F.クープランと劇場芸術




ワトー、F.クープランと劇場芸術

  F.クープランとラ・フォンテーヌ



  Wilfrid・メラー
 「F.Couperin and the French Classical Tradition フランソワ・クープランとフランス古典伝統 1987年新版」

☀ I. ワトー、F.クープランと劇場芸術P.449
旧版から40年経つ今でも、ワトーとF.クープランの相関関係はより詳細に研究される価値がある。ドビッシーはEtudesをF.クープランに献呈し、献辞として「F.クープランはわが国クラヴシニストの中で、神秘的風景描写、ワトーの悲しむ人々の心象風景等が表現され、優しいメランコリーの最も詩的な作曲家である。」しかし作曲家と画家を比較するのにはジャンルの限界があり、同時代性に由来する他芸術家の痕跡を探らなくてはならない。
ワトーが生まれた時代は、フランスに天啓が降ったように偉大な芸術家がひしめいた時代だった。魅力的な画家Jean Siméon Chardin(1699‐1779)は普通の人々、日常の出来事を昇華させる天才であり、(*「行商の女」ルーブル美術館蔵http://bsearch.goo.ne.jp/image.jsp?CAT=image&MT=Chardin
で作品映像が見られる)、英雄の叫びを描いたラシーヌは1699年没し、1684年ワトーが生まれた同年、偉大な世紀を書いたコルネイユが没し、同年ルイ・14世は人生最後にマントゥノン婦人と再婚している。
ワトーはルイ・14世崩御6年後に没し、殆ど絶対王政の時代に生きながら終に宮廷画家とはならず、むしろ偉大な世紀に抗議する先見性を持った画家だった。フレミッシュの家系で、1702年18歳でヴァレンシアンヌからパリへ移った。画家活動の初期、従属的な労働の割に「信仰生活」を現す安直な宗教画等の製作を強いられ、現在カテドラルを訪れる旅行者用に描かれる作品以上の価値を求められなかった。初期画風はパリジャンの影響が見られる。フレミッシュの家系から受けついだ天性=田園風景の描写に秀でたワトーは、北方レアリズム、農民等幼年時代を過ごしたフレミッシュ地方の追憶を描いた。
「老いたサヴォワ人」の深い思いを表した眼差しは、後期に描かれる伝説的な風景画の登場人物達を想起させる。殆どがヴァレンシアンヌで描かれた軍人シーンは、栄光を全く表出していない事も特徴的である。ルイ14世治世下、勝ち誇るフランスの気風は、ワトーに何ら影響を与える事は無かった。ワトーにとり戦争とは決して英雄的でなく、血まみれのいまわしい苛酷な任務、退屈な日々、緋色の軍隊服が誇示するように哀れな豪奢をまとったものでしかなかった。非人間的な兵隊達の労働は、彼等の肥沃な人生を打ち砕いた。微光は地面や海を照らす事無く背景にちろちろ見えているが、照射する事はできないほど微かな明かりで、幾何学的にたいまつと歩兵行進が描かれている。
ワトーが住んでいたのは上流階級で、彼等の享楽を輝かしく描写した作品が最も有名になったにも拘わらず、彼自身はバラ色のベッドに安らかな眠りを見出す事は無かった。1718‐20年ワトーは最高傑作を製作したが、フランスは疫病の大流行、すさんだ人々の貪欲と愚行がSouth Sea Bubbles(*17世紀西欧植民地に人々が競って先行投資した結果、はじけたバブル経済)に縮図として表現された。
もし北方レアリズムがワトー絵画の夢の世界=ルブランの荘厳な庭園設計を和らいだものしている=にハーモニーを寄与しているとしたら、若いワトーが初めて師とした、ノートルダム教会界隈にたむろしていた香具師、いんちき療法師、手品師、アクロバット選手、道化芝居等劇場を髣髴とさせる登場人物たちが主旋律と言えるのではないだろうか。

Claude Gillotは1673年Langresに生まれ、劇作家、詩人、美術家を含む宮廷メンバーだったコルネイユの弟子として、Old World(*ヨーロッパ、New World はアメリカ)で活躍した。多角的な性格の持ち主で多岐に渡るフランス同時代芸術に呼応し、ワトーは彼から多くを学んだ。Claude Gillotの霊感はほとんど劇場から得られ、洒落たブースに座る貴族達を彼自身のコメディーにえがき、パントマイム、オペラ、人形劇等を美的審美眼から表出した。

Commedia dell‘alteの神話キャラクターを、彼自身も含めて友人の俳優達と共に書いた。Commedia の歴史はルネサンス期中世吟遊詩人に遡り、古代儀式に由来するが、シェイクスピア時代の性格を受け継ぎながら世紀を越えて伝承した。当時の庶民にはハムレットだけが知られ、アルルカン・Columbine(喜劇やパントマイムでアルルカンの恋人役)、ピエロ・スカラムーシュ等知る由も無かった。Commediaは仮面劇の中で、ギリシャ劇のように超越的創造物の人間又は神話的英雄の役を担っていた。Commediaは神話と現世をとりもつ意味において優れていた。人生のテクスチュアから即興的に生み出されるナチュラリズムの点と、仮面のように非現実的表現を担う修辞学的弁論法にもとづく点とを兼ね備えていた。日本の歌舞伎役者のように、多数の偉大なCommedia俳優は独自のキャラクターを各役柄に持っていた。Commediaが世紀を経て敏感に時代を反映したのは、融通の利くギリシャ神話を題材としていたからである。世の趨勢により光と影の役割は入れ替わり、慣習を作り変える風俗喜劇にまで高められた。ワトーとF.クープランのロマンティシズムは、semi-divine Fool(神と人が半々の愚か者)のピエロの表象に現れ、モーツアルトの悲喜劇にまで引き継がれる。完成したピエロのロマンティシズムは、ショパン、シューマン、更にドガ、セザンヌ、ピカソ、ドビッシ-、サティ、ラヴェル、ブゾーニ、ストラヴィンスキー、人の原罪の生贄となったピエロのイメージを表したシェーンベルク「月光のピエロ」に及ぶ。ワトーとF.クープランはCommediaから何を得たのか???

ワトーはパリ在住初期18世紀画家の因習にならい、Claude Gillotの模倣を忠誠の明かしとして製作している。ワトーはClaude Gillotにより、現実と理想の触媒として劇場芸術がある事を学んだ。タピストリで成功したジョン・ゴブランのもとを訪れ、社会的変動の結果、英雄が慈愛深い女性に導かれるシーンを織り込んだ装飾デザイン法を知る。又平面的アラベスク装飾家クロード・オードランからも、リアリズム装飾法を会得した。クロード・オードランはルクセンブルグ城館長であり、城主マリー・デ・メディチからルーベンス絵画25点の特殊権限を与えられていた。ルーベンスの精力的な躍動的線描法は若いワトーに決定的影響を与え、厳格な幾何学模様に制されたヴェルサイユ宮殿庭園とコントラストを為す寛いだルクセンブルグ公園に、自由なイメージを飛翔させた。それは絶対王政確立前の17世紀から見れば、活気のある爆発寸前のヒューマニズムとの葛藤であり、時代の趨勢でもあった。ワトーは彼等から神話的表現を学び、富豪のパトロンPierre Crozatにより本来的価値を見出された。パトロンPierre Crozatは、ワトーがルネサンス・コレクション絵画・版画を学ぶ事を推奨した。その後ワトーは、ラファエル、Veronese、Giorgione、とりわけ全世界の慈悲をハーモニーとした若々しい点景人物を配した、ルーベンスの豊穣な風景画の範疇に目覚めて行った。Comte de Caylus(1673-1729、ルイ14世宮廷記録学者で、マントゥノン婦人の姪、)は、「彼は住み着いている人々をスケッチして、伝説的な風景画に昇華した」とワトーの死後記述している。

ワトーはルイ13世治世下既に忘れ去られた、田園風景に同化する貴族生活をパラドックスとして取り込んだ。「L’Accordee du Village」の登場人物たちはごく普通の農民が凝った衣装を着て、この絵と共に「シテ島への船出」の天国描写が、F.クープランの演奏やFlorent Dancourtから発想を得ている。ワトーの「ピエロGilles」は、大道芸人のポーズから多くの示唆を受けている。ピエロGillesはワトーの友人又は医者の息子の肖像と思われ、ルイ14世治下宮廷ピエロをしていた人物で、1720年ワトーがロンドンからパリへ帰り製作された。両手をきちんと体の脇に垂らし、うすのろ又は巨人、倒錯者の風体を呈している。Gillesはジプシー小屋の天幕に張られたうすのろ巨人の風刺画であり、ワトーの心象風景の一つであり、自らの無能力さを誇示する描出でもあった。Gillesは繊細な詩情を漂わせ、200年経った今でも決して年を取らない万年青年として描かれている。昼間の輝かしさは失せ、夜の劇場を想起させる。ワトーの採光は、昼の光と同等に月明かりを対置している。

ワトーは富豪でも乞食でもなく、かつ定職を持たなかった。彼の父親は医者だったが、推奨に値する人生を送った訳では無かった。ワトーの人生に値する職業は何一つ無く、詩情を湛えて存在する無能な彼が終始そこに居た。しかしワトーの作品はあらゆる難解な問題を越えて、月光が雲間から差し込むように希望の明かりを我々には見せる。

ワトーの作品では、イタリア劇場芸術が愛したロマン初期アルルカンとピエロが、苛酷で残忍な宿命を担っている。ワトーは夢想より現実を好み、ルーベンスの官能美、高弟ヴァン・ダイクの貴族的肖像法との関連性が見出される。ワトーに見られるぼかし、にじみが、最も真摯に人生と対話する彼自身の姿だった。彼の絵には、上品なリュート、マンドリン、ギター、手回し風琴、ハーディガーディ、奏者等が、魂を眼や口で体現する愛の論者として散見する。

ワトーにとり音楽やダンスは音楽家と画家の心象表現という点で共通し、F.クープランがワトーの死後も繊細な作品を多く残し、見せかけの仰々しい英雄伝説に嫌悪を抱きながら、宮廷音楽家の地位を存続したのと同様の環境に合った。両芸術家は共に現実主義者の目で、羊飼いやその妻、funs(*ファウヌス:ヤギの耳・角・後脚をもった林野・牧畜の神;ギリシャ神話のsatyr)に変容して描写された、兵士、乞食、バグパイプ大道芸人、道化芝居等いわゆる河原乞食を愛した。両者とも劇場芸術にとりつかれたように、架空世界に遍在するアイデンティティを探求した。劇場の仮面と現実に社会生活をおくる人々のおもての狭間には、古典的バロック様式では表現し得ない心の葛藤が在った。F.クープランやワトーの表現には立ち消える線や響きが往々にして出てくるが、人間存在の根源的解決が無いまま存在せざる負えない宿命を表している。ワトーの感性には背景としてF.クープラン2声作品が響いており、彼等以降の芸術家より表現は切実である。ワトーが音楽家を描く時、典型的にこの特徴が見られる。F.クープラン第4巻クラヴサン曲集のように、ワトー以降の画家達は彼の伸びやかさとは対照的に緊張力の強い画風となって行く。F.クープランとワトーは、イロニー(=他に選択は無いものか・・・)に資質を発揮した。F.クープランの「修道女モニク、La fine Madelon、優しいジャネトン、Les Vestales」等は、メランコリーとユーモア、パトスとウィット、悲劇と茶番が平和共存する二面性を発揮している。しかし優美さに欺かれる思想的イロニーは、絶対王政・ルイ14世治下権力思想と拮抗する。F.クープラン・ワトーは、先見性よりむしろ回顧性に、斬新な表現を展開したとも言えるだろう。

既に17世紀後半、回顧性はドグマに強固なものとなる。アカデミー文化、ルイ・クープラン、Le Brun等は、激情的回顧性をテクニックとして表現する事に成功していた。絵画は人体図を描くように付随パッションを組織的に表現する事を、旋法、リズム、和声が統合される音楽と対応して考える土壌が出来上がっていた。特に声楽は劇場芸術と直結し、音の意味を成文化出来る唯一の手段だった。

リリック・オペラ(リュリは、自分の作品をトラジェディ・リリック「音楽悲劇」もしくは「叙情的悲劇」と呼び、同時作家の悲劇に匹敵する分野であることを強調した。「悲劇」の名にふさわしいフランス古典悲劇の舞台で用いられる朗唱法を学び、フランス語の自然な抑揚を生かすために、言葉のアクセントの位置に合わせて拍子記号を頻繁に変更するなど、フランス語の特徴にかなった、独自のフランス風・レシタティフ(レチタティーヴォ)を生み出した。)を開発したリュリは、歌詞を音楽から人間の具体的行為に働きかけるただ一つの手段、音楽やダンスは歌詞があり初めて行動を規定するものだとみなした。彼は紀元前3世紀ギリシャ・アレクサンドリア派に直結する、古代遺産を再発見するフランス17世紀音楽を創り出し、暗黒の中世を飛び越えた。アポロンの神を気取った太陽王(ルイ14世)は、アレクサンドリア風マントを愛用していた。ラモーは絶対王政の体現として、純粋器楽音楽の音程、和声コードに、人間的想念、行動や感覚を凝縮させる事に専心した。ワトー・F.クープランは流暢なウィット表現にかなり成功し、多義語から生ずる言語上の虚偽、あいまいな描写は、1708年Roger de Pilesにより「輪郭を犠牲にするぼかしのテクニックは、感動的な眼差しの一つである」と支持された。Charles Perraultの音楽理論では、デカルト・メルセンヌからの影響を指摘された。「感動に値する喜びは、全てを認める。」両者についてRoger de Pilesは又、目を欺く絵画、目で聴く音楽とも表現した。

ワトーとF.クープランは、光によりこの世を変容させた。ワトーの天才的色彩感はF.クープランの感覚に訴える洗練された音色と呼応し、余剰を廃した明快な表現力が、絶対王政の誇大英雄主義をのろう点で共通する。ロマン主義とモダニズムの予兆は両者特有のもので、F.クープラン第4巻クラヴサン曲集には散文的抑揚が現れる。両者は絶対王政の崩壊直前、権力のはかなさ、栄光の衰退を、逆説的に極めた表現とも言える。ワトーは上流社会に気詰まりな思いをしながら、パトロンのPierre CrozatにはF.クープラン・同時代演奏家を多数紹介している。両者が邂逅したという文献は無いが、Pierre Crozat邸で出会った可能性は殆ど確信に近い。

☀ II. F.クープラン、ラ・フォンテーヌ、そして「キャラクター」P.463

我々はワトーとF.クープランが、ルイ13世統治下の夢見るように美しい理想世界を描く事に、懐古趣味では無く世界の再編を試作した事を示唆した。ルイ14世治下、ル・ノートル(庭園設計家、ヴェルサイユ宮殿・庭園を設計)リュリ、F.マンサール(1598年生まれ、建築家)等は共に庶民階層の出で、彼等への呼応がF.クープランの音楽には随所に見られる。明るいヴェルサイユ宮殿の庭園は、噴水に映る太陽光線が人生のはかなさを結実し、F.クープランの音楽も同一線状にあった。もしル・ノートルやF.マンサール等が視覚的にF.クープランの音楽に最も近いとすれば、我々のF.クープラン理解に大きな助けとなるだろう。

ラ・フォンテーヌは1621年生まれ、F.クープランより前の世代に属する。彼はF.クープランが生まれた1668年、「Fable(寓話)」に殆どの作品を出版した。ラ・フォンテーヌとF.クープランは、パリからさほど遠くない農耕地帯Brie近くの同郷生まれ。ラ・フォンテーヌの初版は40歳、詩人として遅い出発だった。彼のエトスとオーラは、50-60年後F.クープランがオルドル(ごった煮を編成したもの)に表出した、上流・下層階級の音楽的様相に再見される。表現技術の点、特にウィットとペーソス、悲劇と茶番、斬新と回顧的哀調等、矛盾する両面性を追求するトーンも酷似している。しかしF.クープラン後期のクラヴサン・オルドルとラ・フォンテーヌの傑作を比べると、人間・動物・鳥あらゆる生物への共感能力により永続的な希望の光を見出そうとした芸術家が、最終的に悲劇へとたどり着く過程が明瞭に現れる。愚かさや欠点への恥じらいや慎みは痛烈な皮肉に包まれ、哀れみの情は暖かな反語表現を用いる事も共通している。彼らは上流階級に属していたにも拘わらず、社会の階級差を時間・空間を越えて見据えていた。

ラ・フォンテーヌの「モラル観念」はF.クープランの「客観性」と補完関係にあり、修辞学的表現とリズムを持つ詩人と、リズム、和声、テクスチュアを持つ作曲家は、瑣末な日常に煩わされない理想世界を創出する事に同時代性を見出した。真の民主主義は永久に達成される事が無いだろうが、20世紀民主主義とは異なる自由思想が、独裁主義に取って変わられようとしていた。ここにも理想と現実の葛藤が、ワトー・F.クープランの相関関係として別の観点から捉えられる。

後年ラ・フォンテーヌは青春期を改悛する謹厳な教会信徒となり、彼のセンスが雀躍としていた「コント」、エスプリの遊ぶ「Fables」等を忌避してしまった。しかしF.クープランは音楽家として、ラ・フォンテーヌの青春期から影響を受け、宗教・哲学に奉ずる音楽を書いた事は無かった。F.クープランは劇場芸術感化をコルネイユ、ラシーヌ、モリエール等から受け、古典的レパートリーに属すコメディ、風刺劇、叙情劇等を大量に収集した。F.クープランが物心ついた時既にラ・フォンテーヌは老いた謹厳信徒だったが、ラ・フォンテーヌ青年期の詩は、特別なエッセンスを音に書き換えられる音楽的要素から、F.クープランのお気に入りだった。

ラ・フォンテーヌ1711年出版「Epitaphe d’un Paresseux」の韻文詩は、心の経験を共通項とするF.クープラン音楽との近似点が顕著に見られる。気取らず「laissez-faire(放任主義)」の作風は肩をすくめる繊細なリズムに現出し、F.クープラン音楽の可鍛性、短調作品の表現力、3声男性パートの呼応、ダンスと言語表現との精妙なバランスに対応する。彼等は時代から完全に孤立して、永遠普遍な世界を構築した。ラ・フォンテーヌには、F.クープラン音楽を評したと見られる「la scene est l‘univers(*舞台は普遍の世界)、le sombre plaisir d’un coeur mélancholique (*楽しげに見えるが、心は憂鬱) 」の記述がある。F.クープラン直筆序文は、ラ・フォンテーヌ64歳の韻文詩にそのエコーが見られる。ラ・フォンテーヌはバルザックを引用して、「F.クープランの音楽は、特に完璧に装われたクラヴサン曲集等、多重世界表現の為理解する事が難しい。彼と同時代作曲家の誰とも異なる感動的創造性であり、彼の多重世界を分断する事は出来ない」と記した。

当時強迫観念のように人々が望んでいた「Caractéres(*気質)」を持つ事は、瑣末な日常から畏敬すべき創造世界が生まれる事でもあった。ヴェルサイユ宮殿には、F.クープラン4巻のクラヴサン曲集・銅板楽譜を想起させる繊細な装飾的小部屋が散在した・・・例えばポンパドール婦人の部屋、王の寝室等・・・。

だからといって、すぐにこれらの考察がF.クープラン音楽の秘密を解く鍵となる訳では無い。しかし宮殿内部の装飾とF.クープランの音楽的装飾音、音楽的様式と当時の衣装、イネガル奏法を含むリズムと宮廷女性達の立ち居振舞い、作品構造とヴェルサイユ宮殿・庭園設計等は、併行して考えられるべきである。このような類縁性が文化史を通して常に見られるとしても、F.クープランの芸術に寄与した風変わりで堅牢な影響力は見逃すわけには行かない。それは歴史からの発見であり、私に今それが探求出来るかどうか・・・恐らく疑問を投げかけたに過ぎないだろう。