学会論文要約・更新1.16.02

学会論文要約

更新1.12.02バルバトルの演奏解釈



英国の装飾音法「English Beat]


Pieter Dirksen編 1990年ユトレヒト国際チェンバロ・シンポジウムから


1.書簡集を含むJohann Jakob Froberger  and the Netherlands


和訳要約:綿谷優子




DON BÉBOS, ENGRAMELLE, AND PERFORMANCE PRACTICE
Peter la Huray

[バルバトルの演奏解釈とタッチ]
Aspects of Keyboard Music
Essays in Honour of Susi Jeans
On the Occation of her Seventy-fifth Birthday
Robert Judd編
Positif Press-Oxford ISBN 0 906894 21 2 1992
和訳要約 綿谷優子
禁転載:編集者了解済み

訳者注*ENGRAMELLEの特異な計量記譜法はコピーで範例を見ていただくしか今の所手段が無いので、ご希望の方は別途お送りします。講習会参加の方には当日配布致します。
(送料・コピー代・実費)watayayuko@aol.com

本文P.13
1766−1778年Dom Bédos de Cells著「L'Art du facteur d'orgues」(ファクシミリ:Documenta Musicologica, Erste Reihe (Druckschriften-Fasksimiles, 24-6, Bärenreiter Kassel, 1963-6)は、それまで出版された全てのオルガン製作に関する著作の中で最も重要である。Dom Bédos de Cellsは1709年Béziers生れ、17歳でトゥールーズSt.Mauer à la Dauradeのベネディクト派に入会した。オルガン製作に関心を持ち、1759年ボルドー科学アカデミー・メンバーに選任された。このアカデミーは、ダランベール、ディドロ、ルソー等錚々たる百科全書派のメンバーを持つパリ・アカデミーと提携し、「L'Art du facteur d'orgues」は1766−1778年にパリ・アカデミー「Collection des arts et metiérs(工芸コレクション)」の一環として出版された。1793年ベルリンで独訳され「Kurzgefasste Geschichte der Orgel」のタイトルで出版。4部構成から成り、第1部:オルガンの一般的構造学、第2部:製作方法の豊富な技術を紹介、第3部:オルガニスト用に新オルガンの査定方法、ストップの使用法、第4部:オルガンが世俗楽器となり得るかどうか、多様な使用目的の可能性、コンサート・ホール用大オルガンからリーガル・オルガン、手回しオルガンに至る分布、手回し機械オルガンはいかにpin music(穴あき紙が廻って音を出す音楽)と適応するかという魅力的考察。この考察はDom Bédos de Cellsの記述ではなく、アウグスト会修道士Engramelle著「La tonotechnie, ou l'Art de noter des cylindres...dans les instruments de concerts méchaniques Paris, 1775」の中から、手回しオルガンに関する部分のみ借用して、Dom Bédos de Cellsの自著に掲載する許可を取り付けたものである。
アウグスト会修道士Engramelleはパリ、サン・ジェルマン教会神父で、パリ・ノートルダム教会オルガニスト、クロード・バルバトルと懇意であり、演奏法に一家言持っていた。Dom Bédos de CellsはEngramelleについて感嘆の意を述べている:
「私は彼が確立したメソード、演奏原理のどちらにも、かつて無い程満足している。他の音楽家達は法則性の無い浅学を露呈するばかりで、言及する事さえ時間の無駄だ。彼等は歌の旋律装飾や、silenceとtenuesのコンビネーションから音楽のアーティキュレーションを形成する、つまり実践的に2つの4分音符をどう弾き分ければ良いのか、イネガル奏法等、最良のオルガニストにより既に実践されている、良い演奏に不可欠な基本的知識すら持ち合わせないのだ。私にとって充分な演奏を聞かせてくれる有能なオルガニストであるバルバトル氏の幾つかの作品には、巧妙な書法でサインや記号が書き込まれてあり、バルバトル氏の非常に洗練された演奏を自身の記譜法が明らかに実証している。」
Dom Bédos de Cellsは、他の音楽家はピッチ変換、リズム等のさじ加減についてアウトラインだけで満足しているが、特にEngramelleは一般レベルのみならず、熟練した演奏家が行なうアーティキュレーションの選択、更にスラーを伴うか、デタシェにするか、イネガル選択等について、体系的に深く追求した事を高く評価している。又Engramelleが演奏ニュアンスの問題を、単純なシステムに基づいて議論の余地無く周到に、実際に弾く音符から実践的に論議を展開した事についても賛嘆している。Engramelleの諭文を詳細に言及する前に、我々はEngramelleが論議の題材とし、自身も演奏したに違いないバルバトルの作品と、彼の演奏スタイルについて知らなくてはならない。
バルバトルはバロックにもクラシックにも属さない、移行期18世紀の少数派的作曲家だった。泡沫的でうわべだけ華々しく見える毒の強いメロディー・・・・しかしバロック音楽演奏法文献「Tonotechnie」を見ると、バルバトルの演奏スタイルは、初期バロック様式を踏襲した伝統的スタイルであったと書かれている。バルバトルはラモーに学び、Engramelleが指摘するところによれば、バルバトルの装飾音、書かれていないリズムの抑揚(イネガル奏法等)は17世紀後期のスタイルを拠点にしている。パリ・ノートルダム教会オルガニストは、バルバトル以外に、シャンボニエールの弟子だったF.クープランIの息子(*本文誤植で、F.クープランIの孫にあたる)アルマン・ルイ・クープラン(1725−1789)、ルイ・マルシャンの弟子だったルイ・ダカン(1694−1772)等がいた。彼等の中では伝統的バロック音楽演奏概念は最早すたれ、独自の個性を開花しつつある時期だった。Engramelleが見抜いたように、この時期の演奏法には、書かれた音価を縮めて行なうアーティキュレーションと、装飾法という2つの特徴的局面があった。この問題に関してEngramelle以前の著述は、一言で片付けるか、さもなければ陳腐な論述を披瀝する事が多かったので、Engramelleは精密なリズム・ニュアンスを明確に図表化する事に腐心した。Engramelleの探求は、通常の記譜法では表現しきれない演奏の不可解な部分を巧妙に図表化して行くと共に、図表の理解を助ける有効な記号や表示方法を見出していく事に在った。

[La tenue & le silence:発音と沈黙]
Engramelleは最小音価32分音符から最長音価全音符まで、書かれた全ての音は、発音と沈黙のコンビネーションとして聴き手には伝わると主張した。発音された音は音楽的背景により、tenues ou premieres初めの音:強拍音、又はtactées ou secondes2番目の音:弱拍音に分類され、各音には必ず発音した後すぐに、アーティキュレーションする事による沈黙:silenceの間があり、終結する。実際の演奏で音価が縮められるなら、記譜にも、発音の音価、沈黙:silenceの時間的分量、アーティキュレーションの割合等を詳細に表示すべきだと強調している。以下引用:
「発音された音を沈黙:silenceと分ける割合、アーティキュレーションに必要な沈黙の音価も、発音の音価と同じく表示される事が必要だ。この表示に乏しい場合には、例えばアーティキュレーションの無いミュゼット(フランス風バグパイプのタイプ)のように深刻な欠陥となる。」
Engramelleは、音価の内発音する(伸ばす)時間=黒線、沈黙:silence=グレーの線で、左から右に見てその割合が分るように図表化している。(*しかしこれが、印刷本で見てやっと判別出来る程度の濃淡で、コピーを取ると絶望的な状況となる・・・)(EX.1.参照)

[Des Silences d'articulation: 沈黙の間合いを創り出すアーティキュレーション]
バルバトルの演奏を聞きこんだEngramelleは、バルバトルの譜面には発音・沈黙との様々な割合が、既に作曲家自身により記譜されている事に気が付いた。(*バルバトル:ウジェール版参照)Engramelleがtactéeと呼んだ弱拍の音価は、8分音符又はそれ以下の音価の場合は4分の1しか伸ばされない事、稀には長い音価が8分の1しか伸ばされない事もある。Engramelleがtenuesと呼んだ強拍の音価は、弱拍よりアーティキュレーションの量はずっと少なくなり、tenues:強拍の音価とアーティキュレーションの比率は音楽的状況に左右される。Engramelleは最長から最小音価に至る4つの沈黙:silenceを、比率別に分類した。以下引用:
1. Le silence de reprise d'haleine :吐く息の間合い
セクションやフレーズの最終音に当てられ、書かれた2分音符又は全音符は、半分又は4分の3しか価をもたない。
2. Le silence de coup de langue :言葉を話す時のような間合い
音型又はフレーズ中の4分音符に当てられ、書かれた半分の価を持つ。
3. Le silence de détaché :デタシェの間合い
普通8分音符分又は多少長目でも良いが、音楽的状況による。
4. Le silence de liée :レガート音型での間合い
最も短いsilenceで、32分音符以上の価は持ち得ない。

アーティキュレーションは基本的に演奏家の趣味の問題であり、規則を作ってこれを守るというような性格のものではない事を重々承知しながらも、アーティキュレーションについてこれ程詳細に記する事の出来た最初の理論家だと、Engramelleは自信を持って公言している。重要な事は、アーティキュレーションが演奏の質を問う場合の基本判断材料にされていたという事実である。以下引用:
「各音の終わりに必要な沈黙:silenceについて演奏者自身が確信を持つ事は、あらゆる鍵盤楽器の・・オルガン、チェンバロ、スピネット他・・どんな曲にも不可欠である。記譜を遵守するよりも、実践的演奏法に精通しなければならない。次の音が鳴るまでの間長い間指を上げたままにしていなくてはならないインターヴァルがあって、これが沈黙:silenceに必要な「間合い」であり、沈黙のアーティキュレーションとも言うべき時間処理法である。アーティキュレーションの無い母音が続くシラブルを除いて、子音の無い話法が無いように、沈黙:silenceの無い音楽は存在しない。」

[Des tenues & des tactées:強拍と弱拍]
Engramelleはリズムに沿って音価を線長で現した。tenues ou premieres初めの音は強拍音、tactées ou secondes2番目の音は弱拍音を現す。偶数拍子では1拍目と3拍目、奇数拍の8分音符が強拍になる。4分の2拍子、ゆっくりな4分の4拍子では、奇数拍の16分音符が強拍になる。強拍音は弱拍音より若干長目に伸ばさなくてはならない。3拍子系では1拍目のみが強拍なのでやはり若干長目に伸ばし、3拍目が長くなる事は絶対にない。Engramelleは強拍を音符の上の水平線、弱拍を垂直ダッシュで表示した。伸ばす音価は水平線上の点の数で精密に規定され、1点は16分音符分のsilenceを意味する。4分音符は水平線と2つの点で現されている。(Ex.I-II、図版CV,CVI参照)又Engramelleは、le tenue simple とle tenue composéeを区別している。le tenue simpleは一音、le tenue composéeは装飾音付き音を全て含む。

[De l'inégalité des croches :4分音符のイネガル奏法]
アーティキュレーションについて精密に音価を表示する事に専心したEngramelleは、対照的にイネガル奏法の音価については驚くほど大雑把な表示しかしていない。バロックの演奏習慣が非常に簡単に紹介されているだけで、実際は謎に包まれている。フレデリック・ノイマン「フランスのイネガル奏法、クヴァンツとバッハ、Journal of the American Musicological Society 18 1965, P. 313」が述べているように、イネガル奏法はフランス独特の奏法だった。18世紀初期に入り、奇数番目の音を音価より長く伸ばし、偶数番目はその分縮めるという習慣が残っていた。イネガル奏法が当てられる音符の音価は拍子記号により規定され、4拍子系では8分音符、3/8, 6/8, 8/8拍子では16分音符のみに適応したが、4/4, 3/4拍子におけるイネガル奏法は必ずしもこの規定にそぐわないケースもあり、音楽的状況に左右される。Engramelleはしかし拍子記号についてすら言及しておらず、4分音符、16分音符にも、イネガル奏法は状況により適用可能としている。又前出のtenues ou premieres初めの音:強拍音と、tactées ou secondes2番目の音:弱拍音の組み合わせは、殆どの場合イネガル奏法を用いると強調している。tenues ou premieres初めの音:強拍音は音価より長く伸ばし、tactées ou secondes2番目の音:弱拍音はその分縮まるが、この比率は常に音楽的性格から考慮される。以下引用:
「賑やかな作品は優雅な作品より、マーチはメヌエットより、イネガル奏法が頻用される。しかし賑やかなマーチのようなメヌエットが無い訳ではない。様式や譜面から、傾向の違いは察知する事が出来る。一般的に4分音符2つの音型では、tenues ou premieres初めの音:強拍音は音価より長く伸ばし、tactées ou secondes2番目の音:弱拍音はその分縮まるが、総体音価を超えてはならない。」
Engramelleは一般的通念としてのイネガル奏法以上に、例外的ケース等には全くふれていない。バロック時代の演奏習慣では、スラーで括られた3音以上のグループ音型、跳躍音程にはイネガル奏法を用いないのが慣例だった。又音型の頭ではégal:均等に弾くのかどうかも議論の余地がある。Engramelleはこの問題についても一切ふれていない。
Engramelleは当時流布していた基本的装飾音を9例取り上げて図表化している。18世紀初頭の基本的装飾音型には、単音のアポジャトゥーラ(port de voix or cheute)、トリル(cadence, tremblement or trillo)、モルデント(pincé)、ターン(double or involution)の4つの主流があり、トリルの終止(後打音)は奏者固有の独立した装飾だった。その他のマイナーな装飾としては、arpége( 分散和音)、coule(3度音程を埋める音階装飾)、liason(3度、6度、又は連続3度の音を音価通りに切らないで押さえたままにしておく奏法)等が使用されていた。ダングルベールとF.クープランの装飾法を比較した百科全書的大著・フレデリック・ノイマン「バロックとポスト・バロックの装飾法、プリンストン大学出版、プリンストン1978年」にもあるように、彼等の装飾法は即興演奏の一環として扱われた事に疑いは無く、基本的装飾法は解釈の多様性を孕んでいた。
例えばトリルは通常上接音から始まるが、前後関係により主音から始めても良い事になっていた。又アポジャトゥーラは通常拍頭から始まり主音音価半分を費やして良いが、前後関係により拍前から入れて、主音音価半分以上・以下でも構わない場合もあった。Engramelleの奇抜な装飾音価についての図表化は、即興的要素の強い装飾奏法からほんの1例として可能性を規定したもので、本来図表に定着化し得る計量概念と即興性とは相容れない。Engramelleは装飾法の一握りを図表化したが、奏者に委ねられた他の可能性については言及せず、当時としては典型的な理論家だったと言える。

[トリル:trill]
トリルには4つの論点がある。
1. 開始音を主音とするか上接音とするか。
2. 開始音をどの位伸ばすか。
3. トリルをどの位の長さで入れるか。
4. トリルの終止をどうするか。
Engramelleは大別して2種類に分けて表記している:(*ここからは図版が無いと、理解が難しいかと思われます)
1. EX.1 図版CV−1と2、EX.2 図版CVI:フレーズの中のトリル適応法
2. EX.3 図版CVII−1から4:フレーズの終わり(終止)のトリル適応法
終止でない最も単純な装飾法の例はEX.1 図版CV−1と2に挙がっているが、Engramelleは装飾音の入れ方を詳細に記し、両方とも上接音から開始している。先行音が強拍でトリル開始音と同音の場合には、トリル開始音の方にアクセントが付いてしまうので、強拍の先行音が弱拍に聴こえてしまう。従ってトリル開始音と強拍の先行音の間には、拍節感を明確化するために相当量のアーティキュレーションが必要となる。32分音符で書かれた装飾音は、実質上32分音符音価でなくとも良い。
EX.1 図版CV−1と2では、2の方が32分音符装飾音の数が1の約2倍になっているが、付点8分音符分の装飾を入れれば、素早く5音トリルを入れても、ゆっくり3音トリルを入れても構わないという意図。
EX.2 図版CVI−1と2はEX.1と異なる例で、先行音と装飾音がスラーで繋がっているので、トリル開始音は主音で(上接音ではなく)拍頭に来る。先行音とトリル開始音の主音との間に、silence d'articulationは存在しない。
EX.2 図版CVI−3はcadence appuyée detachée、EX.1 図版CV−2は cadence detachéeとして、Engramelleはトリル記号の後に小さい点を付ける事で、2種の記譜を書き分けている。Engramelleのcadence appuyée et liéeはEX.2 図版CVI−4に書かれているが、装飾音を書き込んだ図版に4分音符Cが落ちていて、記譜に正確さが欠ける。先行音からスラーで繋がったトリルの為、上接音からではなく主音Dから入れるトリルにも拘わらず、上接音Eからトリル4音が記載されている。これは拍頭にトリル開始音として主音のDを入れるが、先行音EからレガートでDのトリルを始めるという意図である。更に当然主音D上にトリル記号があるべき所、記譜のトリルは先行音E上に書かれている。スラーが無ければ通常このような場合、E主音トリルとして、トリル開始音は上接音のF音から弾く事になる。
EX.3 図版CVII−1から4の終止トリルには、驚くべき音価の短縮が記されている。EX.3 図版CVII−1と2は、2分音符主音の半分にも満たない装飾音(CVII−1.32分音符が5音・CVII−2.32分音符が4音)しか書かれていない。EX.3 図版CVII−3のトリルは、4分音符先行音を8分音符に縮めて2拍目の装飾音を拍前に出して入れ、3拍目で終止する。EX.3 図版CVII−4の終止トリルCadance finalleは通常と逆の奏法が書かれ、普通最終トリルはドミナント上で行なうが、Engramelleの記譜ではトニック上でトリルを入れて終止している。

[The Pincé or Mordent]
バルバトルはPincé or Mordentの開始は主音からとしていたが、これも音楽的背景による。 EX.4 図版CVIII−1から4はPincé or Mordentの各種を記譜しているが、スラーの無いPincé or Mordentは下接音から、スラーのあるPincé or Mordentは主音から入れる事を現している。
EX.4 図版CVIII−3、EX.6 図版CX−2と4には、é(前打音)から始める例が記され、Port de voixか、下接音からのappuyée(前打音)として扱われている。
EX.4 図版CVIIIの全例は、appuyée(前打音)のないPince or Mordentは、拍頭に入れる事を現している。

[The Port de voix or lower appoggiatura(下接音からの前打音)]
Engramelleの解釈は非常に明解で分り易い。全て8分音譜で記され、主音に関係無く8分音譜分の音価を伸ばせば良い。奇妙な事にupper appoggiaturaについては一切触れていない。しかしF.クープランの時代から最も一般的な装飾法として、18世紀中期まで広範に用いられていた。

[The Double and Port de voix(下接音からの前打音)]
EX.5 図版CIX−2と3には、Double 又はターン、Port de voix(下接音からの前打音)とupper appoggiatura(上接音からの前打音)の装飾音記譜がある。ターンは通常のように上接音から4音を弾き、開始音音価は明確に規定されていないが長目に押さえる。
Port de voix(下接音からの前打音)には複数の用法が書かれている:EX.5 図版CIX−4は、付点8分音譜の主音に対して、半分の音価がPort de voix(下接音からの前打音)に当てられている。しかしEX.6 図版CX−3はEX.5 図版CIX−と同じ音型でありながら、16分音譜で記されたport de voix(下接音からの前打音)が明確にその充当音価を保っている。EX.6 図版CX−1はスラーが付いたpincé では、port de voix(下接音からの前打音)が消えて、主音からの4音モルデントが書かれている。スラーの付かない同音型pincé では、port de voix(下接音からの前打音)が16分音譜音価となる。
Engramelleの音価計量図版から、正確な「ルール」を装飾音音価について読み取れる人はかなり大胆な人だろう。装飾音の記譜は、コンテクストと状況に合ったひとつの適応方法を記載できるに過ぎない。演奏者の「良い趣味」が常に問われ、演奏解釈の重要な鍵となる。
Engramelleはバルバトルの2作品を15の音価計量図版に記したが、1番目の作品はフォークソング・タイプの旋律「Barcelonnette」、図版CXIV―CXIVIIIで、基本的計量方法を示し、2番目の作品は装飾的なバルバトルの「Romance」、図版CXIX―CXXVIIIで、装飾のあらゆるリズム・ニュアンスの度合いを音価計量法で記した。
EX.7 図版CXIVはバルバトルの作品「Barcelonnette」。譜表の無い段にも、調子記号は慣習的に有効となっている。譜表のある段には、Engramelleが使用したアーティキュレーションと装飾音が旋律に記されている。楽譜の下に冒頭4小節の音価計量図版がある。横にして左から右に見ていくと、1段目に冒頭4小節の旋律が写され、後段は半音ごとに下行している。音価が黒線で示され、発音する音価とsilenceは黒色の濃淡で示されている。(*印刷だと非常に濃淡が判別し難い、オリジナル本は大変精密な印刷で高価である。)
Engramelleは開始の弱起音Cが弱拍にある8分音符なので、tactées ou secondes2番目の音:弱拍音のタッチ、16分音符音価でアーティキュレーションを行い、次の強拍音の前打音として弾く事を勧めている。第1小節1拍目8分音符レはtenues ou premieres初めの音:強拍音、聴き手に初めての強拍を印象付けるように弾くが、音価より長すぎてはいけない。Engramelle以下引用: 「tactées ou secondes2番目の音:弱拍音は音の痕跡が残る程度に軽く弾けば良い。8分音符なら4分の1、4分音符なら8分の1の音価を保てば充分である。」 Engramelleはtenues ou premieres初めの音:強拍音を弾く時は、16分音符でも良く保つように勧めている。第1小節1拍目8分音符レ―ミのミはtactées ou secondes2番目の音:弱拍音8分音符なので、先行音の強拍8分音符レより音価が縮められる。第1小節2拍目スラーの無い16分音符ソ―ファ―ミ―レは限りなく軽く弾き、tactées ou secondes 2番目の音:弱拍音グループである。第4小節には4分音符ド+8分音符ド―ドという、tenues ou premieres初めの音:強拍音の重要な音価短縮法が出ている。音価計量図版を見ると、はじめの4分音符ドには32分音符ド―シという装飾法(tenue composée)が附加され、この為4分音符ドの音価は8分音符分が装飾音、8分音符分がquaver silenceとなる。2拍目8分音符ド―ドはごくごく軽く弾く。1拍目4分音符ドに付いている32分音符ド―シという装飾法(tenue composée)は、素朴なフォークソングにふさわしい装飾で、リズム・イネガルは音価計量図版に記載されていない。
バルバトルの「Romance」は凝った意匠的作品で、「遅くも速くもなく、ni lent, ni vite」の典型的優美な作品。Engramelleはバルバトルが通常この曲を演奏するのに、2分45秒かかると観察した。この曲はチェンバロ向きだが、Engramelleはバルバトルがオルガンで演奏するのを聴いている。Gracieusementと指定され、3部形式でC-dur→ c-moll→ C-durの調性的コントラストを取り入れている。
この曲のEX.8 図版CXIXを見ると、第1,4,7,10,13段に旋律音型の伝統的装飾法がEngramelleにより記譜されている。左手の分散和音音型は問題が無いので省かれている。二段譜で書かれた部分には詳細なアーティキュレーション計量記号が記入してあり、奏者はこれを見ながら即応出来る。各音上に付いている小さな点は、1点で16分音符分のsilenceを意味する。しかしGracieusementと指定されている優美な曲では、silenceは通常より短か目にとる。Engramelleはこの曲の第2版にエキストラの装飾音を加えているが、メカニカル・オルガンやライヴに向いた奏法である。
図版CXX―CXXVIIIまでの9図版に原則フォームが紹介されている。EX.9 図版CXXは旋律と音価計量図版の他に、各頁下に左手の分散和音音型が書かれている。既に見てきたように、発音する音の音価は黒線、silenceは灰色線で表されている。オリジナル本P.615-634には、図版についての作成技術プロセスが中心に解説されている。 詳細な記述を読んでいくと、開始4小節にEngramelleの綿密なアイディアが読み取れる。音符のアーティキュレーション記号は、Engramelleがバルバトルの演奏を精密に覚えていて、記憶を頼りに書き写した事が明瞭である。バルバトルによると、開始が強拍からであるにも拘わらず、同音反復ド―ドで始まる弱起右手2つのド4分音符は、別個にアーティキュレーションが施され、2番目のドにはsilenceが書かれている。開始音4分音符ドが伸ばす音価はトータル8分音符程度で(tenue composée)、残りはアーティキュレーションによるsilenceが生まれる。EX.9 図版CXXはこの曲の第1版なので落ちているが、第2版にはバルバトルが1拍目を強調する為に用いたモルデント装飾が附加されている。バルバトルはリリカルな性格の曲では、tactées ou secondes2番目の音:弱拍音を普通より長目に演奏した。これらの詳細な音価の比較が、Engramelleの音価計量図版から見出す事が出来る。弱起小節最終tactées ou secondesド:弱拍音は、半分の長さの黒線で書かれている。バルバトルは第1小節開始同音反復ファ―ファと、開始部弱起小節の同音反復ド―ドを同様な音価比率で演奏した。次拍のミ―ミでは、初めのミは2分音符音価の3分の2、2番目のミは2分音符音価の3分の1を押さえるように、Engramelleは小さな音価計量記号を各音に付けて指示している。
バルバトルの楽譜には書かれていないが、Engramelleの記載には第2小節開始2分音符ラにシンプル・トリルが書き込まれている。Engramelleはこの装飾音は主音ラに対し、ソ#→ラでも、ラ→シでも、どちらも可能であるとしている。バルバトルは2分音符ラを「Silence de reprise de haleine: 吐く息のsilence」の手法で音価を縮めている。これは音符上にEngramelleが書き込んだ小さな4点と線で表され、2分音符ラは4分音符音価3分の2を伸ばし、2分音符音価半分をSilenceとしてアーティキュレーションするよう指示している。バルバトルは続く4つの8分音符ド―シ―ラ―ソを、ド:音価3分の2―シ:音価3分の1、ラ:音価3分の2―ソ:音価3分の1という組み合わせのイネガルで演奏した。ドとシの間には僅かなsilenceが存在するが、2音ずつスラーがかかっているので繋がって聴こえるように弾かなくてはならない。第2音シと第4音ソは完全にtactées ou secondes2番目の音:弱拍音なので、単純tactéesとして軽く触れる程度に押さえる。最終音ソは次小節開始音ドに装飾が付いている為、silenceのアーティキュレーションがより必要となるので、同じ弱拍音でも第2音シより短くなる。次音から来るsilenceの必要性は、不可避的にアーティキュレーションの増大・音価の縮小を意味する。
これらはEngramelleの記載から全て読み取れる事実で、バルバトル式アーティキュレーション奏法を学ぶには傑出した教材である。重要なのは、18世紀演奏法とバルバトル式アーティキュレーション奏法との関連性についてである。これにはバルバトル以前の作曲家達が残したアーティキュレーション奏法についての文献に、当たる必要がある。
クヴァンツは「Versuch einer Anweisung die Flöte traversiere zu spielen, Berlin, 1752」英訳Edward R. Reilly「Of the Use of the Tongue in Blowing upon the Flute」Faber and Faber, London 1966 pp.71-86」に、タンギングによるアーティキュレーションには大まかに分けて3種類あると規定した:
1. スラーの付いた完全なレガート
2. デタシェのスタッカート
3. 1.2.の中間
柔らかいdi:普通のタンギングで、中間のアーティキュレーション
硬いti:スタッカートのタンギングで、大きいアーティキュレーション
スラーで囲まれた2音又は数音のタンギングは無い。
作品の性格がタンギングの種類を採択する条件となる。アレグロの速い音価は舌で突付くような「tipped briefly」のタンギング、長い音価は唄うように保持的タンギングで演奏する。
C.P.バッハ、W.F.Marpurgはアーティキュレーションについて、クヴァンツの意見を尊重している。C.P.バッハ以下引用:
「Ten.と略されたテヌート記号が無い限り、デタシェでもレガートでも音価の半分はアーティキュレーションされる。Ten.と略されたテヌート記号がある場合に限り、音価全部を保って良い。モデラートかゆっくりなテンポで曲では、4分音符・8分音符にセミ・デタシェの奏法が用いられる。」
W.F.Marpurgはより明確に3種類のアーティキュレーションを規定した。以下引用:
「スラーは、次音を弾くまで先行音を離さないという意味である。デタシェはスラーの反対語でスタッカート記号又は垂直ダッシュで示され、音価の半分で切る。タッチについて言えば、先行音からの指のリリースがタッチである。通常のタッチはレガートでもスタッカートでも無く、その中間に無数の有用性がある。しかしこの技法を記譜で現す事は出来ないので、譜面から常に適切なタッチを洞察する事が演奏に不可欠である。」
偉大な理論家、批評家、作曲家でもあったヨハン・マテゾン(1681−1764)はヘンデルに精通し、当時の最も偉大なオルガニストはJ.S.バッハであると言った。Engramelleの記載を信じないとしても、バルバトル式アーティキュレーション奏法はこれら先人達に近く、特にJ.S.バッハ・ヘンデルが採択した典拠に立脚している。
Engramelle研究から他に2点、即興的装飾と即応的イネガル奏法という興味深い点が浮現する。即興的装飾については既述したが、Engramelleの詳細な記譜を読めば、各装飾音が持つ異なる音楽的背景を知る事で、どの装飾法が適切であるかを洞察できる。J.S.バッハがコピーしたダングルベールの装飾表は、息子フリーデマンの為に書いた装飾表と比較する事が出来る。J.S.バッハが用いた装飾記号は、当時流布していたフィグアだった事は明白である。装飾法の選択は楽曲の性格、装飾の書かれている音楽的背景から行なう為、演奏家の資質に依存する部分が大きい。Engramelleの精密な音価計量図版からも、疑いなくこの観点が掌握出来る。
ところで第2点目に挙げたイネガル奏法、18世紀中期のイネガル奏法とは、20世紀の我々が真正に理解し得るのだろうか???我々に考えられるイネガル奏法とは、スラーの無い隣接音程の4・8・16分音符を不均等に演奏する事である。拍子によりイネガル奏法を当てる音価は異なる。既にバルバトルが実践した非凡なイネガル習慣を我々は見てきたが、バルバトル風イネガル奏法は「カヴァリエ・エコール(フランスオルガン製作の一派)」の流儀である。つまり当然イネガル奏法で弾いて良い音が均等で、当然イネガル奏法で弾かなくて良い音が不均等に演奏される。例えばバルバトル作「Romance」はEngramelleの音価計量図版によれば、4分音符と8分音符両方にイネガル奏法を適応してバルバトルは演奏していた。当時は「良い音」と「悪い音」の概念が柔軟な折衷的理解に達していたから、現代の我々の方が硬直した考え方なのかもしれない。tenues ou premieres初めの音:強拍音、tactées ou secondes2番目の音:弱拍音の解釈は、明らかに強拍と弱拍の弾き分けを意味する。レオポルド・モーツァルト、クヴァンツは、バルバトル同様、僅かな差異を持って強拍と弱拍の弾き分けを実施する事を提唱した。Engramelleは独自の音価計量図版から、この原理を視覚化する事に努めた。しかし勿論イネガル奏法の複雑な適応は随時解明されていくべき問題である、素晴らしく重要で素敵な今後の課題として!!!![完]

[英国の装飾音]
Aspects of Keyboard Music
Essays in Honour of Susi Jeans
On the Occation of her Seventy-fifth Birthday
Robert Judd編
Positif Press-Oxford ISBN 0 906894 21 2 1992

「English Beat」 H. Diack Johnotone
P.134
17―18世紀初頭英国の作曲家達は、理論的整合性を持って鍵盤楽器音楽の装飾音を速記文字のように明確な視覚に体系化する事に成功した。この装飾記号はブリテン島だけで通用したが、基本的には同時代フランス装飾法をもとにした記譜法だった。しかし最近の文献から「英国の重要なチェンバロ奏者は、1690年以降にも輩出した事が知られている。分野別に見てもフランスのチェンバロ音楽は、今日まで英国音楽の主要構成要素を成すものではなかった。」と言える。Bruce Gustafson, French Harpsichord Music of the 17th Century:A Thematic Catalog of the Sourcecs with Commentary (3 vols, UMI Research Press, Ann Arbor, 1977) (Studies in Musicology, 11) vol, pp. 57 and 75.
そうは言っても実際上フランスからの影響を見逃す事は出来ず、英国独自の装飾記号解釈及び実施法について言及するのが本論主旨である。
装飾用語として「beat」はかなり異なる4つの用法で使われているが、最も確かな用法の一つをここで取り上げてみよう。オクスフォード・イングリッシュ・ディクショナリーによれば「ある種の特殊な装飾音は奏法に不確かな点があり、書き手によって同記号が異なる意味を持っていたのではないか」とされている。1659年に遡ってChristopher Simpson「The Division-Violost」を見ると、実際優美な旋律線や装飾音は常にEnglish Beatと呼ばれた装飾音法で規定されていた。有名なCharles Colman 博士による実践的装飾表にも書かれ、John Plyford「Brief Introduction to the Skill of Misick」も数年後に発刊されている。(以下サンプル・PCソフト譜例不備で申し訳ありませんが、記述で何とかご理解戴ければと思います。訳者)

パーセル:Lessons for the Harpsichord or Spinet [Rules for Graces] ロンドン1696
● 前打音
名称:  記号形状     実施方法

Fore fall:上行斜線 /    4分音符ソの上に付くと=ファ16分音符+ソ付点8分音符
Back-fall:下行斜線 /  4分音符ソの上に付くと=ラ16分音符+ソ付点8分音符
● トリル
Shake :上行二重斜線 //    4分音符ソの上に付くと=ラソ4回32分音符
Plain note and shake:    上行二重斜線の隣りに下行斜線が左側に付いている      
             4分音符ソの上に付くと=ラ8分音符+ラソラソ32分音符
● モルデント
Beat:小文字mのイタリック斜体:4分音符ソの上に付くと=ファ16分音符+
ソ・ファ32分音符+ソs8分音符
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
両書共「beat」とは、パーセル・同時代作曲家によって提示されたように、(拍頭に入れる前打音ド2分音符+上行斜線・レ2分音符=ド2分音符+ド8分音符スラーレ付点4分音符)又は前打音の主音から始まるトリルを持つ。(拍頭に4分休符+前打音ド4分音符+上行斜線・レ2分音符=4分休符+ド4分音符+ドレ4回32分音符+レ4分音符)(*分りにくくてすみません。)

拍頭装飾音Beatは、後100年間英国で定着する事になる。しかし両書はあくまで、弦楽器
用に書かれた物だと言うことを留意しなくてはならない。英国での鍵盤楽器音楽初装飾表
は1673年Matthew Lock「Melothesia」で、オルガン・ソロについての初めての著述と
いうだけではなく通奏低音奏法にも言及している。5例の装飾法はいずれも拍頭にトリル
のm印で示され、m当時英国鍵盤楽器レパートリーでは常識とされていた装飾習慣である
事が明らかである。
17世紀後期の英国装飾法はパーセルによって樹立され、彼の死後出版された。「Choice
Colllection of lessons for the harpsichord or Spinnet」の「Rules for Graces」、「Insruction
for beginers」に書かれている。
「Rules for Graces」、「Insruction for beginers」両書は出版年代不明だが、パーセル自筆
の記述だという事が現在では確認されている。1750年までに、鍵盤楽器音楽全ての装
飾音は図表化されている。パーセルの装飾記号はM.ロックと同一概念に基づいている。
J.S.バッハも用いた小文字mをイタリック斜体にしたようなトリル記号は、しかし多
くの相反する解釈が成立する。「Rules for Graces」ではこのトリルを「下接前打音から始
めるモルデントで下接音が拍頭に来て長目に伸ばす」と説明されている。シンプソンの言
った「shaked Beat」もやはり下接前打音から始めるモルデントとみなされるが、主音から
始まるモルデントについて「Rules for Graces」はふれていない。1665年Nivers, 16
90年Julienは 、(これらについてはFrederick Neumann, Ornamentation in Baroque
and Post-Baroque Misuc , Princeton University Press, Princeton 1978, pp. 419-20,
35章:The Frnch Mordent を参照。Frederick Neumannのエッセイは抜粋で和訳要約が
拙HP内、全訳も既刊。Frederick Neumannの論点はかなりユニークで先鋭的なので、一
度は当たられる事をお奨めする。)ターン ~ のような記号がド4分音符につくと=シドシ
16分音符+ドーとなり、アグレマンagrementと命名した。
P.37
1687年Jean Rousseau の「Traite de la Viole 」P.87には、「Pince(モルデント)
はport de voix (アポジャトゥ-ラ)と切り離して考える事は出来ないし、port de voix(17
世紀にはcheuteとシャンボニエールによって命名された)はPinceで終結しなくてはなら
ない。」と記されている。しかしオトテールの「フルート奏法試論1707年」やロココ後期
フランスの多数作曲家達の書簡を見ると、Jean Rousseau説には若干曖昧な点が残る。兎
も角重要な構成要素として、port de voix(アポジャトゥ-ラ)とPince(モルデント)は相
互に組み合わされながら独自に機能する。英国ではしかしながら、forefall(アポジャトゥ-
ラ) Fore fall:上行斜線/4分音符ソの上に付くと=ファ16分音符―ソ付点8分音符、の
みが使用された。というのはBeatについての問題は下接・上接・両前打音が用いられたと
すると帰結の難しい解釈となり、パーセル死後100年たっても英国伝統のBeat装飾音は拍
頭に来るforefall(アポジャトゥ-ラ)のみだったと考えられるからである。Donington教授
(The Interpretation of Early Music 2nd edn , Faber, London 1965, p.265)が力説するよ
うに、「バロックトリルm記号は主音からのトリルとして使われた事はなかった。」
譜例2:ソ4分音符に小文字mをイタリック斜体にしたようなトリル記号をつけると=
ファ16分音符+ソファ32分音符+ソ16分音符、全音スラーで囲み。

パーセル時代の装飾音研究に最も貢献したハワード・フォーガスンの編集した鍵盤楽曲集
には1964年11月Royal Musical Association の為に行なった講義録が掲載され、印刷
した「Rules for Graces」を冒頭に取り上げている。(Purcell's Harpsichord Music,
Proceeding of the Royal Musical Association, 91 1964-5 p.7)曰く、『妥当な考え方として
、mの記号は主音からのモルデントを現し、下接前打音から始まるモルデントはパーセル
の呼んだ「Plain note & shake:上行二重斜線の隣りに下行斜線が左側に付いている。4分音符ソの上に付くと=ラ8分音符+ラソラソ32分音符」と同義の「Fore fall & Beat」
と呼ばれ、同じmの記号を用いていた。』つまりソに小文字mをイタリック斜体にしたよ
うなトリル記号が付いている場合、ソ―ファ―ソでも、ファー―ソ―ファ―ソでも、どち
らも可能であると言っている。これは巧妙かつチャーミングな理論で、穏当な識見でもあ
る。パーセル自筆「Choice Colllection of lessons for the harpsichord or Spinnet」に印刷
された「Rules for Graces」を再見すると、彫版の4音符にスラーが付いており最終音まで
完全に囲んでいる事から、第1音が拍頭に来る事が示されている。まだ「The Harpsichord
Master」が出版されていなかった1697年版には、この4音スラーは彫り込まれていな
い。「Rules for Graces」でBeat拍頭装飾音が確証された後30―40年間、キーボード・
アンソロジーとして出版された多数の楽譜にもし誤りのBeat解釈があるとしたら、それは
改訂を行なわず出版された楽譜である。
P.38
例外は極く少数であり、中に改訂せずに出版された楽譜もある。後代の文献では奏法も多
岐に渡るが、下接前打音から始まるモルデントはパーセル派だけではなく全ての曲集を敷
衍していた。18世紀の終わりJohn Wall Callcott 「Explanation of the Notes, Marks,
Words etc. used in music (1793)にも同方法が言及され、その後鍵盤楽器以外の楽器装飾法
には多種の記号が輩出したが意味する所は同じ奏法だった。 Robert Carr 「The Delightful
Companion: or, Choice New Lessons for the Recorder or Flute, London 1686 第2版」
曰く、「これらの楽器に対応するBeatは半音下から始まるモルデントで、Shakeは全音上
から始まる。」約40年後の1723年「The Compleat Tutor to the Violin、全6巻」では
「ヴァイオリンは拍頭に半音下接音を弾いてから僅かに弓を持ち上げて主音に滑らせなく
てはならない。」としている。勿論各装飾効果は楽器によっても微妙に異なるのが当然であ
り、画一的に全ての音楽シーンに当てはめる事は出来ない。
しかも非常に奇妙な事には、英国人音楽家ではないNicolo Pasqualiが「Art of Fingering
the Harpsichord, Edinburgh 1750s」を出版している。は装飾音型奏法を「Tweed side」
と称して言及している。多数の装飾記号、Beat記号の例証だけではなく、装飾を付けない
元の音型を併記している所が画期的功績である。Beatについては、縦棒の入ったモルデン
ト記号自体は現在我々が用いている主音からのモルデントに酷似しているが、意味する奏
法は、パーセルのBeat:縦棒なし:4分音符ソの上に付くと=ファ16分音符+ソ・ファ
32分音符+ソ―8分音符とは異なり、Shake(上行2重斜線)と同義に、4分音符ソの上
に付くと=ラソ4回32分音符と奏するように言っている。
英国で働いたイタリア人が18世紀中期自国の装飾習慣を捨て、実質的に英国で適用して
いた装飾法を記したとすれば、これは確かな物証となり得る。ブリティッシュ・ライブラ
リー追加分MS17853には、Maurice Greene の尽力により1730年後すぐに同奏法
が現出している。リュリのオペラについて主に言及しているが、1694年Sir.William
Blakeston の署名が最終ページにある事に注目したい。
P.40
MS17853は各種音価・音階中の例証を挙げ、更に「Graces in Musick. vizt. Beats, &
Shakes.」について言及していて大変興味深い。Beats、Shake共に前打音と最終音となる
主音は多少延長prolongationされるべきであり、譜例では書き表せないが「Rules for
Graces」の方法を踏襲している。Prendcourt 船長による「York Minster manuscript M.16
、1700年頃」のBeat分割例も重要である。名前は付いていないが7種類の装飾音が
Markとして表示、パーセル派の「対の装飾法」の内の一つと酷似しているが、(唯一例外
としてのBatteryを除いて)速記法sigma (シグマ(Σ,σ,ζ):ギリシャ語アルファベ
ットの第18字.・英語ではS, sで表記される。)で書かれているので形状は異なる。Nicolo
Pasqualiと同じくBeatもShake(上行2重斜線 // )と同義に、4分音符ソの上に付くと
=ラソ4回32分音符と奏するように言っていて、下接音から伸ばすBeat奏法については
一切語っていない。Prendcourt 船長は巧妙で洗練された記譜法としてこの装飾法を実践し
たが、18世紀後期までにRoseingrave, Alcock, Walond, 更にJohn Harley 著
「Ornaments in English Keyboard Music of the Seventeenth and Early Eighteenth
centuries, Music Review, 31, 1970, pp. 185-6 」 に見出す事ができる他には、一般的にさ
ほど流布するには至らなかった。Prendcourt 船長は2種類の記号を使った;
1) 1本縦棒の刺さったmのイタリック斜体は連続的Beat装飾で下接全音前打音から、
2) 2本縦棒の刺さったmのイタリック斜体は連続的Beat装飾で下接半音前打音から始める;
1) 2分音符レ+1本縦棒の刺さったmのイタリック斜体=ドレ32分音符4回+レ4分
音符
2)2分音符レ+2本縦棒の刺さったmのイタリック斜体=ド♯レ32分音符4回+レ4分音符
1)2)共、最終音レまでスラー
Prendcourt 船長のBeat装飾はこの2種類を含み「Undershake」と彼は呼び、10年後Roger Northにより言及された。このRoger North記述はJohn Wilson の大著「Roger North on Music, Novello, London, 1959, pp.61-3」に、Roger Northの名と共に記されている。Prendcourt 船長はNicolo Pasqualiと共に外国人でフランス生れ、ザクソンで教育を受け、ジェームスII世治下ローマ・カトリック礼拝堂少年聖歌隊指導者として1686年12月から2年間名誉革命勃発まで勤務した。Prendcourt 船長の大陸的成育背景にも拘わらず、Beat装飾法はパーセルと同解釈である。
P.41
上行斜線付き、mのイタリック斜体 / mは1696年Lessonsにさえ出現する頻用された複合装飾音だが、「Rules for Graces」や後の装飾表に載っていなくとも、前述の明らかなBeat解釈の例証をまとめるなら、パーセル理論のBeat装飾法は正しく理解され得るだろう。
最近売却された「ペアーのStoneleigh Abbey manuscripts, Christie, 10.16、1985、lot 140, カタログp. 69」には上行斜線付きmのイタリック斜体 「/ m」のみが扱われ、明らかにBeat装飾法としてペアー両卷に巻頭緒言として表されている。
真の問題はここから発生する;パーセル、2台オルガンの為のD moll Voluntaryには終結部に上行斜線付き、mのイタリック斜体「 / m」と上行斜線の付かない、mのイタリック斜体 mが並存している。これを一体どうやって区別しろと言うのか。
上行斜線付き、mのイタリック斜体 / mを、フォーガスン博士が見落としたForefall&beat(Fore fall:上行斜線 /4分音符ソの上に付くと=ファ16分音符―ソ付点8分音符+Beat:mのイタリック斜体:4分音符ソの上に付くと=ファ16分音符+ソ・ファ32分音符+ソ―8分音符)とも見られるかも知れないが、私はBeat解釈からすると在り得ないと思っている。上行斜線付き、mのイタリック斜体「 / m」はPlain note & Shake(上行二重斜線の隣りに下行斜線が左側に付いている。4分音符ソの上に付くと=ラ8分音符+ラソラソ32分音符)の逆光形としても考えられるが、Plain note & Beat(Beatは4分音符ソの上に付くと=ファ16分音符+ソ・ファ32分音符+ソ―8分音符)とでも名付けたほうが分り易い。奏法は4分音符ソの上に付くと=ファ8分音符、スラで括ってファ32分音符+ソファ64分音符+ソ16分音符、となる。(譜例5)Beatは下接前打音から始まり、更に再度この下接前打音からPlain noteを奏する。Plain note & shakeは4分音符又は遅い曲の付点8分音符以外、これより早い音価には用いられなかったのが普通である。
この時期、ペアーのStoneleigh Abbey manuscriptsと私の知る限り2つのマヌスクリプト
にのみ、この「上行斜線付き、mのイタリック斜体「 / m」は装飾表に表示されている。こ
れらのマヌスクリプトではBeatと厳しく区別して「上行斜線付き、mのイタリック斜体
「/m」を表示しているが、不幸にして奏法についてはふれていない。ブリティッシュ・ラ
イブラリー追加分MS40139では「Prepair'd Beat」、シカゴ、Newberry ライブラリ
ーCase MsVM 2.3 E58rには「preparing beate」と呼んで同奏法を表示している。又
Gustafson,」「 FrenchHarpsichord Music, vol.1, pp.67-8, 211, vol.2. pp. 155-73, 」、
Richard Charteries, 「Some Manuscript Discoveries of Henry Purcell and his
Contemporaries Newberry Library, Chicago, Notes,37, 1980, pp.7-13 」も参照されたい。
その後の文献にはPlain note & shakeが「preparing shake」として、下行斜線付き上行
2重斜線 // ;奏法は4分音符ソの上に付くと=ファ8分音符、スラーで括ってファ32分
音符+ソファ64分音符+ソ16分音符、となる。(譜例5)Beatは下接前打音から始まり、
更に再度この下接前打音からPlain noteを奏する。
P.42
私の「Prepair'd Beat」と「ただのBeat」との区別は、「Prepair'd Beat」をパーセルが示
した「Plain note & shake」と「ただのBeat」という明らかな差異に準じたい。一方では
「plain note and a shake」と名付けられた装飾記号が存在したのではないかとも思ってい
るが、疑問点が多すぎる。フォーガスンは「Keyboard Interpretation, Oxford University
Press, London 1975」、自編のパーセル、Blow, Croft等のハープシコード作品集に於いて、
「Plain note & shake」を「Backfall & shake」という名前に替え、しかも初めの2音に根拠の無いタイを加えてしまった。この解釈は勿論、1687年ダングルベール、1705年ラ・ルー等が規定したフランス装飾法「trmblement appuye:4分音符ソの上に付くと=8分音符ラ+タイ+ラソ32分音符4回」と同奏法である。1702年サン・ランベール氏は「Principes du Clavecin」(transl. And ed. Rebecca Harris-Warrick, Cambridge University Press, Cambridge, 1984, P.81, 現在絶版)に、1687年ダングルベールが規定したタイを取り去ってしまったが、明確な規定として、上接前打音がtrmblement appuyeを開始する際にはっきりと聴こえなくてはならないので、上接前打音に音価を与えtrmblement部分と区別する為に再奏される事を意図として、タイを取り去ってしまった。従って上接前打音は2度弾かれるが、開始2音がタイで繋がっているよりはタイミングの融通が利いて、効果的な装飾となる。上接前打音のあとの装飾音にはアーティキュレーションが無いので、これも真正「Prepair'd Beat」とも言える。
1749年Francesco Geminiani の「Treatise of Good Taste in the Art of Music 」が上梓されるまで、英国には下接前打音なしの主音から始まるBeat(モルデント)は全く知られていなかった。
Francesco Geminiani の奏法:Shakeとパーセルが呼んだ 上行二重斜線 //:4分音符ソの上に付くと=ソファ♯4回64分音符7回+ソ64分音符(譜例7)
この2年後同著者により「The Art of Plaqying on the Violin」が出版された時、短縮語「Mord」としてこれらの装飾音は説明された。Beatはこの後約1世紀に渡って、基本的用語として下接前打音を伴う・伴わない両方の奏法を現すモルデント装飾として使われた。時には2種類のフォームが装飾記号に用いられた。John StanleyのVoluntary g moll Op.6 No.3 第1・83小節には縦棒の入ったモルデント記号、トリル記号(mのイタリック斜体)、上行二重斜線 // が並存している。真正English Beat(下接前打音を伴うモルデント)は縦棒の入ったモルデントで示され、~(ターン)に縦棒の入った記号も同義である。一方Francesco Geminiani の用いた下接前打音を伴わない主音からのモルデントは、上行二重斜線 //で示している。
P.43
18世紀初頭の文献で真正English Beat(下接前打音を伴うモルデント)の例証は、私の知る限り唯一Cobham Hall マヌスクリプト、 Pendlebury Music Library, Cambridge MS 24 のみである。ここには鍵盤楽器のソロ作品集で主にダンス曲やポピュラーソングのアレンジ物が収集され、St. Giles のオルガニストだったMr. Froud(恐らく Charles Froud)がもとの所有者だったと考えられる。ページ半分が白紙である事からレッスン用に使った楽譜なのだろう。生徒として長期間勉強したか驚異的な成長を遂げた為、表紙に音階、音価、音部記号等楽典一般教養に囲まれて、Shake, Beat, Turn等装飾法が譜例と共に掲載されている。この装飾表によるとShakeは上行二重斜線 //ではなくlmで表示され、この記号はフランス装飾法「trmblement appuye:4分音符ソの上に付くと=8分音符ラ+タイ+ラソ32分音符4回」を現し、当時英国では殆ど知られていなかった。又 ~(ターン)は「Rules for Graces」に規定されている5連音符ではなく、下行ターン4音を指定されている。Beatは下接前打音を伴なわない主音からのモルデントとなっており、最終音のみ音価が引き伸ばされる。Prendcourt 船長のようにMr. Froud(恐らく Charles Froud)も、全音・半音下接前打音を区別する為に縦棒1・2本を使っている。

英国のパーセル時代(そして恐らくヘンデルも)を通して、English Beat は常に下接前打音を伴なったのであり、これに反する文献は存在しない。フォーガスン博士他の人々はThomas Maceの「 Misick's Monument」に論拠を求めているが、この著述は特殊なケースの為に書かれている。1671―1675年記述され翌年出版されたこの本は基本的にリュート教材だった。「Rules for Graces」の装飾法について一切言及せず、Thomas MaceのEnglish Beatは下接前打音を伴なわない主音からのモルデントである。
これをFrancesco Geminiani の用いた下接前打音を伴わない主音からのモルデントの最終音価を伸ばす奏法とも解釈できるが、しかしリュートでは下接前打音から始めるモルデントは奏法が困難であり、彼はリュートにのみ効果のある奏法として挙げたのであって断じてこれ以外の楽器の為の奏法ではない。
P.44
今日私達は英国のEnglish Beatがいつ頃から下接前打音を伴わない主音からのモルデントして弾かれるようになったのか、17世紀の終わりか、18世紀の初めなのか、自分自身で決定しなくてはならない。しかし忘れてならないのは伝統的English Beatはパーセルの「Rules for Graces」に規定されて以来当時装飾法の根底を成す一大規範であり、これが変更された実証は18世紀初めまで存在しないという絶対的事実に基づくかどうかという事である。
2001、12.2 禁転載

書簡集を含むJohann Jakob Froberger  and the Netherlands

Rudolf Rasch著(Utrecht)

●イントロダクション●
P.121
1649年於ウィーン、亡命したシャルルIII世側近として仕えていたオランダ人、外交官で詩人のWilliam Swannは、Constantijn Huygensの鍵盤楽器演奏とフローベルガーの作品がウィーンで初めて紹介された際の印象を、1649年9.15書き送っている。
「亡命中のシャルルIII世に同情を示されたフェルディナンドIII世が、この演奏会の聴衆として私をご招待下さったのは4日前の事だった。私は幾つかの声部が非常に美しいと思ったが、この音楽家達と知己を得る時間がなかった。フローベルガー作品を同封します、彼はチェンバロにかけては真に非凡です。彼等の活動に留意して近い内に又知らせます。」追伸として「フローベルガーとシャンボニエールの作品を、貴方に送りたいと思っています。」
一週間後9.22、Swannは「貴方に送った作品を見て、私がこれから作品収集を続けた方が良いかどうか知らせて下さい。私は価値のある作品だと思っていますから、手に入れられる限り全ての作品を送ります。」
1649年フローベルガーの名前と作品は、生地オーストリア、この時まで勉強し職を得たイタリアアを除いて西欧では全く無名だった。
フローベルガーは1616年シュトットガルト生まれ、1630年頃ウィーンに赴き、1637年宮廷オルガニストとなる。一年弱務めたがイタリアへ留学、当時最も優れた鍵盤奏者、作曲家だったフレスコバルディに師事、1641−1645年再び宮廷オルガニストとなった。1645―1649年イタリア旅行をしてローマ、フィレンツェ、マントア等を訪れた。

P.122 1649年 Swannの書いた手紙・写真

P.123
フローベルガーは1649年の時点ではまだフランスでも全く無名だったが、舞曲を集めた組曲に'style brise'としてフランスからの影響が見られる。恐らくフローベルガーはフランス音楽スタイルを良く知っており、1620−30−40年頃のドイツには、フランス音楽とリュート音楽が徐々に浸透し始めていた。1740年マテゾンは大著「Ehrenpforte」で、フローベルガーに与えたフランスのインスピレーションを考察する際、Jacques Gallot(17世紀後半)、Gaultier.(Ennemond[1575-1651], Denis[1603-1672]?)のリュート音楽からの影響を挙げている。しかし実際は信じ難い記述で、フランス・リュート音楽がフランス以外で1670年以前に流布していたとは考えられない。Ennemond Gaultierのリュート作品がパリで出版されたのは1670年、Jacques Gallotのリュート作品もパリで出版されたのは1670年である。Jacques Gallotは、フローベルガーから影響を受けた後世代である。
私はフローベルガーにフランス・スタイルの影響を与えたのは、2巻の「Tablature de luth de differens auteurs sur les accords nouveaux パリ、1631,1638年」であると提言したい。この曲集が多数のアルマンド、クーラント、サラバンドを含み、舞曲組曲の曲順も規定している。Rene. Mezangeauが、殆どを自作自演している。
Swannの指摘によるシャンボニエールについては、1649年当時フローベルガーにとっては未知の作曲家だったと思われる。しかしConstantijn Huygensが提言するように、Antoine Bosset, Thomas Gobert、音楽学者Marin Mersenne、出版人Robert Ballard等はシャンボニエールの作風を手紙によって伝えており、多くの情報交換があったとみなされる。

ヴィーンで宮廷オルガニストを勤めていた時代からイタリア旅行の間は、フローベルガーの関心は南欧に在った。1649年を境に、中欧から北欧にへと関心が移っていった。1649年の際はオルガニストとして復職せず、新たにドイツ・ブリュッセル・パリ・イングランドへの旅行を計画している。
フローベルガーがブリュッセルに滞在したのは1647年からで、スペイン・南オランダ総督Leopold Wilhelm(1614−1662)、オーストリア大公、大公兄弟等が芸術庇護を推進していた時期だった。1650年頃のブリュッセルには2つの大きな音楽的潮流が在った:Carolus Caulier率いる総督直轄の王室礼拝堂の音楽家達、もうひとつはGiuseppe Zamponi率いるLeopold Wilhelm直轄のムジカ・ダ・カメラの音楽家達である。Leopold Wilhelm直轄のムジカ・ダ・カメラは、完全な構成フォームがフローベルガーの手紙に2回現われる。これは明らかに、フローベルガーがムジカ・ダ・カメラの構成員ではなかった事を物語る。しかし1650年3.11、フローベルガーへの謝金として240ギルダがZamponiに支払われており、ムジカ・ダ・カメラ特別要員のような資格で収入を得て、その後の旅行を継続出来たのである。2回目の支払いは1652年12.19、144ギルダを、Zamponiの為に数回演奏した謝金として受け取っている。
P.124
この2つの支払い証明書が、フローベルガーのブリュッセル滞在期間を明確にしている。
Constantijn HuygensがブリュッセルLeopold Wilhelmの宮廷を訪れたのは、1648、1656年であり、フローベルガーとの邂逅は不可能である。

1652年9.19、フローベルガーはパリに居た。彼は理想とする音楽状況を見出しただろう。パリで活躍する優れた鍵盤奏者と作曲家との交流、彼が獲得したいと渇望していた斬新な音楽スタイル、新たなフランス鍵盤音楽の息吹とシャンボニエール、ルイ・クープラン、Denis Gaultier他のリュート音楽スタイル等を吸収した。

フローベルガーのイングランド訪問は、より不鮮明な部分が多い。ウィーンのキリスト教会は、1649年から60年続いた英国国教会を基盤とした、不毛なプロテスタント宗教界だった。ロンドン滞在は、1652年秋、9.19のパリ公演、12月のブリュセッル公演の前だったと思われる。
ドレスデン選定候訪問はマテゾンがEhrenpforteの手紙に記しているが、実際は定かでない。マテゾンの手紙に信憑性があるとすれば、ウェックマンと邂逅した事が記されているので1655年以降でなければならない。又マテゾンはヨハン・ゲオルグII世にマヌスクリプトを提示したと書いているが、ヨハン・ゲオルグII世は1656年以前選定候ではなかった。選定候名は間違え易いので、私はヴェックマンのドレスデン滞在時1647-1655年に、フローベルガーがドレスデン選定候訪問を実施したと提言したい。この時期ドレスデン選定候はヨハン・ゲオルグI世(1585−1656)で、マテゾンが誤って選定候名を記したと思われる。ヨハン・ゲオルグI世に提示したマヌスクリプトはトッカータ、カプリチオ、リチェルカーレ、組曲を含み、1649年前後の作品だろう。あらゆる要素を統合すると、フローベルガーのドレスデン選定候訪問は1652年のパリ・ロンドン公演とウィーンに戻った1653年の間、1653年初頭とみなしたい。
1653年ウィーンへ戻り、1657年4.2、フェルディナンドIII世が亡くなり、1658年原因不明の免職時までオルガニストとして復職した。WaltherとマテゾンはフローベルガーがフェルディナンドIII世の不興を買ったと指摘しているが、当時の最終就職期間は短いのが普通だった事も又事実である。
1658年以降の旅行については僅かしか知られていない。WaltherとマテゾンはMainzに出かけたと記しているが、彼等は30年後にフローベルガーの楽譜がMainzで出版されたのでそう言っているだけで、私はパリに行っていた可能性の方を採りたい。フローベルガーは1660年パリで出版されたFrancois Roberday:「Fugues et Caprices」にリチェルカーレを1曲載せており、1652年フローベルガーのパリ来訪以来、驚くべき多大な影響力をフランス音楽界に投じていた事が明確だからである。しかし実際にはConstantijn Huygensとの音楽的関係から,Mainzを時々訪れていたと考えられる。

Mainzのフローベルガー
Constantijn HuygensはオランダからパリへウィリアムIII世の政治交渉に赴いたが、1665年までオレンジ公(ウィリアムIII世)処遇の交渉は長引いた。1665年夏、ラインのルートを通って帰国する途上、マインツ宮廷でフローベルガーとの邂逅を果たしたConstantijn Huygensは、Swannの妻に1666年12.29に書き送っている:
「マインツ宮廷でフローベルガー他2人の音楽家と会ったが、フローベルガーは全く他の2人と違う才能で私を引き付けた。彼は私の話を我慢して聞き、冷淡な満足を示していた。」
2人の邂逅は1665年9.16で、Constantijn Huygensはフランクフルトから翌日9.17にパラティーヌ選定候へ書き送っている。この手紙には政治的用件のみが書かれ、フローベルガー他2人の音楽家との邂逅については触れていない。彼に取っては音楽より政治が重要だった。Constantijn Huygensがマインツ宮廷を訪れた時、Philip Friedrich Buchner(1614-1669) が1649年以来の宮廷音楽監督だった。フローベルガーは1637年来ここの宮廷オルガニストを務めていた病身のSteickの後任として、就任したかったのだろう。1660頃から候補者が検討され、Steick逝去前年1667年1.7Jordanが任命された。フローベルガーの名は、マインツ宮廷音楽監督・教会オルガニストいずれの候補にも上がる事は無かった。

Hericourtのフローベルガー●P.126
1665年のConstantijn Huygensとの邂逅によって、フローベルガーは1666年9.1、Hericourtから自作を彼のもとに送った。フローベルガー書簡は残存しないがHuygensの1666年10.12イタリアアからの返信は現存し、伊語で書かれている事からフローベルガー書簡が伊語だったと演繹される。この返信からフローベルガーは、4回目のウィーン滞在時からマインツ宮廷オルガニストに就任する事を真剣に考えていた事、Huygensがフローベルガーの作品をリュート用に編曲した事、後のUtricia Ogle に宛てたHuygensの手紙から、更に多数の編曲をHuygensが実施した事もわかる。「フローベルガーのクラスの為に、私はリュート編曲に取り組んでいます。随分上達したと思いますが、お耳を喜ばす事が出来れば幸いです。」

P.233
挿入:The HUYGENS-FROBERGER-SIBYLLA 書簡(1666−1668)
Rudolf Rasch編


ハーグ王立図書館所蔵、Huygens手書き、Ms.kaXLVIII、fol.68rv
Constantijn Huygens(ハーグ)からフローベルガーへ(Hericourt):
1666、10.8(ps 12)
「フローベルガー様、貴方の素晴らしい作品を私の研鑚の為にお送り戴いた事を、深く感謝申し上げます。御礼が遅くなりました事は、オレンジ公処遇他の雑事に追われていた事に免じてお許し戴きたいと思います。
9.1のお手紙では貴方はすぐにマインツ宮廷にお戻りとの事でしたが、私はこれらの素晴らしい作品をお送り戴いた感謝の念を表すのに、その時までとても待ってはいられません。貴方の作品に慰められた者は私一人ではなく、Anna Bergerotti(パリ)、Francisca Duarte(アントワープ)、ここのMaria Casembroot等がこぞって楽譜を入手したがり、貴方の作品に触れられた事を栄誉に思っています。貴方の最後のジーグは中でもとりわけ素晴らしく、貴方のご賛同は得られないでしょうが、私のリュートの為に編曲をしたいと思っています・・・中略・・・貴方がもしまだヴュルテンベルグ皇女の宮廷においでなら、私の紹介状と貴方への敬愛の念を皇女にお伝えください。敬具」
P.S. 10.12
私がどの曲をリュートに編曲したかを表にしましたので、この手紙に同封します。あなたが演奏家としてヴィルトゥオーゾである事は、ジーグや他の優美な作品から明らかです。貴方の作品を演奏するには、特に確実な技術としなやかな指が必要です。Maria Casembrootは貴方のジーグをチェンバロで、芸術的配慮に富む優れた演奏をしました。」

本文に戻る:P.126
我々はフローベルガーが、演奏に長けたヴュルテンベルグ皇女宮廷の在るHericourtから書簡を送った事をまず知った。Hericourtはバーゼルから東60k、西フランスの中都市だった。・・・中略・・・フローベルガーも驚嘆する程演奏に優れたヴュルテンベルグ皇女Dowagar SibyllaはJohann Friedrichの最年少の皇女で、1620年12.4生まれ、フローベルガーより4歳若く、シュトゥットガルトから社交界デヴューした。彼は皇女の父・兄ともなって音楽レッスンを与えたが、彼は皇女の関係からシュトゥットガルトの若い音楽家と知己を得た。

P.127
ヴュルテンベルグ皇女Dowagar Sibyllaの叔父Leopold Friedrichは1662年
6.15逝去、皇女はHericourt近郊に住み、フローベルガーは共に住む音楽教師として来訪した。皇女は長生きして1707年、5.21、86歳で生涯を閉じた。
フローベルガーがConstantijn Huygensの、1666年10,8−12の手紙に返信したかどうかはわからないが、1677年6.9、Hericourtのフローベルガー宛にConstantijn Huygensが手紙を書いた時、既に彼は逝去していた。Huygensの手紙はヴュルテンベルグ皇女Dowagar Sibyllaによって開封された。7週間前の5.13、フローベルガーは夕拝時に心臓発作を起し、彼自身の希望によりBavilliersの教会でカトリック葬儀が行なわれたという逝去の返信が、6月5日皇女から送られている。Constantijn Huygensは6.23ブレダで皇女からのこの手紙を受け取り、8.29返信として未刊のフローベルガー作品を、出版出来るかどうか打診している。

挿入:The HUYGENS-FROBERGER-SIBYLLA 書簡 (1666−1668)
Rudolf Rasch編 

1882年Jonckbloet版
ヴュルテンベルグ皇女Dowagar Sibylla(Hericourt)からConstantijn Huygens(ハーグ)へ 1667年7.5

P.237
「私は貴方の師フローベルガー氏と知己を得た事を、いつも感謝して来ました。貴方の最後の手紙を6.9に受け取り、貴方が多大な労力を払って師の美しい作品の出版に力を注いでいる事を拝見しました。私が貴方の師への手紙を開封した事をお許しください。私は貴方に深く感謝しており、お役に立てれば幸いです。
しかし神の慈悲により、私は今から一人で音楽の研鑚を積まなければならない状況となりました。宮廷オルガニスト:ヨハン・ヤコブ・フローベルガー氏は、7週間前の夕拝時、夕刻5時に激しい心臓発作を起して神に召されました。発作後数回苦しげに息を吸い手足も動かせない状態であったのに、神の特別な御加護を持ってひざまずき、「神よ、神よ、私にお慈悲を」と言われて息を引き取られました。城内の者は全てお側へと駆け寄りましたが、誰もお助けする事は出来ませんでした。私もその場におりました。師は天国で、ミューズのコーラスと共に私共を待っていて下さるでしょう。
亡くなられる前日、師はBavilliersの教会でご自分の銘板を刻みたいと金貨をお持ちになり、貧しい人々や居住に世話になった召使達にあげて欲しいと義援金も渡されました。外国暮らしを余儀なくされている師のお心に少しでも沿う事が出来れば嬉しいと、私は師のご意向を実現する約束を致しました。ご家族も無い所で私を導き、頼って来られた事に感動いたしました。最後まで私の、勤勉で誠実な恩師でした。
師は強いられる忍耐に比して、少ない給料と無名の地位に甘んじておられました。師のように真のヴィルトゥオーゾの音楽家が受ける処遇では在りませんでした。師がここで私の為に働く事を望んだのは、実に私だけでした。他の者は師の真価を理解しませんでした。
私は美しい葬儀を、5月10日金曜日に行い得た事を感謝しております。私の弟や、師の芸術は理解しなかったものの師を慕う人々が参列致しました。しかし快く思わない人々もいて、葬儀が師の宗教的立場や地位に似つかわしくなく華美なものであったと非難しております。けれども私は、師が私に仕え稀有な精神と心を与えて下さった事を考えれば、立派な葬儀だけで不足だと思いこそすれ、私の個人的理由から強行した行き過ぎの行為だったとは思いません。
P.238
師は敬虔なキリスト教徒でした、それだけで充分ではありませんか。私はこの直後から笑いを失いました。私は今でも涙が込み上げ、師と共に私の何かが失われたと感じています。貴方も師の逝去を嘆かれるでしょう。私が貴方に、この世に別れを告げられた師のご逝去を報告しなくてはならないと思ったのは、貴方の手紙を遺品から読ませて戴き、貴方が心からの尊敬を師に捧げられていた事がよくわかったからです。私は貴族音楽を愛する者であり、志を一にする方と思い手紙を差し上げたのです。私は師と共にこれからも一生を送り、愛情を注いで行くでしょう。
ヴュルテンブルグ公爵夫人、Sibylla
Hericourt, 1667年6.25火曜日(当時使用していた旧暦では1667年7.5の日付けになる、17世紀末、西暦は旧暦から改められた)

Constantijn Huygens(ハーグ)からヴュルテンベルグ皇女Dowagar Sibylla(Hericourt)へ 1667年8.29
ハーグ王立図書館所蔵:Ms.KA XLIX3 Huygensのコピーより

P.239
この上なくご丁重なお手紙を戴き早速に御礼申し上げなくてはいけない所、不在が続きこのように遅くなった事をお詫びいたします。貴女の手紙は私を打ちのめし、衝撃で口も利けない状態です。・・・中略・・・私は打ち明けて申しますが、貧しい一人の音楽家の為に貴女がなさった葬儀は前代未聞の快挙であり、悲報に際してこのように感動的な事は未聞の出来事です。・・・中略・・・
私は稀有な友人を共に持った貴女の御庇護にすがって、提案させて戴きたい事があります。師の作品を演奏なさる貴女は、師御自身の演奏かと思うほど優れていると生前故人がよく申しておりました。このような状況はめったにこの世で起こる事ではありません、恐らく2度と再び起こらないでしょう。
P.240
謹んでお願いしたいのですが、故人の普遍的芸術性を知らしめる為に、私共に未知の作品をお持ちでしたら写譜を御送り戴けないでしょうか。写譜者がお手元に不在でしたら、私の方で手稿譜を写譜致します。お預かりする手稿譜は、貴女が考えられる限りの方法で大切に取り扱い、最大の注意を払って返送させて頂きます。
ローマのAnna Bergerottiは現在ルイXIV世宮廷におりますが、最もフローベルガー芸術を良く理解している者の一人です。Anna Bergerottiとフローベルガー芸術の伝播に務めれば、フローベルガーは後世に残る芸術家としてその名が残るでしょう。どうかこの哀願を却下しないで戴きたい、私達は志を一にする音楽的素養を師から受け継いだのですから。・・・後略

本文に戻る:P.127
Constantijn Huygensはこの手紙に、Anna Bergerottiからの請願も添えている。皇女Dowagar Sibyllaは11.2、「通常フローベルガーの作品は門外不出で、その理由として、遺志を無視した解釈が施される危惧、他者には正しくフローベルガーの音楽が理解されず、演奏もされ得ない」と言う返信を送っている。もし皇女が協力するとしても、初期2つの曲集第1巻と第2巻に限ると言った。しかしConstantijn Huygensとフローベルガーの友情を聡明に理解した皇女は、Constantijn Huygensに所持作品リストを送るように申し出た。既にConstantijn Huygensは、Anna Bergerotti以外の人間にフローベルガーの作品を見せない事を確約していた。皇女はConstantijn Huygensと会って、フローベルガーのMomento moriを演奏したいと書き送った。
Constantijn Huygensは即座に返信しなかったが、結局1668年8.4、皇女の出した条件を非難し、既に大量のフローベルガー作品を所持している彼に取って、リストアップ作業は手間がかかりすぎるという手紙を出した。同時に彼は、故人は自作の楽譜は死後燃やして欲しいと望んでいたから、もし故人の希望に添う事を皇女が望むなら、この世界は2度と訪れる事のない美の芸術を永遠に失うだろうと書き添えた。彼は知る限りのフローベルガー作品を集めて出版し、フローベルガーの名前を不朽のものにする為に、ウィーンのフローベルガーと同じカレッジにいたFranz Franckenの来訪を受けたという言葉で手紙を結んだ。
P.127より

挿入書簡:
1667年10.23(旧暦では1667年11.2)
Jonckbloet版より
P.241
皇女Sibylla(Hericourt)から Constantine Huygens(ハーグ)へ
拝啓
貴方がかけがえのない師を悼んでいる事は、お手紙からよくわかりました。私も偉大な芸術と指導者を失って、未だ毎日嘆きを繰り返しております。
P.242
・ ・・中略・・・師から見れば私等子供に等しく、師の独創性に比べれば私はコピーをしているに過ぎません。師の作品は私が生きている限り私だけの宝物であり、私の手から離れて他所へ行く事は出来ません。それ以上に私は、師がお望みだったので、他の誰にも自作譜面を与えない事を生前約束致しました。もし私が与える事を望んだ場合には、初期2つの曲集第1集と第2集にのみすべきで、あとの作品は門外不出です。師が貴方を大変愛しておられ、恐らく貴方からの頼みであれば、どんな事にも応じられるに違いないという事は分っています。ですから貴方がお持ちの作品リストを知らせて頂ければ、お持ちでない作品の幾つかは写譜して御送りしますが、決して公開しないという条件の元にのみ可能です。師は私以外にご自身の作品が理解できる筈は無い、他の者は作品を台無しにするだろうといつも言っておられました。師は明らかに、私以外の者の手に作品が渡る事を嫌っておられました。師が亡くなったからと言って、約束を反古にする訳には参りません。私は師を永遠に偲ぶ為に、壮麗な墓石を建てている所です。
私には高貴な芸術を理解出来る貴方と共に在る事は、大きな慰めです。貴方の為に師のMomento moriを、最大限の努力を払って私が演奏するべきだと思います。ケルンのオルガニストCasper Grieffgensはやはりこの曲を、師から手を取って教えられました。楽譜だけを見てこの曲を弾くのは、難しい事なのです。私はこの曲のために特別な研鑚を積みました。しかし晩年の師が演奏されたような正しいdiscretionを学ぶ事は、不可能であるというCasper Grieffgensの意見に賛成です。全能の神は天上のミューズの合唱と共に、師と我々音楽愛好家が再び演奏する日を与えて下さいました、アーメン。
・ ・・後略・・・
追伸:
Anna Bergerottiは、私の美術館にある晩年のフレスコバルディのポートレイトから知っています。私がお送りする師の作品について彼女と語る事は構いませんが、前述の条件を守って下さい。

1668年8.4、ハーグ
Constantine Huygens(ハーグ)から皇女Sibylla(Hericourt)へ
ハーグ王立図書館、MS KA XLIX3, pp.143-144, Huygensのコピー

謹んで申し上げますが、私は晩年の貴重なフローベルガー作品についての貴女のお考えには、不愉快を禁じ得ません。私の趣旨とは全く反しています。偉大な作曲家の作品に、関心が高まっているのです。私は既に膨大な楽譜を所持しており、数小節を取り出してリストの見出しをつけるのは不可能な作業です。貴女が看破なさったように、師ご自身の薫陶無くして師の作品を正しく演奏できる者は、世界に僅かしかおりません。師の真の才能が他の生徒達より良く貴女に引き継がれているのなら、貴女の手から作品が離れる事は良くないのでしょう。
更に貴女は遺稿作品について師が望まれた事を、几帳面に成就なさっています。師の信頼はまことに正しかったのです。私の不確かな記憶からでは、世界を耀かせる不滅のものとして、偉大な師の名前を後世に残す事等おぼつかないでしょう。ウェルギリウス(70−19 B.C. ローマの詩人、The Aeneidの作者)や他の偉大な芸術家達は、彼等の死後作品を焼却するように望みました。世界は作品と共に、ニ度と再び獲得し得ない美を失ったのです。無名に甘んじた師の大きな才能、偉大な芸術家の名前を流布させる事のどこが間違っていると、貴女はお考えですか。
率直に申し上げますが、傑出した作品を地下へ葬り去るかわりに、故人の誠実な友人として全世界に伝播する出版事業を行う事が、これから我々の真に成すべき事だと思っております。
2−3日前、ローマで勉強したドイツ生まれのFranz Franckenの来訪がありました。イタリアア歌唱の才能だけではなく、芸術性に優れたチェンバロ演奏で弾き語りを聞かせてくれました。彼の編み出す不協和音は現代イタリアの魅力を収斂し、何よりも彼はフェルディナンドIII世宮廷でフローベルガー氏と共に長期間働き個人的に懇意だったと自己紹介した事から、大変な歓迎を受けました。
P.245
しかし貧しい給料の為に待遇のより良い所を探す必要があったので、私は彼にアントワープを紹介しました。Franz Franckenはフローベルガーとの経験を語った事で、随分得をしました。彼のメソードには明らかにフローベルガーとの経験が生かされ、私がかつて聴いた事の無い程彼の作品は洗練されていました。・・・後略・・・

本文に戻る:P.127
1668年8.4の手紙をもって、Huygens/Froberger/Sibylla書簡は終わっている。

P.128
●フローベルガー作品の手稿譜●
フローベルガー生前に出版された楽譜は僅かしか無い。
Kircher:Musurgia universalis (ローマ、1650)にファンタジー、Francois Roberday :Fugues et Caprices (パリ、1660)にリチェルカーレが各々1曲掲載されている。スウェーリンク、シャイデマン、ルイ・クープラン、フローベルガー等は、伝統的写譜者に頼って作品の流布を行っていた。スウェーリンク等は19世紀後半まで出版譜を待たなくてはならなかったし、フローベルガーは死後30年経った17世紀最後に、殆どの作品が出版された。しかし我々はフローベルガーのs伝統的マヌスクリプトをここで検討したい。
例外的2作品を除いて生前出版はされなかったが、フローベルガーはタイトル、献呈、作曲年代、作曲番号等、出版に伴う必要事項を周到に準備していた。オーストリア国立図書館には、全4巻の鍵盤楽曲集の内第2集と第4集のみ、献呈マヌスクリプトが保存されている。第5巻は未刊。

☆Autograph Manuscripts Section A1-より
第2集ウィーン、オーストリア国立図書館所蔵MS.18706-sourceA1 AppendixII
トッカータ第2集、No.1−6トッカータ、1−6ファンタジー、1−6カンツォン、:アルマンド、クーラント、サラバンド、ジーグ、altre Partiteを含む。献呈はフェルディナンドIII世、ウィーン1649年9.29、ファクシミレ:Froberger/Hill 1988a
Litt. Riedel 1960,pp75-76, Starke 1972,pp9-13
Swannから2回目の手紙がHuygensへ送られた直後である。

☆第4集同所蔵MS.18707-sourceA2同書
トッカータ第4集、No.7−12トッカータ、7−12リチェルカーレ、7−12カプリッチオ、7−12組曲:アルマンド、ジーグ、クーラント、サラバンドを含む。献呈はレオポルドI世、ウィーン1656年、
Litt. Riedel 1960,pp75-76, Starke 1972,pp9-13

第2集は6曲毎4部分に分かれる。第1部分から、2段譜イタリア・タブラテュア書式で書かれた6トッカータ、4声体鍵盤楽器書式による6ファンタジー、同書式で6カンツォン、2段譜フランス・タブラテュア書式の6組曲。
第4集は第2集同様、6曲毎4部分に分かれ、第1部分から、6トッカータ、6リチェルカーレ、6カプリッチオ、6組曲の順に並んでいる。リチェルカーレとカプリッチオは新ジャンルとして登場しているが、リチェルカーレは初期ファンタジー様式、カプリッチオは初期カンツォンと差異が無い。

☆第3集同所蔵MS.16560C:Libroterzo-sourceA3同書
ウィーン、オーストリア国立図書館所蔵、第3番目のフローベルガー自筆譜面MS.16560-sourceA3
カプリッチオとリチェルカーレのみ、献呈はレオポルドI世、1658年初頭、ファクシミレ:Froberger/Hill 1988
6曲毎2部分に分かれ、1−6カプリッチオ、1−6リチェルカーレのみが収集。
これが第5巻草稿として書かれた全4部分の内、2部分ではないかと思われる。フェルディナンドIII世へ献呈した第4集のように、異ジャンルの曲を組み合わせて一冊に編纂する事は、伝統的手法だった。

P.129
フローベルガーは明らかにイタリア伝統に従って編纂し、先達として、1603年、1609年マヨーネ、カプリッチオ第1,2集、1603年、1615年トラバーチ、1615年、1627年恩師フレスコバルディ等の曲集が挙げられる。マヨーネとトラバーチは対位法書法の作品を冒頭に、リチェルカーレ、ファンタジー、トッカータ、パルティータと大雑把に並べている。フレスコバルディは第1,2集共、トッカータを曲集筆頭に掲げている。トッカータ、ファンタジー、ファンタジー、組曲の分野順序は、恩師フレスコバルディ等イタリア伝統に倣った事が明らかである。
6曲毎に厳密に分かれているのは、イタリアでは12のリチェルカーレを、12旋法で編纂するのが伝統だった事による。トラバーチ第1集1603年では12のリチェルカーレを、12旋法で冒頭に編纂している。フレスコバルディ、ファンタジー第1集1608年では、12のファンタジーを含み、第1、2集のトッカータは12曲がセットになっている。1624年カプリッチオ第1集は12のカプリッチオがセットになっている。他のジャンルの作品は曲数が変動的である。
1640年頃、出版譜は12曲毎1セットになっているのが伝統的で、6曲×2のシステムは確立されていなかった。コレルリ、ヴィヴァルディ、バッハ等多数の作曲家が用いた6曲×2のシステムは、1670年頃から出現する。Giovanni Battista Vitaliがこの新システム導入の先駆者だった。
更に面白い事にこの6乃至12曲毎1セットの曲集編纂は、ウィーン宮廷から起こっている。Wolfgang Ebner(1612-1681)はウィーンでフローベルガーの同僚で、1648年プラハから、アルマンド様式の12の変奏曲、12のクーラント、12のサラバンド集を出版している。Marco Antonio Ferroはウィーン宮廷の室内楽作曲家だったが、1649年ウィーンから、献呈はフェルディナンドIII世、12のソナタ集を出版、・・・後略・・・
フローベルガーの6曲セットの内第1曲と第6曲は、特別な意味を持たされているケースが多々見られる。第2集第1番のファンタジーは、フレスコバルディ1624年版第1番カプリッチオ、コレルリ1681年版opus1のソナタ・ダ・キエザのフーガを想起させる。第2集第6番の組曲はAuff die Mayerinの主題による変奏曲を含み、第4集第6番の組曲は、フェルディナンドIV世逝去を痛むラメントで開始している。第4集第6番のリチェルカーレはFis mollで書かれ、第5巻のCis moll、コレルリopus5第12番のソナタ、ラ・フォリア主題による変奏曲と対応する。
P.130
フローベルガーの鍵盤楽器用組曲は、常に音楽史上重要性を持って語られてきた。彼は長期間に渡って、鍵盤楽器用組曲の発見者とみなされて来た。しかし組曲の発展史を、一国一人に限って語る事は不可能である。フランス、イングランド、ドイツ、オーストリア等の作曲家が影響しあって、鍵盤楽器、リュート、室内楽等の分野で総合的に発展したのである。しかし私は今でも、1649年フローベルガー鍵盤楽器用組曲第2集は、組曲集としての原則を打ち立てた源泉ではないかと思っている。フローベルガー鍵盤楽器用組曲第1、2集には、初期作品の独立した作品が例外なく組曲中におさめられている。1649年フローベルガー鍵盤楽器用組曲第2集は、アルマンド、クーラント、サラバンドの3楽章形式になっており、組曲第2番には中核となる3楽章にジーグが加えられて4楽章になっているが、明らかにフローベルガーは、組曲様式として3楽章形式に拘っていた。
1656年フローベルガー鍵盤楽器用組曲第4集は、アルマンドの後にジーグが加えられて4楽章形式となっている。私はフランスと、とりわけ1650年初頭イングランド旅行の間に、アルマンドの後にジーグが加えられた4楽章形式を採択するようになったと仮定したい。鍵盤楽器用組曲第4集タイトルには、舞曲楽章の順番に外国からの影響が明らかに見られる。
失われた鍵盤楽器用組曲第1・3集について少しふれておきたい。
マテゾン1740年曰く、フローベルガー鍵盤楽器用組曲第3集は当初Johann Georg II世へ献呈、6トッカータ、8カプリッチオ、2リチェルかーレ、2組曲が含まれていた。6−8−2−2という曲数順番は他のレギュラーな編纂とは相容れないものの、私はこの曲集編纂も、フローベルガー自身の自由なナンバリングだったのではないかという仮説を立てている。初期ファンタジーの替わりにリチェルカーレ、初期カンツォンの替わりにカプリッチオが入っているという事は、第2集のファンタジー・カンツォン集より前に位置するとは考えにくく、第3集として編纂されたと考えたいからである。更にマテゾンが所有しているフーガ、カプリッチオ、トッカータ、組曲の曲集も、私はこの第3集から分派したものだろうと思う。マテゾンの論述によればこの曲集はフランスとイングランド旅行の賜物だそうだが、曲集に収集の作品は第4集には無く、第2集の時点ではまだ書かれていない。必然的に第3集とみなすのが自然だろう。もしこの論拠が正当であれば、ラメントのついた第14組曲、メランコリーのある第30組曲は第3集に属する。第3集が本当にザクソン皇帝に献呈されたのなら、ウィーン・ライブラリーに含まれていない事の説明になるかもしれない。
第1集についての考察はより難解である。これがフレスコバルディに学んでいたイタリアア時代の作品なのか、1643年又は1645年宮廷に奉職した時なのか、構成的にフレスコバルディ・コレクションに倣う物なのか、それとも既に6曲毎4部分に分かれる編纂様式だったのか、論議の分かれる所である。
P.131
私は、1647年イタリア旅行の際フローベルガー自身が、イタリアでの出版を目論んで写譜を済ませた上で携帯したのが、第1集乃至は第2集だったのではないかと思っている。第1集の方がこの可能性は強いと思われるが、この計画の為にイタリア皇子か高位の貴族に献呈されたと考えるのは当然の推測として成り立つだろう。第3集がウィーン・ライブラリーに含まれていない事の説明としても、この論法は役に立つ。
失われた第1集と第3集には、第2,4集に見られるようなトッカータが12曲、当然収集されていただろう。恐らく第1集にはファンタジー・リチェルカーレ・タイプが、第2集、第4集からリチェルカーレ8番、ファンタジー7(8)番が収集されていた。これらはリチェルカーレというタイトルでなく「フーガ又はファンタジー」という名のタイトル下に在る事から、第2集、第4集から収集されていたと思われる。
トッカータとファンタジーのセクション後には、カンツォン・リチェルカーレが配された。フローベルガーのカンツォンはフレスコバルディ1627年版第2集トッカータ・カンツォン集のカンツォンと共通点が多く、1645年版第4集カンツォン・ア・ラ・フランチェーゼとは遠い様式だが、フローベルガー第2集のカンツォンと第4、5集のカプリッチオとは、書法に差異が殆ど無い。フローベルガー第2集のカンツォン、他のカプリッチオは自筆譜がなく、カンツォンのタイトルも無い。私は以上の事から、第1集にカンツォン・カプリッチオ・タイプが収集されていたとするなら、タイトルは「カプリッチオ」であったとしたい。
自筆譜がないカプリッチオは第3集ではなく第1集に収集されたという意見も、理由の無い事ではない。1667年10.23付け書簡で、皇女Sibyllaが公開を不承不承承諾した第1、2集だが、第2集作品索引は第4、5集と顕著な差異が認められる。第2集の作品の殆どは自筆譜がないが、第4、5集では組曲を除いて殆どの作品に自筆譜がある。伝統的因習に従って仮説を立てれば、第1、2集には自筆譜が無かったのではないかと思われる。組曲はこの仮説に当てはまらないが、第1集のトッカータは実際殆ど自筆譜がない。
P.133
☆Swedish Sources AppendixIIよりSection G
G1:Uppsala Universitetsbiblioteket Ms.Ihre 285,Thomas Lhre 1679
第5組曲:クーラント、サラバンド、第6組曲:クーラント、第2クーラント、サラバンド、第23組曲:第2アルマンド、クーラント、第2クーラント、サラバンド、第2サラバンド、第24組曲:クーラント、第2クーラント、サラバンド、第2サラバンド、番号無し組曲:アルマンド、クーラント、
Litt,Apel 1962;Ruden 1981,pp.84-86
この第1集組曲では、3楽章、3変奏形式を固執し、他のソースではジーグが追加されている物もある。第1集組曲・第1部では、3楽章形式の組曲が占有していたと思われる。
☆Dutch Sources AppendixIIよりSection D
D1:Amsterdam, Toonkunst-Bibliotheek,
Ms. 'Klavierbook van Anna Maria Eyl 1671'
Copied by Gisbert Steenwick, organist of Arnhem
第23組曲:アルマンド、第2アルマンド、サラバンド、
Litt, van Eijl/Noske 1959;Gustafson I. p.82
17世紀初頭にAnna Maria Eyl鍵盤楽曲集と名付けられた。

☆Dutch Sources AppendixIIよりSection D
D2:Utrecht, Letteren -Bibliotheek,
Ms. 'Gresse-handschrift' 恐らく1670-1680,アムステルダムのJan Barent Gresseによって書かれた。第20番トッカータ
Litt, Gresse/Curtis 1961;Tollefsen 1975:Gustafson I. p.80-81 II.p.239-245
Jan Barent Gresseによって写譜された事から、Gresseマヌスクリプトと呼ばれている。第20番トッカータ第1部分を含む。奇妙な事に同トッカータはEnglish Source
「The Ladys Entertainment 1708」にも含まれている。

●Bourgeatのフローベルガー版●
フローベルガー真正第1版は、マインツ1690年頃―1693年、アムステルダム1698年、彼の死後10年で高まった名声を物語っている。1675年から18世紀にかけて膨大な手稿譜コピーが製作された。宮廷オルガニストだったにも拘わらず伝記的史実に乏しい事が、逆にフローベルガーを神秘化している面もあるだろう。独・仏・伊スタイルが混在する独特の作風も、死後の名声に繋がっただろう。17世紀最後10年の各国の独自性が、総括としてフローベルガー作品に見られるからである。
マインツ版は、印刷と彫版専門家フランス人Louis Bourgeatによって出版された。Louis Bourgeatは明らかに楽譜出版が主目的では無く、ヴァイオリニストJacob Waltherとフローベルガーの為に2巻ずつ出版している。
P.134
☆Austrian, South, and Middle-German Sources
B3:Mainze:Louis Bourgeat 1693,献呈はLouis BourgeatからJohann Jacob Waltherへ
この写譜は、Munchen, Bayerische Staatsbibliothek, London, British Libraly,
Princeton, University Library でも所蔵
No.1−9:トッカータ第14、15、16、17、18,21番、第14.18.15番はJ.K.ケルルの第13.2.1番に相当する。
No.10:ファンタジア第4番
No.11:リチェルカーレ第7番
No.12:ファンタジア第2番(リチェルカーレ)
No.13−14:カプリチオ第9―10番
Litt. Riedel 1960, pp124-126, Froberger/Walter 1968 Froberger/Hill 1988他
Louis Bourgeatの初版集は伊語タイトル-独語訳付き、1693年、ラテン語でJacob Waltherへ献呈、Waltherは憶測だが、Bourgeatのアシスタント或いは手稿譜の提供者だったと思われる。ケルルの作品を含む9作のトッカータ、1ファンタジア、1リチェルカーレ、2カプリッチオが収集されている。この内5作:トッカータ第8,9番(第2巻、トッカータ2,1)ファンタジア第10番(第2巻、ファンタジア4)リチェルカーレ第11番(第4巻、ファンタジア2)は、フローベルガー自筆譜面から採られている。
マインツを30年前に訪れたフローベルガーと、Louis Bourgeatのコネクションを想定する事は難しい。しかしフローベルガー自筆譜面に非常に近い伝統的手稿譜を、Louis Bourgeatが所有していた事は最低限明らかである。何故ならフローベルガー自筆譜面と比較すると、
第1に相違が非常に少ない、
第2にトッカータの記譜法が印刷上酷似している、
第3にトッカータ、カンツォン、リチェルカーレ、アルマンド、クーラント、サラバンド、ジーグのタイトル表記が酷似している事等が挙げられる。恐らくLouis Bourgeat版のタイトルは複数のフローベルガー自筆譜面から採られ、フローベルガー自筆譜面の第2,4巻とは合致していない、
第4にLouis Bourgeatはフローベルガー自筆譜面からPartiteというタイトル言語を用いているが、当時Partiteというタイトルは「作品」以外の意味は無く、フローベルガーに限ってフレスコバルディ式変奏曲の意味に使用した。Louis Bourgeatは同時代に習って「変奏」位の意味で使用している、等の特徴が挙げられる。

Louis Bourgeat1693年版は以下の1695年に再版される。
☆Austrian, South, and Middle-German Sources
B5:Mainze:Louis Bourgeat 1693,再版1695, 献呈は不明
:Facsimile:Froberger/Hill 1988d.RISM F2028
この写譜は、Brussels王立図書館、Berlin, Staatliche Hochschule fur Musik und darstellende Kunst, Leipzig, Musikbibliothek der Stadt Liepzig, Cambridge, Library of King's College, Den Haag, Gemeentemuseumでも所蔵
Litt. Riedel 1960, pp124-126, Froberger/Walter 1968 Froberger/Hill 1988他
Partite di toccate, Ricercate, Caprici e fantasieが含まれ、Louis Bourgeatがタイトル・内容を校訂した。収集分野が広がったわりには組曲が省かれ、Waltherに献呈された1693年版時のドイツ語タイトルは払拭されている。

フローベルガー鍵盤曲集第2集は1696年に出版された。
☆Austrian, South, and Middle-German Sources
B8:Mainze:Louis Bourgeat 1696, :Facsimile:Froberger/Hill 1988d.RISM F2030
この写譜は、London, British Library でも所蔵
Litt. Riedel 1960, pp124-126, Froberger/Walter 1968 Froberger/Hill 1988他
No.1−2:カンツォン第4番(第2セクションなしのカプリッチオ)、カンツォン第3番(カプリッチオ)
No.3−5:カプリッチオ第12.9.10番
タイトルは「Diverse curiose e rare partite musicali」、サブ・タイトルは「Prima continuatione」とされ、分野ごとの区分けを排した。

1695, 1696年の両版は1699年に二巻セットとして出版された。
☆ Austrian, South, and Middle-German Sources
B6:Mainze、Louis Bourgeat 1699, RISM F2029 第1巻
この写譜は、Brussels, 王立音楽院ライブラリー、London, British Library でも所蔵
収集作品はB5と同じ

☆同第2巻B9:Mainze:Louis Bourgeat 1695, RISM F2031
収集作品はB8と同じ

1696年版第2集は疑問が多く、1693年版第1集より意欲に欠ける。第1集は40ページだったのが第2集では25ページと縮小され、カプリチオと題された5曲を含むのみで他分野の曲が無い。しかも第2集第4,5番は第1集の第13,14番を再版している。
Louis Bourgeatの第2集製版者は、粗悪だった第1集製版者より更に劣悪だった事が伺われる。第1集は1695,1699年に再版、第2集1693年版は1699,1714年に再版された。奇妙な事に1714年版では、1693年版第1集より表紙を写し取っている。両曲集ともフローベルガーの名を不朽の物とした組曲分野が省かれているが、Louis Bourgeatは1694年に組曲集だけ別に、Musikalishe Werke, 1.Continuation, bedtehende in meisten-theil Allemanden, Sarabanden, Couranten, Giquen, auf 5 Linien.というタイトルで出版する用意があったらしい。結局これは出版されなかった。

●Roger's and Mortier's Froberger Edition●
1690年頃にフローベルガー組曲集を出版したのはアムステルダムのEstienne Rogerで、10曲の組曲を編纂した。
☆Dutch Sources Section D
D3:10Suites de Clavessin, Amsterdem, Estienne Roger, 1698 RISM F2034
Amsterdam Edition 1698
この写譜は、London, British Library ,Cambridge, King's College Librraryでも所蔵
組曲第13−15、8、17、10、19、20番
Litt. Riedel 1960. p.125. Hill 1988, Rasch 1992
1698年中頃Jurieu catalogue に出現する曲集、献呈は無くアルマンド、クーラント、サラバンド、ジーグを含む。第5.8番は手稿譜第4集第8,10番、第6番はジーグの無い組曲、第2番は手稿譜第3集Lamentation sur que j'ay ete vole がアルマンドになっている組曲、第10番は哀悼のアルマンド「Lamentation sur que j'ay ete vole」AdlerXXを含み、 この哀悼のアルマンドは後期の組曲Meditation sur ma morfuture に収められた作品だろう。
Roger Hillは「Introdaction of the Garland facsimile edition of the Froberger prints: 17th Century Keyboard Music, vol.IV (New York and London, 1998)」の中で、オランダ楽譜出版業者達はConstantine Huygensから直接・間接的にフローベルガーの作品を入手していたと思われるが、1668年8.4付けの書簡だけからオランダとの関連性を見出す事には根拠不十分であると提言している。Constantine Huygensの息子Christiaan Huygensは手稿譜を1687年に相続したが、全く音楽事業に関心が無く、1695年この息子から相続した人物も手稿譜に全く留意しなかった。
幸運な事にRogerの持っていたフローベルガー曲集の出典についてはBourgeatとの商取引が証明しているが、Rogerの売却した譜面、自ら編集した版、かなりの数に上る他の編集者による版、特にパリのChristophe Ballard が出版した版等について、現在まで殆ど文献が無い。売却リスト第一カタログには、1698年からBourgeatが編纂したJohan Jacob Walther「Hortulus chelicus」とフローベルガー第2巻が掲載されている。1699年の同カタログにはBourgeat 版フローベルガー第2巻が掲載され、1708年出版と言われている第3巻はこの後のカタログに掲載されていない。RogerはBourgeat版2冊を各々サイズが違うのに共に値段3フローリン(ギルダ)で売っており、Johan Jacob Waltherの方には4フローリンという値段を付けている。Roger自身が編纂したフローベルガー組曲は38ページからなり4フローリン、Bourgeat写譜のフローベルガーもRogerロンドン代理店Francis Vaillant によって販売された。ケンブリッジKing's College Library にあるこのBourgeat写譜には、「ロンドンFrancis Vaillant によって販売された」というラベルがタイトルページに貼り付いている。フランスStrandの楽譜販売業者達は、全ての分野の楽譜を供給していた。イングランドでの販売価格はRogerの付けた値段を1ギルダ:2シリングで換算し、6シリングで販売されたが、この事実からも明らかにRogerとBourgeatの合弁関係が見て取れる。
更にうがった見方をすれば、Bourgeatの版下をRogerが自版に取り込んだとも考えられる。Roger版数冊のタイトルページには「compagnie」と加えられており、Bourgeatとの協力関係が示されている。私はBourgeatが1696年フローベルガー第2巻出版の為に孤軍奮闘していた頃、Rogerとの協力関係が築かれたと信じたい。1694年からBourgeatは鍵盤楽器による組曲集出版を目論見、結局1698年にRogerが自版に取り込んだとも考えられる。当時、世俗・宗教的声楽曲・室内器楽曲等の夥しい16世紀音楽が出版され、Rogerも例外ではなく、フローベルガー組曲集の前にはNicolas Le Begue の2集を1697年出版している。
P.137
Rogerはエアー、オペラ・セレクション、室内器楽曲等の出版量に比べれば、微量の鍵盤楽器作品を出版した。1699年フローベルガー鍵盤楽器による10組曲、8トッカータ、5カプリチオ、1組のファンタジーとリチェルカーレ、その他102ページの彫版を含む全集が3巻に分けて出版され、3巻まとめて10フローリン、現在通貨だと500フローリン(約25000円)で販売された。Bourgeat版がいつ出版されたのか不明だが、彼は1714年に没し後の販売経路は分らない。フローベルガーの作品は18世紀後半まで写譜が続けられ、キルンベルガー、フォルケル、モーツァルト等によって対位法研究教材として扱われた。
譜例3:第20番D dur 組曲アルマンド
第20番D dur 組曲冒頭のアルマンドはMortierの「フローベルガー10の組曲集」に編纂されている。この曲に付けられた[Memento mori Froberger]はHintzeマヌスクリプトと呼ばれるマヌスクリプトにも見出す事が出来、Sibylla皇女の手紙に唯一一致するタイトルを見出す事が出来る。
Hintzeマヌスクリプトの完全なファクシミレを検討するには、Friedrich Wihelm Riedej「Quellenkundiche Beitrage zur Geschichte der Musik fur Tasteninstrumente in der zweiten Halfte des 17. Jahrhunderts (Schriften des Landesinstitus fur Musikforschung Kiel X, Kassel, 1960 / second edition, Musikwissenschaftliche Schriften XXII, Munchen-Salzburg, 1990), Tafel 1を見る。
P.138
Roger版がアムステルダムに登場したのは17世紀中頃である。Estienne Roger のカタログに出現して以来Michel-Charles le Cene(1723-1743.カタログは1724と1737年)、Emanuel de la Coste(カタログは1744年)等が引き継いだ。しかし1716年版は314版を重ねた事になり再版が行なわれた形跡が無いので、恐らく314版で終了したと思われる。
Rogerはフローベルガー初版の11年後、著作権を侵害して彼の版を出版した。Pierre MortierもRogerのようなアムステルダム楽譜出版者だが、1708―1711年に没するまで17卷を出版した。1709年4月又は5月、Roger版フローベルガー10の組曲集がPierre Mortierによってコピーされ、HuygensとSibylla皇女との関係を証明する「Memento mori Froberger」のタイトル付アルマンド(譜例3)が含まれている。
Pierre MortierはRogerのタイトルに、「Misen Meilleur Ordre, et Corrigee d'un Grand nombre de Fautes(多くの誤謬を排除した改訂版)」を付け加えた。何の改訂を指すのか不明だが、ジーグをアルマンドの後2曲目から終曲に移動させ、1698年Roger版にはないタイトルを加えたのは、恐らく1709年までの事だろう。しかし記譜上の印刷技術が改訂されたのは事実だ。Pierre MortierはRoger版の4分の1の価格で販売しても安定した利潤を得られるほど、需要の多い販売者だった。Rogerは作曲家に版権料を一銭も支払わず著作権侵害を多々犯し、Pierre Mortierも又多々犯したが、Rogerよりは販売力があったに違いない。はRogerの半額2フローリンで販売し、1711年Pierre Mortierが急死するまで出版楽譜の価格ダンピング競争は続き、結局Rogerは初版時の4分の1まで値下げせざるを得ない状況に在った。1711年Pierre Mortierの死後未亡人が本屋を続けるが、楽譜部門は排除の方向へ向かった。出版譜と彫版オークションを計画したが、実施前既に完売となったので実施されなかった。Pierre Mortier書店を買い取った出版社は、もはや何ら音楽的遺産を引き継ぐ意志はなかった。
P.139
Rogerは最終的にPierre Mortierと合併した。1712年Rogerのカタログには、Roger版タイトルとPierre Mortierが追加したタイトルの両方が記されている。Roger / Mortierがカップルとなってから、フローベルガー作品はコレルリやトッカータ、組曲集の中に含まれるようになり、Pierre MortierはRogerの彫版に手を加えたと考えられる。ベルリンで出版されたフローベルガーの楽譜には1698年Roger版タイトル・ページが印刷され、「第2版、大改訂版」が附加されている事から、ベルリン版は1698年Roger版の彫版から印刷したとみなされる。しかし現存するカタログには、1698年Roger版の彫版から何らかの改訂を施された版は見出す事が出来ない。ベルリン版を作成した音楽学者達は、アムステルダムではRogerがPierre Mortierのコピーをしたという逆の理解をしていた。
1716年Rogerは失った彫版もあったが、所有している全彫版から再編集を試みた。1720年Pierre Mortierの彫版は466回目の再版を重ね、既にこの時Roger版の彫版は壊れて使い物にはならなかった。1743年の時点でフローベルガー作品全ての彫版は壊れていた。
P.140結論
フローベルガーは南ネーデルランドにほぼ数年滞在したにも拘わらず、当時のオランダ共和国を訪れた事はなかった。しかしオランダ音楽の影響を歴史的に受けていなかったとは言えない。オランダ音楽はイングランド、フランス、ドイツ、オーストリアからイタリアアまで、周辺地域と同化していた。従ってオランダ音楽史を考察すると、常に周辺地域の音楽的特性を作品の内に感得する事となる。フローベルガーの場合にもConstantijn Huygens, Estienne Roger, Michel-Charles le Cene等との強い関連性を実証できるのは、こうした歴史的背景に基づくものである。更に重要なのは、当時地理的・年代学的に西欧内で北―南の作曲家達の間には、驚くべき豊かなネットワークと情報網が行き渡っていた事である。フローベルガー音楽の普及の為にネーデルランドが果たした役割は、過大評価を受けて来たかもしれない。しかしフローベルガー組曲集出版には、オランダ出版界が独占的に市場を開拓した。トッカータと対位法的作品はドイツで出版されたが、オランダとイングリュッシュ・ライブラリーに現存する半数以上のコピーはEstienne Rogerの店舗を経て渡ったものである。BourgeatとEstienne Rogerは1700年前後にフローベルガー・リヴァイヴァルを試みたが、結局18世紀後半に至るまで実現しなかった。1616年生れのフローベルガー作品が全面的に印刷され始めたのは1670年頃からであり、全く時代遅れの古臭い音楽だとみなされても仕方がなかった。作品の真価が認められたのは一世紀を経た後であり、ロマン派が懐古趣味を発動して伝統的作品を洗い直した時、フローベルガーは長い間の無視と眠りから発掘されたのである。

参考文献:
Johann Mattheson[Grundlage einer Ehrenpforte] Hamburg, 1740 / ed. Max Schneider, Berlin, 1910

Brussels, Algemeen Rijksarchief. Ms.1374, fol 126r. fol 232v.

Nicolaus Binninger[Observations(Montbeliard, 1673-a medical work written in Latin)under the heading ' De morte subita ' (Observatio XXXIX, P.415), gives 6 May(Old Style旧暦)この文献から、Sibylla皇女の日付が必ずしも正確とは言えない事、フローベルガーの死は旧暦5.6、新暦5.16と考えられる。

Willi Apel [Neu aufgefundene Clavierwerke von Scheidemann, Tunder, Froberger, Reincken und Buxtehude ], Acta Musicologica 34 (1962), pp.65-67
Robert Hill [ 17th Century Keyboard Music, vol.IV( New York and London, 1988)
2001、12.1 禁転載



Pieter Dirksen編 1990年ユトレヒト国際チェンバロ・シンポジウム
更新3.28 Beverly Scheibert (Brookline MA)
小音符の新たな解釈


第1部 フランス
小音符で書かれた装飾音の多くの問題を含むのは、18世紀の仏音楽だろう。
2つのカテゴリーに分けられる。
1) 主音―装飾音へスラーで繋がったもの:主音の最終音価で入れる。
☆☆主音にアクセント、主音から上行する装飾音、accent
☆☆主音にアクセント、主音から下行する装飾音、chuteの2種類。

2) 装飾音―主音へスラーで繋がったもの: 現代奏法ではアクセントと言うより、拍前に入れる。
☆☆装飾音にアクセント、装飾音から上行する主音、port de voix
☆☆装飾音にアクセント、装飾音から下行する主音、coule

☆☆フランソワ・クープランの装飾表には??にスラーと付点の付いたものを、16分音符+付点8分音符のリズムで演奏するという指示がある。

P.100
同様の意味を表す小音符 は左側の小さな棒、17世紀後半は十字印が使われていた。ダングルベールとフランソワ・クープランの「クラヴサン奏法」の、装飾法を参照されたい。

P.109
第2部 ドイツとフランス
ギャラント様式まで、原則的にはフランス装飾と同じ装飾法が用いられた。ギャラント様式の到来と共に、装飾音の付いている主音の音価によって多様な適応が行なわれた。1752年クヴァンツの著述以来、C.P.E.バッハ、F.W.マールプルグ、J.F.アグリコラ、レオポルド・モーツァルト、G.タルティーニ等が装飾法を著した。30年後、D.G.Turkは「Klavierschule 」で、広範囲に渡って装飾法を明瞭化した。
彼らの小音符 は音価を持たない鋭いアクセントとして、主音とほぼ同時に弾かれた。仏語のport de voixは独語のvorschlag、伊語のappoggiatura と同義である。私の近刊書では、J.S.バッハ、スカルラッティ、ハイドン、モーツァルトに於ける長短装飾音について言及している。
C.P.E.バッハの前打音は2例が挙がっている:
☆☆☆16分音符+付点8分音符のLombardリズムで演奏する
☆☆☆小音符が主音の前に書き出されている
この適用は、旋律線を壊さないように留意しなくてはならない。極度に短くアクセントのように主音とほぼ同時に弾かれる小音符は、伝統的な装飾音記譜では書き表せないと述べた著者もいる。C.P.E.バッハの前打音は拍頭に入れる。J.J.ルソーが賢察したように、極小音価装飾音は拍頭・拍前いずれにしても一瞬鳴るだけなので、余り変化の可能性が無いとも言える。しかし近接して極小音価装飾音がある場合、入れるタイミングは非常な重要性を帯びて来る。もし拍前に入れると、極小音価装飾音と主音の2音を耳は捕える。拍頭に入れれば、主音に混ざった極小音価装飾音として1音に聴こえる。拍頭装飾音は旋律線を保持する事が出来、拍前装飾音は耳障りでくどい装飾音になりかねない。C.P.E.バッハの前打音は、拍頭に入れるべきではないかと思われる。

P.111
1750年頃小音符はありふれた装飾音のひとつで注目されなかったが、次世代、特にTurkは、1789年小音符についての適用範囲を実用的に定義した。各作曲家の定義を参照してみよう。
☆☆☆クヴァンツ1789年:小音符は拍前に音価どおり入れるべきである。
☆☆☆レオポルド・モーツァルト1789年:小音符は可能な限り素早く入れ柔らかなアタックをつける。
☆☆☆C.P.E.バッハ1753,1762年:小音符は可能な限り素早く入れるが、後続音の音価によって微妙な差を生じる。主音の音価を変えてはならない。
☆☆☆アグリコラ1757年:小音符は主音から僅かの音価を盗み取って良い。
☆☆☆タルティーニ1961年版:小音符は主音が特別な印象を与えるように、軽く素早く入れる。装飾音の方が目立ってはいけない。可能な限り短く入れられれば、主音に良い情緒effect を与えられるだろう。
彼等は基本的に、フランス装飾音petite note と同じ定義をしている。フランスの作曲家達はこれらを「音価の無い装飾音」と呼んだが、ドイツでは時によっては音価を与えるという注釈を加えた。小音符は伝統的記譜の中に書き表されている。
Turkは1789年、16分音符+付点8分音符のLombardリズムで記譜されていても、主音により重きを置く鋭い装飾音を主張した。「小音符は和声構成音として考えない。長い音価の前打音で書かれていても、私は素早く短く微細なアクセントで、後続主音の音価を僅かに縮めて入れる方を好む。」Turkは16分音符+付点8分音符のLombardリズムと短い音価の前打音を区別し、短い音価の前打音は拍頭に音価を短縮して入れる装飾音とした。短い音価の前打音は伝統的記譜法では書き表せないとして、16分音符+付点8分音符のLombardリズム記譜とは異なる記譜法を案出した。
1802年H.C.KochはTurkと同じ定義を展開した:「前打音は長短音価に分けて考えるべきである。短い音価の前打音にはアクセントが付かないので、主音にアクセントが来る。何故なら短い音価の前打音は滑るように一瞬で主音に移行するので、独立した音価を持つ前打音とは異質だからである。タイの前の前打音も短い音価の前打音として演奏する。」

P.112
譜例18
H.C.Kochはクヴァンツ、C.P.E.バッハ、Turk等と同じ見解を表し、1750年から末まで、前打音には長短2通りの演奏解釈が存在すると主張した。クヴァンツはLombardリズムの項で、柔らかい経過音的小音符と、力強く活気のある極小音符を対照させている。アグリコラはLombardリズムが小音符で書かれている時は、強くシャープに演奏するべきだと言っている。一般的にLombardリズムは装飾音のリズムには用いられなかったが、遅い曲での3度下降、長い音価の繰り返し等では任意選択によって採用されていた。しかし装飾音のLombardリズム使用は、世紀半ばバッハとアグリコラによってのみ採択された。

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バッハとアグリコラは装飾音のLombardリズム使用に於いて、短い前打音に長い主音より強いアクセントを与えた。バッハの前打音は大概の場合長く奏されると解釈できるが、アグリコラは前打音の長短をより詳細に記した。しかしアグリコラは、小音符に強いリズムアクセントを与えるよりマイルドな効果を寄与した。曰く「主音は前打音よりも柔らかく繊細に弾かれなければならない。両音には繊細さの差異がなくてはならないが、精妙な差異の創り方については奏者の感覚に委ねられる。」バッハは前打音を拍頭に弾く事を示唆し、往々にして起こり得る、主音に乱暴なアクセントをつける間違いを指摘した。これは慣習的に、主音に向かって強勢リズムになる事を示している。
未熟な奏者は装飾音を拍前に出して弾いてしまうが、無気力で活気の無い演奏となる。装飾音の演奏技術が無い為に俊敏に弾く事が出来ず、拍前からだらだらと入れてしまうからである。
バッハと同時代作曲家を見渡すと、拍頭に装飾を入れる手法を採択している。バッハは拍前に装飾音が来ない事、主音を乱暴に叩かない事等の為に、主音を装飾前打音より軽く弾くように規定した。
バッハとアグリコラは装飾音をLombardリズム使用に帰してはいないが、繊細な前打音は表記音価を殆ど持たないリズム強勢だった事が理解出来る。主音より強く弾かれる前打音の強度については、奏者に任された。一方タルティーニとモーツァルトは、短い小音符は主音よりストレスを軽減するべきだと言っている。音価の殆ど無い極小前打音が素早く拍頭に弾かれれば、主音の方が強く聴こえる事は自明の理である。
バッハとアグリコラは小音符を極小音価装飾音として記した。アグリコラの用いた装飾音呼称Lebhaftigkeit、Schimmer、Brillant、英語のsprightliness、sparkle、brilliancehaは、主音を強調する音価の殆ど無い装飾音を意味している。しかしLombardリズムの前打音は拍頭に弾かれなくてはならない。拍前に出して弾く現代的奏法では、燦然と耀く装飾効果を逸する。
慣習的記譜法が、極小音価装飾音の演奏意図を適切に伝えてこなかったのである。Lombardリズム使用は等で記載され、小音符の前打音が拍頭に来る。当時表記通りのリズムで演奏する奏者は無く、装飾音の扱い方、効果を狙った音色を熟知していた。バッハが拍頭装飾音を強調したのは、装飾音が主音とほぼ同時に弾かれる事で、旋律線を壊さないようにする為だったと思われる。

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Johann David HenselのAusubende Klavierschule(1796年頃)第19例に挙がっている装飾音表記は、完全に間違っている。拍頭前打音はピアノになる筈だが、彼の表記では拍頭前打音がフォルテで、拍前前打音がピアノに書かれるという誤謬を犯している。
「よい音」とはアクセントの付く音で、「悪い音」とは非アクセントの音を表す。Henselは正しいLombardリズム表記を行なっているのだが、強弱を取り違えている。彼は極小音価装飾音を、拍前に5本の譜尾を持った16分音符で記す事を好んだが、拍頭主音音価を損なう事無く、鋭いリズムで瞬時に装飾音を入れるという示唆以外には考えられない。しかしこのような演奏意図を、如何にして現代記譜法は具現できるのか?
この論説を含む彼のピアノメソードによって、極小音価前打音の難解な未解決問題を解決へと導いたのである。彼は1752年生まれ、Turkに師事、プロイセン王フリードリッヒIII世への献呈作品、オラトリオ、歌曲、ピアノ曲集などを作曲した。
これらの資料からだけではなく、当時の楽譜から、拍前に書き出された小音符の装飾音が、拍頭主音と同時に弾かれた事は明白である。アクセントの付く装飾音は、往々にして重要な不協和音を逸し、折角準備された不協和音の最上声に装飾を加える事によって、意味不明な和声を生じさせる。このような障害をジャン・ルソー、クヴァンツ等は察知し、記述に留めている。クヴァンツ「フルート奏法試論」P.97を参照されたい。
「前打音」という独語は音を伸ばすという意であるが、主音音価の半分を与えられる拍頭前打音と、主音と同時に鋭く弾かれる殆ど音価の無い前打音とは、表記が同じでも区別して用いられていた。つまりアクセントのある前打音には音価が与えられ、アクセントを主音に置きたい前打音には音価が与えられなかったのである。(両者の意図の差異を記譜する事は不可能である)
バッハとアグリコラによって規定された優美なLombardリズムの前打音は、しかし演奏上、軋んだ音を発する装飾音になり易かった。
BWV.1068/3のD durガヴォットI1−5小節を参照したい。表記通り8分音符で拍頭に各前打音を入れると、例えば第1小節1拍目のバスに対して、属7第1展開形のバス繋留が拍頭で成立しなくなり、構成上重要なバス繋留による和声要素の提示が初回から出来ない。各前打音は単なる先行音の反復であり、バス繋留の和声的重要性から見れば単なる反復音に過ぎない。

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各前打音が音価の無い鋭い装飾として主音と共に拍頭に弾かれれば、各声部進行は明確になり、前打音をダラダラといれる事によるテンポの歪みも回避する事が出来る。

ハイドンHob.I:99Es dur交響曲第1楽章64−65小節を参照したい。
64小節4拍目バスB♭に対するDes,E-naturalは、Fの前打音を表記通り16分音符で割ると、拍頭に用意された不協和音程がB♭・Des・Fの協和音程となってしまい、和声的効果を著しく損なう。65小節4拍目の前打音も同様で、単なる経過音装飾に記譜通りの音価を与える事は、和声・旋律の骨格を損なう。

モーツアルトK.310a moll鍵盤ソナタ第1楽章1−16小節を参照したい。
小音符の各前打音は異なる論拠から、音価の無い鋭い前打音として弾かれなければならない。アクセント付き前打音の基本的役割は、繋留による不協和音を予備する事にある。これに反して18世紀セオリーに則った前打音は、セクション・フレーズ開始音を強調する極小音価の装飾と解釈される。第1小節1拍目のDisは、18世紀セオリーを根拠にする極小音価の装飾音、第2,4小節のAはバスAと同音でシンコペーションのリズムを強調する前打音であり、音価を与えればリズム骨格のシンコペーションが損なわれる。メロディーのGisはバスに対する減音程を形成する重要な音で、バス同音のAを拍頭に長く入れたのでは、この冒険的音程の強拍での提示が不可能となる。第10小節1拍目の2つの8分音符A−Gisが、第2,4小節前打音の書き出された形だと見る解釈もあるようだが、モーツァルトの記譜は精密であり同音型を2種類の記譜で書き分けたという事は、音価のある小音符と極小音価の鋭い装飾小音符と、2種類の演奏法を示唆していると解釈するのが良心的だろう。第15小節4拍目DはバスFisとDの協和音程を生むが、G−dur転調の重要な属7和音第7音としての機能を果たすCが第一義的な役割で、根音Dの前打音は第7音Cを強調する為に瞬時に鳴れば充分であり、アクセントはCに付くべきである。全曲を通じて、主音より音楽的重要性の少ない小音符装飾音をこの手法で解釈すれば、演奏は一層精力的で輝かしいものとなる。

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この論拠となる多数の例証を、近刊「Interpreting Small Notes in 18th-Century Music」に引用した。
極小音価装飾音としての小音符前打音は基本的に拍頭に弾かれるべきだが、例外的にbrillianceとsparkleを加味したい場合は、拍前に入れる事も可能ではある。  [完]