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 以下は私設ファンクラブ・拓郎組の会報「ひらひら」第一号からの再掲です。
文章力も表現力も稚拙ですが、当時の興奮と熱が伝わればと思い、あえて原文のままにしておきました。発行は1980年2月24日。僕は上京寸前までこんなことやっていたんですね〜〜(笑) とっても恥ずかしい文章ですが、20年前のウンコをお楽しみ下さい(笑)

吉田拓郎 Island Concert in 篠島

1979.7.26-27 愛知県南知多町・篠島


Rupo

 その日も朝から暑かった。1979年7月26日、ここは篠島。昨日は新潟から丸半日かかって知多半島の最南端・師崎に着いたのが夜の8時。そして今朝は6時起床という強行スケジュール。
 港までの道のり。僕等の脇を東京からのツアー・バスが通り去って行く。雲一つない青空。そして潮の匂い。名古屋電鉄の異様な臭いがウソのようだ。ツアーの一行に混じって6時30分発篠島行きの船に乗り込む。
 若者達。これから始まる、いやもう始まっているこのイベントに一人一人が、落陽と共に興奮し胸を高鳴らせ、拓郎と共に絶叫するのだろう。船中は静かで10分も経たないうちに島が見えてくる。誰かが言った。「あれが篠島か・・・」

 コンサート特設発着場に着いて目に入ったものは、髪がストレートだった頃の拓郎の大看板と、もはや昨日からいや10日前から入島していた熱狂的な約2,000名のファンだった。
 はしけを渡る時、こちらにカメラを向けている人達に気づいた。「ああ、映画になるんだったな」そう思い、若干カメラの目を意識して長い列に混じって入島。
 入口で注意書きの紙とポリ袋(ゴミ用)をもらって会場へ向かう。メイン・ストリートがステージと平行に走っており、僕等は丁度その真ん中に陣取る。ステージは真正面だ。
 開演まであと12時間。何もすることがなかった。昨日から寝不足なのだが、こう暑くっちゃ寝られやしない。下手すると日射病にかかっちまう。ステージ前へ行って見ると、機材・楽器・PA・スピーカーには青いビニールで覆われていて良く分からない。最前列の奴等といえば、ギターあり、ラジカセあり、三脚付きカメラありで、夜の準備を今から、いや昨日のうちにやって置いたものがそれぞれセットされている。
 ビーチパラソルの陰で寝る者。傘で日除けする者。タオルを被る者。みんな直射日光からの逃避に余念がない。男性が多いと聞いたが、僕等に男は目に入らず女性も割といるような気がした。男性は上半身裸が多く、ここではどんなに肌を露出しようと、何を着ようとすべて個人の自由なのだが、それがまた、不自然ではない。何故ならーここは篠島なのだから。

 海へ行った。“セイヤング”によると海水浴場もあるということなので準備はしてきた。が、ゴミがプカプカ人間の代わりに泳いでいて相当汚い。新潟の海の方が余程マシだ。それでも2時間は泳いで切り上げた。それから街へ行ったり、会場へ戻ったり。チケットの半分(俗にいう半券)があれば出入りは自由なのだ。逃げようにも潜り込もうにも周りは海。不可能なことは明白だ。遅い昼食を終えた頃には、もう陽がだいぶ西へ傾いていた。

 午後5時半。最後の飲料水や食料を仕入れに行く者と、そろそろ落ちつこうかという者とでみんな足取りが早い。氷が飛ぶように売れた。
 午後6時、帰ってくるといつの間にか16,000人の若者がつくった一つの街ができあがっていた。太陽が西日を差し、ムードは満点だ。あちこちでギターを持った若者が回りの者と共に唄ってる。「落陽」「アイランド」「シンシア」etc・・・。
 午後6時半。ステージの最後のセッティング・チェックも終わり、もう拓郎の登場を待つだけとなった。もうかなり興奮状態に陥ってる者で一杯だ。そんな中で僕はマイクのセッティングに取りかかった。自分の青春の一ページにこの日を加えるために。拓郎と過ごすこの日の確たる証のために・・・。
 どこからともなく、拓郎コール・三三七拍子が繰り返される。いまや遅しと待ち構える16000人の若者達。太陽が水平線まであとわずか。朝に比べるといくらか涼しくなり、もう寝ている奴などいやしない。「拓郎軍団」の旗も降ろされている。16000人が一人の男を待っている。

 そして拓郎コールの中、突然、積み上げられた12キロワットのスピーカーからバスドラのカウント、そしてエレクトリック・ギターのイントロが島中に鳴り響いた。「ローリング30」だ。観客は野獣のようなうなりをあげて総立ちとなった。
 後方の観客から「座れ!座れ!」のコール。しぶしぶ座った客だったが、数分後にはまた立ち上がっていた。それも前より大きいうなり声と大拍手とでもって。そう、吉田拓郎の登場だった。
 歴史に残るであろうイベントが今、始まった。