
1947年10月4日 パリ南郊 ブール=ラ=レーヌ生まれ。本名 Paul Alain
Leclerc。
6歳の時からピアノを始める(13歳で中断、4年後に再開する)
2歳の時、両親が離婚。 継母はクラシック音楽を彼に聴かせていたようだが、週1回会う音楽好きの実母のもとで
J・ブレルやG・ブラッサンス、E・プレスリーなどを聴き、影響を受ける。
地元のラカナール高等中学校時代に同級生のモーリス・ヴァレと仲良くなった。
17歳の時、コルシカ島へ旅行する。 この時港で会ったギター、ベース打楽器、アンプを持ったグループに歌手が
居ないことを見つけたジュリアンは自分を歌手として売り込む。 グループでも歌手が居ないことに困っていたので
交渉は5分でまとまった。
クラブに出演して旅費を稼いでいたらしいが、その時はそれだけの事だったようだ。
ソルボンヌ大学の法科に籍を置き、父と同じ大学教授の道を目指したが、大学近くのカフェでギャルソンをしていた
エチエンヌ=ロダ・ジルと出会う。
M・ヴァレもジュリアンと同じ大学に通っており、カフェで2人が論議をしている所にロダ・ジルが加わり、意気投合
した。3人で共同して世に問う作品を作ろうと、作詞をロダ・ジル、ヴァレが作曲と歌をジュリアンが担当する事になる。
67年にヴァレ作詞の「JULIEN」(ジュリアン),「IVANOVITCH
」(イヴァノビッチ)ロダ・ジル作詞の「LA
TARENTELLE」(イタリア舞踏の終末)等が出来上がった。CBSのオーディションを受けたがこの時は不合格。
68年パテ・マルコーニのオーディションを受け、EPを作る事になった。
このEPに収められた「LA CAVALERIE」(騎兵)がラジオから頻繁に流れるようになる。
68年アダモにその才能を見いだされ彼の地方公演で前座としてステージに上がる。
この公演で注目を集め、69年、今度はジルベール・ベコーの前座としてオランピア劇場に出演した。
この年、デビューアルバムがACCディスク大賞を受賞。
また、同時期にフランス版ミュージカル「ヘアー」の主役であるクロード役に抜擢され、5月から半年間舞台に
立つことになる。
「栄光の内に」と、クロード役を降りたジュリアンは歌に専念する。
74年、75年には日本公演も行い、日本のファンを魅了した。
76年映画に出演。「愛と新鮮な水」というタイトルだが、日本では公開されなかった。
以後続きます。。。。(もう少しマッテネ)
その後はフランスだけでなくヨーロッパ、カナダなどでも幅広い支持を集めている。
(続く............)
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