ヴィットリオ・リエーティ Vittorio Rieti (1898-1994) の生地に関する,若干の補足調査
わしがリエティである。イエティではない
ヴィットリオ・リエティの生地はエジプトのアレキサンドリア(Alexandria)である・・これは,俗説として広く受けいれられており,当館でも半ば盲目的にそれを鵜呑みにして,情報を掲載しておりました(付属資料1)。ところが,2004年6月18日付で,おくだ様より以下の情報を提供いただきました。

ヴィットーリオ・リエーティ(Vittorio Rieti)について、ちょっと気になったのですが、、、
エジプトのアレクサンドリア生まれと書かれていますが、「イタリア生まれ」というのをもう一度調べてみて欲しいのです。
ミラノから約100kmほど離れたピエモンテ州にアレッサンドリア(Alessandria)と言う町があります。この町の地名は、エジプトの「アレクサンドリア」から取られた小さな街です。
16歳の青年がエジプトからミラノへ勉強の為に行くよりも、ミラノの隣の州にあるアレッサンドリアから勉強に行くほうが、普通だと思うのですが。。。

 おくだ様はイタリアにお住まいになっておられる関係で,この小さな街の存在をご存じであり,当館のリエティ・ページを読むうち,「ひょっとしたら,この街とエジプトの街とが混同された可能性があるのではないか・・」と思い至られたそうです。充分にあり得る推測であり,現地にお住まいの方ならではの貴重な情報提供です。そこで,この推測の真偽を少し突き詰めて調査してみることに致しました。本ページはその報告をまとめたもので,後学のため設置したものです。

リッチさんです ご覧の通り,多くの資料(付属資料1)では,エジプト出自説をとりますが,これらは大半が辞典の類であるため,何らかの一次資料をもとに書かれた二次資料である可能性はなお残ります。つまり,それら辞典類の著者が参考にした資料の制作者が,「彼の出身地はアレキサンドリアです」と聞いたとき,イタリアのアレッサンドリアよりも明らかに知名度が高いエジプトのアレキサンドリアであると勘違いをして,その旨記述した場合は,それ以降この資料を参照して制作されるあらゆる資料(二次資料)に,芋蔓式の誤謬を生むことになると考えられます。

 このため今回は,彼の生まれた当時の状況について,もう少し詳しく記した評伝を参照することとしました。幸い,著者自身が晩年の彼と親交を持っているフランコ・カルロ・リッチ氏(=右写真)のお書きになった評伝【ヴィットリオ・リエティ】(1987)を入手できました。リッチ氏は,2004年現在,トゥスチア大学言語・近代外語文学部の教授兼芸術監督をなさっておられる近代文学の専門家であり,晩年のリエティと個人的に交流のあった人物でもあります。恐らく,現時点で参照可能な最も信頼の置ける人物の記述かと思われます。該当箇所についての記述を抜粋いたします。

 Intorno alla metà del secolo scorso l'Egitto, politicamente semindipendente - era infatti nominalmente retto da un Vicerè ma godeva di completa autonomia dal sultano di Constantinopoli, aveva legami economici piuttosto intensi con vari paesi europei, in particolare con l'Italia, ed era in grado di offrire lavoro e sistemazione a chi in patria non ne aveva. Era il caso appunto del nonno paterno di Vittorio Rieti, Graziadio, di origine padovana, che, come altri italiani in cerca di fortuna, verso il 1850, partì alla volta di Alessandria d'Egitto.
 Egli, che il musicista non conobbe mai perché morì prematuramente, apparteneva ad una famiglia di artigiani e commercianti di stoffe, povera e di cultura modesta, mentre la moglie Didone - scomparsa molto giovane quando suo figlio Dante, futuro padre di Vittorio, aveva appena quattro anni - proveniva dalla famiglia Lolli, anch'essa di origine padovana, ma culturalmente più evoluta; un suo fratello fu rabbino maggiore di Padova.
 Dante Rieti, all'età di quattordici anni, nel 1879, raggiunse il genitore ad Alessandria dove cominciò a lavorare come apprendista in case di commercio di importazione per imparare appunto il mestiere di commerciante che, in seguito, esercitò autonomamente, e con fortuna, favorite dall'economia egiziana fondana essenzialmente, sul finire del secolo, in mancanza totale di industrie, sull'esportazione di cotone grezzo e l'importazione di manufatti.
(中略)
 Così quando venne alla luce Vittorio, il 28 gennaio 1898, il padre Dante, che aveva iniziato l'attivita di commerciante da condizioni economiche estremamente modeste, aveva raggiunto una posizione, nel complesso, buona, come dimostra il fatto che, dopo pochi anni dalla sua nascita, fece costruire nei sobborgi di Alessandria, in un quartiere residenziale chiamato Ramleh - in arabo "sabbia" - villa emma, dedicate alla moglie.

出典:Ricci, F.C. 1987. Vittorio Rieti: La Musica e la danza vol.2, Napoli, Edizioni Scientifiche Italiane, pp.9-10.
抄訳
 19世紀半ばのエジプトは,政治的には総督によって治められていたものの,実際にはコンスタンティノーブル(イスタンブール)のトルコ皇帝から自治権を受け,ヨーロッパ諸国,特にイタリアとの経済上の強い関係があった。このため,イタリアで職や生活の手段をもたぬ多くの人々が,新天地を夢見てエジプトへ渡った。
 1850年頃に成功を求めてアレッサンドリア(アレクサンドリア)へ渡った,パドヴァ生まれのヴィットリオ・リエティの父方の祖父もその一人であった。彼は早すぎる死のため,知られることのないままに終わった音楽家であった。
 貧しい織物職人だった彼は,教養ある妻ディドーネと結婚し,ヴィットリオの父となる息子ダンテをもうける。1879年,ダンテは14歳で,商いを学ぶため,輸入業を営む商人の家に住み込みとして働き始め,経済成長の波に乗って独立した。
 息子ヴィットリオの誕生(1898年1月28日)から僅か数年後には,アレクサンドリア郊外にあるアラブ語でSabbia(砂)とよばれた住宅街に,妻ヴィッラ・エンマへ捧げた邸宅を建てたことからも伺えるように,父ダンテが始めた商いは大きな成功をおさめるに至っていた。
(訳出にはおくだ様のご協力をいただきました)


今回は残念ながら,俗説を覆す大発見!には至りませんでしたが,「ひょっとしたら・・」との期待を抱きながらの,大変楽しい調べものと相成りました。このような質問や調査依頼は大歓迎です。当館に掲載された情報に関して疑問が生じましたら,ご遠慮なく掲示板メールにてお知らせください。いち個人のホームページとはいえ,極めて限られた情報しかない作曲家の基礎情報を,広く社会へ向けて提供している社会的責任の上からも,検証の必要があると思われる質問に対しては,誠意をもって対応させていただきます。



付属資料1: エジプト説を採る記述の例
リエーティ,ヴィットリオ Rieti, Vittorio (1898・1・28 アレキサンドレイア[エジプト]−)
イタリア人を両親にもつアメリカの新古典主義の作曲家。ミラノでフルガッタ(Furgatta)に(1912-1917),ローマでレスピーギに(1920まで)師事。1940年アメリカに渡るまでのあいだに,<六人組>やカセラと親交を結んだ。ピーボディ音楽院,ルーズベルト大学,クイーンズ・カレッジなどで作曲を教授。どのジャンルにおいても一貫して明快で均整のとれた作風を示している。
主要作品【管弦楽曲】交響曲(7曲):No.3≪シンフォニエッタ≫1932,No.4≪三部の交響曲≫1942;組曲≪泉≫1968.
【協奏曲】ピアノ協奏曲(3曲):No.3 1955;ハープシコード協奏曲 1952-1955,改訂72;チェロ協奏曲(2曲);No.2 1953.
【室内楽曲】パルティータ(Cemb・Fl・Ob・2Vl・Va・Vc)1945;双生児のための六重奏曲1975;5つの楽器のためのコンチェルティーノ(Fl・Va・Vc・Hrp・Cemb)1963;五声のソナタ(Fl・Ob・Cl・Fg・Pf)1966;版画(木管五重奏)1967;木版彫刻(Fl・Ob・Cl・Hrn・Fg)1967;弦楽四重奏曲(4曲):No.1F. 1926,No.3 1951,No.4 1960;パストラールとフゲッタ(Fl・Va・Pf)1966;カプリッチョ(Vl・Pf)1941.
【ピアノ曲】セカンド・アヴェニュー・ワルツ(2Pf)1942;田園組曲(2Pf)1948;コラール・変奏曲と終曲(2Pf)1969;6つの小品1932;中世の変奏曲1962.


Rieti, Vittorio (b. Alexandria, 28. I. 1898)
It comp. Studied with Frugatta at Milan and Rhespighi in Rome, but destroyed all his works written up to 1920.
Works incl. opera TERESA NEL BOSCO: ballets NOAH'S ARK,BARABAU, WALTZ ACADEMY, THE SLEEP-WALKER, ROBIN SON AND FRIDAY (after Defoe) & DAVID'S TRIUMPH: incid. m. for Pierre Corneille's L'IILUSION COMIQUE & Giraudoux's ELECTRE; Sym.; Conc. for wind insts. & orch., v. Conc., clavichord Conc.; MADRIGAL for 12 insts., So. for fl., ob., bn., & pf.; pf. pieces, &c.

Rieti, Vittorio (b. Alexandria, Egypt, 1898). It. Composer ( Amer. citizen from 1944). Studied pf. in Milan and comp. with Casella, Respighi, and Malipiero in Rome. Lived in Paris from 1925. Wrote ballets for Diaghilev and mus. for plays and films of Louis Jouvet. Settled in USA 1939. Taught at various Amer. colleges. Works, often influenced by Stravinsky and LES SIX, incl. 12 ballets, 4 operas, 5 syms., 2 pf. conc. (pf., vn., va.), 3 str. qts., woodwind quintet, pf. pieces, and songs.
■上記出典:(英文2点の情報はシュウシュウさん提供)
・淺香淳編(1982)「新音楽事典*人名」音楽之友社,674頁)
・Eric Blom (complile) 1946. EVERYMAN'S DICTIONARY OF MUSIC. Philadelphia, US, David McKay Company.

・Michael Kennedy 1980.(based on the original publication by Percy Scholes) THE CONCICE OXFORD DICTIONARY OF MUSIC: Third edition. London, Oxford University Press.

(2004. 07. 11)