MEMBER LIST

第1期 (1980)
 森川邦子【Vo】臼井孝文【b】佐々木智昭【g】澤村昭夫【Ds】藤井良明【Key】

第2期 (1982)
 森川邦子【Vo】臼井孝文【b】白田一秀【g】澤村昭夫【Ds】

第3期 (1982)
 森川邦子【Vo】臼井孝文【b】白田一秀【g】福村高志【Ds】

第4期 (1983)
 森川邦子【Vo】臼井孝文【b】白田一秀【g】福村高志【Ds】佐々木智昭【g】

第5期 (1983)
 森川邦子【Vo】後藤明博【g】山本好一【g】福村高志【Ds】吉村 隆【b】

第6期 (1984)
 森川邦子【Vo】後藤明博【g】山本好一【g】福村高志【Ds】増本正志(COOL JOE)【b】

第7期 (1985)
 森川邦子【Vo】後藤明博【g】山本好一【g】福村高志【Ds】河内倫子【b】

第8期 (1986)
 森川邦子【Vo】後藤明博【g】山本好一【g】金山泰明【Ds】七条義則【b】 


RAJAS HISTORY

1980年森川邦子(セン)【Vo】と臼井孝文【b】を中心に結成された。
バンド名の『RAJAS』(ラジャス)は当時のメンバーの藤井良明【Key】(後のX-RAYのサポート)がサンスクリット語で「暴れん坊」の意味で命名したが後にそれは間違いだったという笑えるエピソードまであり、活動中はメンバーがインタビューで一番聞かれたくないのが「バンド名の意味は?」だった。当時は京都の磔磔、拾得、枚方ブロウダウンなどで活動し、音楽的には「BLACKSABATH」などを彷佛させるかなりドロドロしたハードロックだった。
その後、バンド内で音楽的に内紛が起きて藤井良明と佐々木智昭【g】が抜けて新たに白田一秀【g】(後にPRESENCE,GRANDSLAMに参加)が参加し4人編成で活動を再開する、1982年に入りその後ドラマーだった澤村昭夫が急遽脱退した為リーダーの臼井はドラマーを探し始める、その時臼井の友人だった
福村高志(ババチャン)【Ds】がX-RAYを辞めたところで早速コンタクトをとり新たに加入することになる。この時福村は「王将の冷麺で買収された。オマケにまずかった。」と語っている。この4人のメンバーで京都のBIGBANG、サーカス&サーカス等で活動を開始する。この頃からカルメンマキ&5Xのサポートを努めたり大阪のバハマに進出したり精力的な動きを行う。そこで第1期のメンバ−だった佐々木智昭【g】が再加入しツインギターの編成になったRAJASは初期の絶頂を迎え集客も京都で増えはじめ、大阪にも本格的に進出を始めるが突然リーダーの臼井が当時デビューが決定していたX-RAYに加入するために脱退。それに伴いテンションが保てなくなった白田、佐々木と相次いで脱退し、森川と福村の2人だけになり事実上活動休止状態になってしまう。この時臼井の「プロになるためにはこのバンドはまだまだ甘い!」の発言にセンは「このまま終われへん、こんなん悔しすぎる。ここから本当に一からはじめるんや!」とメンバ−探しを始める。就職との板挟みに悩んでいた福村も決意しメンバ−探しに明け暮れる。1983年に入り2人は京都で『LEVIN』というバンドにいた後藤明博(アックン)【g】に目をつける。バンドを根底から変えたかった2人は後藤の今までのRAJASには無かったPOPな作曲センスとギタープレイに自分達に未来を賭ける事にした。早速交渉に当ったがメンバ−もいない状況の中でかなり難航したが福村の「絶対にRAJASは京都で一番になれる!」という言葉に参加を決意する。そして後藤の友人だった山本好一(コ−イチ)【g】をパートナーとして連れてくる。そして福村の学生時代からのバンド仲間の吉村 隆【b】を加え遂にRAJAS第5期ラインナップが完成する。サウンドはHARDでありながらかなりPOPなものに変わり今までのバンドのイメージは一変し、活動も大阪を中心にバハマ、キャンディーホール等で活動し確実にファンを獲得していく!そんな中、チャンスが巡ってくる。44マグナム、マリノが行った東京新宿ロフトでの「関西ヘヴィメタル東京殴り込みギグ」の第2弾に参加しないか?という話がプロデューサーの大野祥之氏から舞い込む。即答でOKした5人は遂に憧れの東京新宿ロフトのステージに立つ。そこで今までの女性ボーカルのカテゴリーを叩き壊すようなセンのパフォーマンスはかなりのインパクトを与え、バンドはここから急加速しはじめる。地元関西では300人を超える集客を記録しこの頃、代表曲の「SHOCK!」「LIAR」などが生まれている。この年大阪城野音で行われた「JUNPING LIVE」に44マグナム、マリノ、プレゼンス等と共に参加し2000人以上集まった観衆を熱狂させ人気を決定的なものにする。そして同年83年暮れSMS RECORDより発売が決定したオムニバスアルバム『BATLLE OF METAL』に参加が決定する。順風満帆に見えたこの時またもベーシストの吉村が抜けてしまう。しかしギターのコ−イチと大学で同級生で『LIAR』にいた増本正志(CRAZY COOL JOE)【b】(後にDEAD ENDを結成)が参加してレコーディングを開始、1984年『BATTLE OF METAL』がリリースされる。それと同じくしてリリース記念ツアーをマリノと共に行い関西ヘヴィメタルの第2世代の地位を確立していく。そしてその春あの伝説的なイベント『GRAND METAL』に参加しそのパフォーマンスで圧倒的な観客の支持を受け、遂にSMS RECORDからデビューが決定し、同年6月にファーストミニアルバム『RAJAS』をリリースする。「諦めなかったから」と当時センは淡々と話した、唯一のオリジナルメンバ−として試行錯誤の末掴んだ勲章だったに違いない。初の全国ツアーも成功し、1985年に入りそろそろ次の展開をという時にまたもやベーシストのCOOL JOEが音楽性の相違から脱退してしまう。このバンドの窮地を救ったのが、「GANGLAND」というレディースバンドにいた河内倫子(ノンコ)【b】だった、彼女の加入により女性2人男性3人という当時珍しい編成になったRAJASは同年6月、2ndフルレングスアルバム『TURN IT UP』を発表。この作品はヘヴィメタルファンのみならず一般リスナーにも訴えかける新しい感覚のPOPなハードロックの楽曲が並びセールス的にもかなりの好成績を記録し、アルバムからのシングルカットされた『LIAR』もヒットを記録する。全国ツアーでは集客的にも大成功を収め各会場はソールドアウトを連発、センとノンコの2人の女性を前面に押し出したパフォーマンスもファン層を大きく広げていく。そしてその秋、日比谷野音で行われた『JAPAN HEAVY METAL FESTIVAL』に参加、新生RAJASの素晴らしいパフォーマンスを披露した。同年11月この日比谷野音のライブ音源3曲とスタジオ録音2曲を合わせたミニアルバム『PLAY THE GAME』をリリースした。しかし同時にリズム隊の河内倫子と福村高志がマネージメントと音楽性の相違により脱退してしまう。再び窮地に立ったRAJASは1986年、新しいメンバ−に七条義則【b】、金山泰明【Ds】を加え全国ツアーを行いバンドの立て直しを計る。しかしレコード会社との契約も切れてしまい、デモテープ『WHAT'S』を発表するもテンションを保つ事は難しくハードロックシーンが下降していくと同時に解散に追い込まれてしまう。

RAJASというバンドは常にメンバ−交代劇と共に歩んできた、当時のシーンの影響もありメンバ−間のサウンドに対する試行錯誤、ジレンマがそのままメンバ−チェンジへと移行していく、それがバンドを押し上げたり停滞させたりしてきた。「今になって聴いてみるといろいろとその時々のバンドの意志みたいなものが伝わってきて面白い。」とメンバ−は話す。解散から15年を経て2002年8月8日川崎クラブチッタで行われた『2nd HARD ROCK SUMMIT IN CITTA』で全盛期のメンバ−(森川邦子、後藤明博、山本好一、河内倫子、福村高志)でRAJASは復活した、懐かしいサウンドに会場に詰めかけた観衆は狂喜した。メンバ−にとっても最高にエキサイティングな1日でセンは「幸せです。」を連呼していた、「今から昔に時間を戻す事は出来ひんけど、やり残した事もあるんで、、、実は当時次のアルバムの準備の最中に辞めてしもたからいつか出せたらええなーと思ってます、それで出来たら改めて解散ライブもやりたいなー」と福村は語った。その言葉どうり2002年10月に彼等は都内のスタジオに集結した、信じられない事にニューアルバムのレコーディングを開始したのだ。もちろん個々に仕事をもっているためとんでもないスピードで作業は行われた、そして同年12月に6曲入りのミニアルバム『遊行〜YOUGYOU〜』をリリースした。この作品は当時のシーンを意識して作られ、メンバーもRAJAS至上最高傑作と自画自賛する出来で、業界的にもかなり高い評価をうける。それに伴い2003年1月に大阪ON AIR OSAKA、東京FABでワンマンツアーが行われRAJASファンにとっては最高のお年玉になった。メンバーも久々の楽曲に本当に懐かしむと同時に本当の意味で“遊び”を満喫していた。このライブの模様がDVDとして発売される事も決定した。センの口癖の「人生は遊びやから、何をするのも遊び」ここからついたアルバムタイトルのように彼等の『遊行』はこれからも続いていくだろう。

                                   Text by Ychan