2002年、ジミー竹内は72歳になる。
「俺たちのホームページ・パート2」がお贈りする、日本ジャズ界の巨匠・ジミー竹内の賛歌。




ジミー竹内といふドラマー

あの頃、といっても私がはじめてジミーで出会ったのは20年以上も前のことだ。
予備校をサボり、新宿の新都心をふらふら歩いていた時に「ジミー竹内のドラム教室」という張り紙が目にとまった。
今はもう無くなってしまったが、山水(サンスイ)ショールームだった。
そこは、長岡鉄男だったけ(正確には覚えていない)や、オーディオの権威といわれる方々が時々講演会をやっていた場所でもある。
当時、ちょっとしたオーディオブームだった。
山水ショールームには、自社のスピーカーのほかにJBLやパラゴン、タンノイなどの海外のメーカーがずらりと並び試聴できるので、マニアにとっては聖地のような感じだった。
私も時々顔を出していた。
その日、私は悪い仲間と一緒だった。
とにかく勉強が嫌いで、東京の下宿に住みだしたのも家を離れて遊びたいからで、その友人はまさにそんな仲間だった。


恋のバカンス

恋のフーガ
インターネットの検索で仕入れた情報によると、かの有名なザ・ピーナッツは、ジミー竹内が発掘し、そして渡辺社長(なべプロ・渡辺美佐子)に紹介したとある。
左の写真はザ・ピーナッツのシングルレコードのジャケット。
当時、日本国中で知らない人間がいないくらい大ヒットした。
ジミーはその他にも自分のバンドの中や、新人を見つけては日本の歌謡界やジャズ界に多くの人材を輩出した。

暇だったし、ジャズは好きだったし、まあ時間潰しにちょっと覗いてみるくらいのつもりで二人で中に入った。ちょうど開演時刻の少し前だったので、タイミングは良かったものの、超満員で、我々は立ち見だった。約5分待ったか、そのジミー竹内が出てきた。遠目にはやや小柄で恰幅が良いおじさんという印象。実は顔立ちは怖い。しかし、どことなく親近感がある。そう、テレビで何度か見ていたからなのだ。

当時、JAZZ界では、クロスオーバーというジャンルが出てきて、熟年層のジャズマンはどちらかというと、ショーマン的な地位に追いやられていた。マイルスデイビスがトランペットにピックアップを付けて、クロスオーバーな演奏をやって賛否があったのがそこから遡ること約5年くらいか。山下洋輔に代表されるフリージャズも同時に若者に支持されていた。

ジミー竹内の演るジャズはスウィングなのだ。テレビでもラジオでもスウィングなんてなかなか聴くことが出来なかった。唯一、NHKのFMの深夜番組で毎週スウィングっぽいJAZZの番組があったと記憶している。確か司会はイソノテルオ。FM東京にはアスペクトインジャズという番組があった。渋い解説の油井正一の声が印象的だった。片岡義男と安田南の番組でもスウィングがかかったかもしれない。しかし、いずれにしてもスウィングは、特にスタンダードナンバーは主要なメディアから遠ざかっていたのだ。

ところが、何故ジミーの顔をしっかりと覚えていたかという結論は、そこから数年後に判明した。11PMだ。当時、金曜イレブンは大人の世界への道案内的な番組で、高校時代からきちんとチェックしていた。司会は大橋巨泉。さすがジャズ評論家らしく、バックの至る所にジャズが流れる。しかも、生演奏だ。番組のラストの辺りで、演奏しているバンドが映る。短いがソロタイム。お、なんとカメラに向かって微笑むジミーがそこにいた。

「Drum Drum Drum!」など、多数のレコードを出していた全盛期のジミー。(写真左)
日本のジャズドラマーの代表として海外の多くのアーティストと競演。もちろん、日本のトップアーティストなどと一緒に多くのコンサートやショーに出演した、写真奥は、ピアニストのテディ・ウィルソン。


ジミーはドラムセットの置いてある中央まで来て、挨拶もそこそこに立ったまま解説をする。凄いべらんめえ調だ。なにか文句を言っている。仕事が嫌でたまらないような感じにも見える。しかし、演出かどうか分からないが、共感を覚える。ふてくされているような喋りと時々織り込むあまり品の無いギャグが結構ウケていた。

そう、これも後で分かったことだが、人生幸路だったけ、関西のぼやき漫才のようにジミーはいつもMCで文句ばっかり言う。あるいは、円生の落語のように、「馬鹿言ってんじゃないよ。ったく。えっ。」みたいな雰囲気だ。これらは決して客を不愉快にしているわけではなく、むしろ共感を呼ぶ。下町のジャズドラマーのジミーならではの語りなのだ。

ひととおり解説というか前説を終えたジミーがドラムを叩き始めた。力強いドラムソロ。会場にいた満員の客はやんやの歓声。しかし、急にブレイク。高々とスティックを上げてニヤリと笑う。憎い演出だ。そしてマイクを取ると、「手数では僕が日本一。皆さん、ジョージ川口なんて、だめよ。」と言う。会場は馬鹿ウケ。

確かにジミーのドラムソロは凄かった。野獣に取り憑かれたのではないかというくらいに鬼気迫るものがある。ダブルペダルのバスドラを踏みながら、全てのタムとシンバルが強烈に鳴る。私と友人は思わず息を呑む。凄い。凄い。これがスウィング、つまり我々にとってスウィングという上品でおとなしいジャズであったドラマーが叩くものなのか。メディアから遠ざかったとはいえ、熟年のドラマーを見る目が変わった。後に、この時一緒にいた友人はジミーの影響を受け、ドラマーになった。

ドラムソロが終わった後で、肩で息をしながらジミーは一言、「疲れた。これやると、疲れてしまうんで、もう何もする気がしない。」とかったるそうに顔をしかめる。と、言いながらもドラム教室の続きに入る。ブラシを取り出し、ブラッシングの解説。「いいですか、僕は日本一ブラシがうまいんです。」
会場からどっと笑いがおこる。しかし、見事な手さばきは嘘ではなかった。

次に、ロールの解説。まず、汽車が発車するように、しゅっ、しゅっ、しゅ・・・。スネアをゆっくり交互に叩く。そして段々速く叩く。最後はロール。次は、左右を2回ずつ叩く。しゅしゅ、しゅしゅ、しゅしゅ、しゅしゅ。そしてロール。今度は、3回ずつ。このあたりから難しくなるよ。しゅしゅしゅ、しゅしゅしゅ、しゅしゅしゅ・・・たかたかたかたかたかたか・・・。めちゃくちゃ速くなる。なるほど、ロールっていうのはそんな感じでやるのか。ドラムに関してそれほど予備知識の無い私でも分かり易い解説だった。

最後に交互に4回ずつ叩いてみるよ。これは難しい。これをうまく叩けるのは僕くらいなもん。おっと、日本ではもう一人、まだ若いけど、奥平慎吾。知ってる?まだ若い。天才ドラマーと世界から注目されている。あれも、僕の弟子だったんだけど、まあ、こっちはこうやって、こんなところで、こんなことしてる。奴は世界へ羽ばたいていったからね。凄いね、どうも。片やわけのわかんない客を相手にしてドラム教室だってえから嫌になる。大拍手が巻き起こる。

ドラムってえのはうるさいって感じがするでしょ?確かに下手な奴が叩くとうるさい。ジョージ川口なんて、駄目だね。あいつの叩き方はうるさい。僕のは静か。本当だよ。静かに鳴らなきゃだめなんだ。小さい音で静かに音を出すってえのは案外難しい。リズムが狂うからね。僕のドラムは日本一静か。

なにがなんだか分からないうちに「ジミー竹内」のドラム教室が終わった。会場の外に出た我々は、ドラムの面白さと、ジミーの自慢話と、あの強面の印象をしっかりと焼き付け新宿西口から帰路についた。まさか、あの二十年以上も前のことがきっかけで私がジミーと親交を重ねるとは夢にも思っていなかった。
あれから10年経って世の中がバブル経済の真っ盛りになった。バブルとは言え、実際に景気が良かった。仕事もたくさんあったし、青山、赤坂界隈では外車に乗った横文字関係の若い社長が溢れ返っていた。私の仕事もそういった横文字を手玉に取り、夜な夜な接待をして仕事を貰うといった関係だった。高級とまでもゆかないが、ビジネスの場は、料亭だったり、ホテルのラウンジだったり。

ある時、客の接待で浅草ビューホテルを使った。商談はすんなり終わり、早い時刻だったので、1階のレストランを出て最上階のラウンジで少し休んでゆくことにした。すると、入り口でスィングジャズの音色が聞こえてきた。小さな張り紙には、「世良譲トリオ」と書いてあり、ドラムはジミー竹内となっていた。

私はわくわくした。あのジミーだ。まさしくジミー竹内なのだ。懐かしい10年前のことが昨日のように思えた。

ボーイが私をほぼ中央の席へ案内してくれた。広いホテルのラウンジなので、ステージからはかなり遠い。ミュージックフェアなどでテレビでもお馴染みの世良譲がピアノを弾いている。そしてドラムのジミー竹内。ジミーもまた伊藤ゆかりや柴田はつみのバックでドラムを叩いている姿をテレビで何度か見かけた。そうあの日があったので、何気なくテレビを観ていてもジミーを発見する機会が多くなったのだ。でも、脇役。ロカビリーブームの時なんて、僕はモテて、モテてしょうがなかったよ。こういう話は後で何回も聞かされた。

世良譲トリオ。心地よいピアノの世良が右手のグランドピアノ。中央にジミー竹内。左に芸術肌のベースの伊藤潮。私は、水割りを注文し、ずっとジミーのドラムを見ていた。いつか聴いた時のような激しいプレイを演ってくれないかと期待していた。しかし、ほとんどフォービート。こういうホテルじゃ派手なやつはやらないのだな。場内はスーツを着た年配の人間が多かった。こんなところで、派手なドラムをやったら客が逃げるに違いない。窓の外には浅草から山の手のほうにかけての夜景が素晴らしかった。

ところが、テイクファイブが始まった。サックスが欲しい曲なのだが、メロディーラインは世羅のピアノ。そして、ドラムのソロが始まるとそこらじゅうの客が会話をやめ、ステージに釘付けになる。客も心得ていたのだ。そう、ジミーの得意なソロが聴けるのがテイクファイブ。出た。野獣のような怒り狂ったような凄いドラムが。あの10年前の記憶が蘇ってきた。私は興奮した。思わず叫んだ。

ステージを終え、ジミーがグラスを手にし、場内を歩きまわっていた。ラウンジには常連と思われる客が大勢いるようで、ジミーが挨拶をしながら各テーブルを回っているようだった。私はその時、意を決した。そうだ、ジミーにあの10年前のことを話そう。30歳の若造が急に話かけて大丈夫なのだろうか、という不安も多分にあったが、私はすっと立ち上がり、ジミーが一人でいる瞬間を見計らって近づいていた。

「すみません。前からファンだったんです。」私は、ありきたりの言葉しか出ないことに恥ずかしさを覚えた。ジミーは、振り向き、あ、そう、ってな具合にそれほど気にも止めていないようだった。「あ、そうだ、こっちに来なさい。僕の応援団を紹介するよ。」ジミーは私を大勢の客が座っているボックス席に連れてゆき、私を座らせた。

その席にいたジミーの親衛隊長と名乗るY氏が私にヘネシーらしきボトルを和服の女性に命じ、一杯作ってくれた。かなり羽振りが良さそうだった。また、周囲を見渡せば、誰もが社長クラスの雰囲気を兼ね備えた紳士だった。私は明らかに場違いな感じを覚えた。しかし、Y氏は気さくにジャズのこと、特に輝かしいジミー竹内のことを語り始めた。

彼はジミー竹内が15歳で米軍キャンプでドラムを叩き、20歳で日劇ウエスタンカーニバルのステージに立ち、というようなことをまるで宣教師のようにぺらぺらと喋り始めた。いつの間にか会場を一回りしたジミーもやって来て、「そうそう、戦後まもなくジャズがブームになったといっても、まだまだ鬼畜米英と庶民は思ってたからジャズやってるなんて言うと非国民扱いだった。」と言った。そう、そんな時代からずっとドラムを叩いていたんだ。常に日本のドラマーの最高峰だった。と、Y氏は続ける。

それから数年、ジミーの親衛隊の仲間入りを果たした私は、六本木あたりのジャズクラブにジミーが出ると聞くと、ほとんど欠席せず通っていた。ただ、新宿のピットインなどと違い、ギャラの関係もあるのだろうが、ジミーの出演するステージは高級で、独身の私でもちょっとこたえていた。以降、数年間でバブルが崩壊し、日本経済は冬の時代を迎える。

それでも私はジミーのステージには通い、ジミーのドラムにますます魅せられてゆく。プライベートのジミーも段々分かってくる。車が好きで、しょっちゅう外車を買い換えていることや、カメラ狂いでライカのコレクションがあること。家では良き好々爺であること。弟子には物凄く厳しく、そして優しい先生であることなど。また、ジミーのファン同士の付き合いも増えてゆく。

1990年冬。習志野市大久保の商店街にあるブラックセイントというジャズハウスでライブを行ったときのジミー竹内。トランペットはタンバリンも得意な神村英男。

90年は60歳。この年、品川のホテルで伊藤ゆかり、柴田はつみ、永六輔など著名人が招かれ盛大な還暦パーティーがあった。盟友・原信夫もお祝いに駆けつける。かつてアスペクト・イン・ジャズ(FM東京)の司会や、数々の著書を残している油井正一も祝辞を述べていた。

もちろん、世良譲トリオとしてもジミーは素晴らしい演奏を披露してくれた。


この写真は大きく引き伸ばして、現在ジミーの家に保存されている。当時、私は滅多にライブ会場にカメラを持参することはなかったので、私にとっても貴重な1枚。

60歳といっても若々しいジミー。まさか69歳で脳梗塞になってしまうなんて誰もが思わなかった。一番驚いているのは本人だろう。
左の写真はやはりブラックセイントでの「ジミー竹内とヒズ・フレンズ」のライブ。ピアノは栗本修。そう栗本は、1980年代の後半から90年代の前半にかけて一緒に仕事をしていた。栗本は当時と今のルックスがまったく変わっていない。音楽家は歳を取らないのか?

ジミーは、世良譲と話が合わなくなっていったようだ。音楽性というよりも性格的な相違が世良と決別した理由かもしれない。いや、当時の伊藤潮がいわゆるオヤジ好みのスゥイングでは飽き足らなくなったのかもれない。いつの間にか、世良譲トリオは無くなった。もちろん、人気のある世良は、別のメンバーと世良譲トリオを組んだ。伊藤も、自分の好きな音楽を求め、色々なアーティストと共演した。

ところが、ジミーは次第にライブハウスから姿を消してゆく。ライブの誘いが少なくなった。地方のホテルでのディナーショーで北村英治や、しばたはつみ、弘田みえこらとの公演は多かったようだが。

私も次第に夜のジャズライブの世界から少しずつ遠ざかってゆく自分を感じていた。

ジミーとは、いつしか年賀状で挨拶をする程度の付き合いになってしまった。それでも、年に数回大きなイベントがあれば、必ず顔を出した。両国の大江戸博物館の記念行事など、大きな会場で多くの観客を呼ぶステージは逆に多くなったかもしれない。再び10年が経とうとしていた。日本の経済は一向に良くなるどころか、いつ快方に向かうのか分からない世紀末だった。

ある時、弱々しいジミー竹内からの電話があった。1999年の初冬のことだ。「いやぁ、まいったよ。体がしびれて。ドラムも叩けない。」声の様子から相当弱っている感じだ。べらんめえで豪放ないつものトークとはまるっきり違っていた。私は何が起こったのか想像もつかなかった。「脳梗塞で、手術したんだ。駄目だね。もう。叩けないよ。」電話の向こうの声は悲しげだった。

そういえば、その頃1年はご無沙汰していた。私の仕事が忙しかったのもあるし、前年私の父親が他界したのもあった。時々やり取りしていた電話もこの時期には無かった。ジミーは療養していたのだ。私は愕然とした。あのジミーのドラムがもう聴けないのか。それは私ばかりではない。多くのジミーファンも同様だった。脳梗塞で倒れたのは一瞬のことだったらしい。しかしそれが、ジミーの天才的なドラム人生に終止符を打ってしまったのだった。

2000年1月。ジミーの家で新年会が行われた。私は妻と行った。赤羽のジミーの家は高台の静かな住宅街にある。大勢のファンが集まり、ジミーの登場を待った。年末会えなかったので、ジミーが病気の後で会うのは初めてだった。ジミーの奥さんと娘さんがやっているバレエ教室のスタジオにはドラムセットが置かれていた。ジミーが長年愛用している銀色のそれだ。このドラムを叩くという。果たして大丈夫なのか。

入り口からジミーが入ってきた。私は驚きを通り越していた。違う。顔が違うのだ。あのふっくらして強面のジミーの顔が痩せこけて、しかも左右の目の大きさも違うくらいに歪んでいる。「頭の中の血栓を除去する為に頭の骨を切って、こういう具合にぱかっと外したんだけど、またくっつけた時にズレちゃったみたいで。ははは。」ジミーは力無く言う。ようやく歩いているという足取り。私は、涙が出そうになった。

数人の介添えで、ジミーがドラムを叩く位置に腰掛けた。見ているのも痛々しい。まさか、これでドラムを叩くことが出来るのか。

(続く)



尚、本文は、思いついたことを適当に文章にしているだけの作業なので、誤字脱字、表現力のクレームは一切言っちゃいかんよ。しかも、本人も読み返してない。(笑)
ここまで駄文に付き合ってくださった貴方に感謝します。
2002年1月29日 著者

続きは、気が向いたときに適当に書きます。


なんと、続きがもう出来てしまいました。(武蔵野線の電車の中で書きました。)
しかし、写真等がまだ未完成です。
仮として、気が向いたらお読みください。例によって、誤字脱字、表現力の欠落についてはご容赦ください。
2002年2月1日 著者




>>> とりあえず、続き

(ジミーが再び輝いている・その2)



しばざ記・INDEX01  しばざ記・トップページ   Oretachi's HomePage Part2 Makuhari Baytown