後藤真希殺人事件 二日目
 第2日目


 朝にふさわしくない薄らぼんやりとした光の中、矢口は雨音で目を覚ました。
 とうとう、台風の暴風圏内に入ったらしく、洋館のあちこちから窓枠のきしみが聞こえて来る。
 しかし、矢口自身の覚醒は決して不快な物ではなかった。豪雨が耳に心地よく、二日酔いの後はない。
 当たり前だ。一応セーブして呑んだのだから。
 隣のベットで飯田が寝苦しそうに、体を返した。
 サイドテーブルにある携帯の時計で時間を確認するとまだ七時だった。
 お酒を飲むと翌日の目覚めが早い事は幾度か経験済みである。
 二度寝は出来そうになかったのでシャワーを浴びる事にしてベットから滑り出す。
 じっとしてるのは好きじゃないし、せっかくの休日なんだから、早起きして楽しまなきゃね。
 今日はなに着よっかな?

 隅に片付けてあったバックを引っ張り出して、なかを掻き回す。
 オレンジ色のシャツを選択して、手に取ると、どさっと何かが落ちた。テレビ番組の台本だ。
 そっか、持って来ちゃったんだ。ああそうか、ごっつぁんがあんなことなったから、中止になったんだ。
 これ。いきなり中止を告げられたときは、良くわかんなかったけど。
 ・・・しかし、朝いちでやなものみたなぁ、と矢口は、それを無理矢理、
 バックの一番奥に突っ込んで、バスルームに入った。
 シャワーを浴びると、矢口は空腹を感じ、多分まだ誰も起きてはいないだろうけどと思いつつ、
 一階に降りる事にした。

 居間では、紗耶香がダイニングテーブルでトーストをかじっていた。
「よう」と挨拶を交わし、矢口は紗耶香と対面して座る。そのままもじもじしていいると、
 待ってるだけじゃなにも出てこないよ、と紗耶香が云った。
「ここはホテルじゃないんだから、朝食の準備くらいは自分でしなきゃ」
 あ、そっかと、矢口は思い、席を立ってキッチンに向かった。紗耶香にごっちんは?と聞くと顎で、
 ソファーを指す。入口からでは、見えなかったが後藤は、ソファーに横になって寝ていた。
 矢口は、トースターに食パンをセットしながら、どうしたんだろう、紗耶香と後藤は?
 と要らぬ心配をしていた。紅茶はあるよ、と紗耶香の声が聞こえてくる。
 うん、ありがと、と答えながら再びさきほどの疑問に立ちかえる。
 紗耶香はともかく、後藤がこんな時間に起きてるなんて珍しい・・・
 いや、起きてはいないか、寝てたもんな。
 きっと紗耶香に引っ張り出されたんだな。矢口がそんな事を考えて云ううちに、チ―ンと、
 トースターがなり、小麦色に焼けた食パンをはじき出す。
 冷蔵庫を探ると、バターと蜂蜜があった。二つとも矢口の好きな味だ。
 居間に戻ってこんがり焼けたトーストにバターを塗り、蜂蜜をかけて、口の中に放り込む。
 おいしい。糖分の多幸感に満たされ、思わず顔がほころぶ。
 紗耶香はそんな矢口を見て、微苦笑を浮かべた。
「変ってないね、矢口」
「どういう意味だよぉ」
 矢口は、昨日はあまり紗耶香とは話さなかった。紗耶香もそれを気にしていた様だ。
 「いつでも、美味そうに物を食うってこと」
「それじゃなんか、矢口がいやしいみたいんじゃん」と矢口は、頬を膨らませて云う。
 紗耶香は、くすくすと笑い、そうじゃないよと否定した。一瞬の沈黙のあと、二人は笑いあう。
 紗耶香も変っていない、矢口は安心する。
「なんで、今ごろ起きてんの?」矢口が、二枚目のトーストをほおばりながら聞く。
 紗耶香は、目頭に手を当てて、なんかまだ時差ぼけみたい、と云った。
 「早く目が醒めちゃってね、仕方なく起きたら、後藤を起こしちゃって、
 で後藤も起きるって云うから・・・二人で朝食食べたんだけど、
 おなかいっぱいになったみたいで後藤また寝ちゃったってわけ」
「なるほどね、ごっつぁんなら有りそうな話だわ」
 矢口は、手についた蜂蜜を舐め、甘ったるくなった口の中に紅茶を流し込む。
 程よい苦味が利いて清涼感が広がった。


 紗耶香は、ぼんやりとガラスに雨が叩きつけられ、景色の輪郭がぼやけるのを眺めていた。
 窓の向うは視界ゼロに等しい。黒い空と森の緑が歪んで溶け合っている。
 矢口はそんな紗耶香の横顔をしばらく眺めていた。
「ねえ、紗耶香一つ聞いてもいい?」矢口は頬杖をつきながら紗耶香に話しかけた。
「いいよ」紗耶香は横顔のまま答えた。
「あたし達と顔合わせづらかったのにここに来たのはやっぱりごっつぁんのことがあったから?」
 紗耶香がぴくりと反応した。
 矢口は紗耶香の性格は知っている。矢口自身はそう思っている。前進を志して、
 勝手な(紗耶香自身はそう思っているだろう)脱退をしたのだから、
 シンガーソングライターになるまでは、メンバーとも会いたくなかったに違いない。
 なにも成していない、そんな姿をモーニング娘。に見せる事はプライドが許さないだろう。
 負けん気の強い、紗耶香らしい意地の張り方だ。
 それでも、のこのこ顔を見せたのは後藤の事があったからなのだろう。
 紗耶香が、そうかもしれない、といったあと、
「矢口には見破られてたんだね」と少し、微笑んだ。嬉しさと寂しさが入り混じった笑みだった。
 紗耶香は、すこし肩の荷が下りたような気分になり、矢口に感謝した。
 分かってくれてたんだね矢口。ありがと。心の中でそう思った。
 矢口は、紗耶香の心中を察してそれ以上はなにも云わなかった。

 加護は辻の呻き声で目を覚ました。見ると辻はうなされていた。
 尋常ではない辻の様子を気にかけた加護は、ベットをおり、辻の枕下に立った。
 辻の額には脂汗が浮かんでいた。よほど怖い夢でも見ているのだろう。加護は、辻の肩を揺する。
「のの?のの!」
 辻は激しく寝返りを打つ。加護の行為が逆に辻の不安をあおっている様だ。
 加護がささに一オクターブあげた声で叫んだ。「のの!!」
 その一喝で辻はようやく、泥沼の夢の世界からもどることができた。
 現に引き戻された辻は加護の顔を確かめるように見た。
「あい・・・ちゃん?」
 加護は、そうや、と答えたあと、
「どないしたんや?」と辻に問うた。
 加護は、この島に来てから辻の様子が変なことには気がついていた。
 ふさぎこむ事が多い。さらに昨日は頭痛を訴えていた。それでも辻は精一杯の強がりなのか、
 なんでもないよ、怖い夢見たの・・・、そう答えて見せた。
「しんどいんやったらいつでもうちにいいや、いくらオフやからて体壊したらなんにもならんわ」
 加護にはその言葉がが精一杯だった。
 辻は、嬉しそうにこっくりと頷いたあと、気をつけてね亜依ちゃんと呟いたが、
 加護に耳には届かなかった。
 加護は、着替え始める。
 辻はまだベットに横たわったまま、夢の内容を思い返していた。
 あたしの頭は変になっちゃたんだろうか?頭痛がするたびに、目の前に薄い膜がかかり、
 現実の比重が軽くなっていく。しかし、夢は、辻の頭の中では、
 現実と認識されるほどのリアリティーをもち、今も夢は夢ではなく、事実としての重さを持っている。
 そしてその内容。それはあまりに悲しく、辻の目からは一筋の涙が流れた。


 居間の静寂を打ち破ったのは中澤だった。のしかかる様に入り口のドアを開け、
 頭を押さえて、居間に入って来た。転がりこんだと言っても過言ではない。
「うー甘い酒のみ過ぎたせいやろか・・・」中澤は誰ともなしにつぶやく。
「普通に呑みすぎ」矢口が、あきれたように答えた。
 中澤は恨みがましく矢口の方を見たが、返答はせず、
 後藤が眠っている隣のソファーに寄りかかって、矢口ぃ、ポカリ、とせがんだ。
「なんでやねん!!」矢口が大声で返すと、中澤は勘弁してくれと頭を抱えた。
 矢口はニヤニヤして紗耶香にこれぐらいいじめてやらないとね、
 と云いつつも立ちあがって冷蔵庫をあけた。
 中澤はポカリを呑んで、だいぶ気分が良くなったみたいだった。
「それにしてもあんたら早いなあ」
紗耶香は、中澤に矢口のときと同じ説明をした。
「ふーん、それで後藤はまだねとるわけやな・・・」
 中澤はソファーで丸くなっている後藤に視線を移しながら云った。
「でもまあ、まだ八時やし、みんなねとるやろな」
「それもいいんじゃない、台風だし。・・・今日は外で遊べないね」矢口が少し残念そうに言う。
「まあ、休暇らしい休暇やな、ゆっくりするんもええやろ」
「そうだよ、疲れてるんだし、もっとゆっくり寝てればいいのに、裕ちゃんも矢口も」
 紗耶香は、二人にそう云った。すかさず矢口が、
「そう云うわけには参りません。矢口は寝るより遊びたいの、付き合ってもらうからね」と云う。
 それを見た中澤が、ほんま元気やなあ、とあきれたように呟いた。
 紗耶香と矢口は顔を見あわせ、笑いあった。


 そのとき静かにドアが開き、眞子が入って来た。
「皆さん、お早いですね」上品に微笑みながら、おはようございますと礼をする。
 紗耶香と矢口もおはようございますと礼を返した。
 中澤は、ドアを背にしていたので、振り返った時に頭に衝撃を与えてしまったらしく、
 言葉にならない礼を返した。それを見て眞子は、大丈夫ですかと心配そうに声をかけるが、
 矢口が大丈夫ですと代わりに答えた。
「皆さん朝食はお召し上がりになりました?」と眞子が聞くので矢口が、
 自分と紗耶香はもう食べたと答えた。眞子はそれは残念、と言った。
「それでは、他の皆さんの分は、私が用意しますね」と、思いついたように眞子が言う。
 中澤は慌てて辞退したが、眞子は、昨日楽しい思いをさせてもらいましたからお礼です、
 と云うとキッチンに消えた。
 しばらくすると、うっすらとコンソメらしい、いい匂いがしてきた。
 スープでも作っているのだろうか?紗耶香は、匂いの正体を色々と想像してみたが、
 後藤が起きたのはその匂いのせいに違いない。


 飯田は、目が醒めたときの態勢のまま、ぼーっとしていた。
 何かを考えているのかもしれないし、何も考えていないのかもしれない。
 飯田自身にも分からない。ただ、ボーっとしているのを自覚した時、
 突然心の中に何かが浮かんでいる事がある。飯田の目には今、窓と、
 窓の外の雨と、きのう矢口が寝ていたベットが写っている。
 あれ?飯田は我に返る。矢口がいない。飯田はやっと体を起こした。
 矢口はもう起きたようだった。部屋の中にもいない。
 やっと働き始めた飯田の脳を昨日の出来事がいっぺんに襲った。
 なんかのんびり寝てられる気分ではない。そうあせる必要もまたないのだが、
 飯田は急いでパジャマを脱ぎ捨てた。

 すっかり着替えて、飯田が一階に降りたとき食欲をそそる匂いが辺りに立ち込めていた。
 もうみんなそろってるのかな?そう思いつつ、居間へのドアを開ける。
 「おはよう」
 居間には紗耶香と後藤、中澤、矢口がいた。後藤はまだ目を覚ましたばかりのようで、
 ソファーの上で目をこすっていた。ふと、中澤と目が合うが、他にメンバーがいるため、
 昨日の事はおくびにも出さない。他は?と矢口に聞く。まだだよ、と矢口の返事が返ってきた。
「じゃあ、このいい匂いはなに?」この質問には紗耶香が答える。
「眞子さんが朝ご飯作ってくれてるの」
 紗耶香のその答えは後藤もはじめて聞いたようだった。後藤は嬉しそうに急いでテーブルについた。
 紗耶香はそんな後藤をからかって遊んでいる。その光景に少しだけほっとした飯田も、
 矢口の隣に座って、紅茶をカップに注いだ。とりあえず、紗耶香は大丈夫みたいだ。
 昨日のショックは表面には出ていない。問題は・・・
「裕ちゃん、眞子さんに迷惑かけてんじゃないの?朝食作ってもらうなんてさ」
 飯田は何気無さを装って、中澤に声をかけた。中澤は頭を押さえたまま、まあええんちゃうか、
 お礼やいうとったしと答える。矢口が、飯田の耳元で裕ちゃん二日酔いと、囁く。
「しょうがないね、あんな呑みかたしたんじゃあ」茶化して云ってみるが、
 その後返って来る筈のいつもの中澤の減らず口はなかった。昨日のことを喚起させた様だ。
 中澤の反応を見るに、根は深い。飯田は気を引き締めたが、眞子が朝食を運んできて、
 その不安は後回しになった。

 紗耶香の予想した通り、匂いの正体は野菜のスープだった。
 後藤は、二度目の朝食を良く食べた。そんな後藤を見て紗耶香は嬉しくなった。
 食欲があるのはいい傾向だ。同時に眞子の料理の腕にも感服した。
 紗耶香自身、後藤の勧められてスープを一杯、食べてしまった。
 飯田はトーストをかじりながら、スープを飲み、おいしいを連発している。
 一番喜んだのは中澤で、効くーっといいながら、野菜がたくさん入ったそのスープをお代わりまでしていた。


 辻は加護にせかされてシャワーを浴び、寝汗を流した。起床のための段階を一つ踏むたび、
 畏れが増していく。一歩ずつ現実に近づいていく。辻は確認するのが怖かった。
 夢を夢のままにしておきたかった。
 加護が扉を開ける。
 辻の心臓は大きく脈打ち、すぐに悲鳴を上げ始める。
 加護が、のの、ほんとに大丈夫と聞くが辻の耳には入らない。
 辻の中では全ての音がフェードアウトしていく、雨音も加護の声も。
 辻は吸い出される様に、扉の外に出た。静まりかえった廊下を辻は歩いていく。
 加護は、辻を心配そうに見守りながら、ついていく。玄関ホールに下りると加護は、
 朝食の匂いに気付き、辻に笑いかけ、居間に入ろうとした。
 しかし、辻の視線は玄関に向けられていた。加護の視線に気付く事もなく、そちらに歩き始める。
 加護は慌てて、辻の手を取り強引に居間に連れ込んだ。


「おはよーございまーす」
 加護はなるたけ元気良く挨拶をした。辻にとりついた陰を取り払う様に。
 ダイニングテーブルで和やかな朝食会が繰り広げられている。
 飯田が二人に気付き、おはようを云う。加護は辻の手を引き、テーブルについた。
 眞子が辻と加護の前にスープと、トーストを差し出した。向かいにいる矢口が、
「眞子さんが作ってくれたの、むっちゃ美味いよ」と云う。加護はその匂いに誘惑され、食べ始める。
「ほんまや、おいしい!!」加護の少し大げさなぐらいの言葉で、食卓は笑いに包まれた。
 加護はあっという間にたいらげ、お代わりをした。
「ほんまうまいなあ、のの」と、隣りにいる辻を見ると、ほとんど食が進んでいない。
「やっぱり、食欲ないんか?」
 辻は、頷き、亜依ちゃん食べて、といって席を立った。飯田が大丈夫か?辻、と声をかける。
 辻は少しだけ微笑んで大丈夫ですと返した。
 辻はゆっくりと、窓の方にうつむいて歩いていく。窓の向うを直視できない。
 もしそこにそれがあったら・・・。
 後ろで珍しいこともあるもんやなと云う中澤の声が響く。
 辻は頭をふる。そんな事があるはずがない。夢はやっぱり夢のはず。
 だがそれはむしろ辻の願いだった。それは辻自身が良く分かっていた。悪夢のような確信。
 窓はもう辻の目の前にある。辻は、あきらめたように顔をあげた。
 雨でぼやけた風景を食い入る様に見つめる。辻は心の中で祈っていた。
 それはすでに、神への願いなのか、死者に対する物なのかさえ分からなかった。
 やがて、風が向きを変え、景色が輪郭を取り戻していく・・・
「やっぱり・・・」
 知らずに涙があふれていた。

 皆が談笑している中、紗耶香は辻に気を取られていた。
 眞子が、一度皿を下げに、キッチンに消えたあとも、じっと窓の外を見たまま、立ち尽くしている辻。
 心なしか震えている様にも見える。紗耶香は、後藤とつないでいた手を離し、
 後藤に断って、辻に近づいた。
 「辻、どうしたの?」後ろから声をかけると、辻は感電でもした様にビクッとした。
 辻は恐る恐る振り返える。辻は泣いていた。紗耶香は驚き、どうしたのと繰り返す。
 辻が、震える手を差し出すので、紗耶香は握ってやる。なんだろう、この不吉な予感は。
 辻が、まだ震える手で、窓の外を指し示す。
 紗耶香は、その指し示す方を見た。雨の中にそれはあった。
「え?・・・・・」世界が反転した。
 紗耶香がそれを理解するのには少し時間がかかった。いや実際には、映像として認識できただけで、
 その出来事の持つ本当の意味は、まだ把握できていない。
 それほど、信じがたい光景だった。呆然と辻の顔を見る。
 辻はその事をずいぶん前から知っていたかのように、声をあげることもなく、諦めの涙を流している。
 紗耶香はもう一度窓の外を見た。
 今度は恐怖がわきあがってきたが、紗耶香はそれを無理矢理押さえつけ、辻の手を引いて、早足で歩きだす。
「裕ちゃん、圭織、ちょっと来て」扉を開けながら、そう叫ぶ。
 尋常ならざる紗耶香の様子に、居間に緊張が走る。
「ちょっと、紗耶香、どないしたん」中澤が聞く。
「いいから来て」
 紗耶香は、そう云って居間を飛び出した。

 吉澤は、バスルームの鏡で自分の顔を見た。ひどい顔だった。
 目は充血しているし、浮腫んでいる。眠ったのか眠らなかったのか良く分からない不快な睡眠のせいだ。
 昨晩、保田を送ったとき、保田は吉澤を問い詰めてきた。吉澤はなにも答えなかった。
 ただ、すみませんと繰り返した。自分のしている事が保田をも苦しめている事はわかっていた。
 だが、辞めるわけにはいかない。ごっちんはもっと苦しんだはずだ。
 蛇口を全開にしてバシャバシャと顔を洗う。これで少しは浮腫みが取れるはず。もう一度鏡を見る。
 皮膚に浮かんでいた油が落ち、少しはましになった。
「眠れなかったの?」鏡の中の石川が聞いた。
 吉澤が驚き振り返ると、石川は黙ってタオルを渡した。
 弱みを見せてしまった気まずさで、吉澤は礼も云わずにタオルをひったくってバスルームを出た。
 無造作にベットに腰を下ろし、顔を拭く。
「ひとみちゃん・・・」石川は、立ち尽くしたままでもう一度吉澤に声をかけた。
「どうしてそんなに無理するの?ひとみちゃんだって辛そうなのに・・・」
「梨華ちゃんにはわからないよ」
「いつもそれだね、でも私だって心配してるの。ひとみちゃんの悩みは・・・」
 石川はそこで一度言葉を切る。
「ごっちんのことでしょう?」石川にして見れば、とびきりの爆弾を投げたつもりだったが、
 吉澤の様子に変化はない。至極当然のような顔をして、そうだよと答える。
 それくらいの事はメンバーなら誰でもわかるはず。石川は続ける。
「気付いてた?みんなと居る時は、ひとみちゃん上手く隠してるけど、私と二人のときは、
 不機嫌になるの・・・。ごっちんの様子がおかしくなり始めてから・・・・」
 吉澤は思わず、顔に手を当てていた。吉澤は自分の迂闊さを呪った。
 自分では上手く隠していたつもりだった、そんなに前から石川に負担を
 かけていたなんて知る由もなかった。
「だから、私心配なの・・・」石川が搾り出すように云った。
 その時、切り裂くような悲鳴が聞こえて来た。


 大きな雨粒がひっきりなしに彼女の体を叩いていた
 一つ大きな稲妻が光り、彼女の白い肌を青白く浮かび上がらせる。
 聖者が眠りにつくときの様に、彼女は腕を組んでいた。
 苦悩の表情はなく、むしろ微笑みさえうかがえる顔。
 胸に大きな刺し傷。
 雨が洗い流したのか、血の痕跡は消えている。
 ただ、うっすらとピンク色に染まった白いパジャマだけが、彼女の命の跡をうかがわせている。
 彼女の名前は、安倍なつみ。

 激しく叩きつけるような雨の中、紗耶香はただ呆然と、見つめていた。
 やはり来てはいけなかったのだこの島には。思わず、手に力が入る。
 その手を握っていた辻が小さな声で痛いと呟く。
 その声は雨音にかき消され紗耶香の耳には入らない。
 ここは玄関先の庭、昨日の夜、紗耶香と安倍が、煙草を吸った場所。
 そこに今、横たわっているのは安倍だった。
 辻はそれでも、泣き叫ぶ事も、安倍から目を離す事も出来なかった。
 悪夢の現実が今ここにある。それを予見してしまった自分が恐ろしい。
 現実が悪夢と成って現れたのか、悪夢が現実となって現れたのか?そんな自問を繰り返していた。
 音を立てて玄関が開き、飯田と中澤が飛び出してきた。
「どないした・・・」中澤が中途半端に云いかけてすぐに口をつぐむ。
 飯田が安倍に近付き、呟く。「なっち?」濡れるのも構わず、ひざまずく。
 中澤が口を押さえて涙を浮かべる。紗耶香と目が合う。しんでるの・・・?
 雨音にかき消されたはずの言葉が紗耶香の耳に届く。
 紗耶香は、小さく頷いた。飯田の肩が震えている。
 もう一度玄関が開くと、居間に残っていたはずの三人が出てきた。
 視線はひきつけられるように、横たわった安倍に注がれる。
 駆け寄ろうとする後藤を、中澤が切りつけるように「ごっちん、見たらあかん」と叫び、
 腕をつかんで視線をさえぎる。その横を怒ったような顔をした矢口がそっと、すり抜けた。
 飯田の肩越しに、安倍を覗きこむ。加護は、玄関前で震えている。
 時間の流れがゆっくりになったようだった。みなの中には、緊張があった。
 心の中に感情の決壊を止めようとする、小さな小さな砦があった。
 人は大きすぎる衝撃を受けたとき、受け入れる事が出来ず、麻痺状態になるという。
 矢口がぺたんと座りこむ。次ぎの瞬間、皆の砦は崩壊した。
「いやーーー!!」

 吉澤と石川が、悲鳴の元にたどりついた時、そこにはすでに弛緩した悲しみだけがあった。
 石川が加護を問い詰めると、「安倍さんが・・・安倍さんが・・・・」と
 要領を得ない返事しか返ってこない。吉澤は、ただ一人、正気を保っているらしい紗耶香に駆け寄った。
 それで全ては事足りた。
「あべ・・さん・・・」吉澤に追従した石川も気付いたらしく、肩を震わせている。
 やがて、石川の頬を涙が伝った。矢口は、なんで?なんでだよ・と叫びながら、安倍の体を必死に揺すっている。
 その隣では保田が涙声で、矢口、やめなようと、矢口の肩にむしゃぶりついている。
 後藤は中澤と体を寄せ合って嗚咽している。飯田はただ、安倍を見つめて、雨ともつかない涙を流している。
 加護が石川に抱きついて大声で泣き始める。紗耶香と辻は、手を握り合ったまま、ただ呆然としていた。
 それはほんの二、三分のことだったかもしれない。しかし、メンバーには気の遠くなるような時間だった。


「吉澤」飯田が突然、吉澤の名を呼んだ。吉澤が声も無く飯田を見ると、
「手伝って」と言い、安倍の体を起こし始める。
 吉澤は、それで飯田の行動を理解し、手伝おうとすると、中澤がそれを見咎めた。
「ちょっと圭織、どないするつもり?」
飯田は、中澤の顔も見ずに云う。
「なっちをこんなとこにはおいておけない」
「気持ちはわかるけど警察が来るまで、そのままにしといたほうがええんちゃうか」
 警察?皆の動きが一瞬止まる。
「そんなのまってられない」飯田は空気の変化にも気付かず、吉澤、お願い、と促す。
「圭織、あんたもみたやろなっちの胸の傷」
「そんなの関係無い」飯田は頑ななまでにその態度を崩そうとしない。
 中澤は一瞬の躊躇を見せ、それでも続けた。
「これは、殺人事件や!!」言葉にした中澤の方が今にも崩れ落ちそうだった。
 そう、皆が、今まで悲しみに気を取られ、気付かなかった事。
「・・・なっちは・・・殺されたんや・・・誰かに」
 恐怖とある種の緊張が走りぬける。
 殺人。安倍は誰かに殺されたのだ。
 飯田は泣いていた。先ほどの頑なな態度はどこにも無い。
「分かってる。でも、圭織には堪えられない。ごめん、裕ちゃん」
 もう、中澤は止めなかった。
 飯田は吉澤に手伝ってもらって、安倍を洋館の中に運び入れた。
 紗耶香はそれを呆然と眺めていた。他のメンバーも同じようだった。
 殺人事件。その言葉が皆の心を縛り付けていた。
 遠くでゴロゴロと雷が鳴った。

 

・続く