シトー派修道院遺跡
廃墟の浪漫主義



遺跡というと飛び込みたくなるが、大叙事詩の壮麗な遺跡。






Villers-La-ville

ベルギー・VILLERS-LA-VILLE・シトー派修道院遺跡
10時−17時、火曜日休館
071−88−0991
管理局
Administration Communale : Rue Jules Tarlier, 32
1495 Villers-la-Ville
Tél. : 010/23.03.10
Secrétaire : Marc Daube
仏語資料より、和訳要約:綿谷優子


●13世紀の僧院、80の農場によって管理され、約10,000ヘクタール(300万坪)。1764と日付をつけられた最後の正確な財産目録では、耕地だけで5,739ヘクタール(172万坪)。森林は16ヘクタール(5万坪)1936年、道路がこの敷地内を分断し、社会主義者の手により鉄道が縦断された。中世当時僧院は、ブリュッセルとNivelles方向から、Gemblouxとナミュールに方向へ続く中間点を結ぶ位置を占有し、エルサレムを向いて僧院があった。僧院農場は周辺地域の農家にも解放され、修道士と信徒農民との交流の場として活用された。

●シトー派修道院・・・廃墟の浪漫主義
シトー派の修道院は1098年創設され、ドイツの東方拡大に大きな役割を果たした。それらの修道院は宗教改革の結果打ち捨てられてしまったが、今でも修道院の建物は廃墟となり、あるいは修復されて残っている。その最も美しい例がコリン修道院だ。
コリン修道院設立に至るシトー派の歴史、シトー派の始まりは、1098年にブルグンドのシトーに設立された修道院に遡る。設立者のロベール、二代目院長アルベリヒ、三代目院長ハーディングは、聖ベネディクトの教えに忠実な厳格な戒律で、奢侈に流れた既存の修道院、特にシトーに近いクリューニーの修道院の行き方に愛想をつかした多くの人の共感を得た。シトー派は多くの新たな修道院を設立しこれを傘下におさめたが、中でも、1113年に設立された修道院の初代院長ベルナール・クレルヴォーは大きな政治力を発揮し、シトー派の勢力が拡大されていく。
ベルナールの時代に、シトー派修道院の半数に上る166の新たな修道院がクレルヴォ−修道院の下に設立され、大きな政治勢力となった。ベルナールは法王インノケンティウス2世の選出、高名な神学者アベラールに対する異端審判などに政治力を発揮し、1146年には第二次十字軍の結成を実現する。第二次十字軍自体は失敗に終わるが、その進軍の道筋に当たったドイツ東部、今日のブランデンブルクやザクセンのあたりの非キリスト教スラブ人地帯は、ドイツ人による殖民が進み、シトー派の修道院がその一翼を担った。

●ブランデンブルクにおけるシトー派
12世紀の初頭になってもエルベ川とオーデル川に挟まれた地帯、今日のブランデンブルク州のあたりは、キリスト教に帰依しないスラブ族が住んでいた。彼らはドイツ人の侵略に備え土塁に囲まれた集落に住んでいたが、その集落連合体の頂点にあったのがブランデンブルクだった。ブランデンブルクの士候プレビスラフはキリスト教に改宗しており、ブランデンブルクのすぐ西側に所領を持っていたアスカニア家のアルブレヒト熊公と親しく、1127年にアルブレヒトの息子が生まれた時には、その洗礼に際する代父からの贈り物としてブランデンブルクの南方のツァオヒェを与えた。このツァオヒェの土地がその後のアスカニア家の東方拡大の根拠地となり、1180年にはブランデンブルク辺境伯領における最初のシトー派修道院がレーニンに設立される。
その後アスカニア家は、マクデブルクの大司教、マイセンのヴェッティン家、ポメルンの諸侯などと争いながら、所領を東あるいは東北に拡大し、オーデル川を越え、今のポーランドの西のあたりにまで進出する。
このアスカニア家が1258年に二系に分かれた。西の方に残ったオットー系のアスカニア家は家の修道院かつ墓所としてレーニンの修道院があったが、東の方のヨハン系には新たな修道院の設立の必要が生ずる。そこで同年、オーデル川に近いパルシュタイン湖の島ペーリッツヴェルダーに修道院が設立される。1272年この修道院はコリンへと引っ越すことになる。街道に近く経済的に有利な場所に移ったと考えられるが、詳しいことはわからない。
このアウグスチノ修道院は「女王の修道院」の名で知られ、1323年にプシェミスル朝の最後の王、ヴァ−ツラフ2世の王妃エリシュカによって、シト−派修道院として発願された。以来フス戦争や30年戦争の戦禍に耐えて、市民の信仰を集めていた。
しかし1782年のヨ−ゼフ2世の命によってシト−派尼僧院は解散させられ、空き家になった建物には、旧市街の中心にあった聖トマ−シュ寺院にいたアウグスチノ修道院が移り住むことが命じられた。こうして「女王の修道院」はアウグスチノ修道院として知られるようになった。

●VILLERS修道院の歴史:
1146年、聖バーナード、イエズス会の招待による12人の修道士、クレルヴォ−谷修道院から派遣された5人の修道士等が、この新しい修道院を見いだした。英国上院により地域最大の領土が提供され、1147年法皇Eugsee3世により修道院として認証された。
聖ベノワを守護聖人とするシトー派修道会は完全な自給自足経済体制で、人里離れた峡谷に位置する事が多かった。12世紀に建造されてから13世紀に完全な修復を終え、絶頂期を迎えた。

●絶頂期:1190-1250
1190-1250年ブラバン公爵の庇護下にあり、修道士により書かれた多数の文献が絶頂期を語っている。修道士の中には十字軍遠征から帰ってきた貴族ゴーベルがおり、熱心なシトー派信者として国家の文化遺産となるこの修道院の発展に多大の貢献をした。巨大な修道院建築の殆どがこの時期に完成している。
8代目修道院長Charles de Seynは1197−1209年在位、ロマネスク様式に改修した。彼はブラバン公爵に影響力を持ち第2次増築計画を推進、1225年にはブラバン地方で有数の修道院となった。
1214−1221年修道院長・ゴーティエは寄付を新たに募り、更に8つの修道院を建設した。1221−1237年修道院長・ギヨーミは最大領土を獲得し、寄付は膨大な額に上った。シトー派はここを拠点としてベルギー・ルクセンブルクに多数の修道院を建設し、1238年修道院長・ギヨーミはクレルヴォ−谷修道院長に任命された。
しかし後継者達は豊かな財力と広大な領土権をめぐる利権争いに熱中し、例えばArnoul de Louvain (1240-1248)は、時の権力者アンリ2世公爵の利権獲得に特別な保護を与えて私腹を肥やした。この修道院は代々ブラバン公爵が埋葬される墓を所有し、伝統的拝廊にそれは安置されていた。

●1250−1270年
シトー派修道院中枢の5つの修道院が、相次いで経済的危機に見舞われた。1270−1276修道院長Arnulphe de Gistellesのみは経済再建に成功し、新たな建築に着手、100人の修道士と300人の一般信徒を獲得した。しかし1273年よりブラバン公爵の庇護が得られなくなり、シトー派の領土拡大にかげりが見え始めた。ブラバン公爵は軍事費を捻出する為に修道院の財源とも言うべき祭儀を制限し、所有する宗教的宝物を供出させた。
Jacques de Plancenoit (1310-1315)は製織アトリエを2部屋増設し、修道院の活動記録を文書に残した。しかし1314年ブラバン公爵は、Cambron, Aulne, Saint-Bernard-sur-Escautそして Namurに領土を拡張した為、当地を手放さざるを得なくなり、修道院は支払いが出来なくなった。翌年から修道士達はペストの流行もあり退去を余儀なくされた。
1370-1382年修道院長となったMartin de Huyは、大きな騒動を起こしてLioe司教の懲戒を受けた。この修道院長がどの程度横領等したかは分からないが、その後1382-1393就任したJean de Holer修道院長は、濫費を繰り返し罷免された。
以降40年間Dormael (1393-1424)、Gilles de Louvain (1424-1433)等は、負債の償却、廃墟と化さない為の努力、領土の拡大に腐心した。修道院は浪費家のGerard de Louvain (1433-1446)修道院長が就任するまで繁栄を続け、平和の維持に勤めた。Gerard de Louvain (1433-1446)は夥しい祭壇画を購入し、新たな負債を負った。Francon de Calaber (1459-1487)修道院長は政治的な意味合いから、ブラバン公爵の指名により修道士から院長へ就任した。Francon de Calaber (1459-1487)修道院長はPhilippe de Bourgogneからも任命されたが、オランダの脅威を受け多くの耕作地を手放した。
続くJean Campernoels (1487-1502)は領土問題で違反があり、シトー派を罷免された。Jean Regnault (1503-1524)は修道院長の地位を復権させたが、修道院に帰属する品々を強奪し、詐欺罪で告訴され定年前に引退した。

●宗教戦争
Philippe Naturelleは修道院繁栄を復活させたが、結果的には個人資産を増やすに留まった。1524年を最後に修道士達への年金制度は廃止され、Denis Van Zeverdonck(1445-1524)は宗教的価値・役割を復権させようと努めたが、平和的解決は見出せなかった。しかし彼は教会の修復を実施、公園設計、修道院敷地内の整備に取り組んだ。
1544年スペイン軍の侵攻により、1599年にはLioe司教区への帰属が最早出来なくなり、オランダ支配下にあった当地の聖職者達により重税が課せられた。PhilippeII世は抵抗を放棄したが、1564年領土内の年金制度を推進した。PhilippeII世は宗教を選ぶ自由を与え、代償として政府から3人のコミッショナーを派遣した。この人事はローマ法皇の認めるところでは無かったにも拘わらず、PhilippeII世は無断で司教を任命した。
1577年Villers修道院はカルヴァン派に追われて、Lioe、ナミュール等比較的政治が安定している地域へ避難した。1584-1585年最終的に修道院は機能を失った。

●新たな盛運
Robert Henrion (1587-1620)は難曲に直面した。乞食のようになった修道士達を遺留する為に、修道院の最後の財産を売却した。オーストリア統治者アルベルト・イザベラ大公夫妻がこの傑出した古代修道院の除幕式を行うまで、どのようにして持ちこたえたか定かでは無い。彼等はSaint-Bernard礼拝堂を教会内に建設、巡礼者の為に免償となる10聖人の彫像を設置。礼拝堂建築はMontaiguノートルダム教会を規範とした。又豪奢な図書館を建て貴重な文献収集を行い、次の修道院長Henri Van Der Heyden (1621-1647)に引き継がれた。1641年からVillers Louvainを建設、この古代修道院の保護にもあたった。
しかし修道院の壮大な宗教的・文化的価値は、世俗社会に適応しなかった。ルイ14世侵攻の為では無くオランダ・スペイン体制の宗教政策により、修道院は惨憺たる壊滅的状況に落ち込んだ。
1651年農耕地・製粉所の放火、略奪が始まり、修道院も莫大な損傷を受けた。数年後Bernard Van Der Hecken (1653-1666)修道院長の代、Lamboy大将とロレーヌ公爵は遺跡の回廊部分のみ修復した。1695年修道院内の優れた調度品はブリュッセルへ避難させたが、Villeroyの都市砲撃で全て破壊された。 1713年スペイン戦争は終了しハブスブルグ家統治下となり、修道院は政治的目的から「再建」を許される。
実質的に18世紀は修道院第2次絶頂期と言える。損傷の酷い建築物はゴシック様式に改装され、1717年選任されたJacques Hacheは、南東部分に新たな宮殿を建設した。古代医務室,看護室だった部分は、大規模な図書館の上に修道誓願を立てるための準備期間に使う修練所となった。庭園・テラスは改修され、新しい遠近法による設計が施された。1726年版画家BerterhamはJacques Hache修道院長の許可を得て、広大な造園計画を遂行した。
これに対し西側部分は半世紀遅れ、Daniel Daix (1759-1764)、 Robert de Bavay (1764-1782)の代に改修された。1764年教会正面玄は設計家Laurent-Benoit Dewez、1784年Leonard Pirmez (1783-1784)の代で薬局が設置。

●修道院の終焉
1784-1796最後の修道院長となったBruno Cloquetteは、法皇ヨゼフII世に課された宗教的使命を果たす為オーストリア統治者に異議を唱えた罪により、数度の流刑となった。1789年国王の軍隊はブラバン軍の前で敗走し、修道院は略奪された。1792-1794年はフランス軍により略奪され、リセ校長だったDom Chentinneは、1796年2.25、反逆罪の咎によりブリュッセルで絞首刑となった。同年修道院の宗教的使命は廃止された。修道院の59人の修道士達は「善人の年金」と称して追放、四散、教会、図書館、会館全ては封 1797年7.25「優れた国家遺産」として競売にかけられ、主要な物は企業家H.-A. Pinchauxに売却された。彼は1814年フランス統治の終局時、Villers村の住民を使って略奪を行った。1820年製粉工場はレストランになり、鉄道が敷かれた。

●修道院復興
1844-1850年、1876年には教会側廊部分や屋根が崩れ出した。19世紀を通してVillers遺跡は芸術家に愛され、中でもヴィクトル・ユーゴーは1862年修道院の地誌について著述している。1893年までに瓦解寸前となった修道院は、ベルギー政府管轄下に入り買い上げられた。考古学設計家Charles Licotのもと補強工事が開始した。建設当時の輝かしい12世紀スタイルを犠牲にして、13世紀スタイルに復刻された。Charles Licotは田園風景に佇む絵画的遺跡のコンセプトを実施し、消滅したオリジナルの聖歌隊席と翼廊を再建した。
第一次世界大戦時、ドイツ人設計家Willy Zschalerは科学的検証を行い、Charles Licotのプランを総括した。第二次世界大戦までに徐々に復興が進み、ビール工場部分・回廊が再建した。1946年シトー派Val-Dieuは修道院復興に参加した。1982年までツーリストクラブと契約し、観光事業として取り組まれた。1992年Culturelle de Villersが管理局となり現在にいたる。

●修道院の構造
一般的にシトー派修道院は、どの地域でも同じ構造を持つ。集会室の周りに回廊があり、ここが日常的修道士の生活空間となっている。各集会室は固有の機能を割り当てられる。中世シトー派修道士の仕事時間は一般と異なり、課せられる仕事内容について文献が保存されている。どの部分が活動場所だったか地図で示してある。
この設計構造はシトー派の発明では無く、ローマ時代からの遺産である。シトー派初代修道士達は、既に中庭の周りにローマ伝統の住居をしつらえた。回廊は古代ローマの広間式中庭,アトリウム、古代ローマ神殿の前庭をそのまま利用した。
修道院の教会が最重要の建物で、精神的拠り所だった。修道士達は日々最低7回は神を賞賛する賛美歌をここで共に歌い、何にも妨げられず瞑想に浸る場所でもあった。修道院教会は特異性を持つ複数のスペースから構成されている。中世男性のシンボルであり、日常生活を構成する重要な要素だった。シトー派の単純教義に賛同する多くの人々が集まった。考古学者と歴史家はこの修道院が初期ゴシック様式の例証だと言っているが、我々は他様式も見出す。

●教会の設計スタイル
中世修道院設計には複数の美学があり、更にこれらは変遷の歴史を辿った。技術進歩に合わせて設計方法も大胆になり、これが現在複数の建築様式が混在している理由である。典型的建築様式は二潮流あり、ゴシック(尖頭アーチ)とロマネスク(交差する丸天井)。ロマネスク様式の交差する丸天井は半円筒ボールトで仕切られ、大抵はアーチ型をしている。しかし支えきれる重量に制限があり、高くする為に厚い壁が必要になってくるとゴシック様式に取って代わられる。ゴシック建築は垂直硬度が強いので、ロマネスク様式の交差する丸天井を補強する工夫として編み出された。ゴシック様式で天井を貫通させ穴をあけ、大窓を設置した。外陣身廊は補強から、全てゴシック様式天井に改装されている。

●シトー派の戒律
当時他宗派と比べて、独特のシトー派戒律は建物から知る事が出来る。ゴシック様式のカテドラル、崇拝に満ちた建物には豪奢な調度品が置かれていた。しかし修道院教会には簡素な装飾と設計が施されているのは何故か??クレルヴォ−聖ベルナールの記述から引用:
「もし教会が壮麗な建築で絵画に囲まれていたら、瞑想の妨げになるだろう。信仰心より美しい美術品は無い。何のために教会はあるのか??心の悔恨のためか、それとも見物人を感嘆させるためなのか??一体何が、貴方方の貧しい人生、修道の精神と本当の絆を持っているのだろうか??」
パリ、中世図書館(Bibliothèque médiévale)1986年版

●日課
シトー派の生活は相補的に2部分に分かれ、日課を決める。修道士には常に同じリズム・日課が与えられる。労働で時間が決められ、典礼儀式にも祈りの時間が乱される事は無い。日課は常に同じ繰り返しで行われた。夏冬の日課時間は日の出と日の入りで決められた。この修道院では時間を水時計で計っていた。食事にはビールが重要で、毎日の手当ては約1リットル。1686年の報告書には、33,000リットルの生産を示す。1955年以来「修道院」ビールは、「サン・ベルナール」という創始者ラベルで販売されている。

●何故修道士を職業に選ぶか??
中世修道士には生育環境に合わせた異なる修道タイプがあった。1098年もともとシトー派は、聖ベノワの教義から逸脱し労働をおろそかにし始めたClunyベネディクト派修道士への、反対勢力として創設された。シトー派は祈祷と労働を半々に遵守し、世俗の因縁を捨て宗教生活に入る。修道院生活は殆ど枯渇状態だったが、自給自足は守られ修道生活に専念した。彼らは貧しく修道院に属するという意識をすぐに失うので、禁欲・節制を祈願する事が課せられた。男性は妻帯が許されず、生涯神への愛のみに生きる事を誓約した。聖ベノワの教義はシトー派にとり日常の詳細に至るまで絶対的規範であり、服従の対象だった。修道士達は修道院長を頂点に各階級に分かれていた。

●修道士の起源
中世の馬上槍試合で有名な騎士、又は女性問題で戦った貴族・準貴族が修道士となった。世俗を捨てても貴族称号は残った。宮廷恋愛に敗れた貴族達は修道院で普遍的な人間愛に昇華させた。
他の修道士達は平民であらゆる地域から集まっていた。彼らは労働に重心を置く生活をしていた。頑強なこれらの修道士達は労働に励み、貴族修道士達は敬虔な祈りに人生を捧げた。両者のコンタクトは僅かだったが、階級差は世俗よりずっと少なかった。平民は黒、貴族は白の衣服を着た。

●駐車場
広範囲の家庭菜園、修道士達の野菜を供給し、独立した水網を持っていた。

●ホテル・レストラン
これはブラバン・ワーロン州所有の建築物。12世紀製油工場がここに存在した。多分コミュニティーは一時的施設としてそれを使用した。構築の外観は、別の階の追加により相当修正され変更されたが、オリジナルの建物の高さは東のファサードと同じ。南の破風は中世スタイル5つの窓を持ち、非常に素晴らしい。

●受け付け
1725年に組み立てられ、修道院長および彼のゲストの馬具および馬車を収容するように意図された。それ以前は生活保護者・避難者の駆け込み口として使われていた。

●食料貯蔵室
修道士達は暮らしのために作物を育て収穫しなければならない。主に果物等がアーチ型天井の食料貯蔵室に貯蔵され、担当神父が常駐していた。

●暖房(ボイラー)
暖房は台所のみで使われ、修道士達は煙突を用いて広域に熱伝導が可能なように工夫していた。14世紀末戒律は緩やかになったので、他にも暖房が取り付けられた。

●食堂
修道士達は昼食を広い食堂で取る。Villers修道院には最盛期300人の修道士達が暮らしていた。円柱で2つに仕切られ、大窓が床にまで採光するように造られていた。壁際に机が一列に並び、食事中は中央演壇で聖書を朗読する者の他は完全な沈黙が支配していた。

●台所
食堂の隣に位置し、巨大な換気煙道の残骸は、ビール醸造所のように、食事の大部分を形成した多量の野菜料理により発する蒸気の回避のために作られた。西の壁に暖炉があり、気圧調節された排水管を装備していたので川へ廃棄物を放出することが出来た。めんどりが積み上げられた囲まれたスペースは、病気の場合以外には卵料理のために作られた。

●作業場
第58代修道院長(1716・1734)の下に再建され、西から東へ延びている。貯蔵所、貧困層のための収容施設、鍛冶場、車輪製造、大工の店および指物師の店があった。生産は作業室で行われた。

●ビール醸造所
僧院長(Arnulphe)は1275年にビール醸造所を組み立てた。しかし純粋なローマのスタイルではなく、ゴシック建築は他のところにと同様にVillersの中でも繁栄していた。僧院教会はこの時までに完成していた。38mの部屋に入るとすぐに、巨大な中世の換気煙道に気づく。内部は2つの本堂に分割され、アーチ形天井、右側に穀物を乾かすために使用された別の暖炉(それは上部の床の上に恐らく格納された)があり、階段は左側上。

●瞑想の為の回廊
回廊cloîtreという言葉はラテン語「claustrum、閉鎖された場所」から由来する。外側から一切見る事の出来ない場所が回廊で、修道士達は空(天国)だけは仰ぎ見る事が出来、瞑想に適している。修道士達はここのベンチでレクチャー・祈祷を行った。精神的な意味で回廊は生活の中心であり、修道院の中軸に在って各部屋との最短距離に位置する。
正方形は4つの要素、季節、コンパスのポイント、福音書、美徳および神の次元、宇宙の十字路、悪魔から隔てられた距離を象徴する。

●教会の採光法
1250年から1267年にかけて作られ、1317年完成、ベルギーにおいて無類の規模。教会の長さ65m、高さ92m、幅20m、身廊の高さ24m。
屋根まで巨大なロマネスク様式の窓があり、側面部分に3つの小さなロマネスク様式の窓。ロマネスク様式から中世までのスタイルを示し、1692年彫刻が再生された。古典的スタイルのファサードは1760年から1770年の間に僧院長ダニエル、ロバートにより構築された。
玄関は平らで円筒ボールトを持ち、正面の入り口が開くまで待たなければならなかったビジターのために設計された。この目的のために石のベンチを備えていた。
主要身廊は翼廊と鋭角に仕切られ、この設計が十字架を象徴している。キリストの頭部を象徴する後陣には、修道士が目覚めて朝礼に訪れた時、光明が射すように設計されている。建築資材は地表に露出している片岩石材、装飾に石灰岩を使用している。
特定人物の敵意から破壊工作が行われていたので、多数の修復工事を経て補強され堅固な作りとなっている。18世紀銅板画によると、最終的に修道院は古典様式で装飾されている。
光という仏語は、ラテン語「悲嘆の後に光が訪れるのを待つ」が起源。Villers修道院の紋章が選ばれ、中世宗教世界を体現する重要な象徴だった。聖歌隊席には丸い大窓から日が差し込む採光法、1日の始まりに賛美歌を歌う時に修道士達が日があたるように設計されている。キリストは宗教的神々しさの光にあり、我々に恵みを注ぐ。
修道院が廃墟になってから、屋根、骨組み、外陣身廊等を補修する人は無く、水が染込んで煉瓦を崩れさせたが、売却時に損傷が修復され段々堅固な建物となった。嵐で1度は外陣身廊が瓦解した。現在でも修復は継続的に行われている。

●書庫
修道士達がごく僅かな書物しか所有していなかった為狭いので驚くが、古文書館の役割も果たしていた。修道士達は聖書は勿論、修道院長達の書き残した文献、中世に行われていた祈祷書等をここに保存していた。

●聖堂参事室
この部屋で日毎数回、修道士は宗教的・精神的説話、修道士の懲戒、法皇選挙等様々な話題について会見をする。扉に2つの窓が嵌め込まれ回廊に面し、誰からも中が見えるようになっている。
今日我々が使う習慣には中世の宗教的表現が多く残っている。聖堂参事室には発言したい者が集まってくるが、挙手をした修道士が説話をする義務がある。又懲戒された修道士の例が話題にのぼる事もある。

●パーラー・面会所
修道士達は通常沈黙を守らなければならないが、唯一この部屋内で互いに私語を交わす事ができる。シトー派は言語活動を重視するお陰で、修道士達の沈黙の戒律はゆるやかで、比較的いつでも話をする事ができる。この部屋が昼間の共同作業場になる事もあった。
シトー派では聖ベノワの定めた労働が日々の重要な日課だった。クレルヴォ−のベルナールは、一般信徒と修道士が共に働けるよう労働規定を定めた。労働マニュアルを一般信徒から学び、修道士達は彼等から技術を習得した。広大な領土にシトー派が普及したのはこの為で、各地域産業である養魚、動物の飼育、ビール醸造、手工業製品の開発等にも取り組んだ。又文献に学んだ当時稀な仕事もあり、生産高を上げる事により各支部に勢力範囲が及ぶ中世の繁栄時代を築いた。

●大寝室
大寝室は当時の度重なる改修工事で破壊されたらしく、現在どの場所が相当するのか判断するのは難しい。しかし他のシトー派修道院から推察すると、仕切り壁のない大きなホールに藁布団を敷いて寝ていたと思われる。中世以降この大寝室は小さな部屋に仕切られ、個室寝室となった。北壁の扉は、夜間回廊を通らなくても事務室に行かれる近道として使われていた。
修道士にとって休息は、長い祈祷と労働の後不可欠の時間だった。作業後すぐに就寝して7時間、朝は7-8時に起きて賛美歌を歌いに教会へ行く。聖ベノワが日常生活の詳細に奨励する方法を規定した時、休息は重要視されていた。聖ベノワの記述引用:
「修道士達はそれぞれのベットで眠る、可能なら一人で寝るのが望ましい。、起床が出来る限り素早く出来るよう衣服は着たままベルトを締め、謙虚に神の創造を崇拝する。起床したら互いに温かくソロモンの予言を取り除く。」
19898、パリ版

●労働修士達の寄宿舎
見習修道士や労働専門の修道士達が1日10時間の労働をここで行った。収容された無教養な人、「参事会会議場の発言権」を持っていない人々も精神的啓発の為共に働いた。新人修道士を募集するには住居の提供をしなければならなかった。1344年農場をすべて借りることを決定しました。当時まだ未出版の文献を筆写して開発事業に取り組んでいた修道士達は、彩色装飾、彩色文字,彩色挿絵等の技術を取り込んでいた。しかしVillers修道院は小規模だったので、他地域で主に開発されていた。全体は寄宿舎で、労働修道士も夜の祈りを行う為に長さ70メーターの一人部屋を含む。。労働修士が去った後貯蔵室に一新され、18世紀には約10メーター追加して、修道士の埋葬の前に遺体を安置するために、僧院の礼拝堂を備えた付属病院に変えられた。

●修道院長室
僧道院長の宮殿ジャックHache宮殿は、労働修士達の寄宿舎と共に1720年完全に再建された。多数の客間を含み、大長方形のウィンドウに解体されレンガでできており、破壊者のため内部を空にした。建設当初から僧院長が個人の住宅を持っていた事は明らかで、彼は封建制の領域に関する地方の君主でもあり、管理と司法力を行使する資格があった。彼らはさらに、ブラバント国の上院議員でもあり、オランダ議会で議席権も持っていた。