綿谷優子エッセイ/身辺雑記帳

 ワインの話

アジア・西欧のアンティーク
家具・布の話

ベルギー王立美術館所蔵作品ガイド・仏訳・綿谷優子
2001年6月同美術館より刊行



ワインの話

日本発

日本ソムリエ協会 http://www.somm elier.or.jp/
  港区芝公園3−6−22JCビル5F Tel.03-5473-7821 Fax.03-5473-7822

この会報編集長・穴田氏は、世田谷区梅丘にマリアージュという、すてきなお店を持 っています。ワインについて教えたり、珍しいワインをのませてくれ、フランス料理 も凄腕のシェフです。   Tel 03−3439−3800

  • 99年10月号より抜粋
    目次:class=msoIns>第3回ワイン.アドヴァイザー全国選手権大会
    平成11年度秋季総会札幌報告
    川島なおみさんに聞く
    ワインテイステイングと表現について徹底研究
    トスカーナワインをたのしむ
    カルフォルニアワイン ピノ・ノワールに与える樽熟成の影響
    イタリアソムリエ研修体験記
    新商品、新書、新店舗紹介

    抜粋 新店舗コーナーより: TAK 東京都港区六本木4−10−11八巻ビル1F   Tel 03−3403−2569
    営業時間  P.M.6:00-A.M.2:00

    ホテルオークラチーフソムリエを28年間勤めた、中島明史さんが、割烹風創作料 理の店を、10月20日開店しました。毎月20日にはワインの日。全ワインが20 %OFFとなります。ハウスワインはグラスで1000円、ボトルで5000円、冷菜 3点盛り、温菜2皿、パスタ又はスープ、牛ほほ肉、オックステイル、トリップ、の 内どれかの煮込み、自家製デザート、コーヒー。¥8000円  お勧めは、毛蟹の ビスク

私自身は、8年前までワインは飲めず、和食に日本酒党でした。軟弱な酒と馬鹿に してもおりました。ブリュッセルの貧乏学生生活ではろくな酒も飲めず、ベルギーは 寒くて葡萄が生育できないため、ワインは全部輸入で高いのです。2年間の学生から 社会人として多少の演奏会収入を得る様になり、友人宅でご馳走になるワインを見習 って恐る恐る買って飲んでみました。当然の事ながら、塩辛と、というわけにはいき ません。パンを食べると小学校の給食パンをおもいだし、胸焼けがするので、チーズ を少しずつ試してみました。前述の穴田氏には、色々なチーズを教えて頂きました。 ミラノへ通っていたころ、ホームステイをさせてくれた家のお母さんにも、たくさん の伊・家庭料理や、ワイン、チーズをご馳走になりました。なかでも、バジリコのパ スタ、ラザニアは絶品でした.和食を作って、布団に寝て、日本にいるようにしてブ リュッセルでも暮らしていたとき、仏語も出来ず精神的に閉鎖的な暮らしでした.健 康状態も極度に悪くて、居るのが辛くてたまりませんでした。

穴田氏のお店は、99年で10週年をむかえました。私のブリュッセル滞在も10 周年です。ワインに会った歴史と、わたしが、欧州での生活に少しずつ適応していっ た歴史と、世田谷の不便な立地条件での、穴田氏の経営闘争が、同時に進行して来ま した。今、ベルギー人と家族のようにつきあえるのも、食生活を欧州風に楽しめるよ うになったことが原因の1つです。私がワイン大好きになって、なんでも・・・ニョ ッキ以外――食べられるのを見て、初来日するベルギーの演奏家達も、果敢に、日本 で和食に挑戦してくれます。そういう日常的なことが、交流だと思うのです。自分を 理解してもらいたかったら、まず、相手を理解して、受け入れる。ブリュッセルで学 んだことです。

私は、ワインが合う日本の料理を創作したりすることが、全く自分の取り組んできた これまでの音楽シーンと、僭越ながら、同じ発想だと思っています。日本の食材を使 ってワインのつまみをつくりだすことも、日本の音材を使ってチェンバロの新しい作品を作っていくことも、同じ欲求から来ているので はないでしょうか?

日本ソムリエ協会が今後、どのように活動していくのか、非常に興味があります。 ワイン情報誌としても会報は充実しています。なぜ、今、ワインなのか。酒屋の魂胆 に乗せられただけではないのか?私にとってはワインが欧州生活のキーワードでした 。近 頃は日本でも毎週ワインをのんでいます。ワインの好きな方、知りたい方、情報お まちしています。この項は、皆さんとつくるキッチンです。食経験をお寄せください 。

イタリ-ワイン紀行

イタリ-人というのは、実際救い難くフランスに敵意を持っています。なかでも譲ら ないのがワインで、フランスのレストランにはイタリ-のワインが置いてありますが 、イタリ-でそんな事を言ったらぼこぼこにされます。イタリアは革命を持たなかっ た国で、今でも資質として、伝統の分け前に与って当然という気持ちがだれの中にも あり、新興的産業や文化に対して、閉鎖的かつ懐疑的で嫉妬深い気質です。夫婦の結 束が、キリスト教を背景にそとに対して主婦を閉鎖的にしているので、謹厳で孤独な 主婦が多く、家族の友人でホームステイなどする人が来ると新鮮らしく、驚くほど良 くしてくれます。イタリア語ができなくても、伝えたいという熱意があれば、何とな く通じてしまうのがイタリア人です。ベルギー人の察しの悪さ、無愛想で排他的な態 度に慣れていた私には、避難場所でした。
イタリア・ワインというのは、濃くて愛想のいい味です。感覚の隅々まで満たして いく快感です。1本2万円というのが私の最高の経験ですが、1口1生分の快感箱です。 更につまみによって、それぞれの飲み口が違います。つまみも多様ですから、同じワ インでも時々に違うコンビネーションの味がたのしめます。しかも西欧で最も安い外 食産業です。北欧の人々が休暇に、狂ったように南へと向かうのがよくわかります. 石灰質の多い土壌で作物は育たず、日照時間3ヶ月の国に生まれたら、野菜の豊富な 、ワイン野の光輝く地にあこがれを持つのは当然でしょう。
サラダ菜だけでもワインが飲めるというのがイタリア人の自慢であり、本当に多様 でおいしいのです。チーズは嫌いなので食べませんが、水牛のチーズはあっさりして 多種あって、匂いに弱い私でも食べられます。パスタもそばのような黒いものが元祖 で、もともと東洋から伝わったものですから、面白い文化統合が見られ、なるべく地 方特有のものを試みると、思いいもかけないワインと組み合わせて料理できます.地 ワインとすする地パスタは、土地の風光と合わせ忘れ難いものになるでしょう。
日本ソムリエ協会 会報51号に、トスカーナワインを、栃木名物の和牛、鯉、湯葉 、餃子で楽しむ会の報告が載っていますが、すばらしい試みです。今度、トスカーナ でも試していただきたいものです。栃木県大谷市の大谷石、トスカーナ・ルッカの大 理石が結ぶ石と石とのつながり友好都市なのだそうですが、食文化のつながりに広げ た催しがユニークです。

私はローマ以南へ行った事がないので教えていただきたいのですが、北のピエモン テ地方は、スイス、ドイツと近いので面白い食文化融合が見られます。ワインは勿論 イタリアのものしか家庭では飲みませんが、米、穀類、豆をミラノの人たちより摂る ように思います。総じて魚が高いので、白ワインは甘く発泡性のデザートワインを、 食後に飲むぐらいです。イタリア人は当然のように外国に行ってさえ、自国のワイン しか飲みませんが、他の国の人々は、赴いたそれぞれの国のものを楽しみます.ロー マ以北の人たちは高い税金と物価のためか、勤勉で豊かです.南の人々は北の人たち が働いた税金で、働きもしないでのうのうと暮らしていると非難する人が多く、多分 本当のことなのでしょう。食材や味覚も地域でとてもちがいます。
家庭料理がそれぞれの家庭で独特な個性を持っていて、世代を超えて伝えて行きま す.ママンの味というのが支配的で、お嫁さんの苦労はまず嫁いだ家の味を覚えるこ と、よく教えてもらうために姑の機嫌をとらなければ、いつになってもピザ1つ満足 に焼けない嫁といわれ、辛いものがあります。庶民の家庭でもワインセラ−の農家と 年間契約を予算におうじて結んでいて、代代、引き継がれます。その銘柄、本数を決 めることも、主婦の大切な仕事、権限です。どのぐらいのお客さんをどうやってもて なすのか、家族がどこへおよばれし、おみやげ用のワインはいくらのものを、何本用 意するべきなのか。今年の作柄はどうで、家族の好みに合うのかどうか、事前調査も 必要です。
外食が好きでよく行きますが、当然ワインは高くてまずいものしか出てこないと、 彼らはなげきます。私には充分おいしいのですが、僕たち家ではもっとおいしいのを 毎日飲んでるから、遊びに来て、というのが決り文句。実際よんでくれて味わうと、濃くて個性的な味で、確かにレストラン のワインが10倍高くて、無個性な味だということに気が付きます。

主婦の家事負担がベルギーと比べると驚異的に大きいのが、イタリアです。ベルギ ー人の習慣は、お客をよんだらメインのお皿は、主人が作り、その日のお酒類を食前 、食中、食後、デザートと別の種類を料理に合わせて用意して、講釈をたれながら薦 めるのも主人の仕事です。料理を出すタイミングなども主人が取り仕切り、あら、ま だ召し上がっている方があるでしょ?などと奥様に言われたら平に謝り、奥様が席を 立つことはありません。普段でも料理は半々、奥さんだけが忙しく夕食の準備をする 家庭は、私のまわりの友人達にはありません。食後のあと片付けは男の仕事、奥様方 が食後酒などを楽しんでいる間に、デザートの準備をしなくてはなりません。ベルギ ーの男性は忙しいのですが、イタリアの男は何もしません。中流の家庭で男の仕事と されているのは、掃除と日曜大工ぐらいで料理一切、ベットメイキングもしません。 イタリアでは男だけでの遊びというのも状況に応じて制度化されていて、女、子ども は待っているのがあたり前。ベルギーは、離婚率が70%近くだったと思いますが、 週末の3分の1、亭主が家族と過ごさなかったら、立派な離婚原因になります。東芝 に勤めたベルギー人はこれが原因で、労働条件は良かったけど週末土曜出勤が月2回 もあって離婚されると困るからと言って、退職しました。イタリア人の夫は毎週末自 分の両親を訪ねますが、かみさんの相手など月1回でもしてやれば、美談になります 。
イタリアワイン紀行がとんだ話になりました。

日本ソムリエ協会 会報誌2000 No.52 

特集:スペインワインの新しい顔
勝沼研修ツアー報告
ワイン・スピリッツ国際見本市2000
ワイン・グラスが果たす役割              他

抜粋
世界30カ国から1000社のワインとスピリッツ類が一堂に会する
V and S展2000.http://www.vinexpo.fr
20006.6−8日 9:00−18:00
招待は業界関係者のみ、一般は5000円
東京ビッグサイト
参加国:フランス、南アフリカ、チリ、アルゼンチン、日本、トルコ、レバノン、メキシ コ他
併設:ワイン・スピリッツ大学 セミナー、テイスティング、講演会など51セッシ ョンの プログラムで構成。

たとえば今号には、ワイン基本技術通信講座開講につき、学習内容のぺ―ジがある 。ソム リエ協会会員しか申し込みはできない。1冊86ページのうち殆どが、例会セミナー 、研修 ツアー, 分科会、試飲会、資格認定試験、試験の模範解答、等々・・・・。勉強 情報量が なにしろものすごいのである。
酒造景気は商品を差別化することで保っているのかもしれないが、こうしたワイン の差別 化には凄まじい気迫が感じられる。私は無論門外漢だからわからないのだが、他の 醸造業 にも資格認定や研修などが、ひんぴんと行なわれているのだろうか?

日本人の酒つくりというのはもっと職人的気質に基ずいた、本来は「閉ざされた匠 の秘儀」 という気がする。飲むほうも辛口・甘口ぐらいの選択はするものの、大体はお仕着 せの銘柄 でも文句は言わない。食前、食中、食後の酒の種類も厳然としているのではなく、 多くは人 それぞれの好みである。酒文化、食文化の決定的な相違がこうした習慣に見られる 。
ホテル・センチュリー・ハイアットのシェフ、西 正三郎氏が執筆した「厨房から のひとり ごと」に、面白い1文がある。以下引用。
「フランスにはもともとフランス料理というものはないが、さまざまな国の料理を うまく 取り入れてフランス料理に作り替えてしまう特技がある。それをバックアップする 豊かな 実りの土地があり、海の幸がある」。
日本人の十八番だと思っていた「摂り込み、作り替え」は、フランス人の特技でも あった とは!!
しかし、ワインは土地固有のものであるから、恐らくワインに合わせて料理方法も 考えら れたに違いない。ワインをおいしく飲むための食文化である。フランス・パンでワ インを 飲むとおいしいという人もいるぐらいで、主食から酒のつまみになる。和食よりず っと酒 と食の連携が密なのである。
更に考えると、甘いデザートの時もワインを飲む。そもそもデザートという習慣の ない和 食懐石では、果物が出るくらいで日本酒とは合わない。(と、私は思う)アイスク リームや ケーキと一緒に日本酒を飲む人を、これまでのところ私は見たことがない。フラン ス人の デザートは絶対にチーズであるから、いくらフランス料理を日本酒に合わせて料理 法を創 造したとしても、チーズと日本酒!!いいのかもしれないけど。試してみるかな?
ワインは食のあらゆる分野を支配するキーワードなのだ。だからこそ、膨大な歴史と知識 の研鑚が、西欧 料理に携わる人々には必要なのだろう。

西欧のワイン文化は北端がベルギー中部までで、オランダ圏の北部へ行くと、彼等 は主に ビールを飲み、オランダ、イギリス、北欧はワインが主たる飲み物ではない。南端 はオー ストラリアも立派なワイン醸造地である。総括して、ワイン文化の国は食文化も豊 かで 外食産業も盛んであるが、(北欧は知らない)オランダ、イギリスの食文化はつと に世界に 有名である。ドイツだってまずいまずいと聞かされていたけれども、ドイツワイン と食べ るおいしい料理はいくらでもある。この誤解は解かなければならない。

さて、2月にマリア―ジュの穴田氏のところでありついた
Shiraz 96 オーストラリア
Gigondas 96 仏ローヌ
Pachrenc du Vicbilh 辛口 97 西南仏
は凄かった。おいしいというより、呆れてしまう心地だった。
「一体これは何であるのか?ワイン?・・・・・・。」酔っ払って陶然となりなが ら、否、 これは何か別の物体ではないかと疑問を持ちつつ、杯を重ねたのである。


雑誌から

サントリー(株) 機関紙掲載  「チェンバロ演奏の設計図」
チェンバロ奏者 綿谷優子

画家ミロとの対話を書いた本に、創作の日常が興味深く示されています。まず早朝は寝ながら作品の構想をかなり長時間思い巡らし、画布に向かう時は考えたイメージを実現するだけ、昼間中は行動するのみ、描きつづけ、夜はリラックス、来客や読書、音楽を聞いて寝るという生活リズムを決して崩さない。従って外出は、軽い散歩くらいというのが理想的だと言っています。

私はチェンバロという16世紀から250年間にわたり全欧で隆盛だった楽器を弾いています。
始めた頃は日本に10台あるかないかの状態で、骨董品じみていてプチプチとした感触の楽器が、甘く激しく痛みを持って響く事に驚嘆したものです。
ヨーロッパでは19世紀以降もカークパトリック、ランドフスカ等名手が引き続け、現在では一層盛んに古楽復興運動が展開されています。オリジナルの楽器は、200年前に作られた、力強く豊饒な音色をこうした復興運動のお陰で、現在でも聴く事ができるという素晴らしさです。

ところで17世紀後半までの音楽は、主に宮殿の宴会や教会の宗教行事で演奏され、庶民が演奏会場へ出かけていくというような事は,殆どありませんでした。国家的威信を示す為、宗教的法悦感を高める為、美女・美酒の引き立て役として芸術家は雇われていたからです。
その為、君主が変わるたびに趣味・流行が変わり、威厳・荘厳の好きな王様、自由愛好の王様等々、芸術家の個人的な資質ばかりでなく、各時代の価値観が現代以上にのしかかっていたと思われます。
ですから私たちはこの時期の音楽を知る為には、時代の趨勢、習慣、食べ物や着ていた物、使っていた寝具や台所用品他もろもろ、日常生活のすみずみを現存するものから味わって見る必要があります。

16000キロ彼方の400年前の世界というのは、何とも頼りの無い思いがするものですが、そこは人間の想像力!!!作曲家の個性を現在の体感で捕らえ、音符を実感として、現代にアピールする衝撃の美を再創造するというのが、今世紀初頭から起こって来た古楽復興運動なのです。

前記した「ミロとの会話」の中で私が最も感動するのは、散歩途中で拾った石の、形の意味が、しばらくしてから突然啓示のようにわかる・・・・・・というくだりです。又は、自作の絵を、たて横にひっくり返して眺めて見て、完成への糸口を寝床で考えるというくだりです。
尺度が曖昧で確証の無い、古色蒼然とした物材を相手にしていると、つい、人が縦と言うならそうしとこうかと言う安易さに流されがちです。横にしたり引っくり返して私なんかに何が分かるのか、と言う絶望感もあります。しかし自分の目で物を見る以外に、根拠はないのだと励まされる一節であります。

私は新たなプログラムを組む場合、演奏会の2ヶ月前に、一晩のプログラムを全部通して弾いてみて、一応決めます。大体の感触を「この山は険しそうだ」とか「案外楽しんでやれそうだ」とかと見積もります。これが大はずれで、死にそうな目に会う事もありますが、以降2ヶ月の生活パターンはこの時にほぼ決まります。
曲からのイメージ、つまり「石の形の意味」を考える時期は、直接楽器には触れません。曲によっては演奏会当日になっても意味不明のままの物もありますから、仕方ないので意味探しは次回にして、とにかく楽譜の具現化という作業にとどめます。
意味探しの時期には楽しい酒を飲む、手当たり次第興味のあるものを見る、濫読、家事にも精を出します。新しい引っかかりが転がっていないかと探しつつ、曲のイメージを膨らませていきます。技術には必ず限界があるので、楽器に触れると、自分の限界枠にはまったイメージしか生まれないのです。
一ヶ月前から二週間前になったら、イメージの実現の時期に入ります。早すぎてこの時期に入ると曲に飽きてしまって、自分が飽きている物を聞いていただくことは出来ませんから、結局プロを変えたりして全体構想が崩れるし、遅すぎると要するに間に合わなくなって、まともに弾けないということになるので、綿密な自己観察が肝心です。

一通り音を出してみて、構想を練り直します。夢と現実、作品と自分の距離を正確に測ることが一番の目的です。ちょうど、弓を引き絞ってから、的を狙っている時間のようなものです。充分に弓を引いておかないと的まで届かないし、待ちすぎて的を逃してしまうと、タイミングを逸しますから、この時期の判断が成否を決します。

練習は情緒の表現に重点を置き、潜在的無自覚な情緒を喚起するよう、全体から始めて細部に向かって、詰めていきます。
指を働かす方は、緻密に運動線を決め、体の重心移動や腰の開き加減なども、合わせて決めて必ずそうなるように脳を訓練します。
一番魅力的な作業は、なぜ私がこの曲を選び出し、音楽の何が私を呼んでいたのかを突き止めて、私自身の感動を探り、形にしていく事です。
演奏するものとしては、未知だった過去が、今という橋を渡って、明日に生きていく事が出来た時、又は聞いてくださる方が、新しい音響として生活の中にチェンバロを仲間入りさせてくださった時が、最良の日となるのです。 
  2000.3.10補筆

1991  9月号  古樂情報誌 アントレ  31号

アントワープ音楽祭
1.演奏会:
昼のランチ・コンサート、夕方のコンサート、夜のコンサートと3部構成で行われ た.(3日間は22:45からのナイトコンサートもあり)
ランチコンサートは事前にテープ審査があり、それに受かった人が一人30分のプ ログラムで、1日5人ずつが出演した。
日本人ではこの夏からレオンハルトに師事している芝崎久美子、(Cm)ストラス ブルクから(現在BXL在住)西 君子、(Cm)アムステルダムから(現在ベルリ ン在住)インマゼールに師事している荒木紅子、(FP)が出演した。演奏楽器は展 示会の中から自由に選べ、練習もでき、メイン会場の教会には毎昼、熱心に聴衆が集 まった。

夕方のコンサートは、1時間のプロで2ヶ所で行われ、それぞれの会場でフォルテ ピアノとチェンバロのリサイタルが行われた.
3日目の7.8には、日本から小島芳子がフォルテピアノのリサイタルを行った. 私はこの時、R.コーネンのコンサートに行かねばならず、聴く事が出来ずとても残 念だった。

7.7のリナールド・アレキサンドリーニのチェンバロ・リサイタルは、E.ジョ ビン製作のイタリアンを使用して、初期イタリア・バロックものばかりを集めたプロ だった。ベルギー、イタリアでさえあまり聴かれることの少ない地味目のプロにもか かわらず、極上に美しく、ボーイソプラノのような歌を楽器に奏でさせていることに 、感嘆した。

7.9のJ.ゾンライトナーのチェンバロ・リサイタルは、イタリアン2台、2段鍵 盤2台を揃え、スイスのT.F.シュタイナー社製のイタリアンは、すべての黒鍵が 異名同音用に2つに分かれており、演奏技術の煩雑な難解さもさることながら、目を 見張る音色不気味なミーントーン調律が実現され、A.マヨーネ作曲の<半音階的ト ッカータ>1609、ナポリ を弾き、演奏家としての冒険精神には驚いた。2段鍵 盤の1台には、移調用の道具が鍵盤の上に嵌め込まれていた。
総じて、夕方の時間帯は聴衆が少なく、その上貴重なコンサートが2つ同時に行わ れるというオルガナイズには、無理があったと思われる。

夜は、20:00から2時間のリサイタルの後、更に駆け足でルーベンスハウスに 行くと、1時間の深夜コンサートが3晩行われた. C.ティルニーがチェンバロとクラヴイコードで2晩、M.シュパーニがクラヴイ コードで1晩。
ルーべンス父母子像の絵の前で弾かれたC.ティルニーのクラヴイコードは、前述 のシュタイナー社製が使用された。豊かなニュアンスの音色で、ルーベンスの絵が背 後にあったこともあり、新たな啓示を絵から受けているような錯覚に陥った。人息れ と熱気で猛烈な熱さの中、黒の長袖タートルネックを着こんだティルニーが、ちっと も汗をかいていないのが不思議だった。

2.レクチャー マスタークラス
1回1時間で1日2回、10名の講師によって行われた。毎回共、3−4人の受講 者で、1曲を部分的にしか弾かせられず、1人当たりのもち時間が少ないのが惜しまれ た。受講者の個性や長所、欠点に対する講師陣の対応を明らかに知る事も、こうした クラスの見所になるので、最低でも1人30分位弾く事が、聴き手には必要なのでは ないかと思われた。
6日のJ.v.イマゼールによるピアノフォルテ・クラスでは、細部より全体の音 楽の名流れに重点を置き、それに基ずいたペダリング、フレーズィング等を指示していた。
C.ティルニ-によるチェンバロ・クラスでは、L.クープラン の無拍のプレリュードを、聴講者に行き渡るように譜面を用意するという入念さで、 アナリーゼを試みた。
「ただ、感情の赴くままに、速度を変えて弾くのではいけない。旋律線や和声構造 を分析し、その具現化に努めなければならない。」と述べ、自身の演奏も披露した良 いレクチャーとなった。

3.楽器展示
17名の製作家により、フォルテピアノとチェンバロが各20台ずつメイン開場に 展示された。M.スクブロネック、J.トゥルネイ等ブリュージュ音楽祭の常連の他 、オランダ、スイスからも若い制作家が参加していた。
チェンバロは全般に楽器のパワーが豊かになってきており、特にK.ヒルの楽器が よく鳴っていた。その他の中には、弦のテンションを強くして、弦をはじき上げる鍵 盤のタッチがかなり重いものもあった。
西欧の石造建築の中で聴くと、実に豊饒な響きの渦に包み込まれることに、いつも 驚くのだが、これは弾き手にも聴き手にも、幸福な時間を約束するものである。残響 時間が長くて、アーティキュレーションをしないと音粒が混ぜんとしてしまうが、融 和する空間として奏者と聴き手を一体化させることが出来る。従って演奏から、間近 で筆致を見るだけでなく、立体的に遠近法の輪郭や色のぼかしを聴く事が可能である 。このような体験がなかなか日本では難しい所に、古樂普及のネックがある。奏者が 音の伸びを信頼し、聴き手に届くことを確認しながら演奏できれば、聴き手の反応、 息使いを共有する事が出来る。
こうした環境の中で、若い世代の奏者や製作家が台頭し、聴衆のニーズとの折り合 いの間で、様々な個性が披露されて行く。まだ、2回目というこの音楽祭が、今後新 たな実験と才能を生み出す場として、活況を呈することを祈りたい。

綿谷注:1999年現在、経済上の理由からこの音楽祭は閉鎖されている。時期的 にブリュージュの方と重なっていること、同じフラマン系の財源であること、夏場の アントワープが暑くて、観光客の動員が困難だったことなど、いくつかの要因がある にせよ、残念なことで、再開を願って止まない。

クリソン音楽祭
パリ市モンパルナス駅からTGVで2時間半、ナントの勅令で有名なナント駅で乗 り換え20分。ロワール河流域のイタリア風古都・クリソンで行われた音楽祭にも参 加したので、レポートする。
この音楽祭は7.19から8.2まで開催され、マスタークラスとコンサートから なっている。
このうち古楽器は、チェンバロとヴァイオリンのコースがあり、チェンバロはK. ギルバートにより7.19−25、ヴァイオリンは7.26−8.2の間、行われた 。7.25チェンバロ・クラス修了生のコンサートでは、古城でのコンサートの後、 満員のお客様と一緒に、レセプションが深夜まで続いた。

1. K.ギルバートチェンバロ・クラス
受講申し込みは書面にて経歴などを記入し、多数の申し込みがあれば、オーディシ ョンが行われた上で、受講を許可する年もあるそうだが、本年は行われなかった。聴 講は有料だが資格は自由.
料金:受講者 約57000円、フルコース昼食とコンサート代含み 練習楽器1 人1日 
               4−5時間
   聴講者 約47000円、   同             練習楽器は なし
   宿泊  約26000円、7泊 朝、夕食代含み 2人部屋

私が参加したクリソンでの一週間で、最も印象に残っているのは、曇天続きの薄寒 いベルギーから行ったせいもあり、晴れ上がった空と、適度な湿度、きれいな森の中 で出されたフルコースの毎昼食、昼も夜も飲み放題の仏ワイン、そして私たちが出演 したコンサートへ、無料とはいいながら詰め掛けてくれた満員のお客様である。
受講者の練習楽器は2段鍵盤 3台 ナーゲル、ダウト、不明
         1段鍵盤 2台 ナーゲル、不明
と、かなり贅沢で、朝8:から夜11:まで弾く事が出来、1人5−6時間は毎日練習 できた。調律も早朝、夕方と常時調律担当者がきちんと行うので、楽器のトラブルは 殆ど起こらなかった。
受講者は9人。日本人 曽根麻矢子 小島ゆかり 綿谷優子
       仏人  16歳男性、女性2人
       ベルギー人 19歳女性
       ポーランド人 21歳女性
       カナダ人 51歳男性
と多彩な顔ぶれ。ポーランドの女の子は初めて1年。タッチに問題はあるものの、 強靭な技術と音楽的個性で他を圧していた。カナダ人は中学校の教師をしながら、チ ェンバロのイタリア舞曲の珍しい譜面をたくさん収集し、私達に惜しみなくコピーを くれた。
K.ギルバートのレッスンは毎日3−4時間、午前中に行われ、4――5人が受講した。今回は珍しく課題曲がなく、(ちなみにこのあとの8. 5から、ヴェニスの講習会では、J.S.バッハとロッシのトッカータが課題曲で、ロッ シの新校訂本を出版したばかりの彼は、受講者全員に真新しいこの譜面をプレゼント してくれたのである)事前に用意した曲を各自書面で提出させ、同じ曲が出ている時 はひきくらべをさせるという一幕もあった。
彼は「1年、又はそれ以上、引き込んである曲を聴かせてもらいたい。」と言い、 「習っている先生の真似をするのも良いけれど、個性がない。」と痛烈に揶揄する 時もある。良くも悪くも関心をそそらない、無個性で無難に終わる演奏だと、ただ「 ウン」と言っているだけで「次の人」となる。ポーランドの少女は演奏後、足バタバ タ、椅子ごと後ろへひっくり返りそうになり、「動くんじゃない」と言われると、窓 の外をいつまでも見ているという大変瞑想的な状態から戻ってこず、彼の眼もまん丸 くなった。
「君ね、悪くないの。いや良いかもしれない。だけども優雅に演奏することも必要 。終わった途端に大騒音を立てたり、どうしちゃったんだろうと思わせるのは、君の 演奏の意図なのかね?君のテンションの高さ、興奮して弾いていること、そういうの すごく良いと思うから、普通に終わって見られない?」とかなりな時間を「普通に終 わる事」の指導に当て、素直にわずかずつ普通になっていくその少女は、最後まで強 烈な個性を発散する見事なバッハを聴かせてくれた。
一方51歳のカナダ人は、人柄も大らかで優しいひとだが、演奏にはふくよかな香 りと歌が溢れ、聴く人をやすませ和ませる、大きな包容力を感じさせるものがあった 。ギルバート氏は、これこそ本当の音楽だと絶賛し、彼が弾いているといつも大ニコ ニコで聞き入り、細かい指導はするものの、全面的に賛意を表していた。
音楽的には、ニュアンスの豊かさと精巧な技術を要求し、常に生き生きとしている 事、ほと走る パトスがあること、しかし洗練されていること、何よりも美しいこと、そして人生 の総てが音楽に現れてくるようにすることなどが、主要なテーマとなった。
F.クープランの<神秘のバリケード>を弾いたベルギー人には、テンポの設定、バ スのフレージング等、細かな指示のあと、「私にとってこの曲は、人生の総てだ。皆 さん、帰ったらクラヴサン奏法を読み返しなさい。私は今でもいつも、この本から、 新たな発見がある」と述べ、私達を嘆息させた。
J.Sバッハの<半音階的幻想曲>のレッスンでは、
「レジスターに安易なコントラストを作るべきではない。レシタティーヴォの中頃 まですべて上の鍵盤で弾き、下鍵盤に移ってから最後部分で上に行って終わるのが、 今の私は最も美しいと思っている」
和音のアルペジオの旋律性を強調するために、上下どちらから入れたら良いか、な どについても、アイディアを具体的に示した。
暗譜については、暗譜至上主義に陥っているポーランドの少女に、
「1年位1つの曲を弾き続けて、指が覚えたからといって、楽譜をはずしてしまう のは良くない。」
と示唆したが、演奏は暗譜で弾くべきものと学校で教えられ、固くそれを信じてい る様子の学生にとっては、なかなか受け入れられるものではなかった。この様子を観 察していた彼は翌日、ピアニスト リヒテルの最近の手記をコピーして配り、
「私は長年、暗譜で演奏してきた事を今、後悔している。」
という部分を取り上げ、
「何十年という演奏活動を経ても尚、楽譜から受けるインスピレーションと創造の 現前性を大切にしたい、というリヒテル氏の意見に賛同する」と締めくくった.

ダングルベールのCD録音を終えたばかりの彼は、午後のレクチャーで総てのプレリ ュードと数曲の舞曲を弾きまくり、内輪の会だったこともあってか、自由に伸び伸び と、時に眼を閉じ全身で音に浸って弾いているのが、いかにも楽しそうで嬉しげであ った。
どちらかというと頭脳的な演奏スタイルの印象を、録音などからは持っていた私と しては、あまりに自然で、作為のない、美を真摯に求め続けている演奏に触れ、驚き とともに深く 感動を覚えたのであった。

綿谷注:1999年 このコースも全体の受講者が少なく、閉鎖されている。最近イタ リアの新しい講習会でも、情報が行き届いていて日本から参加者が多く、逆に長く続 いてきたコースでは、ヨーロッパからの参加者が少ないというのはどういうことなの だろうかと思ってしまう。ひとつには古樂の講習会がやたらと増え、玉石混交、若い 世代がそれ程順調に市場を広げていないこと、いつも新しい知識を人は求め、同じ人 に深く学ぶという態度が好まれない事などが考えられる。
ギルバート氏のコースは、イタリア・シエナ、祖国カナダ・ケベックでは継続され ていると聞く。

月刊Asahi/92.11月号  ティータイム
「西欧の首都」ブリュッセル

ここブリュッセルでの市民生活にも、「欧州統合」への動きがじわじわ影響し始め ている。 ベルギーの首都ブリュッセル市は、西欧列強にときに組み敷かれながらも千年余の 豊かな歴史を持つ都市である。石畳の道路が床しく残り、日本では欠かせないガード レールや歩道橋、電柱も全然ない。路面電車の脇を、いまだに騎馬警官がゆっくり巡 回している。 だがブリュッセル市民がそうした伝統を今後も維持していくことを望んでいること は間違いない。そんな市民にとって、統合EUの首都をブリュッセルが引き受けること は、歓迎できるはずもなかった。

ブリュッセル市民には、統合自体がそもそも日本の経済脅威に対応するためだとい う意識がある。平均所得への税率54%という過酷な税金が、日本やアメリカの企業 向けに使われているという不満も強い。多数の日本人が、低料金で学べる語学教育な どの恩恵を受けてきたからである。なにしろ、外国人に対する仏語教育は充実してお り、一日3時間ずつ週に5日間教える初心者の場合、1年の学費がたったの8000円なの だ。「注:2000年現在、さすがにこのような市立語学学校は姿を消し、EUのパスポー ト所持者、IDカード所持者のみ学ぶ事の出来る、大学所属の語学専門学校が最も安く て、レベルも高い。」

ベルギーのお家芸ともいうべき古樂をはじめ、クラシック音楽や舞踏、更には医学 や電気工学などを、安い学費で学ぶ日本人も多い.無論日本人のみに与えられている 特典ではないが、こうした事業を支える財政上の負担をベルギー国民がなぜ、強いら れなくてはいけないのかという疑問は、当然庶民の間にもある。
ブリュッセルにある日系企業の駐在員給与が、当地市民の一人あたり平均給与 約 18万円の2ないし3倍に及んでいる事も日本人への風邪あたりを強くしている。やち んを除けば、東京とさほど激しく物価は変わらないのだが、日本人の購買力はとにか く旺盛である。
市中心部の百平方メートルもある賃貸マンションが月6万円程度で借りられる分、 家計費を買い物に回せるのだろう。もっとも、家賃は会社もちの日本人ビジネスマン 家庭は、通常月12−15万円もする超高級マンションに住んでおり、日本人の多い テルヴューレン通りを地元の人は「日本人街」と呼ぶ。日本企業による社宅用地買収 で不動産価格も跳ね上がり、当のベルギー人は市の郊外に追われがちだ。
「アラブ人は街をスラム化し、日本人はスノッブ化する」というありがたくない言 葉さえ生まれている。
そのせいか、「黄色い釣りあがり目の奴等を(日本人のこと)追い出してやる」と いうテレビ発言がうけて、支持を得だしたネオ・ナチなどの極右グループが、日本人 住宅を焼き討ちにする物騒ぎな事件も起きた。

ベルギー政府は92年4月、消費税率を13.5%も引き上げた。公共料金、通信代 、運賃なども一斉に上がった.庶民の不満がますます日本人に向かう気配である。フ ランスでも政府がこの8月から、日本製食料品を輸入禁止とした。フランス産食料品 に放射能汚染の疑いがあるとして、一部、製品の輸入を日本側が規制したことに対す る報復措置だが、在仏日本人3万人は、困難な対応を迫られるだろう。いずれにせよ 、西欧は門戸を閉ざす傾向にあり、庶民感情にも排他的な気分が日に日に濃くなって いることは否めない。

西欧はその中華思想、啓蒙思想もあって、文化であれ何であれ、吸収されることに 寛容であった。しかし今、まさにそのことが自分等の首を締める事につながったとい う、苦い思いが強まっている。
西欧の庶民は「EU統合」が危険な賭けであることを肌で感じている。
千年余の時間をかけて熟成してきた伝統文化が、経済力に裏打ちされた新興勢力に 揺さぶられ、今後、同じ土俵で競わなくてはならなくなった事への嫌悪感は、ひとし おである。
大きな岐路に立つEU共同体とともに、日本そのものが、経験した事の無い茨の道を 歩む事になるのだろうか。

2000年1月14日、この原稿を読み直し、あらためて湾岸戦争の勃発に伴う不穏な空 気漂う、あのころのブリュッセルを思い出す。 EU本部は、巨大な建物を何とか立ち上げたものの、腐敗と汚職を繰り返し、99年に はメンバーの大幅な入れ替えを行った。EUROも書類上の取引はされているが、換金手 数料の高いことに加え、レートが下がってきており、当初の経済振興の目的が安易に は行われ得ないことが明白である。
しかしバブル景気の破綻は、駐在する日本企業の凋落となって、白日のもとに晒さ れた。日本の銀行支店が、ぞくぞくと撤退を余儀なくされた98年頃から、西欧の人々 は、繁栄の頂きから転落していく国家の有り様に気が付き始めた。日本人は今までの ように上得意客ではなくなったのだ、いや、危ないかもしれない。
ある外務省高官は「今まで日本は好かれていると思っていたけども、あれは金の力だったのですね。今や誰も振り向いてくれない。」と こぼしたが、実際町の小さなスーパーでさえ、軽蔑を剥き出しにする店員がいると、 人種差別にまた新手の圧迫が加わるのかと嘆息してしまう。西欧で家族や仕事をもち 、棄日した訳ではなくても、生活の基盤を西欧におかざるを得ない日本人にとっては 、哀しい事である。けれどもまた、30年以上を西欧で暮らして来た日本人の中には、 70年代の状況に戻るならそれもいいのではないかと言う人もいる。
日本のデパートや銀行がたくさんなくても、いいところに住めなくても、日本人が どんどんいなくなって寂しくなっても、もともとそこから私たちは出発して来たのだ からね、不便なんて慣れてるし、日本が豊かでも現地は長い間の不景気で、今更始ま ったわけじゃなし、淘汰されていいのかもしれない。

東京に帰ると、どこが不景気かと思うほどまだまだ消費社会、輝かしいメガロポリ スである。贅沢に狎れた都市が、いつまで虚飾を剥ぎ取らずに存続するのか興味深い 。
ブリュッセルは西欧で小都市、アジアで言えばシンガポール、日本では仙台のよう な所だ。都市機能そのものが小規模で、清潔でちまちまとしている。それはそれで温 かみもあり、居心地も悪くはないが、根本的に不便だ。便利になったことがないから 、何がどうなったら便利なのか分っていないし、必要性を感じないらしい。私はすで に諦めているが、緊急の時など日本なら当たり前のサービスがないのには、本当に参 ってしまう。救急車が有料で、走行距離に準じた請求書をちゃんと送ってくださり、 友人に抗議したら「日本て只なの!!」と驚かれ、世界中救急車が只だと思っていた 自分がアホなのだったと、反省はしたが、所得税54%も取って、そのぐらい税金を 使ったらどうかと機会があれば進言し様と思っている。     
                                             東京 2000年1月1 4日

1986年 季刊 草樂社
「古樂事始」の記
何事にも始まりがあるように、音楽にも人それぞれに最初がある。どんなきっかけ で、どのようにしてやってきたのか。
そんな思い出を現在、第一線で活躍している演奏家に思い出していただきました。

「プツプツ」とした感触から出発。              綿谷優子
最初に触れたのは中学3年の時、ノイペルト製モダン・チェンバロです。プツプツ とした鍵盤の手触りで、ふしぎな楽器があるなあと思ったものでした。
当時私はロマン派志向で、3日に2度は演奏会へ通い、ちょうど大阪万博の招聘で 、カラヤン、バーンスタインを始めとして、「ボリス・ゴドノフ」「エウゲニー・オ ネーギン」前後して「ファルスタッフ」(F.ディスカウとマゼ-ルを見たのもこの頃 が始めて)などのオペラを、どきどきしながら見ていました。眼をつぶれば、ケンプ のベートーヴェンやシューベルト、メニューヒン、バルトーク・カルテットたちの音 が、今でも激しくきこえてきます。
まるで餓鬼のように音をむさぼり、趣味もへったくれもなく頭の中は渾沌とし、夢 中で幸福でした。何しろ20年前(2000年現在、30ン年前になる)のことです から、古樂何て言葉もなかったし、弾こうにも身近に楽器も楽譜もないないずくしで 、今とはまるで国が違うみたいでした。

JSバッハとの対面

コンサート三昧でろくに勉強らしいこともせず大学へ入ると、必須の和声学があり ました。毎回バッハのコラール旋律だけが与えられ、和声付けをしていくと、翌週バ ッハ様作曲の全貌が明らかにされ、しかも自分の書いたものはクラスで発表されると いった授業。先生は作曲家の別宮貞雄氏で、その評価の下し方は卓抜でした。不謹慎 な言い方で申し訳ないのですが、バッハのコラールにすごい色気を感じました。
厳格な4声体でかつ、がんじがらめの規則の中で、内声一音の動かし方、バスのさ り気なくぞっとするような下行、調整を逸脱寸前の半音進行。1曲ごとにあっと驚く 仕掛けが凝らしてあり、どっかで聞いたようだなと思うと、ブラームスのインテルメ ッツォの始まりだったり、ショパンのマズルカなんかにちゃっかり同じ進行がかくれ ていたりするのです。のめりこんでしまって、カンタータ全曲聞こうとか、平均律全 曲通して弾こうとか(この全曲というパターンが割と今だに好きなのですが)毎日、 面白くてたまりませんでした。

チェンバロの勉強を始めて
大学3年になって、学生が弾かしてもらえるチェンバロが学校に来ました。その頃 になると、大バッハ以外のバロック音楽にもかなり興味をもち、F.クープランの劣悪 版の譜面を全曲買い込み、せっせとピアノで弾いたりしていました。けれども対位法 的な曲の場合、内声が埋もれてしまうこと、かといってある1声部だけを物理的に強調するとバランスが崩れてしまうこと、声部ごとに違うアーティキュレーションを しても、それほど効果が表現できないこと、結果として、音楽の切実さが不足してし まうことなどが不満でした。
鍋島元子先生が留学を終え帰国されてすぐ、私達の学年はチェンバロのレッスンを 受講することができました。
まず初めに16世紀イギリス、ヴァージナル学派の作品を与えられ、音風景も響き も全く違うそれまで知らなかった語法、時代様式に接しました。新鮮でした。
また、装飾法のすみずみにまで、国や作曲家によって固有の表現方法があることを 知って仰天しました。
例えば繰り返し記号がついていて、繰り返した時には即興的に前と違った装飾をつ けるとよいと教えられた時には、即興的などという言葉は前衛過激派かジャズマンの ボキャブラリーで、私達オーソドックスな人間は、楽譜に定着した音を再現すればよ いのだと、自然に思い込んでいたので、これは大変なことになったと思いました。
根が純朴な性格のせいか、これ以後第2次飢餓期みたいになって、絶望的かとも思 われた250年にわたる膨大なレパートリーを1曲ずつ体験していきました.一通り の国々、作曲家に馴染むのに10年はかかりました。

私がこの楽器を選ぶに至ったのは、最初に書いた「プツプツ」した感触だったと思 います。指に弦が直接触れてくる感触、そのはじき方の強弱、明暗、熱冷、粘着度、 滑りや溜め具合などによって、音が変化する面白さです。弦楽器に慣れていなかった 私の耳には、はじき方からくる音の強弱、音質のの違いをききわけることは、当初か なり困難で、発想の転換を迫られました。でも聴こえてくれば、もともとマクロで音 を聞く事が好きでなかった自分の性格ともよく合いましたし、多層的な音楽がくっき りと映し出せることが魅力でした。そして弦を激しく、あるいは嬉しそうに引っかく 時の、運動感としての指の快感、ジャックの爪を充分にたわませて弾く時の心の酔い 、私はこういう感覚が自分の中に開発できるとは思いませんでした。 

海外の名手達
ブリュージュでヴィーラント・クユケンを聞いた時は驚嘆しました。JSバッハでし たが、 初めてピラミッドやアンコールワットを発見した人のような気持ちでした。
Gレオンハルトも、初めて聞いたのはJSバッハでしたが、聴き手との生なぶつかり 合い、情報としての音響変化ではなく音へ肉迫していくエネルギーが鮮烈に聴こえま した。
Sロスは脱力の神様みたいで、Tコープマンと随分対照的でした。
それぞれの演奏家がいろいろな場所に立って古楽を眺めているなあという印象でし た。
「これぞ、正統派!」という硬直した、隙の無い演奏は無くて、親密で間口の豊か な、温かい音楽でした。

編集部からは私の勉強法についても依頼があったので、少し触れておきます。
指は、指先から第1関節までが独立するようにすることが他の鍵盤楽器と違います 。弦をはじくタイミングを指の腹で感じられるように、1本ずつ神経をここに集中で きる練習もしました。
重心が手の1点に集まってしまうと対位法的に弾けないので、手の平の力をぬいて 、指にはいつでも移行できる横波のような力を与えられるようにします。これはすぐ に出来るようになります。
難物なのが消音で、英独仏伊のあらゆる言葉の語尾に囚適する音の切り方が出来た ら、バロック期の形が持つ、空間とのあらゆる接し方ができるように、なるといいな あと、思っている今日この頃です。


身辺雑記

●現在1999年12月東京  16度

10年振りの晩秋の東京は、暖かくて銀杏が黄金色に映え、蛎フライが好きなだけ 食べられて、うれしいです。ベルギーの鹿,野うさぎ、鴨等の料理も、おいしいです が・・・・ワインがムショウに飲みたくなって、高いので参りますが週に1度は行っ てしまいます.ベルギーにいると、高い日本酒を週に1本はのむので、何処にいても 不経済な人間です。雑用が多くて物凄く忙しくて、常に不正確かつどじなことばかり しています。2000年3・16から12日間、オルガニスト、ソプラノがブリュッ セルより来日してツアーをしますので、その下準備をしています。不況の中、7回も 公演が決まっていて、感謝の気持ちで一杯です。

●2000年2月東京

暖かな日本ではもう、たらの芽が出回っていて何年ぶりかで食べられ、ご満悦。4 月頃で なければ見られないと思っていたが、2月から食べられるとは!
昨晩は何だか高いワインを飲んでしまって、ひどくおいしかった。ベルギーでは滅 多にお 目にかかれぬ代物。ドイツの味の素臭い白ワインしか飲んだことの無いものには、 これが 白ワインかと、目を見張る芳醇さ。いやはや、まわってくる勘定が恐ろしい。
家の、私がブリュッセルにいる間 、放って置かれるチェンバロの嫁ぎ先が決まった。今度 は梅雨時でもかびたりしないだろう。小田氏という、メンテナンスのきちんとでき る方で、 本当に安心。3.13に入れることにした。

*2000年3月6日*

3.1深夜、このHpが立ち上がった。転送が難物で、窓の杜でただでインストールしたws-FTPではどうしてもファイルが送れず、手伝って頂いている永野さんにギブ・アップサインを送ってしまった。起動設定が英語でやたらにややこしく、難しいソフトだった。
結局有料のFTPで転送が完了した。
永野さん、本当に有難うございました。感謝 感謝。

Hpの話が持ち上がったのは去年の11月。PCの何たるかも全く知らなかった私を、秋葉原へ引っ張って行ってくれた山本さん。
インターネットの設定をして頂いて家に持ち帰ったはいいけれども、とんでもない機械音痴の私が、一体どうやって3ヶ月でHTLM変換までこぎつけたかは、ひとえに永野先生のご指導の賜物であります。

大体マニュアル本というのはどうしてああ判りにくい物なのだろうか。 あれが理解できる人なら、読む必要もないんじゃないかと毒つきたくなる難解さ。

ブリュッセルでも使える住所をと、AOLにしたら、ベルギーにはサービスセンターがなくて天文学的な追加料金が加算されると知り、大ショック。
結局ベルギーIBMに現地で契約し、AOLはプロバイダ経由というのにすると100時間でも5000円弱になることがわかり、一安心。

でもAOLは起動すると他の通信手段が一切使えなくなり、アドレスなどHTLMで保存が出来ず、不便なこともある。 マイクロソフト社と犬猿の仲だそうで、特殊なプロバイダーではある。
それにしても、Win98まではパーティションが難しく、日本語Winはアメリカか日本でしか買えず、私のような超初心者には英語Winは無理だと わざわざノートの98を買ったのだけれども、2000は多国言語が問題ないそうで、すばらしい。これでやっと、ヨーロッパで買っても日本語がすんなりと入れられる。しかし、周辺機器が作動しないらしいので、やはり少し待ったほうがいいのだろう。


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