毎度のことながら、くだらない話題ですが・・・
東北沢・呑んべい横丁

東北沢は下北沢のひとつ新宿寄りの小田急線の駅だ。
これといって特徴の無い駅であるが、下北沢の庶民的な雰囲気よりも、更に新宿寄りの代々木上原に近い高級住宅地の雰囲気がある。
もっとも、下北沢だって駅周辺の賑わいを抜け、ちょっと歩くと、立派な庭付きの豪邸などが立ち並んでいて、必ずしも街全体が庶民的とは言い難い。
世田谷は全般的にそういう傾向がある。だが、東北沢は渋谷区にも隣接していて、よりアーバンな香りが漂っている。

私がこの近辺に住むきっかけになったのは、この街にかつて仲間が住んでおり、中央線沿いの安アパートからちょくちょく遊びに行っていたこともある。それに加えて、その頃、演劇や音楽を目指す若者がこの街に多かった。二十代前半の私も何か文化的な空気を求めていたのだ。だから中途半端な気持ちで下北沢の郊外に住み着いてしまった。住所は北沢4丁目。下北沢が一般に通りやすいので、そうしたいところだが、東北沢が最寄りの駅だ。

下北沢にはたくさんの飲み屋があった。今から二十年前くらいには、ロックやジャズを聴かせる店、ライブハウスや、小劇場などがあった。狭い商店街にはアメリカの古着や雑貨を売る店があり、他の街では買えないものも多かった。そんな店で働いているK子は、私の住んでいたアパートのすぐ下の路地に面したところが自宅だった。痩せ過ぎていて、スタイルが良いとは言えないし、さほど美人ではなかったが、先進的な考えを持った魅力のあるお姉さんだった。証券会社に1年勤めて、会社勤めが好きじゃないことに気づき、古着屋の店員になったとか。ルックスを見る限りでは、とても証券会社にいたとは思えないほどラフであった。

下北沢にずっと住んでいる劇団員のUさんは、深夜に下北沢のカウンターバーのような店でバイトしていた。客の少ないときは、カラオケ用のPAにエレキギターを繋いで、適当なコードで唄っていたが、これがまた凄かった。一度として同じ曲は唄えないインスピレーションの即興ブルースで、チャーに似たルックスと声(おそらくチャーに憧れていたのだろうが)でシャウトする。音楽の道に行けばいいのにと私は何度も思っていた。当時、二十代前半の私にはかっこいい兄貴というイメージだった。

いつも深夜2時に帰宅するSさんはあの当時35歳くらいだったか。太っているし、人相も悪いので、ヤクザかプロレスラーかと思っていたら、キャバレーのバンドでベースを弾いているらしい。あとで分かったことでは、独身こども1人。つまり女房に逃げられ、アパートに一人住まいなのだ。こどもは実家に預けていて、週末から日曜にかけて会いにゆくらしい。不思議な雰囲気の人で、私の行きつけだった近所の居酒屋の片隅で静かに飲んでいる。Sさんも私のすぐ近くに住んでいた。

証券会社のK子も、劇団員のUも、ベースギタリストのSも、そして社会人1年目の私も、その居酒屋の常連だった。あんまりぱっとした店ではないのだが、なぜか様々な人種がその店に集まった。

まだ30歳そこそこのスポーツマンで好青年というタイプの某大学のA助教授がいた。あの頃は風呂付きのアパートなんて一般的じゃなかったので、彼も私と同じ風呂屋に通っていた。私も大柄だが、彼は更に大柄なので、お互いに相手をすぐに見つけた。行きつけの居酒屋の常連同士が洗い場に並んで話をするなどという経験は貴重だ。Aはいつも肝心なところで女に逃げられるといつも嘆いていた。

四十代で独身のEさんは、どこかの有名商社に勤務していると言っていた。どう見てもくたびれた単なるサラリーマン。ちょっと真面目な感じもするが、精悍な雰囲気は微塵もない。毎日1本のビールと1品の肴を注文し、長い時間周囲の話を聞いてから家に帰るというパターンだった。店の売上にはあまり貢献しないが、どんなに天気が悪くて他の客がまったくいない時にもしっかり現れて長時間店で過ごすのだ。

九州男児のHさん。男らしくて、かっこいい。ナナハンに乗っていた。黒い皮のツナギが似合っていた。一度だけツーリングにご一緒させて頂いた。政治家の秘書をやっているという。馴染みの居酒屋で恋人を見つけ、そして九州にバイクでタンデム。そのまま九州に行ってしまった。

今から考えると、二十代の前半だった私は年上の女性に憧れていた。しーちゃんと呼ばれるその女性は当時三十半ばか後半という年齢だったと思う。ちょっとめくれあがった厚目の真っ赤な唇と、もの憂げな目が印象的だった。素性はあまりよく知らない。午前2時頃現れ、朝方まで飲んでゆく。周囲の話に耳を傾け、静かに笑う。落ち着いた雰囲気でありながら哀愁のある色気も漂っていた。

I君。ロックンロールとバイクが好きで給料の殆どをバイクの部品に注ぎ込んでいた。秋田県から単身上京して美術関係の専門学校お出て就職したばかり。大きくパーマを当てたナチュラルなリーゼントだった。彼と私は偶然にも職場が同じだった。従って、その居酒屋にはどちらかが誘うというパターンだった。

渡辺徹。俳優の卵だった。日活の養成所に通っているとか、成城の撮影所に通っていると言っていたような気がする。「太陽にほえろ」に出ていて有名らしい。その頃私は「太陽にほえろ」は観なくなっていたので分からない。マカロニとGパンの頃で卒業してしまったのだ。

そんな顔ぶれが常連の店。店の名前は「樽っ娘」いう。私の住むアパートからは歩いて5分くらいの近所にあった。マスターは小川さん。なんの変哲もない四十おやじ。奥さんが異常に若く、確か私と同年代だから旦那との年齢差は実に二十歳も離れていることになる。我々が常連だった頃、奥さんのお腹は大きかった。けれど臨月になっても働いていた。

私の仕事はハードだった。帰りが遅い。でも若かったから夜の10時過ぎにでも飲みに出た。酒が恋しいというよりも、常連で騒ぐのが好きだったような気がする。いや、誰もいなくても飲んでいたから、やはり酒が好きだったのかもしれない。深夜11時の風呂屋の営業時刻ぎりぎりで慌てて湯につかり、それから風呂桶を持ったまま「樽っ娘」に行って朝まで飲み、そのまま会社に行ったことも何度かある。その店には殆ど毎日のように行った。

「樽っ娘」はL字のカウンターだけの狭い店だった。茶沢通り沿いにへばりつくような感じで建つ木造アパートの1階。細い路地の側に入り口があり、客は茶沢通りに向かうように座る。生ビールと焼き鳥、イカ納豆、塩辛、もつの煮込みを私は決まって注文していた。小川さんは鹿児島の出身なので、名物のきびなごという小さな魚の刺身などを食べさせてくれた。魚料理が全般にうまい店だった。

小川さんは、大手のタイヤメーカーB社の社員食堂に勤務していた。居酒屋を始めるきっかけとなったのが宝くじに当たったそうで、非常にラッキーだったと本人は言う。いったいいくらの当選金なのかは分からないが、高額には違いない。でも、心臓麻痺で死んでしてしまうほど凄い金額ではなさそうだ。

私が東北沢に引っ越した当時、食事する店が少ないことに気づいた。駅近くには食堂が2つくらい、それと居酒屋がひとつ。私が通う風呂屋の脇に小さい食堂がひとつ。そんな折り「樽っ娘」が出来て、たまたま夕食がてらに飲みに行ったらそのまま常連になってしまった。近いせいもあるが、なにより小川さんの客商売のうまさにあった。

小川さんは初めての客とわざとらしくなく、すんなり世間話をする感じで親しくなるのが特技である。無口そうな客でもいつのまにか喋っているといった感じか。相手の性格を読む速さと、適宜な話を振る能力が優れているのだ。2度目の客は既に常連扱いである。しかも、どんどんビールや酒を飲ませた。また、常連の皆に気に入ってもらえるような取り成しもうまかった。小川さんが熱心に仲間にしようという魂胆に我々もうまくハメられていた。

それにしても「樽っ娘」というのはどうも好きなネーミングではない。字面からは物凄く太った娘を想像してしまう。もうちょっと渋い名前に代えるべきだと何度か話したことがある。しかし、小川さんは頑なに拒む。「樽っ娘」の名前にはには相当なな思いがあるのだろう。どうしてその名前にしたのか、一度聞いたことがあった。だが、忘れてしまった。

「樽っ娘」は色々なお客さんがやってきたが、サラリーマンは少ないほうだった。私は遅い時刻から行くので、どちらかといえば、店内には水商売系のお客さんが多かった。また、フラメンコ教室の先生と生徒さんが出入りするようになり、いつしか狭いスペースながらフラメンコのショーがほぼ定期に上演されるようになる。ほかにも様々なイベントが開催された。私はたいていのイベントには出席していた。今思うと、プライベートの全てが「樽っ娘」で満たされていたのではないか。

日曜日には店の主催でボーリング大会もあったし、小川さん一家とは泊まり掛けで海にも行った。日常の殆どが「樽っ娘」とともにあった。夏の暑い夜、冬の寒い夜などはアパートの部屋にいるより長い間いた。だから、給料の殆どは「樽っ娘」に注ぎ込んでいた。酒の量も段々ハンパではなくなってきた。「樽っ娘」の常連とは都心の別な店で落合い、十分飲んでから最後に「樽っ娘」に辿り着き、殆ど飲めなくなっているのに、更に小川さんの話術に引っ掛かって無理矢理飲んでいることも多かった。

私のアパートは遠方から「樽っ娘」に飲みに来る仲間の宿に変化していった。私の友人も東北沢に来たおりは、必ず「樽っ娘」に行くのが常になった。普段鍵をかけたことがなかったので、私がいない時でも平気で部屋に入り込み、仕事の遅くなった私の寝場所が無くなっていたこともしばしばあった。あるいは、仕事で面白くないことがあった日には、既に「樽っ娘」で十分酔っ払った仲間を叩き起こして朝まで飲んだこともある。

小川さんは我々のペースに合わせて営業してくれた。暇な時は午前4時くらいで店じまいをするのだが、朝の8時でもいたけりゃずっと営業してくれた。常連の中にはカウンターの奥で寝てしまい、ママに毛布を掛けてもらい翌朝そのまま会社に行く者もいた。小川さんも客と一緒に飲むので、時には酷く酔い、先に帰ってしまうこともあった。そういう時は、常連の誰かがカウンターに入り、簡単な料理も含めて、そこそこ切り盛りも出来るようになった。私もビール運びくらいはやるようになった。

月日が経ってゆくと常連の顔触れも代わっていった。「樽っ娘」の常連は殆どが地方から上京してきた独身だった。実家に帰る者もいれば、転勤になる者もいて、どんどん東北沢から離れていった。逆に、新しいメンバーも増えてきた。小川さんはもちろん、常連たちは新人さんが大好きだった。みんなで一丸となって新しい常連を確保していた。新聞記者のY氏は新人さんの中では最も時間にルーズで、同じく生活時間がめちゃくちゃな私にはちょうどよい飲み仲間となった。

携帯電話が無い時代なので、彼はしょっちゅう店のピンク電話を使っていた。夜討ち朝駆けという感じの動きもやっていたし、朝の4時頃、店仕舞いしようとする小川さんに頼んで、もう一度店を開けさせたこともある。考えてみると、私が彼の行動をよく知っていたということは、私もそんな時刻に居合わせたことになる。つまり、あの頃、飲んでいる限りは疲れ知らずだったのだ。一晩中飲んでいても平気だった。だから、酒の臭いをぷんぷんさせて会社に行った。

会社に行ってからも昼くらいまでハイテンションだった。しかし、昼食をとった後に急に二日酔いが始まった。そんな時は、昼休みの短い時間を利用して屋上で昼寝をしたり、トイレで瞑想に浸ったりした。午後からの仕事は睡魔の連続である。時にはどうしようもなく気持ち悪くなって慌ててトイレに駆け込み吐いた。そんな苦しい思いをしながら、不思議なことにネオンサイン瞬く頃になると元気いっぱいになる。そして、早く仕事を終え、冷たいビールを飲むことばかりを想像してしまう。

「樽っ娘」に通っていた時には、毎日がそんなだったので、金が無かった。アパートの中も金目の物がまったく無かった。生活に必要なものは下北沢の非常にチープな店で買ってきて間に合わせた。ファッションにも全然気が回らなかった。その時つき合っていた女が時々何か買ってくれたので、それを何回も着回ししていた。今思えば、もっとまともに過ごしていれば、今の私じゃなかったのに。後悔先立たずである。

日曜日、猛烈な頭痛とともに起きる。余りに気持ち悪さに布団の上をごろごろしている。時計は午後2時を過ぎている。休日前は浴びるほど飲むので、たいていはこんな感じ。おそらく私と一緒に飲んでいた仲間も同様の苦しさを味わっているのだ。そう思うと少し気が楽。何もする気になれず、夕刻までぼーっとしていると、陽が西に傾きかけている。コインランドリーで洗濯をし、風呂に行くともう夜になっている。

「樽っ娘」と出会って3年経ったある日、私は事情により千葉県の実家に戻ることになった。せっかく出会えた飲み仲間ともお別れになる。寂しかった。軽トラックに荷物を積み、アパートを出た。常連の間では小川さんを通じて私が田舎に引き上げることが少しだけ話題にはなっていたようだ。割りと固い絆で結ばれているかのような錯覚に陥るが、意外にあっさりしている。既に一年前に結婚の為、九州の実家に戻った常連の主要メンバーの見送りには小川さんと私だけしかいなかった。

翌日、飲み仲間とも一緒にツーリングしたバイクを引き取りに再びアパートに残る。夜だった。「樽っ娘」の赤ちょうちんの前にバイクをとめて、小川さんに挨拶した。三歳になった小川さんの息子・一樹も見送ってくれた。ゆっくりと懐かしい東北沢の街をバイクで走る。そして、茶沢通りから大山の交差点、そして幡ケ谷まで緑の多い住宅街を通り、甲州街道に出る。新宿方面に少し行くと高速の入り口。さよなら東北沢。さよなら呑んべえの仲間たち。

その後も「樽っ娘」には1年に数度行った。私が去った後の常連もまた世代交代していた。ロックンローラーのI君も実家の秋田に引き上げた。たまに店を訪れると、知らない客ばかりになっていた。しかし、小川さんは元気だった。小川さんの口から懐かしい常連の名前を聞くだけでも嬉しかった。暫くして、小川さんも新天地で商売をすることになった。引っ越し先は同じ東京だが少し離れて、北区の中板橋だ。私は引っ越しの当日、手伝いに行った。夜は引っ越し祝いの酒を飲み、へべれけになってそのまま新しい店舗兼住居に泊まる。

月日は経った。千葉からだと遠いせいもあり、「樽っ娘」にはすっかり足が遠退いてしまった。仕事も忙しくなり、以前のように朝まで飲んでいるのもキツくなった。三十歳を過ぎてからは体力も少し落ちたのだろう。三十歳から四十歳まで間に「樽っ娘」には数えるほどしか行っていない。現在も中板橋の繁華街から石神井川を渡り、少し外れたところに店名は替わったが小川さんの経営する「樽っ娘」がある。長男の一樹はもう成人している。

2003年5月?日
しばざ記

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