相澤家の愛しき卒業生たち

 スターを育てて27年

 相澤てる子 近代映画社

岡田有希子さんについての記述部分のみをご紹介させていただきます。


岡田有希子
それはあまりにも唐突な、あまりにも残酷な死だった…


「ママ、遊びにくるね!」
 歌手デビューしてちょうど二年、岡田有希子は、わたしの家から通っていた堀越学園高校も無
事に卒業して、文字どおりひとりだちすることになった。東京・青山にあるマンションの一室を
借り、歌手業に専念するのだ。その引っ越しの朝、正確には昭和六十一年四月三日のこと。元気
よく、いつもの明るいユッコちゃんでした。
 彼女は、愛知県名古屋市立向陽高校から堀越に転校、わたしたちの家に住み、学業と歌手活動
に一生懸命に取り組んでいた。十代の女の子らしく、気落ちしているようなときもあったけれど、
いつもは、その場にいる全員をパーッと明るくしてくれる娘でしたよ。
 昭和五十九年四月、『ファースト・デイト』でデビュー。その年の新人賞のすべてに顔を出し、
たちまち売れっ子アイドルの仲間入りをした。ただ、家に帰ってくると、ちょっと暗いナと感じ
たり、ふさぎ込んでしまう日があった。
(疲れているのかナ)
 そんなふうに思った記憶がある。
 そうそう、こんなこともあった。夜遅く、わたしがおフロから出ると、応接間の電気がついて
いる。
(まただれか、つけっぱなしにして……)
 そう思いながら応接間に入ると、ユッコちゃんが受話器を耳に当てたまま、眠っている。だれ
かとおしゃべりしながら眠ってしまったらしい。忙しいタレントさんは現場で立ったまま寝てし
まうなどという話も聞いたことがあるから、やっぱり疲れているのだろうと、起こして二階の彼
女の部屋まで連れていった。
 引っ越しの話が具体化したころは、それまでときどき顔を出していたふさぎの虫も引っ込み、
家にきたころの明るい娘に戻っていた。
「なにか欲しいものない?」
 と、わたしが聞くと、彼女は、
「お掃除の道具が欲しい」
 と、すなおに甘えてくれた。さっそく掃除道具を一式そろえ、新居に届けた。
 四月三日、新居に落ち着くとすぐ、お礼の電話をよこしたので、「キチッと掃除しなきゃダメよ」
と、言ったら、「ハーイ」なんて小学生みたいな返事をしていましたよ。
 二日後、東京・渋谷公会堂で彼女のコンサートがあった。そのちょうど二ヶ月前、松田聖子作
詞で、坂本龍一さんが作曲した新曲『くちびるNET WORK』が発売され、沢口靖子さんがイ
メージ・ガールをつとめるカネボウ化粧品の春のキャンペーン・ソングに使われたこともあって、
あっというまに二十万枚を越す大ヒットになった。この日のコンサートは、東京のファンにとっ
てとてもいいタイミングだったらしい。スタッフの話によると、会場は立ち見が出るほどの“大
入り”で、彼女も大いにノッて歌っていたそうだ。
 そして四月六日、たしかコンサートの翌日だったと思う。午後四時すぎ、彼女から電話が入っ
て、
「ママ、これからおじゃましてもいい?」
 と、言う。
「ええ、いいわよ。待ってるから」
 ユッコちゃんは、マネージャーといっしょにやってきた。ふたりで食卓について、
「ママのお料理おいしいんだから、食べて、食べて……」
 まるで自分が料理したみたいにマネージャーにすすめたり、食べる前から、
「ママのところのお魚、いつもおいしいんだよね」
 なんて、にぎやかに食事した。帰り際にわたしは、
「いつでも、ごはんたべにきてかまわないんだからね」
 と、声をかけた。彼女の新居のマンションが、どうも暗くて陰気な感じがするんですよと、マ
ネージャーが言っていたのも気になって……。
「ユッコちゃん、ずっとにぎやかなところにいたから、急にひとりになったらさみしいときもあ
るでしょう。ホント、遠慮なくいつでも遊びにきてね」
 そう念押ししたのを覚えている。
 その二日後だった。四月八日の昼すぎ、プロダクション(サンミュージック)から電話が入っ
て、
「ユッコちゃんがマンションで手首切ったんです!」
「なに、それ? 手首切ったって、ユッコが自分で?」
 納得がいかず、半分、怒りながら聞き返すと、
「はい。たいしたことはないんです。いま事務所にいますから……」
 彼女はその日の朝、自宅のマンションで手首を切り、救急車で運ばれて手当を受け、事務所に
やってきたのだという。そんな事情を聞いている途中、電話の向こうで声高に短いことばのやり
とりがあった。どなっている。
「ちょっと事件です。電話を切ります」
 いきなりガチャンと電話が切られた。妙に胸騒ぎがしてそのまま電話のそばで待っていた。
 どのくらいたったかは、正確に覚えていない。次の電話で、彼女がサンミュージックの入ってい
る四谷の七階建てのビルの屋上から、二十メートル下の歩道に飛び降り自殺したと知らされた。
 屋上にのぼる階段のところに、キチンとくつがそろえられ、まるで助けて! って言わんばかり
だったと、事務所の人たちは、彼女に気づいて救ってあげられなかった自分たちを責めていた。
 ユッコちゃんは、亡くなるちょうど一年前、仕事ではじめてスイスに行った。よほど楽しい経
験だったらしく、帰ってくると、旅行の話をしながら腕時計を見せてくれ、
「ママ、すごいでしょう。高いと思ったけど、思い切って買ってきちゃったの」
 ちょっとぜいたくすぎる買い物だと思っていたのか、わたしが、
「なに言ってるのよ。ちゃんとあとに残るものだから、よかったじゃない」
 と、言うと、ほんとうにうれしそうな笑顔を見せた。
 その腕時計をはめ、同じくスイスで買ってきた黒と紺のかわいいコートを着て、彼女は命を絶っ
てしまった。十八歳の若さだった。
 いたいけな表情を浮かべ、受話器を抱くようにして眠っていた彼女、引っ越しの朝、「ママ遊び
にくるね!」と、声を弾ませ、踊るように玄関を出ていった彼女、食事のときの、いとおしむよ
うにわたしの料理を口に運んでいた彼女、そして、腕時計にほおずりして笑顔を見せた彼女……
二年間、寝食をともにした仲間として、それはあまりにも唐突な、あまりにも残酷な死だった。
 そんなわたし以上にショックを受けたのが主人(サンミュージック社長相澤秀禎)だ。お位牌
を作り、それをわが家の位牌といっしょに仏壇に置かせてもらった。そして、いまも毎朝、出か
けるとき、仏壇に手を合わせ、仏壇の上の壁に飾ったユッコちゃんの写真に話しかける。
「ユッコちゃん、行ってくるぞ!」
 と、自分を元気づけるように言ったり、
「ユッコがいま、いてくれればなァ」
 と、タメ息まじりに言ってみたり、
「後輩ががんばってくれてるぞ!」
 と、報告したり……
 長い間、芸能の仕事にかかわってきた主人にとっても、彼女はちょっとちがった存在だったよ
うだ。
 新人歌手はデビューが決まると、レコードが発売される前、所属レコード会社の各地にある営
業所にあいさつをして回るのだが、ユッコちゃんも、ポニーキャニオンの営業所にあいさつ回り
をした。はじめて東京の営業所であいさつしたとき、
「四月二十二日発売の『ファースト・デイト』でポニーキャニオンからデビューさせていただく
ことになりました岡田有希子です。一生懸命がんばりますので、よろしくお願いします!」
 と、“ごくあたりまえ”のあいさつをしたそうた。
 さっそく、マネージャーは、
「ユッコ、ここはポニーキャニオンの営業所だから、きみの名まえもデビュー曲も発売日もみんな
知っているんだよ。そうじゃなくて、岡田有希子という人間をみんなに知ってもらって、よし売っ
てあげよう! という気持ちを起こさせるようなあいさつをしてごらん」
 と、アドバイスした。で、二ヶ所目、
「奥さまのいるかた、お子さんのいるかた、恋人のいるかた、みんな、それぞれに愛情をそそい
でいらっしゃると思います。これから一生懸命がんばりますので、わたしにも、そのかたたちに
そそぐ五分の一でけっこうですから、愛情をください。岡田有希子を愛してください」
 と、締めくくった。営業所の人たちは大喜び。特に、独身男性たちからは、
「オレ、彼女がいないから、百パーセントあなたを愛します!」
 と、声をかける者まで出て、大いに意気が上がったそうだ。
 サンミュージックはこれまで、何人もの新人歌手を送り出してきた。このデビュー前の営業所
でのあいさつは、新人には欠かせない仕事だが、アドバイスして二回目から自分のことばであい
さつができた娘は、ユッコちゃんと桜田淳子、そして酒井法子の三人だけだと聞いている。
 このあいさつを聞いて、同行したマネージャー、話を聞いたスタッフ、レコード会社の人たち
は、ともかく驚いた。そうでしょう、十六歳と七ヶ月余のあどけない女の子が、大のおとなおお
ぜいを感動させたのですから……。
 でも、この話を聞いたとき、わたし、そしてわたしといっしょにユッコちゃんたちタレントの
タマゴ何人もといっしょに生活し、家事をしきってきた通称まりちゃん(原野まり子)のふたり
は、少しも驚かなかった。
「そうですよね。ユッコちゃんなら、それくらいのこと、できますよ」
 と、まりちゃん。
「頭のいい娘だしね」
 と、お互いに納得し合った。
 ファンのかたたちも、ユッコちゃんのそうした面を理解してくれていたのだろうか。単に、か
わいい、歌がじょうず、というだけで、短期間に、あれだけ熱狂的な受け入れかたをされるもの
だろうかと、あとになって考えた。
 彼女が亡くなったあと、ファンのかたたちのショックの大きさ、深さは、わたしたちが想像した
以上のものだった。自殺した現場には、ファンの中学生や高校生が集まり、積み上げられた花た
ばだけでも高さ二メートル近くになった。彼女が落ちた地面にほおをすり寄せる子、じっと目を
つむったまま立ちつくす子、うずくまっている子……。
 彼らは連日、わが家にもやってきた。男の子も女の子も、とても行儀のよい子たちだった。山
のような花たばをキチンとそろえ、ご近所の迷惑にならないように気配りもしてくれた。ファン
の子同士で慰め合ってもいたようだ。いまでも、彼女の命日がくると何人かが集まる。そして、
「オバサンも元気でね」
「からだに気をつけてね」
 と、声をかけて帰っていく。
 そんなファンのひとりがあるとき、わたしに言った。
「ぼく、この前ユッコちゃんの夢を見たんだ。白い長い髪をしたキレイな人に手を引かれて……。
それでいてぼくらのほうをふり返って、もう片方の手を振ってくれたんだ」
「そう。じゃあユッコちゃん、いいところへちゃんと行けたんだ」
 あとで思うと、彼女はふしぎなところのある娘で、酒井法子が家にきてしばらくしたころ、
「よかったね。わたしのあとがま、できたじゃない」
 と、なにげなく言ったことがある。そのとき酒井法子は、まだデビューも決まっていなかったが、
たしかに法ちゃんを指したことばだった。
 当時は、マスコミもさまざまな憶測、うわさをもとに、彼女のことをあれこれと報道していた。
そうした口さがない報道に、まずファンの子たちが動揺し、わが家へやってきて、
「あんな話、ウソだよね」
「ユッコちゃんは、天国で幸せになってるよね」
 と、確かめるように念押しして帰っていく。直接、そうしたうわさを報道した新聞・雑誌社、テ
レビ局などに抗議をしに行ってくれた子もいた。そんな子から電話をもらって、悲しいやら、情
けないやら、悔しいやら……。その子たちの気持ちがうれしかったことが、わたしにとっては救
いだった。
 さらに残念だったのは、マスコミでユッコ・シンドロームなどと呼ばれ、あと追い自殺が起き
たことだ。原因不明の自殺をする少年、少女が急に増え、四月の自殺者は前年比の二倍以上、こ
の年の少年の自殺者は前年比四〇パーセント増といった数字が発表され、それをユッコ・シンド
ロームなどと報道されるたびに、わたしたちは胸を痛めた。同じ子を持つひとりの親として、こ
うした数字には胸をつかれる思いがする。
 そして、自殺の原因もあれこれとうわさされた。正直言って、わたしたちにもわからない。マ
ネージャーも、まったくわからないと言っていた。ただ、わたしとまりちゃんは、
「もうちょっと、家にいるように言えばよかったね」
 と、いまだに彼女の話が出ると、どちらかがそう言ってしまう。
 頭がよくて、感受性が鋭く、シンのしっかりした、でも、しょせんは十八歳の女の子。ちょっ
とした気持ちの揺れ、ゆらぎがあって当然だ。それをわたしたち周囲のおとながなぜ見抜けなかっ
たのか。それが、いまだに悔やまれる。
 不幸なできごとから書きはじめてしまった。やはり、わたしの心に彼女の死は強くきざまれて
いるのだと、いまさらながらに痛感する。


相澤家の愛しき卒業生たち スターを育てて27年
平成7年5月20日発行

著者−−−相澤てる子
構成−−−神山享也
発行者−−小杉修造
発行所−−株式会社近代映画社
     〒104 東京都中央区銀座6-8-3
     尾張町ビル2階
     TEL.03(5568)2811−−−大代表
文字情報処理−−−(株)ワールド写植
製版−−−(株)光版社
印刷−−−大日本印刷株式会社
製本−−−大観社製本株式会社

Printed in Japan

ISBN4-7648-1761-6 C0074


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