から調査されるべきである。最後に、スウェーリンクがピーター・フィリップスやジョン・ブル(John Bull)と個人的な交友関係があったことは、カトリック優位の南部ネーデルランドとイギリスのオルガンの世界でスウェーリンクが交換活動を奨励した証拠である。

刊行の歴史
 ヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンクの鍵盤作品が初めて発行されたのは1871年であるが注12)、完全なものとされる初版はマックス・ザイフェルト(Max Seiffert)が1894年に刊行した注13)。ザイフェルトがその数年前にスウェーリンクとそのドイツ人の生徒達について述べた論文の内容を基にしており注14)、職業音楽家達は彼の論文によってスウェーリンクに対して多大な興味を抱くようになった。しかしながら彼の版は、1840年頃にベルリンの南に位置するリュベナウで再発見された主要な資料LyA1がもはや見つからないという事実により痛手をこうむった。幸いこの資料は一部コピーされていた。LyA1の僅かなコピーの他にザイフェルトは、ベルリンの手稿譜GKとフィッツウィリアム・ヴァージナル・ブック、そして彼がオランダとイギリスでの研究旅行で調査した他のいくつかの資料を主な拠り所にした。研究旅行はVereniging voor Noord-Nederlandsche Muziek-geschiedenisが資金提供し、当時まだ若かったこの音楽学者に対するヨーロッパ規模の研究プロジェクトにおける初期の例である。

リュベナウのリナール伯爵家の城内でLyA1手稿譜が再出してその吟味が可能になり、ザイフェルトの1943年の改訂版は資料が大きくふえた。注15)彼が他に研究したのは20世紀前半に発見されたウィーン・フランシスコ修道会の鍵盤用WM手稿譜と、北部ハンガリーのバルトゥファBartfa(旧名Bartfeld)が出所のBPタブラチュアである。しかしザイフェルトが伝達経路不明とした多くの作品は誤りであることが判明した。スウェーリンクの研究に大きな活力を与えたのは、ヴェルナー・ブライク(Werner Breig)の評論(1960)、リディア・シェルニング(Lydia Schierning)の資料研究(1961年)、アラン・カーティス(Alan Curtis)のスウェーリンク鍵盤音楽研究(1963年)そしてブライクによるリュベナウのLyA1手稿譜とLyA2手稿譜の詳細な調査(1968年)である。注16)結果は、伝達が統一性を持たなかったため資料の状態は悲観的との見方であった。 このような状況下においてグスタフ・レオンハルト(Gustav Leonhardt)が、1968年に発行したスウェーリンク全集の第1巻で編集上の作業を個々の資料に集中し、資料編集の原則を守った内容を提示したのは驚くべきことである。彼はまた、スウェーリンク鍵盤作品が急速に人々の関心を引き始める基盤となり出発点となる興味深い文を書いた。しかし、ドイツのレター・タブラチュアの記譜慣習に従って資料を現代の記譜法に写しかえるというザイフェルトの考えを変えるにはいたらなかった。この慣習とは以下の要素で構成される:
−(スウェーリンクのオリジナル記譜に書かれた不規則な符尾記譜に反し)タブラチュアに見られる、リズムを刻む規則的なまとめ方で16部音符を4音単位の符尾にすること 

 −(オランダおよびイギリスのスタッフ・ノーテーションに見られる左右手の配置、すなわち実際の演奏法を記したものと異なり)二段の譜表に声部を構造的、論理的に配置すること

 −すべての小節を全音符の長さに統一すること、そして
 −拍子記号を統一すること(2分の2拍子ではなくC)。

 ザイフェルトがこの方法を採用しようと1891年に決心したのは、明らかである。この時期に彼はまだスタッフ・ノーテーションによる最重要の資料LyA1の原典を入手していなかった。LyA1の記譜とスウェーリンク書法の類似も、20世紀には適切に認められていなかった。より最近の研究を経てピーター・ディルクセン(Pieter Dirksen)が1996年に論文を完成し、2002年「スウェーリンク研究」(Sweelinck Studies)を刊行するに至っている(注2参照)。  本版の内容は種々の手稿譜の照合を基にしたのではなく、個々の作品につき一つの資料(主要な資料)を基にしている。副次的な資料を使って多少補足することにより評論を短くした。このため1968年に発行されたスウェーリンク全集3巻でグスタフ・レオンハルト、アルフォンス・アネガルン(Alfons Annegarn)およびフリッツ・ノスケ(Frits Noske)が記した評論(Critical Notes)は、多岐にわたる参考文献のリストを含めて論文の効力を保持している。注17)

本版に関する注記
 本版は、十分な検討を経てスウェーリンク作品目録(SwWV)注18)に掲載された作品一覧および声楽の資料と関わっていない作品(基本的にトッカータとファンタジア)についてはピーター・ディルクセンの調性による分類表(C1,g2など)注19)を基にしている。
 作品の題名そしてスウェーリンクの作であると見なすかは、主要な資料のつづりに対応している。題名に加えられた表記やオリジナルの(と思われる)オランダ語の題はカッコ内に記した。更に上記の分類も付した。この方法による例を示すと、第1巻の2番目の作品はToccata 2di Toni(g2)と記載される。各曲の最初にオリジナルの記譜について必要な情報がすべて含まれている。すなわち音部記号や記号、そして音楽内容の基になっている資料をその上に示した。音楽内容は殆ど加筆されていない。各巻最後に掲げたCritical Notesは主要な資料に関わる修正と補足にとどめた。 各巻の二つのセクションには確認できる真正な作品を提示し、解説した二つの記譜法の違いを考察している。両方の記譜法で伝達されている場合(例としてトッカータ5−8番)はスタッフ・ノーテーションを主要な資料とし、レター・タブラチュアを副次的な資料にした。スタッフ・ノーテーションで伝わっている作品をすべて第1部に、レター・タブラチュアのみ伝わっている作品を第2部に載せた。第3部にはスウェーリンクの名前または作者不詳で伝わっている真偽の定かでない作品を含むが、記譜法による編集をしていない。
 スウェーリンクの自筆譜とは異なった資料に含まれる作品で、誤りのあるものや不完全なものは掲載していない。
 本版の記載にスタッフ・ノーテーションの特色を一つ使用した。二全音符記譜(全音符の「2倍の」長さの小節)で書かれた作品では小節の真ん中は僅かに空いており、実際的な読譜の手助けになっている。タブラチュアの記譜法は小節線の代わりに全音符ごとに間隔をあけるが、ここでは譜表の間に線を引いた。小節に番号をふるのは現代の慣習であるものの不可欠な要素であり、全音符ごとに数えている。すなわちスタッフ・ノーテーションにより伝達された作品の全音符小節は、常に二つ分の長さである。(The Keyboard Music of Sweelinck {注2参照}に見られる完全な分析は問題なく継続使用してよい。)

 装飾と符尾記譜は資料に忠実に行った。一小節内で同音価の二音に使われる符尾も同様に資料に忠実である。小節線を越えた付点音符はタイで結んで書き換えた。しかしながら、資料では概して一つの音符のみに有効な臨時記号については、近年の慣習と同じくした(といっても一貫性からは程遠いが)。すなわち、臨時記号は全音符小節内に必要な箇所に使用される。
 休符は特別な表示なく何箇所かで加えたが、Critical Notesにすべて記載している。スタッフ・ノーテーションで書かれた作品では、譜表内の音符の配分という重要な点については資料そのままに記載している。LyA1の各声部を明確にするため頻繁に(規則的でなく) 使われたcustodsは、ここでは細い線でつないで代用し、追加箇所は破線で示した。
 音楽内容を現代の記譜に書き換えるにあたり、著者達がオリジナルの記譜内容と作曲家の意図を可能な限り保ったことを強調したい。その点で本版は「プラクティカル(実際的に有用)な」資料版と言えよう。
2004年春    
ピーター・ディルクセン、ハラルド・フォーゲル