Idiots


 ラース・フォン・トリアー監督の作品は、映画館で『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を見ただけでした。『奇跡の海』『キングダム』が代表作のカルト作家だということは知っていたのですが、あんまり興味は持ってなくて、『ダンサー』もビョークが見たかっただけでした。で見て感動して泣いちゃったりしたんだけど、この人大好き!!といった感情は起こらなかったんですよ。今回この『イディオッツ』をレンタルビデオで見たのも、TSUTAYAにもこんなカルトなのがあるんだ〜という野次馬根性的なノリ。あとは『ダンサー』よりもいい、トリアー監督の最高傑作だという感想を複数目にしていたので、見てみようかなあと思いました。(映画の公式サイトはここから)

 で、別に見よう!と前から決めていたわけでもないので、とっくに内容もわかってました。精神障害者を装ってレストランで食い逃げしたり、周囲の人々の偽善ぶりをさらして楽しむ悪趣味な集団をドキュメンタリーちっくに撮っている、というもの。ちっくがついている所がポイントで、役者がそういう「装う」人々を演じるという入れ子構造というのが見どころなわけです。しかも最後にそのグループは解散するんだけど、後日メンバーに改めてインタビューしているような場面も挿入されています。(この作為の意図がいまいちよくわからないんだよね。また「本物」の障害者も混ざっていて、現場では役者さんが混乱することもあったという(でその部分は切ってるんだけど)。カオティック…)

 加えてその背景にトリアー監督が代表として宣言した「ドグマ95 純潔の誓い」というのがあって、セット不可・手持ちカメラのみなど、限りなくドキュメンタリーに近い形で撮影するというルール(ここ参照)がある。それに沿って『イディオッツ』以外にもいくつか作品が撮られています。その『イディオッツ』以外の作品というのも、なんか後味の悪い、現実の隠された部分を暴露するような話(あくまでフィクション)なんですよね。詳しいことはよくわからないんだけど、「ドグマ95」って芸術運動なのかもな。だからつい、その「ドグマ95」の一員として映画を撮っているトリアーと、映画の中で集団をつくって「愚者=イディオッツ」に敬意を表し、偽善に満ちた社会を撹乱してやろうと活動する登場人物たちとダブらせて見てしまう。(特にリーダー格の、偽悪的なのに純粋で絶えずメンバーを焚き付けている青年は見るからに痛々しいんだけど、ひょっとしたらトリアー監督に似てるんじゃないだろうか。)

 それは見ていて、予想していたよりもずいぶんナイーブな感じを受けたからでもあります。とある座談会(というかこれ)で黒沢清が「思ったよりもつまんない」と発言していますが、そういう感覚ですね。ストーリーを見るともっと毒々しく、ナンセンスな作品だと想像して(=望んで)しまう。登場人物がけっこう小市民的なんだよね…見てるとバカンス中の暇つぶし?なんて思えてきてしまう。その反面、けっこう純粋な気持ちで活動してるしな。ちなみにイディオッツという言葉は辞典でひくと「白痴」「馬鹿者」なんだけど、ここでは「愚者」という、蔑称というよりもじゃっかん敬意のこもった表現になってますね。私が見たビデオはパンドラから出てたんですが、そのナイーブさをうまく訳してるのかなと思いました。

 またトリアー監督がユダヤ系で敬けんなカソリック信者というので、ナイーブさというのはそういう宗教的な所から来ているとも考えられます。映画を撮っていない時は神様の像の前で泣いているらしいんだけど、本当かよオイって感じですよね。どうも日本人はその辺の純粋さに鈍感というかアレルギーがあるような気がします。特に同業者。他のレビュー読んでも反発を感じた方がけっこういましたね。そうでなければ悪趣味さをやたら持ち上げるだけとか。まあこれにまんまはまって例えば同じことを始めるっていうのはむしろマズいとは思う(笑)。でも『ダンサー』にしても、宣伝の受け売りで誤解して感動してしまう人と、そのノリに反発して過小評価してしまう人・また話の悲惨さに痺れてしまうだけの人に分かれてしまった感じで、見ていてなんか極端だなーと思ってしまいました。

 というか、最初に戻るんですが、私はけっこう普通に受け取って共感していて、『イディオッツ』見てもそうだったので、それはヤバいのかしら?と不安になってしまったわけです。なんかジュネとかバーホーベンとかの変態おやじ監督についてはいくらでも大きな声で愛情表明できるんだけど、トリアー監督に共感する(好きっていうよりは、わかるって感じ)って言うのはちゅうちょしてしまうんですよ。彼にはそういう危うさがあると思います。(まじでここも隠しページにしようと思ってました…)と言ってもこの不安をわかって頂けないかもしれないんだけど。

 説明するのが難しいんですが、トリアー監督の作品には弱さの暴力性というものがあると思います。『奇跡の海』『ダンサー』と合わせて3部作らしいんですが、共通して「強力に」無垢な女性が主人公。この『イディオッツ』ではたまたまこのグループに外から入ってきたカレンという女性。見てると不安になるくらい純真なんですよ。(しかし純真とか純粋とか久々に使うなあ…しみじみ)無口なんだけどときどき発される素朴な言葉に癒されてしまう。それが最後になって、自分の子供の葬儀から逃げていて家族に迷惑をかけていたということがわかる。グループの最後の課題が「最も親密な人々の前で愚者を演じる」というものなんですが、メンバーが次々降りて解散に追い込まれた中で、最後にカレンだけがその課題を完璧にやり遂げてしまいます。

 おそらくカレンだけがまじめに課題を担い、きちんとやり遂げてしまうだろうということが、画面からひしひしと伝わり、考えるだけで胃が痛くなってしまう。そして証人として親友を伴い自分の家に帰って、彼女の前で愚者を演じる―殆ど見るに耐えない、拷問のような場面。ここでカレンの無垢さが凶器になって、映画を見ている私たちを含めた周囲の人々を傷つけてしまう。最も弱い者が最も深く傷つきながら周りの者を傷つけるという両義的なモチーフがここで繰り返されます。そして耐えきれず親友はカレンを止めて、その場から一緒に出て行く。家族の誰も彼女たちを止めず、フィルムがぷっつり切れるように、映画はそのまま終わってしまう…

 トリアー監督っていうのは(まあこの3部作に限ってだろうけど)この両義性にこだわっているんじゃないかなあ。というか、とりつかれているというか耽溺しているというか。しかも性欲としてではなく信仰しているかのように、けっこうまじめに追究しているのではないか、という気がしてくるんですよ。それは、特に私たちのような、現代の日本人から見ればあまりにも痛々しく、非現実的。そういう存在に対しては茶化すか反発するかしかないです。わかる奴の方がイタいしヤバいんじゃないんだろうか…私もここにこっそり書くのがせいぜいで、決して現実に口に出して言うことはないでしょう。『イディオッツ』はその意味で傑作だと言うことができる。かなあ…うう。

 それはそれとして、単純に見物して終わりっていうのもアリなんですけどね。役者さんたち本当にうまいし。こういう技術もアリかと感心してしまう。やり手のビジネスマンが職場に戻るのが我慢できなくて、恋人の女性がクライアントになりすまして会議に出席し、愚者演技でそいつに恥をかかせる所なんかすごい。その女性が仕事の話をしながら突発的に愚者になるというアクロバティックな演技を披露してます。でも見ていて胸を突かれるのはやっぱり「本物」らしき人たちの感情表現だったんだけどね。その場のノリで乱交パーティになってしまい(小市民的だなあ)、その雰囲気に恐れをなして逃げ出した2人が、別の静かな部屋でおずおずと愛を交わし合う場面というのがあって、私はけっこう感動しましたね。ドグマ95のルールでBGMの使用も制限されていたんですが、テーマ曲のピアニカによる『白鳥』(サン=サーンス)もよかった。
                        

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