|
綿谷優子のCD
綿谷優子のCDに載っている原稿:美の発見の旅 曲目解説文 『ロココ音楽・作曲者からのメッセージ』綿谷優子 仏語訳あり
1. ジャン・エンリ・ダングルベール
パッサカイユ
36歳頃、ルイ14世下宮廷チェンバリストとなる。ロココ期典型的な渦巻き装飾が、蔓のようにメロデイーにからみつく。精巧なロココ調家具が光彩を放っている様である.
2・ジャン・フィリップ・ラモー
皇太子妃
長太鼓
一つ目巨人
アルマンド
意気揚揚
ルイ15世下宮廷付音楽家。39歳で理論書として不朽の名著「和声論」を出版、「和声が旋律を支配する」との音楽観をしめす。跳躍音程がすきで、滑らかさよりはうねりを、沈潜よりは飛翔を選んでおり、同時代のフランソワ・クープランと好対照である。
2. アルマン・ルイ・クープラン
悲嘆
フランソワ・クープランのいとこの子供。サン・ジェルヴエ教会他のオルガニストをつとめる。チェンバロの急速な斜陽と政変の只中に在って、諦念と内省的な憂いに満ちたこの作品を残した。何と言う方向性を見失った寂寥だろうか。情緒表現において、楽器の表現限界にまで、ロマン的なリリシズムを求めた異色の作品である。
フランソワ・クープラン
オルドル27
上品な女
けしの花
中国人
機知
ルイ15世下宮廷と、パリ、サン・ジェルヴエ教会のオルガニストとして働く.宮廷社会にのみ通用するマニアックなメッセージを多用している。この27オルドルは、チェンバロ・ソロの為に書かれた全240曲の内、最後の4曲である。2曲目の「けしの花」は、天国的なねむりと同時に、フランソワが老年期、中毒症状に浸って居た事を匂わしている、とする意見もある。「中国人」は、当世流行のシノワズリー。
5.ドメニコ・スカルラッテイ
ソナタ K.262 K.27 K.264
イタリアに生まれ、34歳からリスボンの王室礼拝堂、44歳でマドリッド宮廷につとめ、スペインでほとんどのチェンバロ・ソナタを作曲した。撥弦楽器のはじけ上げる音色
に、メロデイーよりは野生のリズム、取り澄ました典雅さよりは哄笑にも近い衝撃音を託し、装飾を多用せず、簡潔にして刺激の強いメッセージを残している.
6.アントニオ・ソレル
ファンダンゴ
カタロニア生まれ、24歳で修道士となり、D.スカルラッテイに師事している。マドリッド近くの王室修道院につとめた。ファンダンゴは、スペインの舞曲で、オステイナアート・バスの上に即興的な変奏が展開する.現在の所、(1994)自筆譜はない。弟子が師の即興演奏をスケッチしたとされている譜面には、かなりの省略された装飾音があったとおもわれる。ここでは補足、若干変更して演奏されている。
綿谷優子
1994 8.31 朝日新聞夕刊 <音・進行形>
1990年頃から、イタリアのローマン・カトリック教会にある12−3世紀のオルガンを訪ね回っています。後代に修復されて音が変わっていない、オリジナルなオルガンで、イタリアにはたくさん残っているのです。
クリスチャンでもない外国人の私がとびこんで来る訳ですから、教会では抵抗もあるでしょうが、でも自分達の文化を広げたいという気持ちもあって、演奏させてくれますし、CDに録音する計画も進んでいます。
これまでも、鍵盤楽器の音の美しさを、ジャンル、楽器にとらわれないで、幅広く発見していきたいと、いろいろな活動をしてきました。約80回のリサイタルでは,チェンバロが最盛期だった16−18世紀の西欧バロックから、現代のジャズ、環境音楽まで取り上げました。チック・コリアやブライアン・イーノの作品を演奏し、邦楽器とチェンバロによる新作も、9作品を発表しました。
毎回が発見です。そして、それを記録しておこうと、CDシリーズ「美の発見の旅」を始めました。
第1回はフランス、イタリア、スペインの、バロック・ロココ期の宮廷音楽を入れましたが、さて日本ではどこで録音するか、場所を探し回りました。チェンバロの美しい音を、スタジオで残響を加工するのでなく、自然な感じで音が響く空間を、教会、お寺と求め、ついに栃木県大谷の地下60メートルの採石場にたどり着きました。
4方を大谷石で囲まれた、約16メートルの天上がある洞窟で、湿気など楽器には過酷な環境です。トロッコで楽器、器材を搬入するのも大変でした。でも実際に演奏してみると、西欧の大聖堂の音響に似ていました。これもまた1、発見、新しい音との出会いでした。
わたや・ゆうこ
1986年からチェンバロ、オルガンのソロ演奏活動を続ける。93年、ベルギー・ブリュッセルで国際鍵盤楽器フェスティバルに出演、自作「神楽」をチェンバロで披露して好評を博した。
1994 8.31 読売新聞夕刊 <地下60メートルの洞窟で録音>
チェンバロの綿谷優子さん CD発売
ジャズを手掛けたり、邦楽器との共演を試みたり。枠にはまらない活動を続けているチェンバロの綿谷優子さんが、理想的な響きを求めて録音したCD「美の発見の旅」(デコ企画)を出した。
録音場所に選んだのは、宇都宮市大谷の採石場で貯蔵庫に使われている、地下60メートルにある大谷石で囲まれた洞窟。「自然の反響だけで録音しました。」と出来栄えに満足な様子だ。
収録曲は、ラモ-、F.クープラン、D.スカルラッティ、ソレルなどバロックやロココの音楽。
ベルギー・ブリュッセルの王立音楽院で学び、歴史的チェンバロとヨーロッパの由緒あるオルガンの演奏を主とする<正統派>としての顔をまず打ち出した。
だが<異端>としての展開も考慮中。「バロック時代は終わっても、チェンバロという楽器は終わっていません。250年前の楽器が現代にどう対抗できるか、この楽器を媒体にいろいろな<美>を追求していきたい」と実験精神旺盛なところを見せる。
チェンバロが盛んだった17世紀ごろのアラブの楽器や日本の琴、尺八は、チェンバロと音色や奏法が似た点もあるそうで、こうした同時代の、異文化の楽器の比較も含めると、様々な可能性を探る「発見の旅」には終わりがなさそうだ。
1999 春号 国際クラヴイコード学会 学会誌 Francis Knights 和訳 綿谷優子
タイトル:J.S.バッハとC.P.Eバッハ:クラヴイコードのための音楽
演奏者:綿谷優子
使用楽器:5オクターヴ 専有弦型クラヴイコード J.トゥルネイ作 1996
18世紀中頃のスタイル 北ドイツのモデル
製作:ルネ・ガイー社 CD87139 1998
録音:1997
時間:62分
日本人のクラヴイコルディスト 綿谷優子は、ブリュッセル王立音楽院を卒業し、現在東京でも教えている。
演奏曲目は、J.S.バッハ パルティータ第6番、C.P.E.バッハ ソナタH188 ロンドH276 ヴュルテンベルグ・ソナタ第1番。これらのどの曲も、今迄クラヴイコードでCD録音されたことはない。綿谷は北ドイツ・モデルの専有弦型クラヴイコード、J.トゥルネイ作の楽器を使っている。この楽器は充分に良く響くが、音の傾向として厳しい荒削りな音がしている。ヘッド・フォーンで聴くと鍵盤アクションの雑音が聴き取れるが、スピーカーを通せば聴こえない程度のものである。
彼女の演奏は巧妙で、良く流れ、歌う。このパルティータをクラヴイコードで録音するという冒険を果たした、最初の演奏家である。しかも偉大な第6番パルティータは、クラヴイコードにも推挙されている作品なのである。
彼女の演奏は、完璧に成功をおさめており、更にJ.S.バッハの特殊なバロック・リズムのジーグでは、バロック特有の付点リズムに関する膨大な議論の余地があり、このジーグとガヴォットがディスク録音の際常に、演奏解釈の大きな問題提起であったのだが、それら総てを考慮に入れても、優れた演奏事例である。バッハのパルティータは、従来クラヴイコードよりチェンバロに向いていると一般的には言われてきたが、綿谷は、これらの分野もクラヴイコードで弾くほうが、確実に音楽的には豊かであり得るということを立証した。聴いていて特にそう思えるのは、彼女が作り出す装飾音の、美というべき影が、クラヴイコードの自在なディナミークによって聴かれることである。
C.P.E.バッハの曲目選択は、周到に為されている。ヴュルテンブルグ・ソナタはグレン・グールドによって録音されている他には、ディスク上で見出す事の稀有な作品であるし、クラヴイコードでは勿論のこと初登場であるにもかかわらず、良くこの作品を採択したものだと思われる。綿谷の見解は、1987年 輝かしいチェンバロ版でこの曲を録音したアンドレア・シュタイャーによってさえも、置き換えられるものではない。
他の2曲は、構造的に対照的な曲で、ソナタは明確に二声部の作品、一方ロンドは声部処理の自由な、多声部を駆使した作品である。ロンドとヴュルテンベルグ・ソナタの第2楽章で、トゥルネイの作った鍵盤のシャープ・キーが、わずかながら演奏の妨げとなっているように聴こえるが、これは明白に楽器の問題である。
録音状態はすこぶる良好であるのだが、惜しむらくはマイクの位置が僅かに楽器に近すぎたので、クラヴイコードの危険調律音域である高音部の調音が、怪しいものに聴こえてしまう。
Wotquenneが書いている脚注「クラヴイコードはコンサート用の楽器ではない」の一節は、今や確実に時代遅れの発言と言えよう。しかしこのような指摘が信じられて来たからこそ、綿谷のリリースが強く推奨される契機となるだろう。綿谷の父バッハに対するフィーリングは、感動的である。広汎な理解力に基ずいた、バッハ鍵盤作品へのクラヴイコードによるアプローチ・・・・それはMiklos Spanyiの秀逸なCPEバッハシリーズに、匹敵するものである。
そして私は彼女の才能が、CD製作会社の注目を集める事となり、シリーズとして発売されていく事を願う者である。
綿谷優子、ハイドン全54曲CD録音実現に向けてスポンサーの方々へ
1999.4.12
スウェ-デン ゴーテベルグ大学 オルガン製作科客員教授
横田務念孝
綿谷優子、1998年発売 クラヴイコードCDを聴いて
綿谷優子のCDは、演奏における音楽の持ち味や楽器の特性が、相互に芸術的必然として融けあい、更にコントロールされた感情のもつ、燃える生命を感じさせる演奏だと思います。
スポンサーの方々へ
1.
ハイドンのピアノ・ソナタのレコーディングは、歴史的楽器で録音されるユニークさもさることながら、綿谷氏のもつ端正かつ生命力あふれる演奏スタイルは、ハイドンのもつ初期古典派の特性たる、均整のとれた美しさの中に深い情熱を秘めたスタイルには格好のものということができる。
日本人の感性は特にこのあたりの時代に秀でているということは、ピアニストでモーツァルト弾きとしての内田光子、バッハのカンタータの指揮で活躍中の鈴木雅明らが世界的に評価されていることでも、証明されるかもしれない。現在、日本の演奏家の質は、特にその技術の高さにおいて既に海外で認められているが、綿谷優子のような技術とともに表現力をもった日本人演奏家が、ハイドンの録音をベルギーのレーベルで出すという事は、日本の音楽界にとっても誇るべきものであり、彼女自身はもとより多くの日本人演奏家がその正当な評価を受け得る土台となるものであると、確信できる。また、それは多くの若い日本人演奏家の励みとなることも必至である。
2.
ベルギーのレーベルの録音であるが、演奏家が日本国籍をもつ日本人であるということは、とりもなおさず日本文化のレベルの高さ、そしてその特性が今や西欧文化の中でさえ応用され評価され得るということにつながり、ひいてはまた日本の工業製品その他のとっても、その技術的優秀性を更に超えた、人間性に訴えかける力においても優れた質の高さをもつものであることの、証明となり得よう。
彼女の録音のスポンサーを部分的にも日本側が受け持つ事は、日本側の文化面における強い関心と援助への姿勢を示すものであり、単なる営利事業で西欧の経済を圧迫する存在としかとらええられかねない日本の進出を、緩和するための呼び水になるに違いない。
実際面において、彼女のレコーディングはベルギーと日本の音楽事業(録音、コンサート・マネージメント、楽器製作等)の橋渡しと為り得べきもので、双方の文化的・経済的メリットとその利用法は、ここでのプロジェクトにかかわる総ての人それぞれの固有イマジネーションの限界に、尽きるといえよう。
3.
今日、ルネッサンス・バロック期の音楽演奏においては、その音楽が本来持っている言語を用いて表現することが、一般的前提となっている。そして、そのためのほとんど不可欠な手段としての同時代の楽器(あるいはそのスタイルで作られた新しい楽器)の使用もほぼ常套手段となっている。しかし、古典派音楽の演奏となると、いまだにこうした原典主義による、現代の我々にとってはむしろ新しいといえる美の発掘ということに対しての興味は遅れをとっている。
これら古楽器復興運動の今世紀における担い手であった、ベルギーが育んできた三種の古楽器が(チェンバロ、クラヴイコード、フォルテ・ピアノ)、それぞれの特性を熟知した演奏家によって、ハイドンの音楽表現が最大限に広げられるとき、聴衆はその、今まで知られていなかったユニークな力に、魅了されるに違いない。
///////////////////////////////////////////////////////////
エッセイ
綿谷優子が書き散らした執筆原稿
掲載誌
1991 9月号 古樂情報誌 アントレ 31号
アントワープ音楽祭
1.演奏会:
昼のランチ・コンサート、夕方のコンサート、夜のコンサートと3部構成で行われた.(3日間は22:45からのナイトコンサートもあり)
ランチコンサートは事前にテープ審査があり、それに受かった人が一人30分のプログラムで、1日5人ずつが出演した。
日本人ではこの夏からレオンハルトに師事している芝崎久美子、(Cm)ストラスブルクから(現在BXL在住)西 君子、(Cm)アムステルダムから(現在ベルリン在住)インマゼールに師事している荒木紅子、(FP)が出演した。演奏楽器は展示会の中から自由に選べ、練習もでき、メイン会場の教会には毎昼、熱心に聴衆が集まった。
夕方のコンサートは、1時間のプロで2ヶ所で行われ、それぞれの会場でフォルテピアノとチェンバロのリサイタルが行われた.
3日目の7.8には、日本から小島芳子がフォルテピアノのリサイタルを行った.私はこの時、R.コーネンのコンサートに行かねばならず、聴く事が出来ずとても残念だった。
7.7のリナールド・アレキサンドリーニのチェンバロ・リサイタルは、E.ジョビン製作のイタリアンを使用して、初期イタリア・バロックものばかりを集めたプロだった。ベルギー、イタリアでさえあまり聴かれることの少ない地味目のプロにもかかわらず、極上に美しく、ボーイソプラノのような歌を楽器に奏でさせていることに、感嘆した。
7.9のJ.ゾンライトナーのチェンバロ・リサイタルは、イタリアン2台、2段鍵盤2台を揃え、スイスのT.F.シュタイナー社製のイタリアンは、すべての黒鍵が異名同音用に2つに分かれており、演奏技術の煩雑な難解さもさることながら、目を見張る音色不気味なミーントーン調律が実現され、A.マヨーネ作曲の<半音階的トッカータ>1609、ナポリ を弾き、演奏家としての冒険精神には驚いた。2段鍵盤の1台には、移調用の道具が鍵盤の上に嵌め込まれていた。
総じて、夕方の時間帯は聴衆が少なく、その上貴重なコンサートが2つ同時に行われるというオルガナイズには、無理があったと思われる。
夜は、20:00から2時間のリサイタルの後、更に駆け足でルーベンスハウスに行くと、1時間の深夜コンサートが3晩行われた.
C.ティルニーがチェンバロとクラヴイコードで2晩、M.シュパーニがクラヴイコードで1晩。
ルーべンス父母子像の絵の前で弾かれたC.ティルニーのクラヴイコードは、前述のシュタイナー社製が使用された。豊かなニュアンスの音色で、ルーベンスの絵が背後にあったこともあり、新たな啓示を絵から受けているような錯覚に陥った。人息れと熱気で猛烈な熱さの中、黒の長袖タートルネックを着こんだティルニーが、ちっとも汗をかいていないのが不思議だった。
2.レクチャー マスタークラス
1回1時間で1日2回、10名の講師によって行われた。毎回共、3−4人の受講者で、1曲を部分的にしか弾かせられず、1人当たりのもち時間が少ないのが惜しまれた。受講者の個性や長所、欠点に対する講師陣の対応を明らかに知る事も、こうしたクラスの見所になるので、最低でも1人30分位弾く事が、聴き手には必要なのではないかと思われた。
6日のJ.v.イマゼールによるピアノフォルテ・クラスでは、細部より全体の音楽の名流れに重点を置き、それに基ずいたペダリング、フレーズィング等を指示していた。
C.ティルニ-によるチェンバロ・クラスでは、L.クープランの無拍のプレリュードを、聴講者に行き渡るように譜面を用意するという入念さで、アナリーゼを試みた。
「ただ、感情の赴くままに、速度を変えて弾くのではいけない。旋律線や和声構造を分析し、その具現化に努めなければならない。」と述べ、自身の演奏も披露した良いレクチャーとなった。
3.楽器展示
17名の製作家により、フォルテピアノとチェンバロが各20台ずつメイン開場に展示された。M.スコブロネック、J.トゥルネイ等ブリュージュ音楽祭の常連の他、オランダ、スイスからも若い制作家が参加していた。
チェンバロは全般に楽器のパワーが豊かになってきており、特にK.ヒルの楽器がよく鳴っていた。その他の中には、弦のテンションを強くして、弦をはじき上げる鍵盤のタッチがかなり重いものもあった。
西欧の石造建築の中で聴くと、実に豊饒な響きの渦に包み込まれることに、いつも驚くのだが、これは弾き手にも聴き手にも、幸福な時間を約束するものである。残響時間が長くて、アーティキュレーションをしないと音粒が混ぜんとしてしまうが、融和する空間として奏者と聴き手を一体化させることが出来る。従って演奏から、間近で筆致を見るだけでなく、立体的に遠近法の輪郭や色のぼかしを聴く事が可能である。このような体験がなかなか日本では難しい所に、古樂普及のネックがある。奏者が音の伸びを信頼し、聴き手に届くことを確認しながら演奏できれば、聴き手の反応、息使いを共有する事が出来る。
こうした環境の中で、若い世代の奏者や製作家が台頭し、聴衆のニーズとの折り合いの間で、様々な個性が披露されて行く。まだ、2回目というこの音楽祭が、今後新たな実験と才能を生み出す場として、活況を呈することを祈りたい。
綿谷注:1999年現在、経済上の理由からこの音楽祭は閉鎖されている。時期的にブリュージュの方と重なっていること、同じフラマン系の財源であること、夏場のアントワープが暑くて、観光客の動員が困難だったことなど、いくつかの要因があるにせよ、残念なことで、再開を願って止まない。
クリソン音楽祭
パリ市モンパルナス駅からTGVで2時間半、ナントの勅令で有名なナント駅で乗り換え20分。ロワール河流域のイタリア風古都・クリソンで行われた音楽祭にも参加したので、レポートする。
この音楽祭は7.19から8.2まで開催され、マスタークラスとコンサートからなっている。
このうち古楽器は、チェンバロとヴァイオリンのコースがあり、チェンバロはK.ギルバートにより7.19−25、ヴァイオリンは7.26−8.2の間、行われた。7.25チェンバロ・クラス修了生のコンサートでは、古城でのコンサートの後、満員のお客様と一緒に、レセプションが深夜まで続いた。
1. K.ギルバートチェンバロ・クラス
受講申し込みは書面にて経歴などを記入し、多数の申し込みがあれば、オーディションが行われた上で、受講を許可する年もあるそうだが、本年は行われなかった。聴講は有料だが資格は自由.
料金:受講者 約57000円、フルコース昼食とコンサート代含み 練習楽器1人1日
4−5時間
聴講者 約47000円、 同 練習楽器はなし
宿泊 約26000円、7泊 朝、夕食代含み 2人部屋
私が参加したクリソンでの一週間で、最も印象に残っているのは、曇天続きの薄寒いベルギーから行ったせいもあり、晴れ上がった空と、適度な湿度、きれいな森の中で出されたフルコースの毎昼食、昼も夜も飲み放題の仏ワイン、そして私たちが出演したコンサートへ、無料とはいいながら詰め掛けてくれた満員のお客様である。
受講者の練習楽器は2段鍵盤 3台 ナーゲル、ダウト、不明
1段鍵盤 2台 ナーゲル、不明
と、かなり贅沢で、朝8:から夜11:まで弾く事が出来、1人5−6時間は毎日練習できた。調律も早朝、夕方と常時調律担当者がきちんと行うので、楽器のトラブルは殆ど起こらなかった。
受講者は9人。日本人 曽根麻矢子 小島ゆかり 綿谷優子
仏人 16歳男性、女性2人
ベルギー人 19歳女性
ポーランド人 21歳女性
カナダ人 51歳男性
と多彩な顔ぶれ。ポーランドの女の子は初めて1年。タッチに問題はあるものの、強靭な技術と音楽的個性で他を圧していた。カナダ人は中学校の教師をしながら、チェンバロのイタリア舞曲の珍しい譜面をたくさん収集し、私達に惜しみなくコピーをくれた。
K.ギルバートのレッスンは毎日3−4時間、午前中に行われ、4――5人が受講した。今回は珍しく課題曲がなく、(ちなみにこのあとの8.5から、ヴェニスの講習会では、J.S.バッハとロッシのトッカータが課題曲で、ロッシの新校訂本を出版したばかりの彼は、受講者全員に真新しいこの譜面をプレゼントしてくれたのである)事前に用意した曲を各自書面で提出させ、同じ曲が出ている時はひきくらべをさせるという一幕もあった。
彼は「1年、又はそれ以上、引き込んである曲を聴かせてもらいたい。」と言い、
「習っている先生の真似をするのも良いけれど、個性がない。」と痛烈に揶揄する時もある。良くも悪くも関心をそそらない、無個性で無難に終わる演奏だと、ただ「ウン」と言っているだけで「次の人」となる。ポーランドの少女は演奏後、足バタバタ、椅子ごと後ろへひっくり返りそうになり、「動くんじゃない」と言われると、窓の外をいつまでも見ているという大変瞑想的な状態から戻ってこず、彼の眼もまん丸くなった。
「君ね、悪くないの。いや良いかもしれない。だけども優雅に演奏することも必要。終わった途端に大騒音を立てたり、どうしちゃったんだろうと思わせるのは、君の演奏の意図なのかね?君のテンションの高さ、興奮して弾いていること、そういうのすごく良いと思うから、普通に終わって見られない?」とかなりな時間を「普通に終わる事」の指導に当て、素直にわずかずつ普通になっていくその少女は、最後まで強烈な個性を発散する見事なバッハを聴かせてくれた。
一方51歳のカナダ人は、人柄も大らかで優しいひとだが、演奏にはふくよかな香りと歌が溢れ、聴く人をやすませ和ませる、大きな包容力を感じさせるものがあった。ギルバート氏は、これこそ本当の音楽だと絶賛し、彼が弾いているといつも大ニコニコで聞き入り、細かい指導はするものの、全面的に賛意を表していた。
音楽的には、ニュアンスの豊かさと精巧な技術を要求し、常に生き生きとしている事、ほと走る
パトスがあること、しかし洗練されていること、何よりも美しいこと、そして人生の総てが音楽に現れてくるようにすることなどが、主要なテーマとなった。
F.クープランの<神秘のバリケード>を弾いたベルギー人には、テンポの設定、バスのフレージング等、細かな指示のあと、「私にとってこの曲は、人生の総てだ。皆さん、帰ったらクラヴサン奏法を読み返しなさい。私は今でもいつも、この本から、新たな発見がある」と述べ、私達を嘆息させた。
J.Sバッハの<半音階的幻想曲>のレッスンでは、
「レジスターに安易なコントラストを作るべきではない。レシタティーヴォの中頃まですべて上の鍵盤で弾き、下鍵盤に移ってから最後部分で上に行って終わるのが、今の私は最も美しいと思っている」
和音のアルペジオの旋律性を強調するために、上下どちらから入れたら良いか、などについても、アイディアを具体的に示した。
暗譜については、暗譜至上主義に陥っているポーランドの少女に、
「1年位1つの曲を弾き続けて、指が覚えたからといって、楽譜をはずしてしまうのは良くない。」
と示唆したが、演奏は暗譜で弾くべきものと学校で教えられ、固くそれを信じている様子の学生にとっては、なかなか受け入れられるものではなかった。この様子を観察していた彼は翌日、ピアニスト リヒテルの最近の手記をコピーして配り、
「私は長年、暗譜で演奏してきた事を今、後悔している。」
という部分を取り上げ、
「何十年という演奏活動を経ても尚、楽譜から受けるインスピレーションと創造の現前性を大切にしたい、というリヒテル氏の意見に賛同する」と締めくくった.
ダングルベールのCD録音を終えたばかりの彼は、午後のレクチャーで総てのプレリュードと数曲の舞曲を弾きまくり、内輪の会だったこともあってか、自由に伸び伸びと、時に眼を閉じ全身で音に浸って弾いているのが、いかにも楽しそうで嬉しげであった。
どちらかというと頭脳的な演奏スタイルの印象を、録音などからは持っていた私としては、あまりに自然で、作為のない、美を真摯に求め続けている演奏に触れ、驚きとともに深く
感動を覚えたのであった。
綿谷注:1999年 このコースも全体の受講者が少なく、閉鎖されている。最近イタリアの新しい講習会でも、情報が行き届いていて日本から参加者が多く、逆に長く続いてきたコースでは、ヨーロッパからの参加者が少ないというのはどういうことなのだろうかと思ってしまう。ひとつには古樂の講習会がやたらと増え、玉石混交、若い世代がそれ程順調に市場を広げていないこと、いつも新しい知識を人は求め、同じ人に深く学ぶという態度が好まれない事などが考えられる。
ギルバート氏のコースは、イタリア・シエナ、祖国カナダ・ケベックでは継続されていると聞く。
月刊Asahi/92.11月号 ティータイム
「西欧の首都」ブリュッセル
ここブリュッセルでの市民生活にも、「欧州統合」への動きがじわじわ影響し始めている。
ベルギーの首都ブリュッセル市は、西欧列強にときに組み敷かれながらも千年余の豊かな歴史を持つ都市である。石畳の道路が床しく残り、日本では欠かせないガードレールや歩道橋、電柱も全然ない。路面電車の脇を、いまだに騎馬警官がゆっくり巡回している。
だがブリュッセル市民がそうした伝統を今後も維持していくことを望んでいることは間違いない。そんな市民にとって、統合EUの首都をブリュッセルが引き受けることは、歓迎できるはずもなかった。
ブリュッセル市民には、統合自体がそもそも日本の経済脅威に対応するためだという意識がある。平均所得への税率54%という過酷な税金が、日本やアメリカの企業向けに使われているという不満も強い。多数の日本人が、低料金で学べる語学教育などの恩恵を受けてきたからである。なにしろ、外国人に対する仏語教育は充実しており、一日3時間ずつ週に5日間教える初心者の場合、1年の学費がたったの8000円なのだ。「注:2000年現在、さすがにこのような市立語学学校は姿を消し、EUのパスポート所持者、IDカード所持者のみ学ぶ事の出来る、大学所属の語学専門学校が最も安くて、レベルも高い。」
ベルギーのお家芸ともいうべき古樂をはじめ、クラシック音楽や舞踏、更には医学や電気工学などを、安い学費で学ぶ日本人も多い.無論日本人のみに与えられている特典ではないが、こうした事業を支える財政上の負担をベルギー国民がなぜ、強いられなくてはいけないのかという疑問は、当然庶民の間にもある。
ブリュッセルにある日系企業の駐在員給与が、当地市民の一人あたり平均給与 約18万円の2ないし3倍に及んでいる事も日本人への風邪あたりを強くしている。やちんを除けば、東京とさほど激しく物価は変わらないのだが、日本人の購買力はとにかく旺盛である。
市中心部の百平方メートルもある賃貸マンションが月6万円程度で借りられる分、家計費を買い物に回せるのだろう。もっとも、家賃は会社もちの日本人ビジネスマン家庭は、通常月12−15万円もする超高級マンションに住んでおり、日本人の多いテルヴューレン通りを地元の人は「日本人街」と呼ぶ。日本企業による社宅用地買収で不動産価格も跳ね上がり、当のベルギー人は市の郊外に追われがちだ。
「アラブ人は街をスラム化し、日本人はスノッブ化する」というありがたくない言葉さえ生まれている。
そのせいか、「黄色い釣りあがり目の奴等を(日本人のこと)追い出してやる」というテレビ発言がうけて、支持を得だしたネオ・ナチなどの極右グループが、日本人住宅を焼き討ちにする物騒ぎな事件も起きた。
ベルギー政府は92年4月、消費税率を13.5%も引き上げた。公共料金、通信代、運賃なども一斉に上がった.庶民の不満がますます日本人に向かう気配である。フランスでも政府がこの8月から、日本製食料品を輸入禁止とした。フランス産食料品に放射能汚染の疑いがあるとして、一部、製品の輸入を日本側が規制したことに対する報復措置だが、在仏日本人3万人は、困難な対応を迫られるだろう。いずれにせよ、西欧は門戸を閉ざす傾向にあり、庶民感情にも排他的な気分が日に日に濃くなっていることは否めない。
西欧はその中華思想、啓蒙思想もあって、文化であれ何であれ、吸収されることに寛容であった。しかし今、まさにそのことが自分等の首を締める事につながったという、苦い思いが強まっている。
西欧の庶民は「EU統合」が危険な賭けであることを肌で感じている。
千年余の時間をかけて熟成してきた伝統文化が、経済力に裏打ちされた新興勢力に揺さぶられ、今後、同じ土俵で競わなくてはならなくなった事への嫌悪感は、ひとしおである。
大きな岐路に立つEU共同体とともに、日本そのものが、経験した事の無い茨の道を歩む事になるのだろうか。
2000年1月14日、この原稿を読み直し、あらためて湾岸戦争の勃発に伴う不穏な空気漂う、あのころのブリュッセルを思い出す。
EU本部は、巨大な建物を何とか立ち上げたものの、腐敗と汚職を繰り返し、99年にはメンバーの大幅な入れ替えを行った。EUROも書類上の取引はされているが、換金手数料の高いことに加え、レートが下がってきており、当初の経済振興の目的が安易には行われ得ないことが明白である。
しかしバブル景気の破綻は、駐在する日本企業の凋落となって、白日のもとに晒された。日本の銀行支店が、ぞくぞくと撤退を余儀なくされた98年頃から、西欧の人々は、繁栄の頂きから転落していく国家の有り様に気が付き始めた。日本人は今までのように上得意客ではなくなったのだ、いや、危ないかもしれない。
ある外務省高官は「今まで日本は好かれていると思っていたけども、あれは金の力だったのですね。今や誰も振り向いてくれない。」とこぼしたが、実際町の小さなスーパーでさえ、軽蔑を剥き出しにする店員がいると、人種差別にまた新手の圧迫が加わるのかと嘆息してしまう。西欧で家族や仕事をもち、棄日した訳ではなくても、生活の基盤を西欧におかざるを得ない日本人にとっては、哀しい事である。けれどもまた、30年以上を西欧で暮らして来た日本人の中には、70年代の状況に戻るならそれもいいのではないかと言う人もいる。
日本のデパートや銀行がたくさんなくても、いいところに住めなくても、日本人がどんどんいなくなって寂しくなっても、もともとそこから私たちは出発して来たのだからね、不便なんて慣れてるし、日本が豊かでも現地は長い間の不景気で、今更始まったわけじゃなし、淘汰されていいのかもしれない。
東京に帰ると、どこが不景気かと思うほどまだまだ消費社会、輝かしいメガロポリスである。贅沢に狎れた都市が、いつまで虚飾を剥ぎ取らずに存続するのか興味深い。
ブリュッセルは西欧で小都市、アジアで言えばシンガポール、日本では仙台のような所だ。都市機能そのものが小規模で、清潔でちまちまとしている。それはそれで温かみもあり、居心地も悪くはないが、根本的に不便だ。便利になったことがないから、何がどうなったら便利なのか分っていないし、必要性を感じないらしい。私はすでに諦めているが、緊急の時など日本なら当たり前のサービスがないのには、本当に参ってしまう。救急車が有料で、走行距離に準じた請求書をちゃんと送ってくださり、友人に抗議したら「日本て只なの!!」と驚かれ、世界中救急車が只だと思っていた自分がアホなのだったと、反省はしたが、所得税54%も取って、そのぐらい税金を使ったらどうかと機会があれば進言し様と思っている。
東京 2000年1月14日
1986年 季刊 草樂社
「古樂事始」の記
何事にも始まりがあるように、音楽にも人それぞれに最初がある。どんなきっかけで、どのようにしてやってきたのか。
そんな思い出を現在、第一線で活躍している演奏家に思い出していただきました。
「プツプツ」とした感触から出発。 綿谷優子
最初に触れたのは中学3年の時、ノイペルト製モダン・チェンバロです。プツプツとした鍵盤の手触りで、ふしぎな楽器があるなあと思ったものでした。
当時私はロマン派志向で、3日に2度は演奏会へ通い、ちょうど大阪万博の招聘で、カラヤン、バーンスタインを始めとして、「ボリス・ゴドノフ」「エウゲニー・オネーギン」前後して「ファルスタッフ」(F.ディスカウとマゼ-ルを見たのもこの頃が始めて)などのオペラを、どきどきしながら見ていました。眼をつぶれば、ケンプのベートーヴェンやシューベルト、メニューヒン、バルトーク・カルテットたちの音が、今でも激しくきこえてきます。
まるで餓鬼のように音をむさぼり、趣味もへったくれもなく頭の中は渾沌とし、夢中で幸福でした。何しろ20年前(2000年現在、30ン年前になる)のことですから、古樂何て言葉もなかったし、弾こうにも身近に楽器も楽譜もないないずくしで、今とはまるで国が違うみたいでした。
JSバッハとの対面
コンサート三昧でろくに勉強らしいこともせず大学へ入ると、必須の和声学がありました。毎回バッハのコラール旋律だけが与えられ、和声付けをしていくと、翌週バッハ様作曲の全貌が明らかにされ、しかも自分の書いたものはクラスで発表されるといった授業。先生は作曲家の別宮貞雄氏で、その評価の下し方は卓抜でした。不謹慎な言い方で申し訳ないのですが、バッハのコラールにすごい色気を感じました。
厳格な4声体でかつ、がんじがらめの規則の中で、内声一音の動かし方、バスのさり気なくぞっとするような下行、調整を逸脱寸前の半音進行。1曲ごとにあっと驚く仕掛けが凝らしてあり、どっかで聞いたようだなと思うと、ブラームスのインテルメッツォの始まりだったり、ショパンのマズルカなんかにちゃっかり同じ進行がかくれていたりするのです。のめりこんでしまって、カンタータ全曲聞こうとか、平均律全曲通して弾こうとか(この全曲というパターンが割と今だに好きなのですが)毎日、面白くてたまりませんでした。
チェンバロの勉強を始めて
大学3年になって、学生が弾かしてもらえるチェンバロが学校に来ました。その頃になると、大バッハ以外のバロック音楽にもかなり興味をもち、F.クープランの劣悪版の譜面を全曲買い込み、せっせとピアノで弾いたりしていました。けれども対位法的な曲の場合、内声が埋もれてしまうこと、かといってある1声部だけを物理的に強調するとバランスが崩れてしまうこと、声部ごとに違うアーティキュレーションをしても、それほど効果が表現できないこと、結果として、音楽の切実さが不足してしまうことなどが不満でした。
鍋島元子先生が留学を終え帰国されてすぐ、私達の学年はチェンバロのレッスンを受講することができました。
まず初めに16世紀イギリス、ヴァージナル学派の作品を与えられ、音風景も響きも全く違うそれまで知らなかった語法、時代様式に接しました。新鮮でした。
また、装飾法のすみずみにまで、国や作曲家によって固有の表現方法があることを知って仰天しました。
例えば繰り返し記号がついていて、繰り返した時には即興的に前と違った装飾をつけるとよいと教えられた時には、即興的などという言葉は前衛過激派かジャズマンのボキャブラリーで、私達オーソドックスな人間は、楽譜に定着した音を再現すればよいのだと、自然に思い込んでいたので、これは大変なことになったと思いました。
根が純朴な性格のせいか、これ以後第2次飢餓期みたいになって、絶望的かとも思われた250年にわたる膨大なレパートリーを1曲ずつ体験していきました.一通りの国々、作曲家に馴染むのに10年はかかりました。
私がこの楽器を選ぶに至ったのは、最初に書いた「プツプツ」した感触だったと思います。指に弦が直接触れてくる感触、そのはじき方の強弱、明暗、熱冷、粘着度、滑りや溜め具合などによって、音が変化する面白さです。弦楽器に慣れていなかった私の耳には、はじき方からくる音の強弱、音質のの違いをききわけることは、当初かなり困難で、発想の転換を迫られました。でも聴こえてくれば、もともとマクロで音を聞く事が好きでなかった自分の性格ともよく合いましたし、多層的な音楽がくっきりと映し出せることが魅力でした。そして弦を激しく、あるいは嬉しそうに引っかく時の、運動感としての指の快感、ジャックの爪を充分にたわませて弾く時の心の酔い、私はこういう感覚が自分の中に開発できるとは思いませんでした。
海外の名手達
ブリュージュでヴィーラント・クユケンを聞いた時は驚嘆しました。JSバッハでしたが、
初めてピラミッドやアンコールワットを発見した人のような気持ちでした。
Gレオンハルトも、初めて聞いたのはJSバッハでしたが、聴き手との生なぶつかり合い、情報としての音響変化ではなく音へ肉迫していくエネルギーが鮮烈に聴こえました。
Sロスは脱力の神様みたいで、Tコープマンと随分対照的でした。
それぞれの演奏家がいろいろな場所に立って古楽を眺めているなあという印象でした。
「これぞ、正統派!」という硬直した、隙の無い演奏は無くて、親密で間口の豊かな、温かい音楽でした。
編集部からは私の勉強法についても依頼があったので、少し触れておきます。
指は、指先から第1関節までが独立するようにすることが他の鍵盤楽器と違います。弦をはじくタイミングを指の腹で感じられるように、1本ずつ神経をここに集中できる練習もしました。
重心が手の1点に集まってしまうと対位法的に弾けないので、手の平の力をぬいて、指にはいつでも移行できる横波のような力を与えられるようにします。これはすぐに出来るようになります。
難物なのが消音で、英独仏伊のあらゆる言葉の語尾に囚適する音の切り方が出来たら、バロック期の形が持つ、空間とのあらゆる接し方ができるように、なるといいなあと、思っている今日この頃です。
取材記事
The Professional No.4
綿谷優子 次の時代への伝承者
チェンバロという楽器を知っている人はどれくらいいるだろうか。ピアノの先祖といわれるこの古い楽器を、現代の日本で演奏するプロフェッショナルが綿谷優子さんである。今回はチェンバロ奏者の綿谷さんを取材した。
チェンバロとの出会い
<綿谷さんがチェンバロと出会い、それを始められたいきさつをお話ください。
16年間JSバッハを勉強していて、バロック音楽には非常に興味を持っていたんです.
そんな中でチェンバロと出会い、ピアノと全く違う音色に新鮮な驚きと刺激を受けたんです。自分の感性に1番合っていたんですね。
<綿谷さんが思っている事をチェンバロが1番伝えてくれたということですか?
私は演奏によって、何かを伝えたいとか、メッセージを残したいとか、は考えていません。聞いてくれる人の心が豊かになれば、それでいいのです。そういう音を出す為に私に合っていたというだけです。
<当時(1974ころ)、あまりポピュラーではなかったチェンバロを勉強なさるうえでのご苦労などはありましたか?
ピアノのように確立されたマニュアルなどはありませんでしたから、総てが手探りでした。楽譜を手に入れるのでも、海外の出版社に手紙を書いて、何ヶ月も船便を待つという具合に、ひとつひとつに手を焼いていました。それだけにやる気が出てきて張り合いもありましたね。東京以外の公演なんかも大変です。ピアノはどこでも立派なものがあるからいいのですが、チェンバロなんてどこにもありませんでしたから、いちいち運ばなければならなかったんです。運ぶといったって、デリケートな楽器ですから、運搬にもすごく気を使いましたね。
プロの音楽家とは
<プロの音楽家とはどういうものだと思いますか?
わたしは プロとアマは金銭で区別出来るものじゃないと思います。それをやることによってお金を稼ぐ人がプロで、そうではない人がアマチュアだと言う規定は、まったくあてはまらないですね。見る人聞く人を楽しませ、夢中にしてくれるプレーヤーが本当のプロだと思います。そういう意味で言えば、オリンピックの選手は立派なプロです。
<それではプロとアマの違いもそこにあると・・・
ええ。一言で言うと、人の役に立つかどうかがプロとアマの違いでしょうね。アマはあくまでも個人的な楽しみ、プロはそれをやることによって、人の役に立たなければなりません。聞いてくれる人が元気になる、楽しくなり感動してくれるなどの役に立てればと思います。プロ野球などもそうですよ。観戦するする人が楽しんでハラハラシタリシテ始めて、見返りとして、金銭が支払われるんですから、そうでなかったら草野球です。
<そういう、人の役にたつために、どういうことに気をつけていらっしゃいますか?
やはりまず、技術の向上ですね.特に楽器の演奏となると、聞く人との音の受け渡しですから、ひとりよがりではいけません。社会性を持っていなければなりませんし、社会的動向にも気を配らなければなりません。今人が面白いと思うものは何なのかということにも敏感でなくてはいけません。
チェンバロは400年も前に生まれた楽器ですから、もしかすると今の時代にはそぐわないのかもしれません。価値感は時代によって変わります。これは仕方の無い事です。新しい時代の趨勢に迎合して無理にスタイルを変えたり、方向を誤ったりはしたくありません。
私はただ伝承者として、正しい形で次の時代に受け渡したいと思っています。
<まるで、日本の伝統芸能を受け継いでいく人みたいですね。
日本の伝統芸能はまだ幸せだと思います。チェンバロは西欧の文化ですから、日本人には受け入れる歴史的素地がないんですよ。能や歌舞伎は日常的ではないにしろ、日本人の遺伝子なら先天的に受け入れる素地をもっています。それを伝承していく人は、環境的には幸せだと思いますよ。私の場合はその点ですごく難しいですね。西欧が私に伝承してくれと頼んでるわけではないですから。(笑)
ここで突然綿谷注:2000年
伝統についての西欧音楽批評家の見識は、近年哲学者も含めて隔絶の感がある。
ひと時、西欧が西欧である為になどという論議が空しくなされ、排他的アカデミック傾向にあった知識人たちが、現在、西欧文化伝承とは、異質の歴史、文化、教育に育まれた才能によって為される事で、新たな可能性を見出していくであろうと表明してはばからない。
「綿谷優子の演奏と西欧著名な演奏家とはナント違う世界であろうか。しかし、この日本人が体現する世界はバッハの世界であり、我々の知らなかった、しかし知っているはずのバッハである。私が受けた彼女からの、ひらめきのような感動という名において、世界の違いは可能性であると思う。私たちは世界を規定してはならない。なぜなら日本人にバッハが判らないと言うことは、安易にして我々の可能性をもつぶしかねないからだ。伝統にとは何か。」ジョン・フェラール
イタリア人フッサール現象学の哲学者、フランスの音楽批評家、ベルギーのオルガ二ストで批評家などの総じた意見は、他の分野の日本人アーティストにも好意的な批評でありました。フランス、ベルギーの70%が有色人種差別であるという統計が99年出ましたが、文化の側からこうした交流の息吹があれば、本当の意味で相互評価のされる時代が来るのではないかと思うのです。
この取材は恐らく15年ほど前だったと思います。まだ日本でだけ活動をしていた時で、西欧といっても漠然としたイメージしかありませんでした。今私の感じる西欧とは、街並であり友人達、私のアパート、お気に入りのスポットなど日常暮らす場所です。音楽だけやって暮らすことは出来ません。寝たり食べたりの行為から違う世界を体験するうちに、私の音楽も変わって来たのだと思います。
取材の続き
<現在のチェンバロを取り巻く環境はドウなんでしょうか?
私の始めた頃とは随分変わって来ています。若い演奏家もたくさん出てきていますし、音楽学校の正課にも取り入れられました。なにより聞きに来てくれるお客様が増えましたね。これが1時的なバロック・ブームに終わらず、きっちりと根付いて欲しいですね.
プロとして何をすべきか
<プロとして、他の文化をどうお考えですか?
バランスとして、野菜ばかり、肉ばかりではだめです。文学、絵画、映画演劇をきちんと理解して初めて、教養主義のチェンバロをつかめると思います。チェンバロや音楽にしか興味を持たないと、絶対にダメでしょうね.五感は繋がっていますので、いつもフレッシュにして感性を研いで居なければ、いい演奏は出来ません。
<チェンバロ奏者にとって手は命だと思うんですが、手や指を大事にする為に何か特別なことはなさっていますか?
中村紘子さんが、家事の出来ない女性ピアニストは1流じゃないとおっしゃっていますが、正にそのとおりだと思います。満足に野菜が剥けない、料理や洗濯の出来無い人に、共有する生活感のあるはずがありません。日常生活を大事にしないでいい演奏は出来ませんよ。
私も主婦、母親として、普通以下には家事をやっています。ただ、コンサートの前には怪我に気をつけます、当たり前ですが。
<綿谷さんの目標や夢はなんですか?
伝承者としての役目をきっちりと果たしたいということですね。日本未出の楽譜などをどんどん取り入れて演奏し、初演していきます。実験的な試みもやっていきたいです。現代音楽もチェンバロで弾きたいし、詩の世界を表現したりと、色んな切り口で試してみたいです。
|