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1927〜1964
SKGのバンドリーダー宮本勇さんは昭和2年坂出市に生まれました。浪曲師の父を持ち、幼少の頃から音楽に囲まれて育ちましたが、楽器を習える程の裕福な家庭ではなかったそうです。
その宮本さんのバンド活動のスタートは仲間と結成したライトローズ楽団です。
当時はラジオからは進駐軍が持って来たスイングジャズがダンスホールに流れ、街角ではのど自慢がいたるところで開かれていたそうです。
その頃、 宮本さんが音楽をやりたくて仲間を集めて結成したのがライトローズ楽団だったのです。
宮本さんは、独学でピアノ学び高価なアコーディオンを買い求め、メンバーを集め、あこがれのジャズを演奏しはじめたのです。
ライトローズは朝焼けの空の色「あけぼの」を意味し新しいスタートにふさわしいバンド名だったのです。
ところが不況のため、勤め先の造船会社が倒産、昼間は生活のため洋服の仕立ての見習いをしながら、
夜はダンスホ−ルで演奏という日々が続くのですが、10年間の修行をの後、ようやく自分の店(宮本洋服店)を開業できるまで腕を上げました。
そして結婚、33歳の宮本さんはなにもかも新しい生活をスタートしたのでした。
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1965〜1966
SKGが結成されたのは昭和40年のことです。坂出市の公民館活動としてバンドをやろうという話が松山地区の青年達からでたのがきっかけです。
東京オリンピックの興奮も冷めぬ経済成長期です。ラジオからはマンボNo5や闘牛士のマンボなどラテン音楽が最新の軽音楽として流行していました。
そして、ラテン音楽のバンドをやろう!話になり、誰かいい指導者はいないかという話になった時に、青年団活動を世話している坂出市社会教育課の川畑さんに相談したところ、宮本さんを紹介されたのです。
宮本さんは悩みました。2つのバンドをやる程の余裕はないし、永年やってきたライトローズ楽団も続けたい。
しかし、この若者達の情熱にうたれ、ライトローズは山本さん(アルトサックス、後にSKGに参加)に任し、「坂出軽音楽グループ」が誕生したのです。
やがてライトローズ楽団も解散し、そのメンバーも坂出軽音楽グループに参加するようになりますが、
この日から、宮本さんと楽器をはじめて手にする若者達の格闘が始まったのでした。
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1967〜1969
ラテン音楽をやりたいと言ってもまったくの素人ばかり、宮本さん大奮闘が始まります。
まず楽器をそろえることから始まります。高価な楽器は バンド仲間で楽器店を営む片山さんに借金をしバリサクやアンプなど高価な楽器はバンドのものとして揃えていきました。
次は楽譜の読み方の勉強です。半分以上が初心者なので楽譜にドレミと音名と指使いの数字を書いていったそうです。
練習場所も公民館が使えない日は、近所の苦情を気にもせず自宅で練習をしたそうです。
練習の日は、夕方仕事を終えてお腹をすかせて集まってくる青年達に奥さんは夕食を用意し、練習が終ると宮本さんを囲み音楽談義に花を咲かせます。
そして少しづつ音楽らしくなってくると定期演奏会を始めるようになったのです。
昭和42年には日本産業音楽祭第2回四国大会に初出場しようという声があがりました。そして、このとき誰も予想しなかったことがおこります。審査員の服部克久氏の絶賛を受け何と優秀賞まで受賞したのです。
当時はちがう職場の社会人のバンドはまだ珍しく、瀬戸内の小さな街のバンドの快挙は新聞やテレビに紹介されました!そして坂出軽音楽グループは一気に有名になってしまっのです。
現在のバンマスの高木さんが入団したのはこの頃です。
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1970〜1979
その後、最初のメンバーは仕事が忙しくなり去って行く事に。そしてメンバーも少しづつ変わっていきます。
昭和46、7年頃になると坂出の番の州工業地帯に進出してきた川崎重工やアジア石油などに勤める若者達が多く入団してきました。
都会からやって来たジャズが好きでプロはだしのメンバーもいました。
そしてジャズをやりたいという意見がではじめたのですが、思うように楽譜がなくて宮本さんはレコードコピーして楽譜を作りました。
当時もっともモダンなバンドはバディ・リッチ楽団で、定番とも言える「ビッグスウィング・フェイス」をようやく入手しました
そして、この当時、稲生田純一さんという伝説のドラマーが入団してきました。
彼はプロを辞め、高松市内の高校の先生になったのですが、やっぱりジャズをやりたくてなってSKGにやってきたのです。大きなカセットデッキを肩からかけヘッドフォンをつけ、スティックをいつも持って歩く姿は今も記憶に残っています。
その彼の強力なドラムに引っ張られSKGはジャズバンドとして変身をとげていくのです。
カウント・ベイシー、デユーク・エリントンなどのジャズが響きはじめ、
宮本さんもピアノを弾くよりも指揮者としてステージにたつようになります。
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1980〜1984
SKGの看板として活躍した稲生田さんも仕事がが忙しくなり、だんだん来れなくなりることが多くなって来ましたが、不思議なもので次から次にとメンバーが入ってくるのです。
その頃は、まだ独身のメンバーがほとんどで、誰かの誕生日だといえば宮本さんの家で酒盛りがはじまるし、練習帰りには焼き鳥屋で遅くまで音楽談義に花を咲かせていました。宮本さんも本当に楽しそうでした。
練習を休むと心配して様子を伺うハガキが家に届いていて、練習曲や出演のことが書いてあるのを見ると次の練習には絶対行かないととい気持ちになってくるのです。
そんな頃想いもしない出来事がありました。昭和57年、毎年出場し楽しみにしていた産業音楽祭も第17回大会で幕を閉じることになってしまいました。
たくさんの思い出のつまった音楽祭だっただけに、この時宮本さんは本当に寂しそうでした。
そしてもうひとつ、この頃突然の造船不況で造船会社に勤めていたメンバー達が突如転勤を余儀無くされあのです。順風満帆とういかじ、メンバー探しをしながらのバンド活動・・・そして、そんな中プロの経験のある新しいメンバーがやってきたのです。
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1985〜1989
20周年を機に坂出軽音楽グループはSKGジャズオーケストラとして活動をはじめるようになりました。
SKGは会長制で毎年交替をしていくのですが、バンドの方針もこの会長が決定権を強く持っているのが特長で、その年ごとにカラーがでてくるのですが、これは宮本さんが考えたバンドの運営方法で、みんなの意見を反映しようと言うものでした。
記念すべき20周年のリサイタルでは、当時TBSの「サウンド・インS」などのジャズ番組で人気の「しばたはつみ」さんをゲストに 迎えコンサートを開くことになりました。
丸亀市民会館の席数は1200、はたしてどのくらいチケットが売れるだろうという心配をよそに、会場は立ち見が出るほどの大盛況振りでした。
この時のリハーサルにはちょっとした思い出があります。
しばたさんは親交のあったアレンジャーの内堀さんに紹介をしてもらったのですが、事務所から送ってきた楽譜を演奏してすぐにテープを遅るようにとマネージャーから連絡があったのです。
そして、練習で録音したテープを送ったのですが・・・実はこの時メンバーもあまり揃っていない上、まだしあがってもいない状態だったのです。
さてコンサート当日、空港かに迎えに行きスタッフと食事をしなが話そうとしたら、しばたはつみさんはほとんど無言のまま、なにかぴりぴりした緊張感が漂っていました。
さてボーカルのリハーサル直前、不安そうなしばたはつみさんの姿が舞台袖に見えました。
ところが演奏がはじまった瞬間に、笑顔に変わりました。そして、踊るようにステージに出てくるとバンドに向って最高の賛辞を贈ってくれたのです。
そしてリハーサルは順調に終わり、旨をなでおろしました。いくらプロといってもアマチュアバンドの前で歌うのはめったにないので、すごく緊張すると後から話してくれたのですが、常に最高のステージを見せたいプロとしy手は当然の事なのですね。
それまで緊張してこわばった表情の 宮本さんもいつものスマイルに戻り、楽しそうに指揮をしていました。
そして本番では何と1200人を超える大観衆を前に、ほんとに最高のステージを作ることができたのでした。
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1990〜1991
それから5年、25周年の コンサートでは、遂に念願の中本マリさんをゲストに迎えました。
宮本さんにとって憧れのジャズボーカリストだったのです。ところがリハーサルはNGの連続!
自分のステージを最高のものにしようとメンバーに厳しい注文が次々にでてくるのです。5曲のリハーサルになんと2時間もかかったのです。
1部はSKGの演奏でしたが、2部はいよいよ中本さんとの共演、みんな緊張していました。
本番は大成功でした。ステージを終えた後、緞帳の陰で顔を紅潮させ中本マリさんから握手を求められる宮本さんは、メガネの奥の目が潤んでいるように見えました。
その後の打ち上げでは、中本マリさんの肩を抱き子供のように「よかったわ!一緒に演奏するのが夢やったんや!」と無邪気に喜ぶ宮本さんの姿を思い出します。
ところが、その翌年の平成3年4月13日。花見の宴をした翌日、桜が散るように宮本さんは帰らぬ人になってしまいました。
前夜の花見ではコンサートのビデオを肴に話が盛り上がり、本当に嬉しそうでした。
中本マリさんと共演出来たこと、しばたはつみさんさんと共演したことを本当に喜んでいました。
因は急性心不全、享年64歳でした。早すぎるお迎えでした。
きっと今頃はいつもの調子で、空の上でベイシーやエリントンと酒を酌み交わしてジャムセッションしているかもしれません。
そして、SKGは宮本さんとの楽しい思い出を心に残し、その意志を受け継ぎ今日も活動を続けているのです。
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