|
子どもの心をみつめる
桐朋学園大学を卒業して、私は子どもたちに音楽を教えていました。驚くべき才能を持った子どもがいました。20年前1人娘を産み、母親となりました。6年間毎日保育園の送り迎えをしました。病気の娘をおぶって公演の練習したこともあります。育児の途中で本当にいたわって下さった方達があり、長い友人となりました。
けれども、私の子育ては失敗でした。小学校の入学式翌日から娘は登校拒否になりました。ちょうどコンサートのないときでした。毎晩娘はうなされ、包丁でおなかを刺してくれたら学校に行かなくてもいいのにと、懇願しました。私は愕然としました。この子をこんな風にしたのは私が間違っていたからだ、傲慢だったからだ、何と酷い母親だろうかと思いました.登校拒否の原因について、彼女は高校の研究課題として取り上げ、自分の体験を見つめると同時に現在の状況をしらべました。彼女は最終的に、自分のは同じクラスの女子のいじめと環境不適応だったという結論に達しました。一生の仕事として臨床心理士になり、子どもの心を見つめて行きたいと言っています。
入学式から1ヶ月半、私は泣叫ぶ娘を自転車の荷台にくくりつけ強硬に学校へ運びました。「午前中じゅう教室の前の廊下に立ってて」というので、扉を少し開けた状態にしていつでもわたしが居ることを確認できるようにして、授業をうけました。私が少しでも見えないと教室を飛び出し門の柱にしがみついて、「帰る」と泣叫ぶと先生に言われ、5時間余りを只立って過ごす毎日でした。他の子どもから真理子ちゃんが泣いてうるさいと言われ、教頭からは1日も登校しなくても卒業はさせてあげますと言われ、世田谷区の相談員は長い不登校の始まりですといいはなちました。小学校教育を自宅ですることは、物理的、精神的に不可能です。友人の紹介で箱庭療法の先生のところにも行ったりしました。回復した後再度訪れた私に、先生は、「子どもが自力でのりこえたのですね」とおっしゃいました。「子どもは2度と同じ問題は起こしません。良かったです」と。
家では、娘の喜びそうな料理を作って一緒に食べました。私はその頃仕事のストレスに焦っていて、まともに娘と対峙したことがありませんでした。反省と後悔の毎日でした。
国立大蔵病院・成育心理外来でこうした問題をかかえている子どもたちのカウンセラー、共助連の主催者として親子とカウンセラーの掛け橋を熱心に行っていた伊澤氏とは、偶然娘の生まれたときからの友だちでした。彼の率いる研究会メンバーは積極的に学びたい学生がたくさん集まっていました。幸い娘も伊沢氏が好きでした。娘を連れて出入りしながら、多くの子と接して私も学びました。
「音楽をやっているなどと言いながら、演奏のストレスや緊張を家に持ち込み、子供には不要な不安を与えてきて、娘は人間関係を緊張状態でしか捉えられなくなり、母子分離不安をおこしているのだろう」と彼は言いました。私は人に緊張や不安を与える、演奏も全くその通りだといいました。全く正しいと思いました。私を常に仕事へ駆り立てていたものは、不安でした。娘は、私がばら撒いていた不安の波に、汚染され、休まる暇もなく息も絶え絶えだったのです。
担任の献身的な助けで、5月半ばを過ぎた頃から学校に通うようになり感謝しました。自分の稽古、稽古と焦らず、娘の方から飽きるまで相手をしてあげるように努めました。充分心が満たされれば自然と1人遊びや友だちと遊ぶようになるものなのだということも、初めて知りました。
私は娘を自分の発散の道具に使っていました。彼女が発していた言葉に出来ない様々な痛みに驚くほど鈍感でした。
今でも時々この時の反省を忘れて、娘の起こす身体的、精神的なストレス表現に慌てることがあります。人間の発信とは不可思議なものです。子どもが心身症を訴えた時、体の痛みは心の痛みだと言ってはいけないことも教わりました。更に子どもを追い詰めるからです。対応してくださった人たちが賢明でした。娘と私の、初めての遅すぎた対峙経験でした。
これ以降、私は音楽家でなくなることがあっても、一生母親なのだと深く肝に命じました。かけがえのない娘をもてたことがこころから幸せだとおもいました。毎日荷物のように保育園において、引き取りに行くといった生活をして来たことが、胸に刺さりました。彼女が寄せてくれる私への愛情にどうしても応えなくてはならないと思いました.
彼女が順調に2年生となり、新しい担任も優れた熱心な教師でした。学校教育が取り沙汰されていますが、現在にいたるまで全ての娘の担任は、真剣な上に愛情深い先生たちでした。
ちょうどその時伊沢氏が上智大学の生涯教育のクラスで、更に勉強すると言って入学しました。当時彼は40歳位で、経験もあり指導的立場にある人が新たに勉強したいと言う事に驚きました。
ブリュッセルで知り合ったロベール・コーネンは、年齢制限をはるかにこえている私に、特別措置を頼んであげるから改めて欧州で学び直し、演奏活動をしなさいと言ってくれていました。担任に相談すると、「娘さんは大丈夫です。安心して行ってきて下さい」と言われ、伊澤氏は「娘にはカウンセラー をつけてやるから。本当に勉強したいのなら、日本にいて側で悪影響をあたえるより娘にとっても良いかもしれない」と、素敵に頼もしいカウンセラーの学生を紹介してくれました。娘はこのお姉さんが大好きになり、とまりに行ったり銭湯へ連れて行ってもらったりして、人間関係に癒されていくようになりました。
けれどもいつも出発するという朝になると、娘は立ち上がることもできなくなりました。「足が痛くて立てないの」と、寝転んだままじっと私をみました。「死なない?帰ってくる?いくんでしょ?さよなら」と言いました。12時間の搭乗中、その光景だけが浮かびました。今この時のことを娘は覚えていないといっています。自己防衛本能だと思います。
13年間、結局私はブリュッセルにいてしまいました。子育ては音楽と同じぐらい私にとって大仕事でした。演奏の技術は長年にわたり培ってきましたが、子育ては初心者でした。自分で予知出来ない様々の感情に振り回され、苛立って、寂しくて、日本に帰ったら二度と娘と離れられないのではないかと恐れてもいました。段々成長するに従って「本当にやりたい事があるのなら、やって来て」と言う様になりました。「あたしのために、やめないで。それは一番酷い事何だよ、ママ」
山本真人氏の名著「インターネット共創社会」では、−少年、少女たちが生き生きとそだつには−という項目があり、学校教育の問題点を打破すべく現在どのような試みがされているか、ホームページの紹介が豊富に出ています。子育てに特効薬はありません。親子が格闘しながらそれぞれの人生を創らなくてはなりません。逃げたり、捨てたり、ごまかしたりしたい時もあります。外国で国際結婚をして大変な苦労をされている方もあります。
ご紹介させて頂くホームページ
横田映代 「天がくれた物語」
これはアルコール依存症の父を持ち、アダルト・チルドレンとして育った著者の自叙伝で す。内容はHPで読めますから行って頂くとします。重い内容です。
日本で一番醜い親への手紙
http://www.mediaworks.co.jp/alt/aya2/tegami.html
114編の子供から親への訣別の手紙です。全文公開されています。心の痛みを伴わずに読め る親はいないでしょう。どの親にもあてはまる醜い親の姿です。親とは辛いものですが、 子もまたつらいのです。
親とは何か、何が出来得るのか、子供が発している言葉に、私は何と無神経で粗暴だったかと思いました。
娘の小1の時の担任が「支えている人が支えられている人より実際には救われる」と言ったことがあり、その時胸を突かれました。しかし子によって親が支えられてはならないのかもしれません。子の為と親が口niする時の欺瞞、押し付けの愛情は、子への甘え、 独占、横暴に繋がると、この手紙を読んで思います。
2003年12.5更新
綿谷優子
感想を御寄せくだされば幸いで御座います。
mail : WatayaYuko@aol.com
|