Villers-La-ville
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10時−17時、火曜日休館 071−88−0991 管理局 Administration Communale : Rue Jules Tarlier, 32 1495 Villers-la-Ville Tél. : 010/23.03.10 Secrétaire : Marc Daube 仏語資料より、和訳要約:綿谷優子
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●13世紀の僧院、80の農場によって管理され、約10,000ヘクタール(300万坪)。1764と日付をつけられた最後の正確な財産目録では、耕地だけで5,739ヘクタール(172万坪)。森林は16ヘクタール(5万坪)1936年、道路がこの敷地内を分断し、社会主義者の手により鉄道が縦断された。中世当時僧院は、ブリュッセルとNivelles方向から、Gemblouxとナミュールに方向へ続く中間点を結ぶ位置を占有し、エルサレムを向いて僧院があった。僧院農場は周辺地域の農家にも解放され、修道士と信徒農民との交流の場として活用された。 ●シトー派修道院・・・廃墟の浪漫主義 シトー派の修道院は1098年創設され、ドイツの東方拡大に大きな役割を果たした。それらの修道院は宗教改革の結果打ち捨てられてしまったが、今でも修道院の建物は廃墟となり、あるいは修復されて残っている。その最も美しい例がコリン修道院だ。 コリン修道院設立に至るシトー派の歴史、シトー派の始まりは、1098年にブルグンドのシトーに設立された修道院に遡る。設立者のロベール、二代目院長アルベリヒ、三代目院長ハーディングは、聖ベネディクトの教えに忠実な厳格な戒律で、奢侈に流れた既存の修道院、特にシトーに近いクリューニーの修道院の行き方に愛想をつかした多くの人の共感を得た。シトー派は多くの新たな修道院を設立しこれを傘下におさめたが、中でも、1113年に設立された修道院の初代院長ベルナール・クレルヴォーは大きな政治力を発揮し、シトー派の勢力が拡大されていく。 ベルナールの時代に、シトー派修道院の半数に上る166の新たな修道院がクレルヴォ−修道院の下に設立され、大きな政治勢力となった。ベルナールは法王インノケンティウス2世の選出、高名な神学者アベラールに対する異端審判などに政治力を発揮し、1146年には第二次十字軍の結成を実現する。第二次十字軍自体は失敗に終わるが、その進軍の道筋に当たったドイツ東部、今日のブランデンブルクやザクセンのあたりの非キリスト教スラブ人地帯は、ドイツ人による殖民が進み、シトー派の修道院がその一翼を担った。 ●ブランデンブルクにおけるシトー派 12世紀の初頭になってもエルベ川とオーデル川に挟まれた地帯、今日のブランデンブルク州のあたりは、キリスト教に帰依しないスラブ族が住んでいた。彼らはドイツ人の侵略に備え土塁に囲まれた集落に住んでいたが、その集落連合体の頂点にあったのがブランデンブルクだった。ブランデンブルクの士候プレビスラフはキリスト教に改宗しており、ブランデンブルクのすぐ西側に所領を持っていたアスカニア家のアルブレヒト熊公と親しく、1127年にアルブレヒトの息子が生まれた時には、その洗礼に際する代父からの贈り物としてブランデンブルクの南方のツァオヒェを与えた。このツァオヒェの土地がその後のアスカニア家の東方拡大の根拠地となり、1180年にはブランデンブルク辺境伯領における最初のシトー派修道院がレーニンに設立される。 その後アスカニア家は、マクデブルクの大司教、マイセンのヴェッティン家、ポメルンの諸侯などと争いながら、所領を東あるいは東北に拡大し、オーデル川を越え、今のポーランドの西のあたりにまで進出する。 このアスカニア家が1258年に二系に分かれた。西の方に残ったオットー系のアスカニア家は家の修道院かつ墓所としてレーニンの修道院があったが、東の方のヨハン系には新たな修道院の設立の必要が生ずる。そこで同年、オーデル川に近いパルシュタイン湖の島ペーリッツヴェルダーに修道院が設立される。1272年この修道院はコリンへと引っ越すことになる。街道に近く経済的に有利な場所に移ったと考えられるが、詳しいことはわからない。 このアウグスチノ修道院は「女王の修道院」の名で知られ、1323年にプシェミスル朝の最後の王、ヴァ−ツラフ2世の王妃エリシュカによって、シト−派修道院として発願された。以来フス戦争や30年戦争の戦禍に耐えて、市民の信仰を集めていた。 しかし1782年のヨ−ゼフ2世の命によってシト−派尼僧院は解散させられ、空き家になった建物には、旧市街の中心にあった聖トマ−シュ寺院にいたアウグスチノ修道院が移り住むことが命じられた。こうして「女王の修道院」はアウグスチノ修道院として知られるようになった。 ●VILLERS修道院の歴史: 1146年、聖バーナード、イエズス会の招待による12人の修道士、クレルヴォ−谷修道院から派遣された5人の修道士等が、この新しい修道院を見いだした。英国上院により地域最大の領土が提供され、1147年法皇Eugsee3世により修道院として認証された。 聖ベノワを守護聖人とするシトー派修道会は完全な自給自足経済体制で、人里離れた峡谷に位置する事が多かった。12世紀に建造されてから13世紀に完全な修復を終え、絶頂期を迎えた。 ●絶頂期:1190-1250 1190-1250年ブラバン公爵の庇護下にあり、修道士により書かれた多数の文献が絶頂期を語っている。修道士の中には十字軍遠征から帰ってきた貴族ゴーベルがおり、熱心なシトー派信者として国家の文化遺産となるこの修道院の発展に多大の貢献をした。巨大な修道院建築の殆どがこの時期に完成している。 8代目修道院長Charles de Seynは1197−1209年在位、ロマネスク様式に改修した。彼はブラバン公爵に影響力を持ち第2次増築計画を推進、1225年にはブラバン地方で有数の修道院となった。 1214−1221年修道院長・ゴーティエは寄付を新たに募り、更に8つの修道院を建設した。1221−1237年修道院長・ギヨーミは最大領土を獲得し、寄付は膨大な額に上った。シトー派はここを拠点としてベルギー・ルクセンブルクに多数の修道院を建設し、1238年修道院長・ギヨーミはクレルヴォ−谷修道院長に任命された。 しかし後継者達は豊かな財力と広大な領土権をめぐる利権争いに熱中し、例えばArnoul de Louvain (1240-1248)は、時の権力者アンリ2世公爵の利権獲得に特別な保護を与えて私腹を肥やした。この修道院は代々ブラバン公爵が埋葬される墓を所有し、伝統的拝廊にそれは安置されていた。 ●1250−1270年 シトー派修道院中枢の5つの修道院が、相次いで経済的危機に見舞われた。1270−1276修道院長Arnulphe de Gistellesのみは経済再建に成功し、新たな建築に着手、100人の修道士と300人の一般信徒を獲得した。しかし1273年よりブラバン公爵の庇護が得られなくなり、シトー派の領土拡大にかげりが見え始めた。ブラバン公爵は軍事費を捻出する為に修道院の財源とも言うべき祭儀を制限し、所有する宗教的宝物を供出させた。 Jacques de Plancenoit (1310-1315)は製織アトリエを2部屋増設し、修道院の活動記録を文書に残した。しかし1314年ブラバン公爵は、Cambron, Aulne, Saint-Bernard-sur-Escautそして Namurに領土を拡張した為、当地を手放さざるを得なくなり、修道院は支払いが出来なくなった。翌年から修道士達はペストの流行もあり退去を余儀なくされた。 1370-1382年修道院長となったMartin de Huyは、大きな騒動を起こしてLioe司教の懲戒を受けた。この修道院長がどの程度横領等したかは分からないが、その後1382-1393就任したJean de Holer修道院長は、濫費を繰り返し罷免された。 以降40年間Dormael (1393-1424)、Gilles de Louvain (1424-1433)等は、負債の償却、廃墟と化さない為の努力、領土の拡大に腐心した。修道院は浪費家のGerard de Louvain (1433-1446)修道院長が就任するまで繁栄を続け、平和の維持に勤めた。Gerard de Louvain (1433-1446)は夥しい祭壇画を購入し、新たな負債を負った。Francon de Calaber (1459-1487)修道院長は政治的な意味合いから、ブラバン公爵の指名により修道士から院長へ就任した。Francon de Calaber (1459-1487)修道院長はPhilippe de Bourgogneからも任命されたが、オランダの脅威を受け多くの耕作地を手放した。 続くJean Campernoels (1487-1502)は領土問題で違反があり、シトー派を罷免された。Jean Regnault (1503-1524)は修道院長の地位を復権させたが、修道院に帰属する品々を強奪し、詐欺罪で告訴され定年前に引退した。 ●宗教戦争 Philippe Naturelleは修道院繁栄を復活させたが、結果的には個人資産を増やすに留まった。1524年を最後に修道士達への年金制度は廃止され、Denis Van Zeverdonck(1445-1524)は宗教的価値・役割を復権させようと努めたが、平和的解決は見出せなかった。しかし彼は教会の修復を実施、公園設計、修道院敷地内の整備に取り組んだ。 1544年スペイン軍の侵攻により、1599年にはLioe司教区への帰属が最早出来なくなり、オランダ支配下にあった当地の聖職者達により重税が課せられた。PhilippeII世は抵抗を放棄したが、1564年領土内の年金制度を推進した。PhilippeII世は宗教を選ぶ自由を与え、代償として政府から3人のコミッショナーを派遣した。この人事はローマ法皇の認めるところでは無かったにも拘わらず、PhilippeII世は無断で司教を任命した。 1577年Villers修道院はカルヴァン派に追われて、Lioe、ナミュール等比較的政治が安定している地域へ避難した。1584-1585年最終的に修道院は機能を失った。 ●新たな盛運 Robert Henrion (1587-1620)は難曲に直面した。乞食のようになった修道士達を遺留する為に、修道院の最後の財産を売却した。オーストリア統治者アルベルト・イザベラ大公夫妻がこの傑出した古代修道院の除幕式を行うまで、どのようにして持ちこたえたか定かでは無い。彼等はSaint-Bernard礼拝堂を教会内に建設、巡礼者の為に免償となる10聖人の彫像を設置。礼拝堂建築はMontaiguノートルダム教会を規範とした。又豪奢な図書館を建て貴重な文献収集を行い、次の修道院長Henri Van Der Heyden (1621-1647)に引き継がれた。1641年からVillers Louvainを建設、この古代修道院の保護にもあたった。 しかし修道院の壮大な宗教的・文化的価値は、世俗社会に適応しなかった。ルイ14世侵攻の為では無くオランダ・スペイン体制の宗教政策により、修道院は惨憺たる壊滅的状況に落ち込んだ。 1651年農耕地・製粉所の放火、略奪が始まり、修道院も莫大な損傷を受けた。数年後Bernard Van Der Hecken (1653-1666)修道院長の代、Lamboy大将とロレーヌ公爵は遺跡の回廊部分のみ修復した。1695年修道院内の優れた調度品はブリュッセルへ避難させたが、Villeroyの都市砲撃で全て破壊された。 1713年スペイン戦争は終了しハブスブルグ家統治下となり、修道院は政治的目的から「再建」を許される。 実質的に18世紀は修道院第2次絶頂期と言える。損傷の酷い建築物はゴシック様式に改装され、1717年選任されたJacques Hacheは、南東部分に新たな宮殿を建設した。古代医務室,看護室だった部分は、大規模な図書館の上に修道誓願を立てるための準備期間に使う修練所となった。庭園・テラスは改修され、新しい遠近法による設計が施された。1726年版画家BerterhamはJacques Hache修道院長の許可を得て、広大な造園計画を遂行した。 これに対し西側部分は半世紀遅れ、Daniel Daix (1759-1764)、 Robert de Bavay (1764-1782)の代に改修された。1764年教会正面玄は設計家Laurent-Benoit Dewez、1784年Leonard Pirmez (1783-1784)の代で薬局が設置。 ●修道院の終焉 1784-1796最後の修道院長となったBruno Cloquetteは、法皇ヨゼフII世に課された宗教的使命を果たす為オーストリア統治者に異議を唱えた罪により、数度の流刑となった。1789年国王の軍隊はブラバン軍の前で敗走し、修道院は略奪された。1792-1794年はフランス軍により略奪され、リセ校長だったDom Chentinneは、1796年2.25、反逆罪の咎によりブリュッセルで絞首刑となった。同年修道院の宗教的使命は廃止された。修道院の59人の修道士達は「善人の年金」と称して追放、四散、教会、図書館、会館全ては封 1797年7.25「優れた国家遺産」として競売にかけられ、主要な物は企業家H.-A. Pinchauxに売却された。彼は1814年フランス統治の終局時、Villers村の住民を使って略奪を行った。1820年製粉工場はレストランになり、鉄道が敷かれた。 ●修道院復興 1844-1850年、1876年には教会側廊部分や屋根が崩れ出した。19世紀を通してVillers遺跡は芸術家に愛され、中でもヴィクトル・ユーゴーは1862年修道院の地誌について著述している。1893年までに瓦解寸前となった修道院は、ベルギー政府管轄下に入り買い上げられた。考古学設計家Charles Licotのもと補強工事が開始した。建設当時の輝かしい12世紀スタイルを犠牲にして、13世紀スタイルに復刻された。Charles Licotは田園風景に佇む絵画的遺跡のコンセプトを実施し、消滅したオリジナルの聖歌隊席と翼廊を再建した。 第一次世界大戦時、ドイツ人設計家Willy Zschalerは科学的検証を行い、Charles Licotのプランを総括した。第二次世界大戦までに徐々に復興が進み、ビール工場部分・回廊が再建した。1946年シトー派Val-Dieuは修道院復興に参加した。1982年までツーリストクラブと契約し、観光事業として取り組まれた。1992年Culturelle de Villersが管理局となり現在にいたる。 |