Behind The Music 全編の翻訳


翻訳されたHiromiさんから…

元FCスタッフ(94年-99年)のHiromiです。今年はじめにアメリカVH1で放映されたBehind The Music(シリーズ物のインタビュー番組)全編を翻訳しました。中身の濃いインタビューですので、じっくりお読み下さい。どうしても聞き取れなかったところは??になってますが、どうぞご勘弁を…あなたの感想をお待ちしてます。

♪Hiromiさんへのメッセージ、および翻訳の感想等は以下のアドレスにどうぞ。
 loveoutloud@hotmail.com



(イントロ部分)
-彼らはステージに立って、人々のために歌い、演奏するために生まれてきたんだよ。
-素晴らしい友人、驚くべきミュージシャン、ダリルホールは史上最高のソウルシンガーだ。
-モータウン・グループのように敬意を持って見られることは無かったけれど、本当はそれに値する。テンプテーションズやフォートップスのように。
-あの80年代には、ダリルホール&ジョンオーツの右に出る大物はいなかった。

-「僕らはMTVのメインスターになった。僕はプレスリーの髪をして、ジョンは小柄で僕は大柄、二人で跳ね回って…」
-「ありがたく、幸運なことではあったけど、ビデオの中で表現するアーティストであることに、僕らは決して居心地の良さを感じなかった」

-トップで居続けた5年間の後、二人は、落ちていくこと以外に行き先がなくなってしまったことを知った。

-「二人して燃え尽きてしまったら、それで終わりだ。それが僕らにはわかってしまった。」
「OK、じゃ仕方ない。STOPしよう」

-H&Oは「自主的な亡命」の期間に入っていった。そして経済的な不安定に悩まされることになる。

-「経済的レベルは大幅に下がってしまった。コネチカットの家も、NYのマンションも、外車のコレクションも、飛行機も売り払った」

-そして、個人面での 悲劇が、彼らのプロとしての将来にも疑問を投げるようになっていった。

-「世界の誰よりも大切に思い、愛していた人が、いなくなってしまった。つらいよ、ほんとに」

-「若くて、生き生きしていて、クリエーティブで、美しい女性だった。ダリル、そして周りの私たちみんなも、とてつもなくつらい状況に陥ってしまった」

-長い年月の間、H&Oがまた二人でレコーディングするかどうか、はっきりしなかった。

-「二人とも、まったくぼんやり、ぶらぶらと過ごしていた。そして、貧しい状態になっていった。」

-一度はポップスの世界を支配したパートナーシップの秘密

-「表面は華やかできらきらしてたけど、その実はギトギトしていた」

Story Behind the music


フィラデルフィアの街での出会いから30年以上たった今、ダリルホールとジョンオーツの音楽のパートナーシップは、今までに無く調和がありスムーズだ。

J「僕らの関係は兄弟のようなものだ。子供の頃からの結びつき。そんな関係さ」
D「僕とジョンが共通に持っていて、いいとき悪い時いろいろあったけど、そのために一緒にいられるのは、やはり音楽に対する感じ方だ。」
あの10年を振り返ると、ダリルとジョンほどのビッグスターは他にいなかった。
80年代、二人はMTV世代の人気者となった。
「MTVゲストVJのホール&オーツです」
二人は次々と心地よいヒットを送り出した。
J「まさに僕らの時代だった。誰にでも1日くらいはいい時期ってあるものさ。僕らにも2、3日はいい時期があったのさ」
D「僕らのファンはかなり若くて、正気ではなかった。ビルに押しかけてきて、いつも追いかけられてて、プライバシーなんて全く無かった。」
J「インタビューやビデオ、テレビ番組、ツアー、ギグ、パーティー、とにかく次々とこなしていった。」
D「公共の場所に出られなくなった。どこかに投げ捨てられたような気分にさせられた。」
15曲のトップ10ヒット、6曲のNo.1シングル、アルバムを1800万枚売上げ、H&Oは消え去ってしまった。
D「止める時期なんだろうと思ったし、僕自身トップであることを止めたかった。世の中が僕らがトップでいることを止めさせる前に、僕らからトップであることを止めたかった。」
J「公式に発表したわけでも、ファンに話したわけでもなく、だた止めただけなんだ。それだけ」
D「正しかったか間違ってたかわからないけど、しなくちゃいけない事はしなくちゃ、って思ったんだ。」

ダリルとジョンはロックンロールの黄金時代に生まれた。フィラデルフィア郊外の、お互いに数マイルほどしか離れていない場所で育った。American Bandstandの発祥地だ。
D「50年代後半から60年代初めまで、フィラデルフィアはアメリカの“クール”な首都だった。僕はまさにその時代に育ち、この目でそれを見てきたんだ。」
フィラデルフィアは、黒人白人の音楽が自然に混ざり合う、音楽のるつぼだっだ。ソールミュージックが地元のラジオ番組を支配していた。
J「全ては歌うこと、全てはハーモニー、全てはソウル。それが僕らが聞いて育った音楽」
D「テンプテーションズは僕らのビートルズ、僕らの神様だった。世界一のボーカルグループだから。」
ダリルもジョンも幼い頃から音楽を始めた。10代になると、ダリルはTemptonesというボーカルグループのフロントマンになった。
ジョンはMastersというバンドのリーダーだった。
1969年の夏、芽を出したばかりの二人のミュージシャンはAdelphi Ballroomのタレント・ショーケースでとうとう出会う事になる。
D「僕はそこにいて、そしたら背の低い奴が入ってきて、千鳥格子のスーツを着てて…それがジョンオーツだった。」
J「ダリルのバンドは僕のよりずっと洗練されてて、間違いなく、スーツももっといいのを着てて…」
D「で、ぶらぶらしてて、外を見るとバーンバンって銃声がした。」
J「みんな叫び始めて…若い連中がけんかを始めたんだ。」
D「殴り合いが始まったんで、仕方ない、ショーはこれで終わりだ、逃げ出そう」
死にもの狂いで逃げた。そこで、友情が一瞬にして芽生えた。
そして、二人ともフィラデルフィアのテンプル大学の学生であることを知り、ルームメートになった。
J「フィラデルフィアの中心にアパートを借りて、窓には鉄格子、ゴキブリは出るし…(??)そんなような不愉快な場所」
最初からはっきりしていたのは6.2フィートのダリルと5.6フィートのジョンはちょっと風変わりな組合せだった。
D「僕は始めるのが得意なタイプ、ジョンは仕上げが上手なタイプ。僕は全体を見るけどジョンは細部を見る。僕は楽観的、ジョンは基本的に悲観主義者(笑)。僕を好きな女の子のタイプと、ジョンの事を好きなタイプの女の子は全く違う。ジョンが好きだって言う女の子は、大抵僕のところには来ない。」
J「個人的な面ではあまり共通点はないと思う。音楽以外はね。どれくらいの公約数を持つかって言うことだけど(?)。僕らは二人とも音楽が好きで、同じ種類の音楽が好きで、同じような感じで音楽に共感を持つんだ。」
それぞれのバンドを解散すると、二人のルームメートは曲作りで共同作業をするようになった。まもなく、二人の間にはある種の化学反応が起こっている事に気付き、それにより曲作りがますます容易になっていった。
J「僕にはダリルが望んでいるコードがわかったし、ダリルは僕がハーモニーをどうしようとしてるのかがわかっていた。言葉を交わす必要もない」
数年間曲作りのスキルに磨きをかけ、個人的な経験や波乱万丈な恋愛を曲に盛り込んでいった。ジョンは大晦日の日、彼女にデートをすっぽかされ、一人寂しく過ごしていた。その時、あのクラッシックが誕生した。
J「She’s Goneは、僕が真夜中にギターで遊んでいた時…もうかなり昔の事だなあ。こんな感じだったと思う。She’s Gone… ♪」
D「ジョンはギターを弾いて、僕に歌ってみせた。レゲーっぽいような、爪弾くような感じ。で、僕が…まあ、これは僕らの間では典型的なやり方なんだけど、ちょっと感情を入れてみるから、って僕はキーボードの前に座って、こう始めたんだ。♪♪」
J「そして、She’s Gone…♪になったんだ。

それまでにためてきた曲を数多く携え、H&OはNYに旅立った。レコード会社との契約を取りつけようと。しかし、唯一彼らに興味を持ったのは、出版社のglorified goofer???のみだった。
D「そいつはまだ若くて、役職もない低い地位で働いてて、Tommyっていう名前だった」
Tommy「二人が入ってきて、ダリルは肩まで髪を伸ばし、ジョンも肩まで髪を伸ばし、ブロンドと黒髪、二人を見て私は、本当にはっとした。」
J「覚えてるんだけど、狭い部屋に連れて行かれて、たくさん曲を弾いたんだ」
Tommy「それは、その時点で私が今まで聞いた中で、最高の音楽だった。」
D「Tommyが言うんだ。私がマネージメントをするから、って」
J「へえ、いいよ、やって。そしたら、奴はいろんなところに電話をし始めたんだ。」
D「Tommyについて言える事は、ほんとに説得力がある奴で、何を売り込みたいのか自分ではっきりわかってるんだ。そして、すぐ買い手がついた」
野望家の新しいマネージャを迎え、H&Oは今にも成功に手が届きそうなところまで辿り着いた。

そして、後世にまで伝えられるSara Smileの登場。
D「彼女に会って、それは、他に選択の余地のないことだった」
Sara「私はルームメートと家に帰る途中でした。私は彼女に言いました。なんだか変な気持ちなんだけど、彼と深く関わるようになる気がするって。」
そしてH&Oは
J「彼の言った言葉、正確にはっきり覚えてるよ。I will immortalize you.君達を永遠のものにしよう。ほんとにそうしたよ」
「みんな二人はゲイだと思っていた。恋人同士で一緒に住んでて。」
(CM)
1971年、H&Oは曲作りに悪戦苦闘していたが、Tommy Mottolaという神経質な22歳のマネージャに出会う。
Tommy「スタジオに入り、デモをして、僕は本当に彼らに情熱を感じたので、レコード会社というレコード会社には全て持っていったよ。」
1ヶ月もたたないうちに、TommyはAtlantic Recordsの契約を取ってきた(???)
J「アトランティックのレコーディング・スタジオに座って、自分達の歌を歌った。」
D「ああ、だめだ、これで終わりだ、全くしくじった。って思ってたら、ここにサインして、って言われたんだ。」
J「懐かしい光景だね、最初の契約にサイン、ダリルと僕は机に座らされて、巨大なペンでサインしたんだ。貴重なレコーディング契約だ。とうとう手にしたんだ。」
1972年11月、アトランティックからデビューアルバムWhole Oatsがリリースされた。しかし、大衆はその??できれいな音にはほとんど興味を示さなかった。
その後、更に2枚のアルバムがリリースされた。やはり成功とは言えなかった。まず1973年のAbandoned Luncheonette。それから、サイケデリックで音楽実験的な、War Babiesというタイトルのアルバム。
「当時H&Oはアイデンティティ・クライシス、自己の喪失をしていたのだと思う。彼らはいろいろ出来たから、フォーク、ロック、ソウル、何でも演れたけど、レコードにしたいのは一体何なんだ、と。」
H&Oが1975年、RCAに新しい居場所を見つけると、アトランティックは二人の契約を解除した。ヒット曲を作らなくては、というプレッシャーが、その時始まった。
ダリルは、彼が必要なインスピレーションを手に入れた。ジョンからSara Allenという女性を紹介された時だった。
D「彼女に会って、それは、他に選択の余地のないことだった」
Sara「私はルームメートと家に帰る途中でした。私は彼女に言いました。なんだか変な気持ちなんだけど、彼と深く関わるようになる気がするって。ただただ、そういう予感がしたの。」
J「二人は本当にそりが合っていて、まったく相性がよかった。ダリルはソウル・メートを見つけたんだと思う。」
数週間もたたぬうちに二人は恋に落ちた。ダリルはサラに対する思いを、曲に綴った。
D「僕は座って曲を作り始めた。こんな感じ。Sara♪…」
Sara「部屋に入ると、ほんとに驚いたわ。君に聞かせたい曲があるんだ、って。それがあの歌でした。」
Sara「当然のことながら、私は本当に感動しました。感情のこもったラブレター、そういう風に思いました。」
Sara Smileはシングルとしてリリースの予定はなかった。しかし、クリーブランドのラジオ局がB面のこの曲を見出し、番組でかけた。
「レコード盤をひっくり返し、B面をかけたんだ。そしたら電話がひっきりなしに掛かってきた」
D「オハイオから始まったんだけど、それから全国のR&Bのラジオ局に広がり始めた。」
Sara Smileは1996年7月、チャートを4位まで上った。でも、本当の意味で人々の興味をそそったのは、フランス人の有名メークアップアーチストのピエール・ルーシュ デザインによる、アルバムカバーだった。
J「彼はまったく情熱的なフランス人だった。彼は…彼の言った言葉、正確にはっきり覚えてるよ。I will immortalize you.君達を永遠のものにしよう。ほんとにそうなったよ」
D「おっと、これじゃあ僕が昔??したかった女の子みたいじゃないか。ハハハ…」
「このアルバムカバーが、あらゆる物議をかもし出した。みんな、二人はゲイだと思ったし、恋人同士で一緒に住んでて。ある意味では、とてもいいPRになったよ。」
H&Oは、この機を利用して以前のシングルを再リリースした。She’s Gone、チャート7位まで上がった。
そして6ヵ月後、H&O初のNo.1シングルとなる曲が登場した。
Top10ヒットが3曲続き、H&Oは金持ちの仲間入りをしようとしていた。
「100万ドル、今まで聞いた事もない額だ。信じられない」
D「76年型Sevilleを買ったよ。シルバー・ブラックの76年型Sevilleが欲しいんだ、それじゃなきゃだめだって言って買ったんだ。」
「本当の意味でのプレッシャーが始まったのは、まさにその時だった。どうしたら、トップでいつづけられるのか、これを続けるのにはどうしたら良いのか、次の段階に行くためにはどうすればいいんだ…」

次は、Big 80s. 一番気恥ずかしく、ばつの悪い時代。
「MTVの中でも最悪のビデオだ。あまりにひどくて今ではクラッシックだ。」
その後、ジョンはお金がなくなっていったことに気付く。
「コネチカットの家も、NYのマンションも、外車のコレクションも、飛行機も売り払った。1からの出直しだ」
(CM)

70年代の終わりまでには、一連のトップ10ヒットのおかげもあり初のミリオンセラーになった。1980年に次のアルバムVoicesの制作を始めたとき、ソングライティング・デュオはトリオになった。
D「彼女には能力があり、彼女には近いものを感じていた。それが彼女の全て」
ダリルの恋人であるSaraは、徐々にクリエーティブな部分でも不可欠な存在になっていった。
J「Saraは僕らと曲作りを始めた。ほとんどの曲を一緒に作った。彼女はいつでも僕らと一緒だった。」
Sara「子供がバイオリンの練習をしてるのを聞いているようなものね。何度も何度も繰り返して。いくら子供の事を愛していたって、疲れるでしょ。ダリルとジョンがガンガンとやかましく同じ箇所の演奏を続けるの。もう私は、もうそれでいいでしょう!って感じでした。」
J「で、僕らは、じゃあいいよ、わかったよ、って」
Sara「ああ、よかった、それでいいわね、って感じで始まったのよ」
Saraの妹のJannaがNYに顔を出すようになると、Jannaも参加するようになっていった。
J「Jannaはダリルにアイディアを出したがった。何か言ったり、タイトルをつけたり。」
Sara「間もなく、Jannaは自分で曲を作るようになりました。私たちも応援しました」
D「Kiss On My Listは僕がJannaと作った初めての曲だ。Jannaがコーラスの部分を作り、だからあの歌は本当にフィフティ・フィフティで作った曲だね。仕上げはいっしょにして、意図的に、できる限りシンプルな曲にしようとしたんだ。」

Sara「モニタで出来上がった曲を初めて聞いた時のJannaの興奮振りを今でも覚えているわ。ほんとに素晴らしかった。ただただ素晴らしかった。みんなで嬉くて笑って。」
Kiss On My Listは、数あるAllen姉妹の共同のヒット作品の中の最初の作品だった。1980年冬にシングルとしてリリースされ、すぐさまNo.1となった。
Voicesからはトップ10ヒットがあと2曲出た。そして300万枚以上のセールスとなった。
D「ほんとにヒットして、お金が入ってきて、世界の頂点に立ったような気分だった。本当に僕らの時代だった」

文化的革命の後押しもあり、彼らの人気はさらに高いところへ上ろうとしていた。
MTVがアメリカ人家庭のリビングルームに侵入して来たのは1981年8月1日。まさにH&Oが第一線で活躍していた時期だ。
「I want my MTV and he does, too」「Welcome to MTV!」
J 「もちろんさ、ビデオ作ってテレビで流して、それ見た人がみんなレコード買ってくれるんだろ、すごいや、是非やろう、って。」
「ダリルホール&ジョンオーツ、MTVの生放送です」
「H&O MTV One Night Stand トップ10 コンテストを発表します」
D「僕らは注意深くMTVとの関係を築いていった。何をしたらいいんだろう、どんなコンテストをしたらいいんだろう、どんなコマーシャルに出たらいいのか、とかいつもアイディアを考えていたよ。」
「MTVのゲストVJです。」「24時間ステレオ放送でお送りします」
D「喜劇のようなもんだ。僕はプレスリーの髪をして、ジョンは小柄で僕は大柄、ヘンな服を着て二人で跳ね回って…なりふり構わずがむしゃらにやったね」
ポップ・ビデオのキングになるにつれ、多くの音楽評論家の信頼が失われていった。
「経済的には幸運がもたらされたかもしれないが、創造性という点では悪運だ。というのは、彼らのビデオは安っぽく、あほらしかったので」
「見ればわかるけど、MTVの中でも最悪のビデオだよ。あまりにひどくて今ではクラッシックだ。私が今まで見た中でも、他の何よりばかげていて、ひどいビデオだ。」
J「Adult Educationのビデオが一番ひどかった。ほんとに最悪。イギリス人のディレクターだったんだけど、僕らを未来のNYのアンダーグラウンドで生きのびた連中の役をさせた。」
D「楽しければいいんだ、って思ってたんだ」
「MTVがお送りする、ダリルホール&ジョンオーツ!」

そして、世の中はお腹がいっぱいになってしまった。1980年から85年の間、H&Oは驚くべき12曲連続のヒット曲を放った。アルバム売上は1800万枚以上、ポップ・ミュージック史上最も成功したデュオとなった。
J「まったく、クレージーな日々だった。」
D「みんな僕らの音楽を聞き、みんな僕らの友だちになりたがった」
J「僕らは世界中を旅し、みんな僕らのレコードを買い、僕は飛行機を買って…」
だが、ヒット・マシンを走らせ続けなければならないプレシャーは大きくなるばかりだった。
特にダリルは、有名になることによって刑務所にいるような感覚になり始めていた。
「ダリルは有名人と一緒にいることを心地よく感じるタイプの人間ではない。彼にとっては、名声やスターの地位にいることは、どうでもいいことだった。」
D「僕らにはまったく、プライバシーが無くなった。個人的な生活を営むことさえ不可能になった。買物へも行けないし、家族にクリスマス・プレゼントすら買えない。公共の場へは出られなかったのだから。僕にとっては全く気が滅入ることだった。」
「彼が弱腰になる度に、私は彼をせかすようにしていた。私自身マニアックになって、一瞬たりとも止まらなかった」
J「時代の要求というものが本当に強烈で、日々の生活のための時間なんてなくなってしまっていた。」
1985年の夏には、二人はもう、全て来れる所まで来てしまったのではないかという疑念を持つようになった。
J「その5年間にヒットを続出し、We Are The Worldもやったし、Live Aidにも出演したばかり。まさに山の頂上に立ってしまって、そこからどこへいったらいいのか、わからなくなってしまったんだ。」

そして85年7月、H&Oは子供の頃からの彼らのヒーロー、Temptationsとともにハーレムのアポロ・シアターに出演した。このことにより、彼らが仕事上で抱いていた夢が、全て実現されたことになる。
D「あれが僕にとってどんな意味を持っていたかって、説明することは本当に難しいよ。僕とジョンの場合、子供の頃からずっと聞いてきたんだから。ただ言えることは、あれは僕の音楽人生の中でも一番、その後を決定付ける瞬間だったって事。」
Sara「ダリルはもう、本当に興奮していて、自分自身が自分の体から抜け出してしまっているような状態でした。」
J「あの瞬間だった。もう、これでいい、これでお終いにしよう。これで子供の頃からの空想がとうとう実現したのだから。やりたい事はすべてやった。人間として手に入り得る限りの成功という成功を、手にしてしまったのだから。それ以上、何があるというのだろう。」

その夜、ダリルとジョンは運命の決定を下した。トップから降りることを決めたのだ。
D「アポロシアターでプレイして、自分が円を一周してしまった事に気が付いた。もう、止めようと思った。H&Oをそこで止めようと」
J「別に言葉に出して話合ったわけじゃないんだ。お互いにただ直感してしまった。二人とも燃え尽きてしまった。もう終わりにしようって。とにかくもうやめにしようって。」

次は、「かわり行く季節の変化」にもがくH&O。
D「音楽は変わっていったし、人々の嗜好も変わる。それを良しとしてくれた人ばかりではなかったんだ。僕らは自然にそうしていった。」
そして、心が引き裂かれる、一つの診断結果。
Sara「彼女から電話があって、ちいさな声で、いい話じゃ無いんだけど…私白血病なのって。」
D「つらすぎて、言葉なんて出なかったよ。ただただ、僕はめちゃくちゃになってしまうばかりだった。」
(CM)

前例の無い、12曲もの連続トップ10ヒットを出した5年間の後、1985年夏、H&Oは音楽的パートナー関係を解消した。
D「その時代の幕を閉じたんだ。どっちへ行ったらいいのかわからなくなってしまったし、じゃあ、とにかくやめよう、って止めたんだ。そして別々な場所で、全く違うレベルのことを始めることにした。」
10年目にして初めて、H&Oは別々に、それぞれの関心事を追求していく事にした。
ジョンはビジネスを休止し、3年間静かな毎日を送った。
J「怠け者になってしまった。もうあんまり働きたくない。飛行機を操縦したり、台所で夕飯の支度をしたり、ワインを飲んだりしたかった。以前好きでよくやってた事で、しばらく出来ていなかった事を思い出し始めたんだ。」
一方ダリルは、ソロアルバム制作に取り掛かった。
D「僕はあの時初めて、ブランドネームを持たずにいることがどんなことかがわかった。ホール&オーツに対してダリルホール」
「ダリルは本とに必死だったし、興奮していた。で、出来あがったものはまあまあ悪くは無いが、素晴らしい成功をおさめるようなものではなかった。」
D「Dreamtimeという曲はNo.2になったんだ。爆発的ヒット、って感じではなかったのだけど、レコード会社は、ダリルホールではなく、H&Oを保持して行きたかったから、僕がもう戻って来れなくなるような、変な方向に走って行ってしまうんじゃないかと思ったみたいだ。」
3年の中断の後、ダリルとジョンは再び二人でレコーディングする為、戻っては来た。その時は、以前のような手応えは無い事に気が付いた。88年のOoh yeah!は、その前のアルバムの半分の売上に留まった。
J「二人とも多少は驚いたけど、現実的な事を考えると、ポップ・ミュージックの世界からあれだけ長い期間遠ざかっていたら、それ以前のレベルにまで戻らなくちゃいけない事もわかってたさ」
「H&Oは大きくなりすぎてヒットを出しすぎて、H&OがNo.1ヒットを出した、で、H&OがNo.8、それでもう彼らは終ってしまったかのように思われてしまった。」
次のアルバム、1990年のChange Of Seasonでは売上は更に落ち込んだ。10年間で初めて、プラチナ・アルバムにならなかったアルバムになってしまった。
D「音楽は変わっていったし、人々の嗜好も変わる。それを良しとしてくれた人ばかりではなかったんだ。僕らは自然にそうしていった。僕らは引き続き素晴らしい音楽を作り続けていたけど、1984年と同じようには進行しなかった。」

マネージャのTommy Mottolaが去る事になった時、H&Oは今までで最大の問題に直面する事になった。
Tommy「CBSレコードの社長に、っていう依頼があった。その依頼は私には断れるようなものではなかった。」
D「ジョンと僕は、本当に途方に暮れてしまった。Tommyはマネージャであり、友人であり、デュオの第3番目のメンバーだった。突然、僕らを導く存在がいなくなってしまった。」
J「本当に大変だった。いきなり、以前は僕らが考える必要の無かった責任を、いきなり僕らでやって行かなければならなくなった。それまでは、Tommyが全てやってくれて、僕らを守っていてくれたから。」
アルバムは2000万枚売れたのに、H&Oは持っていたはずのお金を、ほとんど使い尽くしてしまった事に気が付いた。銀行にも、ほとんど残っていなかった。
D「誰が金を盗んだんだ、とかいう話になったけど、そう言う事ではなかった。ショーをするのには金が掛かるし、ビジネスには資金がいる、数多いスタッフにも給料を払わなければならないし。オフィスの賃料もある。それが重なって、僕らが取るべき利潤が、蓄えて置くべき金額が、どんどん無くなって行く。」
同時期、ジョンは離婚をする事になっていき、それが経済的窮極をさらに悪化させた。
J「現金は全く少なくなった。経済的レベルは大幅に下がってしまった。会計士に会いに行って、一体どうするんだ、って言われた。もう終りだ、って答えたさ。全て売り払った。コネチカットの家も、NYのマンションも、外車のコレクションも、飛行機も売り払った。一からの出直しだ。」

ダリルとサラも、難しい時期を迎えていた。1991年の5月、サラの妹ジャナから痛ましい一本の電話が入った。H&Oのヒット曲に数多く、貢献してきたジャナ。
Sara「母の日の辺りだった。ジャナから電話があって、ちいさな声で、いい話じゃ無いんだけど…私白血病なのって。」
D「白血病っていったら、誰にでもわかるよね、それが僕らの過酷な2年間の始まりだった。」
ジャナは骨髄移植など様々な治療を試みた。しかし、ガンは治癒しなかった。1993年の夏、37才のジャナ・アレンは、もう助からないと告げられる。
D「ジャナはようやくMilbrookの家に戻ってきた。そこで終りを迎えたいと。そして、そこで亡くなった」
Sara「朝6時ごろ、ケア・ワーカーが私のところにやって来ました。いよいよだと思います、って。1階に降りました。本当に、本当に美しい日の出でした。朝日がベッドの彼女に降り注ぎました。その間ずっと、これからも私達はずっと一緒よ、って彼女に言い続けました。そのうちに、その時は来ました。」
D「世界の誰よりも大切に思い、愛していた人が、いなくなってしまった。つらいよ、ほんとに。今までで作った中でも最高の曲、彼女についてかいた、Someone Like Youっていう曲。」
♪♪♪Someone Like You♪♪

J「本当に胸が張り裂けるようだった。若くて、生き生きしていて、クリエーティブで、美しい女性だった。ダリル、そして周りの私たちみんなも、とてつもなくつらい状況に陥ってしまった。」
Sara「私自身、ベスト・フレンドを失ってしまいました。私自身、生きている理由がなくなってしまったように思いました。」
D「あんな事は、まったくどうやって経験していったらいいのかわならない事だった。決して立ち直る事など出来ないと思った。」

90年代の初め、H&Oは経済的窮極、そして親しい人間の死に直面した。
曲作りのパートナーだったジャナ・アレンの死後、ダリルはバハマの自宅で長い時間を過ごした。自己を見つめなおし、サラと二人で深い悲しみから立ち直ろうとし、二人の関係を修復しようとした場所だった。

D「ハッピーエンドではなかったよ。家族全体に大きな緊張が強いられるようになった。Saraも僕も、いまだに立ち直っていないと思うよ。僕らの一部になっていた人が、彼女は僕らの生活の一部だった。あの後、僕らはお互いを見ることさえしなくなってしまったよ。」
Sara「子供を亡くした夫婦なんかは、それによってさらに絆が強くなるか、逆に離れてしまうか。私達の場合は、どう考えても、どんどんお互いから遠ざかってしまいました。」

そして2001年の終り、二人はプライベートを尊重しようと言う事で、30年もの間続いた関係に終止符を打つ事を決意した。
Sara「一番辛いのは、ダリルは本当に、本当の意味で私を愛していてくれる事に気が付いてしまった事。これからもそうでしょう。でも悲しいのですが、もう一緒に暮らす力は二人には残っていないのです。
大きなスーパーや、ディスカウント・ストア、薬局とかにいて、いきなりSara Smileが掛かかるのです。もう、たまらなくなります。そこにはいられません。外に出ずにはいられないのです。自分ではもう、どうする事も出来ないのです。」

90年代の間ずっと、ダリルとジョンは二人の将来について考え続けていた。ジョンは西部コロラド州アスペンに移り住み、数年間は音楽界から遠ざかっていた。結婚し、家を建て、子供をもうけた。
J「生活をシンプルにしました。生活を完全に違うものにしました。必要でないもの、ロックスター関連のものは全て排除し、シンプルな生活にし、これが僕にとってのチャンスだ、今までと違う事をするチャンスだ、と思った。」
長年にわたり、H&Oがまた二人でレコーディングするのかはわからなかった。
D「あの時が、今までの中でも一番離れてた時だね。自分自身のルーツについて探り出そうとした。もう、レコーディングはしないかもしれなかった。ジョンは自信が無く、僕も正直言って不安定で、二人とも、押し流されてる感じだった。」
しかし5年の別離の後1996年、彼らはとうとう再結成し、Marigold Skyをレコーディングする。
そして、ファンにH&Oの音楽を再び運ぶ為、ツアーに出た。
「Marigold Skyでは、彼らは以前に戻ったのだと思う。伝統的な、ソウルフルな、壮大な」
「叙情的な曲が人間の内側の感情を呼び起こす。そしてサウンドがそれを外に出す。でも、聞いたとたんにやはり、H&Oだとわかる。」
J「まだ残っていたんだ。ノスタルジックとかそう言う事ではない。新しいアレンジで、確信を持って演奏する。」
D「観客は僕らの音楽に反応してくれる。今までよりさらに素晴らしいよ。」
そして2001年、新譜の為の曲製作の為、二人はスタジオに座っている。H&Oは一番最初に彼らに感情を吹き込んだ感覚を思い起こしていた。一緒に音楽をやっていくという事に対する、純粋な愛情。
「止めようなんてサインは全然見せない。素晴らしい事だ。二人はたとえようの無い友人同士で、信じられないミュージシャンだ。」
「もう、彼らの血の中に入り込んでいるんだ。自分達ではどうすることもできない事。二人ともだ。ステージに立ち、自分達の音楽を演奏するために生まれてきたんだ。」
J「まだ僕らの中には、H&Oの音楽がたくさん残っていると思う。クリエイティブな事もたくさん出来るよ。前に前に進み続ければ、飽きる事も無いよ。だから続ける

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