イネガル奏法文献

イネガル奏法文献02/2.13更新

更新2.13ドイツのイネガル奏法

和訳要約:綿谷優子




Stephen E. Hefling 「Rhythmic Alteration in Seventeenth-and Eighteenth-Century Music 」
Notes Inégales and Overdotting
1993 、Schirmer Books
Part I:Notes Inégales Chapter 3. Notes Inégales Outside France P. 37-61
関連事項のみ抜粋要約和訳:綿谷

第3章:フランス以外におけるイネガル奏法
P. 40
[ドイツのイネガル奏法]
18世紀フランス教本に一般的に見られるイネガル奏法についての完全な記述は、フランス以外では僅かにしか見られない。学術論文が乏しいにも拘わらず、外国でもその国固有の方法でイネガル奏法が用いられていた具体的な例証がある。1678年Printz 「Musica Modulation Vocalis 」には、漠然とイネガル奏法が提示されている。以下引用:
「付点8分音符+16分音符のリズムについてこの第1章を締めくくる前に、奇数拍=良い音と呼ばれる長い音価には、付点音価でなくても付点リズムを与える事があるという事を想起しておきたい。」
明らかにPrintzの2例の内1例は、付点音価の度合いは不明だがdiminution(主音より短い音価で装飾される音型)での装飾的付点リズムの使用を例証している。しかしより自由なスタイルで書かれている他の1例は、イタリアのpassaggi教本にあってもおかしくは無いと思われる例証であるにも拘わらず、フランスのイネガル奏法についての論議とは徹底的に異質の例証である。従ってPrintzの記述がフランスのイネガル奏法について考察しているかどうかは、確かでは無い。しかしCollinsは「Three Further Views」で、Printzの記述は確実にフランスのイネガル奏法について考察していると主張し、第2例を割愛して引用している。
しかし1663年−69年、パリのリュリの元で研鑚を積んだゲオルグ・ムファトは、Printzの記述の20年後に、フランス・バレー音楽のスタイルで2つの大きなコレクションを持つ彼の「Florilegia 1695-98」の為に、リュリ派の演奏マナーを推奨している。(DTÖ I/2:11, 20, DTÖ II/2:24, 48, 52 参照 )彼の短い記述には、2拍子、2分の2拍子、3拍子、4拍子における習慣的音価の採り方としてのイネガル奏法が関連して書かれ、diminution(主音より短い音価で装飾される音型)でイネガル奏法を用いない場合、「退屈で粗野、生気の無い」演奏になると提言している。ゲオルグ・ムファトは「Florilegia 1695-98」をアウグスブルグとPassauで出版する前に、ウィーン、プラハ、ザルツブルグ、更にローマでさえ勉強した。これらどこの都市でもフランス・スタイルが流行しており、彼は各地で直接フランス・スタイルを吸収した。ゲオルグ・ムファトは後年、彼こそが始めてフランス・スタイルをドイツ語圏に持ち込んだのだと不満を漏らしているが、(Muffat 「Auserlesene Instrumental-Music 2 」Passau 1701 preface 、現代版はDTÖ XI/2 ウィーン1904参照 )確かに以下に挙げる人々より彼は先んじていた。
1652年フローベルガーはパリにいて、ルイ・クープランやシャンボニエール等と邂逅した。彼の組曲は確実にフランスからの影響を受けており、1653年−58年ウィーンに戻った時に、フランスの演奏スタイルを波及させた。Johann Sigismund Kusser は6年間パリにいて、リュリの元で研鑚を積んだもう一人の弟子で、1682年Ansbachで、オーケストラのヴァイオリニストにフランス・スタイルで教える教師として雇われている。
1682年Johann Sigismund Kusser は「Composition de musique suivant la methode fraçoise」をシュトットガルトで著し、彼はフランス音楽をイネガル奏法では演奏しなかったのではないかと推察される。Johann Sigismund Kusser はこの著書の序文に、「有名なバプテスト(*リュリ)を模倣する以外に、私自身には不可能な演奏方法だと信じている。私は彼のメソードを模範とし、繊細な手法に可能な限り従事してきた・・・」と記している。Johann Sigismund Kusser はその後もフランス・スタイルで器楽音楽の作曲を続け、イタリア・オペラの作曲家ともなった。1690年−94年、3つのリュリ作品が1680年頃上演されたWolfenbüttel市のカペル・マイスターとなった。この後ハンブルグ、シュトットガルト他ドイツ各都市で活躍し、1705年ロンドンへ旅立った。彼は結局22年間をロンドンとダブリンで過ごした。
彼と同様にヨハン・フィッシャー(1646−1716)は、シュトットガルト、アウグスブルグ、Anabach、リューネブルグ、Schwerin等で奉職する前の5年間、リュリの写譜者として働いた。
Rupert Ignaz Mayr(1646−1712)はミュンヘン宮廷からリュリの元へ派遣され、1685年帰国した。
Agostino Steffani は1678年−1679年パリを訪れ、確実にイネガル奏法を吸収して、彼のフランス風序曲にリュリのフランス・バレーや舞曲のスタイルを取り入れ、ミュンヘンやハノーヴァーでオペラ作曲家として活躍した。
17世紀中期フランス作曲家は、ハノーヴァーHofkapelle(王室礼拝堂)で名声を博した。ハノーヴァーHofkapelleは、1698年−1701年テレマンが活躍したWolfenbüttelの近くである。テレマンは1701年−5年ライプツィヒへ移り、J.S.バッハが音楽監督として就任する事になるコレギウム・ムジクムの基礎を築いた。1705年テレマンはSorauのカペルマイスターとなり、パリから帰ったばかりのPromnitz伯爵Erdmann II世の為に多数のフランス風序曲を書いた。1708年−12年アイゼナッハ勤務時代、テレマンは「フランス音楽と作曲に類稀な巧妙さを持つ」名人芸的ヴァイオリニスト・ダルシマー奏者Pantlon Hebenstreit から影響を受けた。Pantlon Hebenstreitは特に精度の高いフランス・スタイルで、オーケストラの指導に当たっていた。(MGG 5:1471;Georg Philipp Telemann, « Lebens-Lauff...1718, » in Johann Mattheson, Grosse General-Baß-Schule..., 2d ed. ハンブルグ 1731, 172-76, p. 176 参照)テレマンはPantlon Hebenstreitを評して「Mr. Hebenstreitは種々の楽器に精通しており、更にフランス音楽と作曲に類稀な巧妙さを持つ。私がここに引用するものよりずっと多くのものを彼は持っている。」1705年Pantlon Hebenstreitはパリに招かれ、ルイXIV世の前で御前演奏をした。Celle宮廷のGeorg Wilhelm 公爵夫人はフランス人であり、1666年−1705年統治したPhilipp La Vigneの下で、フランス風Celle・Hofkapelle様式は隆盛を向かえた。この間7−10人、又はそれ以上のフランス音楽家達がCelle・Hofkapelleのメンバーに加わり、1680年頃にはこの内の2人がバレーの指導者となった。若いJ.S.バッハは確実にこのフランス音楽家達の演奏を聴いており、又1700年−02年リューネブルグMichaelisschuleの学生だった時には、彼等の仕事を手伝った事もある。この時フランス・ダンスの指導者でCelle・HofkapelleのヴァイオリニストでもあったThomas de la Selleは、J.S.バッハ宮廷就職の責任者でもあった。C.P.E.バッハによれば、彼の父はリューネブルグ時代に「フランス趣味の基礎知識は全て身に付けていた。」以下参照文献:

Christoph Wolf, 「Johann Sebastian Bach」The New Grove Bach Family New York:W.W. Norton, 1983 51
Gustav Fock, 「Der junge Bach in Lüneburg」 1700 bis 1702 ハンブルグMerseburger, 1950 44-46, 53-54
C.P.E. Bach with J.F. Agricola, 「Obituary of Bach」1754 in the Bach Reader ed. Hans T.
David and Arthur Mandel New York:W.W. Norton, 1966 217 には引用符が記されている。
イネガル奏法はフランス音楽・リズム奏法の基礎として捉えられていた事が、多くの例証に挙げられている。フランスから影響を受けたドイツでのイネガル奏法について記述した文献は、多くのドイツ作曲家達がリュリ派のスタイルについて記した論文の中に見出される。以下参照文献:
Johann Abraham Schmierer 1661-1719
Johann Georg Conradi d. 1699
Johann Caspar Ferdinand Fischer ca.1670-1746

彼等はフランス・イネガル奏法を充分に考慮に入れて、フランス音楽の演奏を実践していた。1732年J.G. Walther「Musicalisches Lexicon」の中に、BrossardのLourerについての定義が再提示された。しかしJ.G. Waltherは、ドイツ語において「均等」「不均等(イネガル奏法)」の定義は一切行なっていない。以下引用:
「フランス風Lourerは、2音符の内初めの音を長目に伸ばしアクセントを加えるが、付点やスタカートにしてはならない(Brossard 辞典 P. 293 f 参照)。」この文献P. 16, P. 32 にはLoulié とBrossardの議論が掲載されている。Waltherのアンダンテについての定義はBrossardに非常に近い。しかしBrossardが主張した均等なリズムのアンダンテは未出版のモテットに分類された作品から定義されているので、Waltherの観点と同じ定義だとは言い難い。

[クアンツのイネガル奏法理論]
現在最も良く知られている詳細なイネガル奏法についての記述は、J.J.Quantzによるものである。J.J.Quantzはドレスデンで、フランス人名人芸的フルート奏者Pierre Gabriel Buffardin に学んだ。又Hofkapelleのコンサートマスターとして指導的立場にあったJ.B. Volumierからも、決定的な影響を受けた。しかし最も薫陶を受けたのはアシスタント・コンサートマスターだったJ.G. Pisendelからで、クアンツは彼のスタイルを称して「成熟し洞察力のある音楽家として、既に彼はイタリア・フランス両方を見聞し、両方のスタイルを兼ね備えている」と書いている。クアンツはJ.G. Pisendelが旅行したイタリア、パリ、イングランドの、それぞれのスタイルについて知識を深めて行った。1755年クアンツ「Lebenslauf 1755」、1718年テレマン「Lebens-Lauff 1718, 173-74」にも、イタリア・フランス両方のスタイルをミックスした混合様式のコメントが書かれている。1752年クアンツの「Versuch einer Anweisung die Flöte traversiere zu spielen」、更に 「Solfeggi pour la flute traversiere... ca. 1770 MS. DK-Kk modern ed. by Winfried Michel and Hermien Teske Winterthur:Amadeus, 1978 」には、イネガル奏法=unegal、unegleich として広範囲の音楽に適応すると提言されている。「Solfeggi pour la flute traversiere」の現代版を編集したWinfried Michel とHermien Teskeは、この著作は1730年−40年クアンツがベルリンへ引っ越す前、フリードリヒ大王のインストラクションの為に編纂されたのではないかと言っている。しかしHorst Augsbach 「Johann Joachim Quantz:Thematisches Verzeichnis der musikalischen Werke, Werkgruppen QV2 und QV3」、と「Studien und Materialien zur Musikgeschichte Dresdens, vol. 5 Dresden:Sächische Landesbibliothek, 1984, V-VI, 」の両書には、同著作は恐らくずっと後になって1775年−1782年の間に、クアンツの弟子Augustin Neuffによって書かれたものだと主張されている。しかしクアンツは1773年に亡くなっているので、1770年頃に起因すると仮定しても妥当ではある。
教育用に書かれたこれらクアンツの著作には、最良のフランス教則本方式に書かれているようなイネガル奏法についての詳細な解説や、フランス風演奏の実践方法の明確な規定等は書かれていない。彼が習慣的奏法として吸収していたので、既に疑問点が無かったとも考えられる。クアンツの「Versuch einer Anweisung die Flöte traversiere zu spielen」に初めて、タンギングの章でイネガル奏法について触れている。「早いパッセージでのシングル・タンギングは、全ての音が同じようになってしまうので良い効果を生まない。良い趣味を持って、僅かに不均等に行なうべきである。第11章、§11、recte:§12」 XI/12でクアンツは、交互の長−短音符は伝統的イネガル奏法であるが、しかし「付点音符のようなリズムで弾いてはならない」と指摘している。又下行する早い音価に、イネガル奏法を用いる事を提唱している。
クアンツの「Solfeggi pour la flute traversiere...」ではイネガル奏法の段階別に注釈を付けて、「非常に不均等」、「均等では無いが不均等にもなりすぎず」に分類(pp.38、40、55)している。第3−5例にはフランス趣味に溢れた各種シラブルにおけるタンギングが挙がっているが、僅かにクアンツ自身の独自な奏法も紹介している。クアンツはイネガル奏法を「良い音」と「悪い音」の繰り返しであると言っているが、フランスではイネガル奏法に「良い音」と「悪い音」のコンセプトを持ち込む事は無かった。又クアンツはイネガル奏法に多数の跳躍音程を含めており、少なくとも1例8分音符のイネガル奏法が「C.」に例証されている。
クアンツの「Versuch」では、習慣的ではない新たな例外を紹介している:非常に早いテンポで奏する早いパッセージには、普通のイネガル奏法は与えられないので「4音一グループとして、第1番目の音にのみ長さと重さが加えられるだけで良い。」「スラーで括られている場合を除いて、声楽のroulades(上行・下行の細かい装飾音型)、同音反復音型、2音以上のスラー・グルーピングにもイネガル奏法は避けられる。(しかしTable IX, fog. 1, m には、スラーで括られた3連音のイネガル奏法例が挙がっている)」これらの例外事項は、フランスの文献からは見出されない。
クアンツのイネガル奏法における原則についての記述を以下引用;
「ここで私は、押さえておくべき全ての音の長さについて所見を述べる必要がある。我々は、principal notes=アクセントの付く音、又はイタリアではgood notesと呼ばれ、passing=時々外国ではbad notesと呼ばれる音とを、いかにして区別するかという事を知らなくてはならない。可能ならば、principal notesは常にpassingよりも目立たなくてはならない。このルールの重要性から言って、曲中の最も早い音価はモデラート・テンポ又はアダージオ・テンポにおいてさえ、これらが皆同じ音価で書かれていても僅かにイネガル奏法で弾かれるべきだ。従って各フィグアのアクセントの付く第1,3,5,7番目の音は、passingの第2,4,6,8番目の音より長く押さえていなければならない。しかし付点リズムのようになってはならない。最も早い音価とは、2分の3拍子で4分音符、4分の3拍子で8分音符、8分の3拍子で16分音符、2分の2拍子で8分音符、4分の2拍子又は一般的4分の4拍子で16分音符と32分音符を指す。しかしこれ以外に、曲中の最も早い音価がこれらの半分の音価、又は倍の音価である状況も考えられ、これらにも前記したイネガル奏法を適用して良い。
Table IX, fog. 1 (*「、」がスラーを表す)
k)16分音符:ド−レ、ミ−ファ、ソ−ファ、ミ−レ、4分音符:ド〜→4分休符
m)16分音符:ド、ミ−レ−ド、ソ、ファ、ミ、レ、   4分音符:ド〜→4分休符
n)16分音符:ド−ミ、ド−ミ、ソ−ミ、ファ−レ、4分音符:ド〜→4分休符

第1,3番目の音は第2,4番目の音より長めに重く聴こえなくてはならない。このルールを尊重すると、イネガル奏法が適用できない程速いテンポのパッセージでは、4音一グループの初めの音のみを長目に重く奏する事になる。
声楽ではこうした早い音符をスラーで括られるべきでは無く、このような声楽的パッセージ・ワークは、1音ずつ区別して各音の発声が僅かに特徴を与えるように聴こえるべきなので、イネガル奏法は使えない。同様に付点リズムや同音反復音型等にも避ける。更に例外として、2音以上4,6,8音がスラーで括られている時、ジーグでの8分音符等も均等に奏し、どれか1音が長くなったりしてはならない。」

Reillyが指摘したように1720年−40年ドレスデンでは、クアンツのフルート奏法が重要な演奏スタイルとして大流行した。しかもドレスデンHofkapelleでフランス・イネガル奏法が実践されていた事実は、下記で証明される:
ドレスデンHofkapelleでは1675年からフランス人ヴァイオリニストが活躍していた。
同・・・・・・・・・・・・1696年からフランス人管楽器奏者が活躍していた。
同・・・・・・・・・・・・1709年から1732年には、7−8人のフランス人が定期的に26−44人メンバーのアンサンブルに参加していた。チェリストTilloyは1699年−1733年ここで演奏し、フランス音楽写譜者としても奉職していた。彼等のレパートリーには12曲のフランス組曲が含まれていた。
同・・・・・・・・・・・・1709年から劇場が閉館する1769年まで、フランス・バレー団が結成されていた。

1692年−1708年ベルリンのダンス指導者、コンサート・マスターを兼任したJ.B. Volumierはフランス宮廷で研鑚を積み、1728年亡くなるまでドレスデンのコンサート・マスターとして契約していた。(このJ.B. Volumierが1717年、頓挫したJ.S.バッハとルイ・マルシャンのオルガン・コンテストを企画したと言われている。)
ドレスデンの多くの指導的音楽家達、J.B. Volumier、Schmidt、 Pisendel 、Richter 、Pezold等は、1714年−15年Kurprinzとパリを訪れ、直接フランス音楽を吸収する事に没頭した。(Early Music 17 1989 20-23 「Dresden Hofkapelle during the Lifetime of Johann Sebastian Bach」参照)特にイタリアのオペラは確実にドレスデンで開拓された。ドレスデンはJ.B. Volumierの死後も後継者のPisendelが亡くなる1755年までフランス演奏スタイルを保持していたにも拘わらず、結局はイタリア化された演奏に数量的に圧倒されていく。
1740年フリーリッヒ大王がプロシャ王として即位した時が、王が長らく望んでいたアンサンブル合奏団を結成する最後のチャンスだった。彼のゴールは、ドレスデンHofkapelle合奏団に匹敵し、更にこれを凌駕する合奏団を結成する事だった。王は既にドレスデンで学び活躍していた作曲家C.H. Graun、ヴァイオリニストで作曲家のFranz Benda等を確保していた。1741年王は遂にクアンツをベルリンへ招聘した。パリに住んでいたMarpurgは、この煌くメンバーの中でひときわ修辞学の人材として際立っていた。Marpurg「Der critische Musicus an der Spree, no. 27 2 Sept. 1749, reprinted Berlin, 1750:218」に曰く、「クアンツ、Benda、Graun等は、非常にフランス的には演奏していないのではないか?」
1741年ベルリン・オペラは、フリーリッヒ大王が13年前ドレスデンで聴いた事のある、C.H. Graun によるHasseスタイルの長いオペラ・シリーズで開幕した。同時に王はフランス・バレー団も結成した。こうしてドレスデンの作曲・演奏技法における混合様式は、フリーリッヒ大王在位中ベルリンの公認スタイルとなった。これが1752年フランスとドイツにクアンツの論文が出現した事の不可欠な背景である。クアンツの著作は一般的に広く受け入れられ、特にテレマン、アグリコラ、Marpurg、Adlung、 J.E.バッハ、Tromlitz 、Gerber 、フォルケル、Sulzer等は、部分的・全体的に推薦した熱心な読者だった。 18世紀に3つの完全ドイツ版が出版され、数々の抜き刷りや翻訳がなされた。クアンツのリズム処方に唯一異論を唱えたのはMarpurgだった。

他のドイツ音楽家達は、やはりフランス演奏スタイルに同化せざるを得なかった。Christoph Wolffは「フランス風演奏の実践は器楽音楽の主流になりつつある・・・特に1680年以降、実質的には中央ドイツ・北ドイツでくまなく・・・」(ニューグローブ、7:273参照。)マテゾンは1739年ハンブルグで、「フランス趣味は良いダンス学校に残留している」と述べ、1711年Boninが報告している所によれば、フランス・ダンスの巨匠達はアイゼナッハ、ライプツィヒ、ナウンブルグ、Altorff、ニューレンベルグ、ベルリン、ザクソニー、Gotha、ハノーヴァー等で活躍し、幾人かはネイティブ・フランスであり他の者もフランス人に学んでいた。それが恐らくフランス風交互リズム(*イネガル奏法)を伴う、pochetteの調べに踊られる長期に渡る伝統となった。更にフランス宮廷ダンスについての12を越す論文の内半分以上は、1700年から1760年の間にドイツで出版されている。以下一覧:
Meredith Little「 French Court Dance in Germany at the Time pf Johann Sebastian Bach」:La Bourgogne in Paris and Leipzig. in International Musicological Society, Report of the Twelfth Congress Berkeley 1977, ed. Daniel Heartz and Bonnie Wade Kassel:BE/ The American Musicological Society, 1981, 730-31,
Meredith Littleに引用されなかった教則本:
Carl Pauli, 「Élémens de la danse ライプツィヒ、1756」
Walter Salmen,「 Der akademische Tanzmeister」 International Musicological Society, Torino 1990
Meredith Little and Natalie Jenne, 「Dance and the Music of J.S.Bach 」Bloomington:Indiana University Press, 1991 ix-15

テレマンはやはりフランス・スタイルに精通していたが、1712年アイゼナッハを離れてFrankfurt am Mainの音楽監督となり、1721年から亡くなる1767年までハンブルグの音楽監督だった。1737年−38年テレマンは8ヶ月パリで過ごし、彼の6つの「パリ四重奏曲」が出版され、卓越したパリジャンの演奏家により演奏された。特にMusic de table の殆どがフランスからの影響を示し、彼と彼の同世代がこれに共感していた事を表している。1709年頃からテレマンはJ.S.バッハと親交を結び、息子エマヌエル・バッハの名付け親にもなった。前述したようにJ.S.バッハはCelleで若い頃にフランス音楽の演奏を聴いているが、後にドレスデンからベルリンを訪れた時には、フランス・ダンスと共に「混合様式」音楽にも接している。ケーテンでの彼のバスーン奏者はJ.C. Torléeで、数人のフランス・ダンスの巨匠達が教えており、彼の在職期間中にライプツィヒから出版されているのが(The Honest Dancing Master or a Fundamental Explanation of the French Art of Dancing... ライプツィヒ 1717 by Gottfried Taubert, Dancing master in Leipzig)。
J.S.バッハは、ニコラ・デ・グリニー、ル・ルー、ダンドリュー、マルシャン等の鍵盤楽器作品をMarpurgによって知っており、特にF.クープランには高い関心を持っていた。J.S.バッハの従兄.J.G.Witherは辞書編集者で、Bourgeois, Brossard、サン・ランベール、オトテール等から引用編集し、J.S.バッハはライプツィヒでこの辞書の販売代理業務を行なっている。これらの事実から、J.S.バッハが習慣的イネガル奏法を熟知していたと言える。 Neumannは、J.S.バッハ:ロ短調ミサ「Domine Deue」はドレスデンHofkapelleの為に作られ、オートグラフの開始部分、オブリガード・フルートのパートはロンバルディアのリズムで書かれ、フランス人フルーティストBuffardinがフランス風イネガル奏法でこれを演奏していたと提唱している。(The French Inégales Essays 52-53参照 )しかしGerhard Herzが示すように(Essays on J.S. Bach Ann Arbor:UMI Research Press 1985 223-227 )、この同じリズムは第2ヴァイオリンとヴィオラの重要なパートに現われ(両方共オートグラフから)、J.S.バッハは「Domine Deue」ではフランス風イネガル奏法を廃する事無く、ロンバルディア・リズムを意図していたと思われる。
論議を呼んだマテゾン「Der volkommene Kapellmeister ,22, 133, 136, 173, 233, Adlung Erfurt 1758 244-45, 606, 613, 616」は、Brossard、ジャン・ルソー、ラモー等と通じて いる;Jakob Adlung 「Anleitung zu der musikalischen Gelahrtheit 」は、イネガル奏法 を論じたDemotz de la Salle L’affilard モンテクレール、ルソー等フランスの作曲家・理論 家から初歩的知識を得ている事が明らかである。これらの事実は、当時教養あるドイツ音 楽家達はフランス音楽の本を読み、フランス音楽のpointéやcroches égalesに関する解明 策を熱心に探求していた事を語る。
しかしムファット、クアンツ、恐らくPrintzも除けば、フランス風イネガル奏法について言及したドイツ音楽学者はいなかった。Collins 「Three Further Views 481-82 」、Fuller 「The New Grove 13:423 The New Grove Instruments 2:779 」は、イネガル奏法はChristoph Bernhard 「Tractatus Compositionis Augmentatus MS ca. 1657, printed in Die Kompositionslehre Heinrich Schützens in der Fassung seines Schülers Christoph Bernhard ed. Joseph Müller-Blattau kassel BE 1963.」に示されていると主張している。しかし、第27章P.76の「prolongatio in transitu」=ディソナンス音型を長めに伸ばす事とChristoph Bernhard の付点音符の例証とは、完全に一致している。Christoph Bernhard は他の音価のコンセプトについても、「Ausführlicher Bericht」第17章 1963、150」では、Walter Hilse 「The Treatises of Christoph Bernhard Music Forum 3 1973 101-2 」と比較して論じているが、両方の文献共実質的演奏のインフォメーションを欠いている。
Christoph Bernhardは早い時期にこの命題を「Von der Singe-Kunst」に取り上げているが、やはり交互リズムのイネガル奏法については何もふれていない。
レオポルド・モーツァルト「Versuch einer gründlichen Violinschule アウグスブルグ 1756」には、イネガル奏法文献から僅かに引用がされている。しかしNeumannが既に「The French Inégales Essays 38-39 」で示したように、レオポルド・モーツァルトは明らかにフランス風習慣を推奨してはいなかった。
Houleは「Mater in Music 88」で、「イネガル奏法は多数のドイツ・インストラクション文献で定義され論議されている」、同じくP.91では、D.G. Türk(*邦訳あり)が「Kaivierschule ライプツィヒとハル、1789 323-324 」でイネガル奏法について言及していると言っているが、これらは誤りである。装飾ヴァリエーションについて簡単に述べている「Die Veränderungen sind auf verschiedene Art möglich...」は、D.G. Türkの見解でこのような装飾音型では音価の縮小を行なって良いと言っている。しかしD.G. Türk 3種類の「Verrücken der Noten」の内の一つに挿入された付点リズムの記述は、フランス風イネガル奏法では無い。
だがイネガル奏法についてのフランス文献は、初期段階の音楽的インストラクションからフランス習慣を規定するについて重要な差異がそれぞれの文献にはあるが、物量としては充実している。フランスのアマチュア音楽家は子供も大人も初歩楽典を学ぶ際に同時にイネガル奏法を教えられたが、ドイツではそのようなケースは無かった。ドイツ17世紀後半にフランス・スタイルが流入したのは実際驚くべき事である。何故なら、シユッツ、シャイン、シャイトの時代から、ドイツ作曲家・演奏家はイタリアからの大きな影響下に在ったからである。例えば1718年テレマンは、「フランス・イタリア音楽に本来備わっている特質を持つ作品から、フランス・イタリアのスタイルを別概念として識別出来る事は何と不可欠にして有益だろうか、」と述べ、更に彼は、「Goût:趣味」がこれらの概念識別を統一すると言っている。Marpurgは「ライプツィヒの老いたJ.S.バッハ」が、「全ての国の全ての種類の音楽には、価値の無い物もあれば美しい物もある」と明言したと述べている。そしてクアンツは混合様式が最良だという立場を保持したが、演奏においてフランス・イタリアのスタイルを明確に識別する必要性について指摘している。(Teleman「 Lebens-Lauff 1718, 172, 177, P. 172」)
全体的に言える事はドイツ人はイネガル奏法をフランス習慣に長けた音楽家から学び精通しており、これをネイティヴなフランス音楽と提携し、更に他の作品にもフランス・スタイルを模倣した事が明らかである。例えばKusser, Muffat, Johann Fischer, Mayr等の作曲家達は、他の国々のスタイルにも精通していた。ドレスデンとベルリンではイネガル奏法は広範囲なレパートリーに持ち込まれ、クアンツと王家の弟子達により演奏されていた事は確かである。その上重要な事は、フリードリッヒ大王の宮廷では彼等自身のスタイルにより書かれた作品は好まれていなかった。クアンツの弟子アグリコラはフランス音楽よりイタリア音楽を好み、彼のTosi歌唱本の増補版訳にはイネガル奏法の記述が無い。Marpurgはフランスを訪れ、1741年−48年頃に書かれた最初の鍵盤楽器作品は非常にフランス的である。しかし出版物では沈黙を守り、これはC.P.E.バッハ、J.E.Reichardt等と同じ立場である。

第7章:サマリー・オブザーヴェーション
P. 141
これまで我々は17・18世紀音楽における交互リズムの、意義深く論議の伯仲する2つの論点(*イネガル奏法と付点リズム)について、現存する文献を徹底的に検証して来た。膨大なこれらのデーター集積から我々の入念な調査は報いられたが、しかしテンポ、アーティキュレーション、ディナミーク、ニュアンス等との相互性については乏しい情報しか無い。従って、これまで見て来た資料について、バロック音楽を歴史的楽器で20年間演奏してきた私の経験から再検証してみたい。古い音楽の演奏解釈過程を復元していく事は、不明瞭だった言葉が明確になるという成果がある。17・18世紀音楽家の「modi operandi:流儀」を復元する事は、実際に実行可能な方法か又はそうではないかを我々に示唆する。ほぼ全てのタイプの室内楽音楽は、メンバー全員がグループ・リーダー(通常第1ヴァイオリン奏者)を追随しなければならない。大オーケストラでも室内楽アンサンブルの様に緊密に作用し合わなければならない。クアンツのアンサンブル・リーダーシップについての論議は13項目に及び、ヴァイオリン奏者であるリーダはメンバーの能力を伸ばすと同時に、オーケストラ内の統合を促進するように勧めている。J.S.バッハは晩年までヴァイオリン他弦楽器一式を演奏し指揮者としても活躍したが、「チェンバロを弾きながら指揮を取るより、第1ヴァイオリン奏者としての方がよりオーケストラの秩序が保てる。」と言っている。(C.P.E. バッハ、後にフォルケル1774年、「The Bach Reader 、277」より引用)
ヴァイオリニストがリーダーシップをとると、特に弦楽器奏者に対して現代の指揮者より効果的な演奏ガイドを示す事が出来る。J.S.バッハ自身で弦楽器の演奏例を示す事が、演奏の出来ない指揮者よりもはるかに大きな指導力を発揮したのである。

[イネガル奏法]
イネガル奏法の習慣を特徴的作品やパッセージに限って取り入れる事を怠らなければ、大きな困難の原因とはならない。1690年からフランス革命時までのフランス音楽の特徴的演奏方法―拍節感、緊密に連結したモーション等は、たいてい明らかにされている。ムファトが立証した根拠に基づけば、音楽学者達に規定されたルールの精製にはリュリ派のオペラやバレーの演奏法が大きく反映している。現代の演奏家も単純なダンスや特徴的エアーの初歩原則を応用する事により、容易く趣味を開発する事が出来る。その後、より緻密な洗練度を高め、徐々に難度の高いレパートリーに取り組めば良い。1660年頃から1690年の初期フランス音楽の書法は、声楽・器楽両方のソリストに、紋切り型に規定された後期フランス音楽より任意不定なイネガル奏法を取り入れている。一方18世紀を通して、ソリストの特権としてイネガル奏法の任意選択が許容されていたとも言える。1690年頃から1790年までの夥しいフランス・イネガル奏法の確かな証拠は、フランスで実践方法が樹立されており、大きな逸脱は例外的だった事を語っている。
フランス・イネガル奏法は文献から判断するに、大部分が緊密な連結を持つモーション: conjunct motionでのパッセージ運動に適用され、実際上殆どが長―短:trochaicリズムだった。全般的に、3拍子の8分音符、2分の2拍子の4分音符、2拍子・3拍子には通常8分音符に適用が限定されていた。しかしサン・ランベールが指摘するように、「趣味が作り出す自由な選択は、彼等のルールから逸脱する事もある。」我々は既にこれらの制限事項が時折無視される例を見て来た。イネガル奏法のリズム比率は、全体的にマイルドな2:1、又はそれ以下である。しかし微細な軽さを賦与した3:1のリズム比率も、確実に可能である。Engramelleが見抜いたように、優美で柔らかな曲よりも快活で力強い曲の方が強い比率のイネガル奏法を用いる。スタカット・アーティキュレーションは大部分のイネガル奏法に不適当である。Choquelは「La musique 1762 」に、「イネガル奏法は滑らかでより流れを作り易くする声楽曲に用いられる」と記している。通常ソリストであるチェンバロ奏者はイネガル奏法について魅力的な独自の試行を持っても良いが、大きな室内楽ではより首尾一貫した説得力あるリズム比率で統合されなければならない。
実際室内楽音楽、特に弦楽器奏者のテンポには限界がある。フランス風序曲や舞曲は多くの20世紀演奏家が弾くより早く弾かれたという確実な証拠がある。テンポについての参照文献は以下の通り:
ラルフ・カークパトリック「Eighteenth-Century Metronomic Indications, Paper Read by Members of the American Musicological Society 1938, 30-50
Helmuth Christian Wolff 「Das Metronom des Louis-Léon Pajot 1735 Festskrift Jens Peter Larsen ed. Nils Schiørring」
Carsten Hatting 「Copenhagen:Wilhelm Hansen 1972 205-17」
O’Donnell 「The French Style pt. 1 」
William Malloch 「Bach and the French Overture Musical Quarterly 75 1991 174-97」

L’Affilard、Pajot「Count D’Onzembray」、Choquel、クアンツ等に記されているように、例えばクーラントなら大体4分音符M.M.80−90のテンポ、ガボットなら大体8分音符M.M.97−152のテンポ、ジーグなら大体8分音符M.M.100−120から最高で160のテンポで弾かれなければならない。このようなテンポ表示は多数の出版物に挙がっているのでここには列記出来ないが、2例だけ紹介すると;
1668年Bacilly「Remarques curieuses 105-6 」、エアーには、正規の舞曲テンポより歌われる舞曲のように余裕のある自由なテンポ、そして装飾を適用する。この70年後マテゾン「Der volkommene Kapellmeister 1739 pt. II chaps. 12-13 」、「舞曲が器楽演奏されるか歌われるかの様式的差異に注目するべきだ。舞曲は実際上踊られる為に作られたのだから」という記述。
しかし私の意見はいたって単純だ。室内楽の演奏では比較的早いテンポでも、それがイネガル奏法を演奏出来、聞き取る事が出来る範囲のテンポなら、実質上の限界テンポとみなす事が出来る。早い曲では、イネガル奏法とそれに付随して起こる付点リズムが普通のパターンに陥り易く、より早い曲では聴き手はこの差異を聞き取り難くなる。言い換えればレパートリーの内相当量がイネガル奏法で弾かれ、ヴァリエーションの許容範囲は表情に表れる程度で広くは無かった。イネガル奏法は必然的に現われるか、或いは全く用いられないかのどちらかだった。(Fuller「The Perfomer as Composer Performance Practice:Music after 1600 ed. Howard Mayer Brown and Stanley Sadie, Norton/Grove Handbooks in Music New York:W.W. Norton 1989 131」参照。)

微妙で捉え難いイネガル奏法はモデラート・テンポにのみ有効で、騒がしい2:1のリズム比率は早い曲に適応され易かった。確かに言える事は、特に16分音符が大多数の場合、弦楽器奏者のボーイングは、「良い音」「悪い音」を識別する普通のアクセントにおける上下ボーイングよりずっと厄介な技巧となる。何故ならば17・18世紀音楽の多くの作品は直接・間接的にダンス・ステップと動作に関係付けられ、原始的なダンスでも曲に合わせて踊れる事が器楽音楽の条件だったからだ。従ってこのレパートリーの演奏には必須のポイントとなる、テンポ、拍節のアクセント、アーティキュレーション、フレージング等が考慮されている。言うまでも無いが、優雅な傾向のdemi-coupéやpas de bourée には、不調和なイネガル奏法は勿論適応されなかった。

同じ音価のイネガル奏法と付点リズムとの関係は、幾つかの文献で名目上区別されているにも拘わらず、依然として問題が残る。Gigaultとムファトからクープラン、ラモー、その後の音楽状況には混乱が生じ、1782年Pierre Marcou「Elémens 35」は、「芸術家の間で必ずしも一致する状況では無い」と述べている。100のケースから1例を取り上げると、F.クープラン「Les nations、La piemontoise 1726 opening mvt. mm. 1-4, mm. 17-21 」のopening mvt. mm. 1-4では、私には2小節目の付点リズムは複付点リズムにした方が良いように思われる。3小節目の8分音符は習慣からイネガル奏法が適しているので、私はけだるいイネガル奏法にして2:1より少ないリズム比率に演奏するのが好きだ。しかし我々は19−21小節目に、付点リズムと連続8分音符が同時に現われる例に直面しなくてはならない。既に我々はF.クープランの「ラファエロ(*クラブサン曲集第3巻)」で、イネガル奏法と付点リズムを綿密に書き分けた例証を検討した。しかしながら、この特徴的「La piemontoise」でイネガル奏法と付点リズムを同時に弾き分ける事は煩雑過ぎると思う。モンテクレール「Ariane et Bacchus Air gay 1728 」では16分音符イネガル奏法と付点リズムが同時発生して、両方とも付点リズムで弾かれる。しかし場合によっては異なるアプローチが良いだろう。学術論文はこのような問題について、何等明確な解答を表していない。更に個々のケースにおいて、作品の性格と作曲者の習慣的記譜法を尊重する事が判断材料となる。
我々は既にドイツ、オランダ、イングランドでイネガル奏法が知られていた事を立証する豊富な例を検討してきたが、不幸にして実際に適応されている文献資料は僅かしか無い。習慣はフランス・オリジン(源泉)にあり、フランス音楽に浸かっている今日の演奏家が重大な誤りを犯しているとは思えない。テレマンとJ.S.バッハは早い時期からフランス・スタイルを獲得していた。例えばJ.S.バッハ「イギリス組曲第1番 BWV. 806 A dur 第1クーラント」では、8分音符にイネガル奏法と普通のリズムの両方が適応されている。J.S.バッハ「管弦楽組曲C dur BWV. 1066 クーラント」では、同じケースがより広範囲に実施されている。第4,12,19小節に現われる8音一グループとした8分音符の長いスラーは、フランスの学術論文は禁止しているにも拘わらず、ここにイネガル奏法を適応するかどうかの疑問を投げ掛けている。このように長いスラーはフランス舞曲音楽には変則的なものである。しかし管弦楽組曲C dur BWV. 1066のオトグラフは現存しないし、ライプツィヒのパート譜はこのアーティキュレーションに賛同していない。8音一グループとしたオーボエ・パートの8分音符スラーは、4音一グループとしたアーティキュレーションになっている。(NBA VII/i Kritische Bericht 20-24,29参照 )。
一方多数のパッセージが入り組んだ対位法で書かれている「フランス組曲」はパリで書かれ、幾つかの曲はフランス・モデルとは思えないコレクションなので慎重な検討が必要だ。「音楽の捧げ物、トリオ・ソナタ BWV. 1079 」は、フリードリッヒ大王の宮廷で演奏されていた事が明らかで、開始第3−4小節目に出てくる16分音符は何度も繰り返され、クアンツ又は王にとってイネガル奏法を演奏するチャンスだった。しかしこの作品はフランス・スタイルとは遠くかけ離れており、プロシャ宮廷の演奏趣味が必ずしも老バッハの主義と一致していたとは言えない。イネガル奏法を伴うフランス音楽が広く知られていた事は問題の鍵となる。フランス語のアクセントから来るpasser les croches( 8分音符音型)のイネガル奏法は、適応するに妥当な作品には容易く受け入れられ、そうでないものには実施例が少ない。