夢みたものは……
立原道造:詩  木下牧子:作曲

とても有名な合唱曲。多くの合唱団の愛唄曲として、または演奏会に打ってつけのアンコール・ピースとして広く親しまれていますね。
『作曲の木下牧子さんが、知り合いの結婚式のお祝いの為に作った合唱曲』という話はご存知の方も多いと思うので、このページでは詩を作った立原道造さんに注目してみたいと思います。

あらかじめ聞き所チェック!
みんな大好きな『夢みたものは』の聞き所を抜き出してみました!
まずココ!出だし!

♪夢みたものは ひとつの幸福
願ったものは ひとつの愛♪

と歌っています。穏やかなメロディーと魅力的な歌詞が相俟って、あっという間に私達の心を掴んでしまいます。

そしてココ!テノールの主線部分。

♪日傘をさした 田舎の娘らが♪
と歌っています。良いですよね〜!

そして終盤のココ!

ここは
♪夢みたものは ひとつの幸福♪

♪願ったものは ひとつの愛♪
を同時に歌う部分です。ちょっと難しくて、演奏に失敗すると若干何を言っているのか解らないようになりますが、上手く決まると感動します。


死期が迫ると同時に、
最愛の恋人にめぐり会えた男の歌

この詩を作った立原道造という人は、1914年(大正3年)に生まれて、1939年(昭和14年)に24歳の若さで夭折した詩人です。また優れた建築家でもありました。
彼は「日本の現代詩において、天使のイメージに最も近い存在」とも評されています。当時日本は二・二六事件や満州事変など、暗黒の時代と言われていましたが、そんな明るい理想が失われようとした時期にひとりためらうことなく、その青春の思いを美しい言葉に綴り続けたからです。

死ぬほんの一年前、既に肺を患っていた立原道造は同じ建築事務所に勤める水戸部アサイという19歳の女性と恋におちます。リュウキンカの咲き乱れる信濃の高原で、2人は愛をはぐくみました。体は日に日に弱っていきましたが道造は幸せだったようです。そんな中、死後に『優しき歌』と題されることになる詩集の構想を練り始めたのです。
『優しき歌』は10+1の詩から成り立っています。前半は新しい愛への懐疑を歌っていますが、だんだん愛は確信に、そして信仰へと変わっていきます。
いくつか抜き出してみました。

「6 朝に」より
傷ついた 僕の心から
棘を抜いてくれたのは おまえの心の
あどけない ほほえみだ そして
他愛もない おまえの心の おしゃべりだ

ああ 風が吹いている 涼しい風だ
草や 木の葉や せせらぎが
こたえるように ざわめいている

あたらしく すべては 生まれた!
霧がこぼれて かわいて行くときに
小鳥が 蝶が 昼に高く舞いあがる


「7 また昼に」より
花でなく 小鳥でなく
かぎりない おまえの愛を
信じたなら それでよい
僕は おまえを 見つめるばかりだ

さえぎるものもない 光のなかで
おまえは 僕は 生きている
ここがすべてだ!


「9 樹木の影に」より
いま 僕たちは憩う
ふたりして持つ この深い耳に
意味ふかく 風はささやいて過ぎる

泉の上に ちいさい波らは
ふるえてやまない……僕たちの
手にとらえられた 光のために


アサイとの輝かしい青春の輝きが、言葉で彩られています。ああ、本当に幸せなんだなあ、とっても嬉しいんだなあ、というのが手に取るようにわかって、何だか涙が出そうになります。是非、流し読みせず、よくみて頂きたいです。
…そして、『優しき歌』最後を締めくくる詩がコレです!聞いてください!


無伴奏混声4部
ネットサーフィンはこちら

この曲を歴史的観点から見る

「10 夢みたものは……」
夢みたものは ひとつの幸福
ねがったものは ひとつの愛
山なみのあちらにも しずかな村がある
明るい日曜日の 青い空がある

日傘をさした 田舎の娘らが
着かざって 唄をうたっている
大きなまるい輪をかいて
田舎の娘らが 踊りをおどっている

告げて うたっているのは
青い翼の一羽の 小鳥
低い枝で うたっている

夢みたものは ひとつの愛
ねがったものは ひとつの幸福
それらはすべてここに ある と

この「夢みたものは……」を書き上げたのは1938年の10月と言われています。1939年の3月に立原道造は結核でこの世を去りますから、もう本当に死ぬ前だったんですね。
生前の最後の手記は
「僕はおとなしくして早く健康になろう。それよりほかには何もない(略) ただまなざしを出来るだけ明るい未来に向ける」
でした。最期まで、アサイとの楽しい毎日がずっと続くことを信じていたようです。切ない…

4つほど補足します。
・「日傘をさした田舎の娘らが…」とありますが、この村は信濃のどこかの村というのではなく、童話的な空想の村なのだそうです。
・『優しき歌』という題名は合唱での組曲名になっていたりもしますが、これは立原道造が好んで聞いていたフォーレの歌曲集「ラ・ボンヌ・シャンソン(優しき歌)」がその由来なのだそうです。
・最後「夢みたものは ひとつの愛 ねがったものは ひとつの幸福 それらはすべてここに ある と」と後に「私は感じている」が後に続いていて、これは省略されているらしいです。
・この詩「夢みたものは……」は、同じ立原道造の作品「草に寝て 六月の或る日曜日に」という詩作品と、内容がほぼ同じです。こちらの詩も合唱曲になっているので、チェックしてみると面白いと思います。このページの末尾にも、詩を掲載しています。


プロポーズした日の幸せを描いた作品
歌に「明るい日曜日の 青い空がある」とありますが、この日曜日が昭和13(1937)年6月5日の日曜日であることが、多くの専門書によって証明されています。
この日、道造は水戸部アサイを誘って、と軽井沢追分日帰りの小旅行に出かけました。
・・・その時の立原道造の手記が資料として残っています。

♪明るい〜にちよ〜おび〜の〜青いそ〜ら〜が〜ある♪の、そのまさしくその日曜日!ドンピシャ当日!の手記ですよ〜!
一枚目には旅行のスケジュールを、そして二枚目には持って行くものが書いてあります。
何気ないメモですが、この日を立原道造がどれだけ楽しみにしているかが伝わってきますね。『星印』の箇条書きで、スエーター(着るセーターですね)にパンに、チョコレートですってよ!とっても丁寧に、綺麗にしたためてあります。 歌詞から察するに当日は青い空だったわけですから、お天気にも恵まれたようです。

何で立原道造がこんなに楽しみにしていたかというと、それはアサイにプロポーズすることを決めていたからです。
筑摩書房の立原道造全集の5巻目に、「昭和13年6月5日、道造はアサイを連れて日帰りで軽井沢へ。そして追分駅の近くの草むらで、アサイにプロポーズした」と記されています。道造は結婚に対して人一倍の憧れを持っていたそうですし、この日は本当に特別な日だったのですね。

「『夢見たものは…』は、実は恋人にプロポーズした日の幸せを描いた詩だった」ことを踏まえてあらためて歌詞(詩)を見ると、内容がいっそうまぶしく感じられます。





夢みたものは……を含む『優しき歌』の詩集を書き上げてた立原道造は、そのおよそ2ヶ月後の12月6日に長崎で喀血。絶対安静を宣告されますが、東京の診療所に入った12月26日には、すでに手遅れになっていました。29日からは水戸部アサイが献身的に看病しました。そして3月29日、この世を去りました。

立原道造と水戸部アサイは、最後まで清らかな間柄だったそうです。

夢みたものは ひとつの幸福
ねがったものは ひとつの愛


それらはすべてここに ある と

気の遠くなるような青春讃歌ですね。そしてその美しい青春は「死」によって氷結され、私達の中で永遠に輝き続けています。






資料、その他
「夢みたものは……」の紹介はこれで終わりです。ここから下は、『優しき歌』の詩全てと、夢みたものはとほぼ内容が同じ作品「草に寝て 六月の或る日曜日に」を掲載しています。
立原道造の死後50年以上が経ち、著作権は切れている筈なので、多くの資料を載せることができます。

『優しき歌』








※前半は暗い内容のものが多いです。まだ水戸部アサイとの愛が本当のものなのか疑っている時期というのと、また立原道造はアサイに出会う前に「鮎子」という女性との恋に破れているので、失恋の痛手もひきずっているのだそうです。

※この辺から、内容がみるみる明るく光り輝いていきます。









『優しき歌』は以上。


以下は「草に寝て 六月の或る日曜日に」です。この詩の「日曜日」も、夢みたものは……と同じ昭和13年の6月5日の日曜日(プロポーズした日)なのだそうです。


参考文献
・「現代日本の文学17 荻原朔太郎 中原中也 伊藤静雄 立原道造」学研
・小川和佑編「立原道造詩集」明治書院
・昭和女子大学近代文化研究所「近代文学研究業書44」昭和女子大学近代文化研究室
・神保光太郎編「立原道造詩集」白凰社
・「立原道造全集2」「5」筑摩書房
・詩と詩論研究会編「金子みすゞと夭折の詩人たち」勉誠出版
・「立原道造詩集 日本詩人選20」
・「日本の詩20 丸山薫 立原道造集」集英社

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