Siti Nurhaliza

トラッドを歌うシティ

この人については、もう説明の必要はないかと思う。最近のマレーシアの音楽を聴いている人なら、当然シティのアルバムの1枚や2枚は持っているはずだ。日本映画といえば「クロサワ」、フランスの詩人といえばジャン・コクトー(違うか…)という具合に、「マレーシアの歌手=シティ・ヌールハリザ」というのが常識。少なくともここ数年はそんな状況が続いている――。なんてことを言っていると書くことがなくなってしまうので、ここではシティが歌うイラマ・トラディショナル(※)について少し触れてみることにしよう。

※「イラマ(irama)」はマレー/インドネシア語で「リズム」、「ビート」または「テンポ」といった意味だが、マレーシアでは"Irama Tradisional"、"Irama Malaysia"(以上は伝統音楽)、 "Irama Pop"(ポップス)、"Irama Heavymetal"(ヘビーメタル)、 "Irama Hip - Hop"(ヒップホップ)――という具合に、音楽をジャンル分けするときにもよく使われる言葉。

彼女がこれまでにリリースした伝統歌謡アルバムは『チンダイ』(CINDAI/1997年)と『サムラ(邦題=シャムラ)』(SAHMURA/2000年)の2作。そして、女王ノラニザ・イドリスと共演した『スリ・バラス』(SERI BALAS/1999年)も忘れてはいけない。

伝統歌謡の魅力は、なんといってもコブシだ。シティのそれも、幼少の頃から先輩の歌手たちの歌いまわしを聞いて習得したものだと思う。マレーのコブシは外部の影響も受けながら時代を経て歴史的に確立されてきたものだから、いまから新しいコブシを開発するというのはかなり難しい作業だろう。
それでも、ノラニザとシティを聞き比べれば分かるように、◆どのコブシのパターンを多用するか◆どれくらい音程を揺らすか◆音程を揺らすタイミングや加速度――といった技術的なことに加えて、特に伝統音楽を専門に歌う人の場合は地域性などの違いも、特徴として出てくるようだ。

スタンダード・チューンを中心にポップに仕上げた『チンダイ』には、マレー/インドネシアの伝統音楽に詳しい人にとっては馴染み深い曲がたくさん収められている。プロデューサーは、パック・ンガ(Pak Ngah = Suhaimi Mohd Zain)とS・アタン(S. Atan)の2人。ともに作曲家としてだけでなく、アコーディオン奏者としてもマレーシアを代表する名手だ。
当時のシティは18歳。タイトル曲のビデオクリップを初めて見たときは、ティーンエージャーの可愛らしい女性が民族衣装でトラッドを歌う姿に強力なインパクトを感じた。ただ、「チンダイ」「ジョゲット・ブルヒブル」の新曲2曲以外はアレンジにあまり目新しさが感じられず、アルバム全体を通して聞くと、印象はやや薄れてしまう。
シティ・ノルディアナ&シュラの紹介のところで書いたことと重なるが、マレーシアの歌手、特に女性歌手の場合は子どもの頃から伝統曲を歌っていることが多く、程度の違いはあっても、多くのシンガーがトラッドを歌えるといっても言い過ぎではない。その中でもシティがずば抜けた存在であることには間違いないが、『チンダイ』のような企画に恵まれずに埋もれていったアーティストも実際には多いのではないだろうか。
いずれにしても、このアルバムがきっかけで、シティのほかの作品やノラニザ・イドリス、リザ・ハニムらのアルバムが日本でも紹介されたわけで、シーラ・マジッドやザイナル・アビディン以後は途絶えていた感のある日本のマレーシア音楽マーケットが再び活気付く記念すべき盤になったといえる。そして、(理由を話すと長くなるので割愛するが…)筆者がこうしてマレーシアで平和に暮らしているのも、すべてシティのおかげだと思っている。

トラッド・アルバム第2弾の『サムラ』は、すべて新曲。プロデューサーには、『チンダイ』を手がけた2人に加え、歌手としても活動しているトキ(To'ki)、ロスリ・スラシ(Rosli Selasih)らの若手(といっていいのだろうか?)を迎えた。
歌謡大賞「ジュアラ・ラグ」(Juara Lagu)で大賞に輝いたヒット曲「バルキス」(Balqis)を筆頭に、比較的新しさを感じる楽曲が聞ける。シティの歌もやはり、文句のつけどころのないほど素晴らしい。
ただ、プロデューサーが同じだけに、ノラニザ・イドリスのアルバムと似たようなつくりになっており、曲によっては、まろやかなシティの声質が迫力不足に感じてしまう部分も無きにしも非ず。好みの問題でもあるが、6曲目のザピン、「マリガイ・プルマタ」(Mahligai Permata)などは、ノラニザの十八番のように聞こえてしまい、どうしても違和感がある。個人的には、『チンダイ』の方が、よりシティ向けのアレンジが施されていたような感触があるが、どうだろう。

時期的には1年逆戻りすることになるが、『スリ・バラス』で聞けるシティの歌はこの上なく素晴らしい! と思っている。
まずは1曲目の「ハティ・カマ」(Hati Kama)。こういうイスラミックな曲調にはかかせない「雄たけび」に耳を傾けてほしい。ビデオクリップやライブでは、シティが手のひらを耳に添えて叫ぶシーンが見れるが、その姿はまるで、礼拝の時間を知らせるアザ―ンを思わせ、感動的だ。
ソロで歌う3曲も、この世のものとは思えないほど(ちょっとオーバーだけど…)美しい。「プラウ・ピサン」(Pulau Pisang)で聞けるコブシの入れ方や音の切り方なんて、実に絶妙だ。

ここでちょっと空想の話……。もしもシティのアルバムを筆者にプロデュースさせてくれるとしたら、「ミナンカバウの民謡特集」をぜひとも作りたい。単に自分がミナンの歌を好きなこともあるが、以前テレビで放映された特別番組でミナン語のスローバラードを歌ったシティが忘れられない。彼女はミナン人ではないが、生粋の「ラグ・ミナン」とはまた違う、透明感のある素晴らしい歌唱にいたく感動してしまったからだ。

※ミナンカバウ(Minang Kabau)とは、インドネシア・スマトラ島の一地域で、そこに居住する民族の名でもある。ミナンカバウ人がミナン語で歌う地方歌謡・ポップスのことを「ラグ・ミナン」(Lagu Minang=ミナンの歌)と呼ぶ。故郷を出てほかの地へ出稼ぎなどに行くことを意味する「ムランタウ(merantau)」がテーマになっている曲が多い。マレー半島にも、ヌグリスンビラン州を中心にミナンカバウ人の移民やその子孫が多く住んでおり、ミナン文化はムラユ民族全体においても重要な要素のひとつとなっている。


下には、3枚のアルバムに収録されている曲に使われている基本的なリズムや演奏形式を記してみた。
(カッコ内は、明確な区別が難しいもの)

CINDAI (1997年)

1. Cindai = ザピン、(イナン)
2. Laksamana Mati Dibunuh = アスリ
3. Janji = (イナン)
4. Lela Manja = アスリ
5. Kaparinyo = イナン
6. Es Lilin = イナン
7. Damak = イナン、(ガザル)
8. Joget Pahang = ジョゲット
9. Patah Hati = アスリ
10. Joget Berhibur = ジョゲット

SAHMURA (2000年)

1. Balqis = ジョゲット
2. Joget Kasih Tak Sudah = ジョゲット
3. Zapin Cinta Asmara = ザピン
4. Keroncong Si Endang Endang = クロンチョン
5. Canggai = (イナン)
6. Mahligai Permata = ザピン
7. Pawana Sampaikanlah Salam = アスリ
8. Ya Maulai = ザピン、(イナン)
9. Masri Manis = マスリ
10. Berpantun Kasih = マスリ

SERI BALAS (1999年)

1. Hati Kama = (イナン)
2. Ya Allah Ya Saidi = ザピン
3. Ketawa Lagi = イナン
4. Walinong Sari = チャングン、(イナン)
5. Merak Dosangkar = (イナン)/ガザル
6. Musalmah Manis = アスリ
7. Pasir Salak = アスリ
8. Lenggang - Lenggok = (イナン)
9. Pulau Pisang = (イナン)/ガザル
10. Dondang Dendang = ザピン

※各リズムについては、「GUIDEBOOK」の項を参照していただきたい。なお、「ガザル」はリズムでなく、演奏形式を表す。

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